第8話 Xブース


「やはり、状況証拠を繋げていくと四葉リサーチが美咲さんを拉致しようとしたのは間違いなさそうだね。しかし、それにしても分からない。なぜそこまでするんだろうか。危険な研究を四葉リサーチが行っていたことは、証拠こそないが今や我々にとっては周知の事実となってしまった。今更美咲さんだけを狙う理由はないはずだ。大体確固たる証拠がない以上、彼らは安全なはずだ。却ってこの間の襲撃事件も含めさまざまな事件を引き起こせば起こすほど疑念の念を深めるだけだと考えないのだろうか。現にこれで私も上を説得しやすくなった。何と言ってもこれだけ連続して事件が起きればこれから本格的な捜査に着手できるだろう。」

山野の疑問は、もっともである。ただ、相手の必要なまでの攻撃が続く以上、こちらとしても手をこまねいているわけにはいかない。

マヤは、山野と相談して美咲のために病院内で身辺警護を付けることとなった。

一方、警察は事件の首謀者が解散した四葉リサーチなのは間違いないと睨み、元所長と副所長を任意で事情聴取する方針とした。

およそ2週間経ったころに美咲は退院した。しかし依然として危険が去ったかどうかは不明だった。警察の捜査対象となっていた責任者の元所長の青木が失踪し、副所長の脇田が任意取り調べ中に交通事故で死亡したのである。

他の研究所員は殆どが海外からスカウトされた外国人研究者だったため、直接研究に携わったものの大部分が他国への研究所へ異動ないしは退職しており捜査は難航していた。ただ、美咲の元上司である君島だけは、何とか捜索の網に引っ掛かった。

港区内のホテルに潜伏しているところを連行した。

取調室では、山野と部下の和田の正面に君島が以前とはうって変ってやつれたように見える白い顔で向きあっていた。

この和田という新人の部下とは、最近組むようになったのだが、所謂刑事としての勘の良い若者で山野は気に入っていた。

「君島さん、これまでのいきさつは、説明の必要もないでしょう。四葉リサーチが解散した後今まで何処にいらっしゃったのですか。我々もあなたの家族、両親、親戚縁者も含め八方手を尽くしてあなたと連絡を取ろうとしたのですが、どこにもいっらしゃらない。

完全にあきらめていたところ、あなたの口座からこの周辺のATMの現金支払いがあったことが分かったのです。その後、付近を捜索していてやっと見つけることが出来たのです。

あなたに一体何があったのか、今までどうしていたのか説明していただけますかな。」

山野は、君島に丁寧なゆっくりとした口調で相手の緊張をほぐすように語りかけた。

君島は、少しほっとしたのか、座っていた椅子の背もたれに背筋をつけて話し始めた。

「会社が解散する前の日、突然所長に呼ばれました。私はまさか会社が突然なくなるとは思っていませんでしたから、頭の中が真っ白になりました。

ただいくら何でも会社都合のことですし、四葉リサーチは、四葉財閥のグループ企業『四葉エージェンシー』の子会社ですから関連会社への転籍や退職金は、当然手当されていると聞いて安心しました。しかし、2ケ月の間、誰とも連絡を取らず音信不通になることが条件だとの指示を受けました。」

「君島さん、あなたは、社内での立場は、上席研究員として美咲さんを監督する立場にあったと思うのですが、もう一度お尋ねします。美咲さんが襲撃された理由をご存知ですか。彼女は事件後に自殺未遂も起こしています。しかもその自殺についてでは不思議なことに彼女にも自殺する動機もその時の記憶もないという証言を得ています。これは口封じという意味では、極めて研究所側にとって都合がよいように思われますが如何でしょうか。」

君島は沈黙した。そしてふーっと溜息をつくと静かに弱々しく話し出した。

「美咲さんの襲撃事件が起きた後、役員会が開かれ私もそこに呼ばれました。出席者は、所長、副所長、総務部長あたりだったと思います。あの会議に私のような課長クラスが出席するのは、そもそも極めて異例でした。もしかすると襲撃事件に関する話をしていたのかもしれないのですが、内容については、全く覚えていないのです。理由は、会議が終わると上の指示ですぐにクリーニングオフィスと呼ばれる社内では研究員のストレスを解消するための研究所のブースでビデオを見たことが原因ではなかったかと考えています。その後あの会議のことは、記憶がはっきりしないのです。」

「うーん、記憶を消された可能性があるということですか。それが本当だとするとあなたの会社は、著しい人権侵害行為をしていることになりますな。あとで、あなたにうそ発見器にかかってもらいますが、本当のことを言った方が身のためですよ。」

「今言ったことは事実です。今さらとぼけても仕方ないことは私にもわかります。」

君島は疲れた表情で答えた。

「わかりました。それでは、別の質問です。あなたは美咲さんの研究を指導する立場にあったんですから、彼女の日ごろの作業について、何をしていたかいくらなんでもご存知ですよね。」

