巫女姫シェール・2


 マール・ヴェールの祠に風が吹く。

 五年間なんて、本当にあっという間だった。

 風に吹かれて、エリザが微笑む。

 なんてかわいらしいのだろう……。

 大きな瞳も、柔らかい頬も、ふっくらとした唇も……昔のまま。

 そして、微笑みも。

 彼女のすべては、私のもの……。


 背後に広がるムテの村々。

 なんてのどかで平和なのだろう……。

 そう、この五年間。私はちゃんと仕事をした。

 立派な最高神官として、誰もが満足する仕事をしてきた。

 そして今、すべてを手に入れる。

「エリザ」

 その懐かしい名を呼ぶ。

 あなたのすべては……私のものだ……。



 サリサは、崖すれすれに立って髪を風になびかせるエリザに手を差し伸べた。

「どうしたのです? そのようなところに立っていると、落ちてしまいますよ」

 風は凶暴だ。

 エリザの髪を激しく持ち上げ、時にその顔に浮かぶ大きな瞳さえ隠してしまう。

 彼女は、ただ微笑んでいるままだ。

「どうしたのです? 落ちますよ? さあ、こちらへ」

 少し不安を感じて、サリサは一歩、近寄った。

 が、それと同時にエリザのほうは、一歩遠ざかって距離を保つ。崖はもう目の前だ。

「エリザ! こちらへ来るのです!」

 ついに命令口調になって、サリサはさらに歩を進めた。

 しかし、その言葉に逆らうように、エリザの足はもう一歩下がる。がらっと岩が崩れる音がした。

 顔に浮かぶ笑顔は……まるで張り付いたような紙の顔だった。そして、大きな瞳からは大粒の涙がこぼれている。

「エリザ!」

 笑顔の仮面の奥に潜むものは、サリサにはわからない闇だった。

 サリサは走り出した。そして、エリザを腕に抱こうとした。

 しかし、エリザはその距離を保ってしまう。後ろへと小さな一歩、また一歩。そしてついに、崖から足を滑らせた。

「エリザ!」

 サリサは叫んだ。血が逆流した。

 でも、同時に自分に言い聞かせた。


 ――大丈夫。

 ここは、最高神官の結界の中だ。


 たとえ崖から飛び降りたとしても、その身は落ちることはない。

 案の定、彼女はそこに浮いている。

 サリサは、ほっとして微笑んだ。そして、歩み寄り、抱きしめる。

「もう、あなたを離しませんから……」

 この瞬間を、サリサは五年間夢見ていたのだ。

 強く強く抱きしめて……離さない夢。

 自分から離れてゆくことなんて、許さない。何度も何度も祈り所に封印し、何度も何度も取り戻す。

 他の誰にも彼女を触れさせない。目にも入れさせない。


 ――彼女のすべては私だ。私のものだ。


 が。

 抱きしめたエリザが、手の中から漏れてゆく。

 確かに、サリサの腕の中にエリザはいる。しかし、そのエリザから、まるで羽のない蝶が羽化するように、本当のエリザが分離してゆく。

 おろおろとするサリサの手の中で、エリザはただの抜け殻になり、飛べないエリザははるか地へと落ちていった。

 空っぽのエリザを抱きながら、サリサは悲鳴を上げていた。




 汗だくになって目が覚めた。

 

 まだ、日も昇っていない。

 悲鳴は……春を呼ぶ嵐の風の音だ。

 サリサはふっと息をついた。

 まただ。夢を見ない日はない。

 エリザが山を降りてから……いや、降りるとわかってから、常にサリサを悪夢が襲っていた。

 悪夢だけというならば、まだ、少しはましなのだ。

 そこに、予見という自らの能力が無意識のうちに働いて、未来を暗示していると感じるからこそ、恐ろしい。

 夢はどんどん大きくなってゆく。

 しかも、この夢はサリサの寿命を食いつぶしている。能力の多くを消費して見ている夢なのだ。

 能力の高いムテ人は、時に心病に陥ることがある。それは、死に至る病だ。かといって、治療する薬草も何もない。

 だが、最高神官である限り、このような病に陥ることは許されない。なぜなら、この病は力の制御を失っている状態を引き起こすからだ。最高神官たるもの、自らの力を制御できないのでは困る。


 人々の希望の象徴として君臨する――それが最高神官。

 その当人が心を病んでいては、民は救われない。


 ベッド横の水差しから水を飲み、サリサは呟いた。

「これでは……五年持たないかも……」

 最高神官を務められる者は、この世に自分しかいない。

 さらにタオルで汗を拭く。

 仕え人が来る前に、平然を装わなければならない。そして、今日もいつものように、神のごとき衣装をまとう。

 そう――最高神官は神でなければならないのだ。

 そして、朝の祈りに向い、ムテのために力を放出する。それを、死に至るまで続けることとなる。

 

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