巫女姫シェール

巫女姫シェール・1


 新しい巫女姫シェールは、はっきりいうと変わり者である。

 マサ・メルの巫女姫として子をなし、癒しの巫女としての地位を得て、しかも結婚し、普通に子を産んでいた。

 子供がすでに独立し、夫と死に別れた後、再び巫女姫として霊山に戻ろうなんて、通常の人は考えない。癒しの巫女の生活は、捨てるにはもったいない生活であり、巫女姫になるということは、その過去を精算することでもあるのだから。

 再び巫女として……と、考えた者も過去にはいたかも知れないが、子育ての五年間に大概たいがいの者は気が変わる。村で尊敬され、大事に扱われ、しかも求婚者続出であるならば、その地位を捨てたくはなくなるものである。

 シェールにしてもそうだったはず。

 並み居る男たちから伴侶を選び、何不自由ない生活をしていた。夫が亡くなったとはいえ、それを待っていましたとでも言わんばかりの求婚者が押しかけたという。

 彼女は彼らを振り切って、自分の財産をすべて子供に譲り、癒しの巫女の地位も捨て去り、身一つになったのだ。

 それも、既婚というきずから身を清めるためにわざわざ陰湿な祈り所に篭ったうえ、巫女姫選定に望むという念の入れよう。

 並の者には出来ない覚悟だ。

 その努力にも関わらず、巫女姫の選者たちが彼女を選びたがらなかったのは、すでに最高神官以外の者の子を産んでいたからである。既婚であった者が巫女姫になったことも過去には例があるが、やはりあまり好まれることではない。

 祈り所生活の苦労を経て臨んだのに、いかにも未熟な少女・エリザに劣ったとは、さぞや嫌な気持ちになっただろう。

 だが、フィニエルにとって不思議だったのは、かつて知っているシェールという女性が、そこまでして巫女姫という仕事を重視しているように思えなかったことである。正直、彼女が巫女姫として戻ってくるという事実に驚いた。



 新しいシーツと毛布を村の男達が運び込む。霊山の空気に合わない彼らを顎でこき使いながらも、フィニエルは思い出していた。

 マサ・メルは、巫女姫の誰にも愛情を示さなかったが、あえて言えば、明るい気質のシェールを嫌っていたかもしれない。彼女の元に行く夜は、やや機嫌が悪かった。

 それもそのはず、シェールは、その頃、霊山でマサ・メルの厳しい指導を逃げ回っていたサリサに、マール・ヴェールの祠という逃げ場を教えた張本人だったのだから。

 しかし、今のサリサは、昔の同志と結託できるほど、心にゆとりはないだろう。だいたい、母親のようだったシェールを巫女とするなんて、彼には更なる苦痛に違いない。

 巫女姫の部屋に新しいシーツが運び込まれる前に、フィニエルはエリザの使っていたシーツをはがし、ベッドの下に溜まった埃をかき集めた。

 新しい巫女を迎えるにあたって、過去の巫女姫の使用したものは処分されるのだ。手際よく片付けるフィニエルの手が、一瞬止まった。

 ベッドの隙間から床に落ちた小さな塊。よくみると、もうくしゃくしゃになってしまった香り袋だった。

 あぁ、そういえば……。と、フィニエルは思い出した。


 エリザは横になりながら、ちょこんと鼻の上にこの香り袋を乗せて物思いにふけったものだった。最高神官が自らの代わりに、手に握らせた香り袋である。

 しばらくの間、それを常に身から離さず、エリザは持ち歩いていた。まるでお守りであるか、愛しい人の分身であるか、のように。

 しかし、ある日なくしてしまったのだ。

 エリザは真っ青になって探したが、見つからないといって落ち込むことはなかった。その頃はすっかり巫女姫としての自信をつけていたのか、お守りにすがって泣くよりも、彼女は勉学に勤しむことを選んだ。

 香り袋には、エリザがほんの少女で何もできない子供であった頃の思い出や、巫女姫として成長していく日々の思い出が、たくさん詰まっているようでもある。

 もしくは……女としての成長か。


「こんなところに……」


 フィニエルは香り袋を拾い上げた。

 おそらく、握り締めて眠っているうちに手元から離れてしまい、ベッドの隙間に入り込み、わからなくなってしまったのだろう。

 ばたばたと荷物を運び込む男達の足音に、フィニエルははっとした。そして、香り袋を自分のポケットに押し込むと、そ知らぬふりをして仕事に戻った。

 過去の巫女の物は、すべて処分するのが慣わしだ。だが、フィニエルは香り袋をエリザの思い出と共にしまいこんだのだった。 



 巫女制度が始まる以前、ムテは長い間一夫一婦制を貫いてきていた。

 今でも、巫女制度は優れた神官のみの特例であり、通常の一般人は一人の相手と添い遂げるのものなのである。一般家庭で育ったサリサにとっても、その認識のほうが一般的で、巫女制度の考え方は、どうしても馴染めないものだった。

 特に、マサ・メルと交わった女性を抱くなんて、なんだか血を侮辱するような気がして、ますます気が重くなる。

 いや、そう思うのは……いいわけかも知れない。

 本音を言えば、エリザ以外の誰とも契りたくはない。一般のムテ人と同様、彼女と添い遂げたかったのだから。

 他の巫女姫だって大事にしようとは思う。だが、夜だけは別である。

 いくら子を生すのが使命だからといって、これはエリザへの裏切り行為だ。気持ちよく受け入れられるはずはない。

 朝にエリザを見送り、昼に祈り、翌朝には新しい巫女姫を迎えるサリサにとって、心穏やかなことではない。

 最高神官を立派にやり遂げる――と決心したものの、エリザに対する思いは、忘れるどころかより強くのしかかるのである。

 サリサは夜が来ることを恐れた。そして、朝も恐れた。



 サリサの重たい気持ちとは裏腹に、翌日は晴天となり、昨日の雪が嘘のように春めいた日となった。

『初見の儀式』とは新しい巫女を迎える儀式であり、最高神官・仕え人すべて総出で、門前の広場に集う。

 ほんの一瞬の儀式で、巫女と最高神官が公の場で言葉を交わす、わずかな機会のひとつであった。


 エリザの時は……サリサは思い出して苦笑した。

 何日も前から、サリサはエリザに会えるその日を楽しみにしていた。できるだけ冷静なふりを装ったが、その当時、仕え人であったフィニエルには怪しまれ、すべてのたくらみが彼女にはばれてしまった。

 威厳のある最高神官として振舞おうか? それとも、優しく微笑んで慈愛のほどを見せようか? それとも……。

 サリサは、どのような自分をエリザに見せればいいのか、悩みに悩んだ。

 自然な振る舞い……そのままの自分などということは、頭には浮かばなかったのである。自分が弱虫で根性なしでずるいことなど、よく自覚していたからだ。

 鏡の前で七面相を繰り返すサリサを、フィニエルは仏頂面で着替えさせていた。彼女は、サリサの行いに対して、非常に腹を立ているようだった。

「好きだから、で選ばれるなんて、たまったものではありません」

「大丈夫です。何とかなるものですよ」

 自分だって何とかなった。

 なのに。

 エリザときたら、故郷からの長旅がたたって寝込んでしまい、この儀式を流してしまったのだ。

 このような事態は、霊山始まって以来であった。

 仕え人一同のエリザに対する不信感は、この時から始まったともいえるだろう。未熟な巫女とのレッテルが貼られ、選び直しの話しさえ囁かれたのだ。

 サリサにとっても、エリザに再会する初めての時が初めての夜になるという、実に緊張する展開になってしまった。

 その顛末は、すでに語られている通りである。


 先日まだ雪の残る門前にあって、サリサは山を下りてゆくエリザの姿を思い出した。

 身の丈にあまる重責を、エリザは必死にやり遂げようとした。

 その痛々しい姿に、サリサは傷つき、そしてより愛を深めた。

 何度も何度も振り向いて、黒い集団に連れられて行く様子を……切なく、愛しく見送ったのだ。


 彼女以外の誰かを抱くなんて……考えたくはない。

 あの瞳を裏切りたくはない。


 エリザとの別れの辛さをやっと納得した後、サリサに訪れたのは更なる重たい使命だったのである。

 


 やがて、新しい巫女姫が輿に乗って現れた。

 村の若者がそれを担ぎ、巫女姫の出身地の神官がお供している。それほど大きな行列ではないが、山を下る巫女と比べれば豪華なものだった。

 ムテであるシェールは、充分に若く美しい。ムテにしては珍しいややウェーブの掛かった髪で、そのせいか余計に変わり者に見えた。

 二度の巫女を経験した彼女は、サリサなどよりもずっと落ち着いている。巫女らしい優雅な振る舞いで輿を降りると、全く自然な身のこなしで、最高神官の前に歩み寄った。

 すっと胸に手を当てて、腰を低くする。まさに、完璧な挨拶だった。が。

「お久しゅうございます。サリサ・メル様」

 あたりが少しだけざわついた。

 たとえ面識のある者であっても、初見の儀式は初見なのだ。だいたい、己を捨てた尊い身にあって、俗世を引きずるのは許されない。お久しゅう……という挨拶は、この場にまったくそぐわないのである。

 さすがのサリサも、目を丸くした。

 シェールは顔を上げ、ニコリと微笑んで見せた。

「昔と、お変わりになりませんこと」

 その言葉を聞いて、霊山の者たちは声を上げなかった。怒り心頭でも、感情を表に出さないよう、努力するのが彼らだったからだ。

 しかし、気というものは発散されてしまう。巫女姫の暴言と霊山の気に押されて、お付きの神官の顔色は真っ青になってしまった。倒れる寸前である。

 このまま、巫女姫不適当! などと、最高神官に言われてしまったら、それこそ村全体の恥になる。

 しかし、サリサは微笑んでしまった。

 シェールの知っているサリサ・メルは、マール・ヴェールの祠で泣いている弱虫な男の子なのだから。

「あなたも全く変わりませんね」

 新しい巫女姫は、美しい口元をほんのりと上げ、再び頭を深々と下げ、最高神官に敬意を示した。


 かつてのこと。

「ここにいたら、マサ・メル様は追って来ないのよ」

 そういっていたずらっぽく笑っていた美しい巫女姫。サリサにとって、どんなに心強い仲間だったことか。

 ほんの少しだけ、サリサは気が楽になった。

 そう……最近は、身も心も休めない日々が続いていたのだ。

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