「実は、彼女が入社したころからの作業については、知っているのですが、その後のもう一つの作業内容については、知りません。」

「えー、それでも上司なんですか。ちなみに入社初期のころからの作業は何をしていましたか。」「市場調査の研究をしていたはずです。彼女の大学院での専門です。」

「わかりました。それでは、その後最近までの作業について知らないというのはどういうことですか。」

「彼女は、xブースと呼ばれるセキュリティレベルの高い部屋で私とは、分かれた無関係の作業をしていたんです。そこでは、当研究所でもトップクラスの研究を海外の研究所と連携して行っているという社内の噂です。」

「上司のあなたの知らない研究ですか。概要くらいは知っているんじゃなないですか。」

「何でも消費者にアピールする広告の研究や効果的なプレゼンテーション技術にかかわるものだということを本人が過去にちらっと言ったのだけは、聞きました。」

「彼女は、研究者としては、優秀でしたか。そんな研究を任されるんだからさぞかし優秀だったんでしょうね。」

「極めて優秀だったと思います。彼女のデータ解析に対する理解の深さ、結論の出し方は、見事です。仕事も非常に早く、技術者としては、私の能力を上回っていたとも言えます。」

「意外ですね。今のような話は、美咲さんから聞いたこともありませんでした。」

山野は、かなり美咲の研究内容に興味を持ったようで、ちょっと声のトーンが大きくなった。

「まぁー、一つ付け加えますと彼女から例の誤メールの話しがあったとき、正直あれは彼女自身の研究なのではないかと思いました。」

君島は、心のなかで一人考えていた疑問を初めて相談できる相手に出会えてほっとしたというような表情で今までとは異なり自ら進んで語り始めた。

「えー、それはあり得ないでしょう。だって自分で研究していたら、あなたのところに相談してくるはずがないじゃないですか。」

山野の質問について君島は暗い顔になって、大きなため息をつくとゆっくり答えた。

「そこが深刻な点だと思います。整理しますと美咲さんは二つの仕事を持っていました。

一つは、入社当初から実施していたデータ分析で内容は、私もよく知っています。もう一つはxブースの研究です。彼女の研究所での日常ですが、研究所にくると午前中一杯私の机の近くでデータ分析の仕事をします。しかし昼を挟んで、午後からはxブースにこもりきりになります。

一度ブースの仕事中、他に用事があったんでしょう。作業を中断して私のいるオフィスに戻ってきたんですが、ちょっと変な感じでした。」

「どういうことですか。」

「まるで別人のようなんです。人格が違うと言うと語弊がありますが、口の利き方も横柄になってすっかり変わってしまっているようなんです。私のことも上司と認識しているのかと、思わず腹がたちました。きっと相当疲れているんだろうと思ってその時は聞き流しました。しかし今ではそうではなかったのではないかと思っています。」

「どういう意味ですか。つまり彼女は、作業ごとに人格が違っていた。。。」

「そうです。彼女は多重人格になっているのだと思います。そう考えると全ての説明がつくんです。あのメールはもともと彼女宛てのものではないかと―。.以前あなたは、美咲さんとカタカナ音で同姓同名のものがいないかという質問をされたことがあったと思います。」

「そうです。そしてあなたはいないと答えた。」

「確かにうちにそういう人はいません。ただ社内のメールアドレス帳上に『ハマナカ ミサキ』というアドレスは2つ存在します。」

「そうか、だから彼女宛てに例のメールが届いたのか。本来の受信者は美咲だったが、もう一人の美咲だった可能性があるということか。でもおかしいですね私は一度だってあなたの言う美咲さんには、出会ってませんよ。」

「それは、多分xブースで作業するときだけその人格になっていると思うんです。というのは、午後xブースでの仕事を終えて私のいるオフィスに戻ってきた美咲さんは、眼もうつろになっていて、暫く口も利けない様子です。やがて眼を開けるときには、もうすっかりもとの美咲さんに戻っているようでした。」

「すると、本人もこのことに気がついていない可能性はありますか。」

「多分、全く気がついていないと思います。そう意味で、美咲さんの自殺未遂のときも記憶がないというのであれば、もしかすると別の美咲になっていたと思います。」

「どういうことが、鍵になって美咲さんは人格がかわるんでしょう。」

山野は、心配そうな顔つきになって尋ねた。

わかりません。でもxブースに行くと別の人格が出現していたようです。きっと何らかの映像や音といった機械的な何か仕掛けがあったのではないかと思われます。」

「すいません。正確に言うと、それはブースに入る前に人格がかわるんですか。それともブースに入ってから人格がかわるんですか。」

「そうですね。そう言えば、ブースに向かう前にいつも美咲に電話が掛ってきたような気がします。」 

「じゃー、単なる音でも別の人格が現れる可能性があるんですね。まずいな、これはまずいな。」

と山野が部下の和田に話しかけた。

「どうしたんですか、山野さん。何がまずいんですか。僕にはよく呑み込ませんが。」

「実は、美咲さんだが、マヤさんとユウトくんで気分転換の旅行に出かけていて連絡がつかないんだ。襲撃を恐れているのと2,3日のことだから私にも居場所の連絡先を明らかにしないで3人で出かけているんだよ。」

「でも、例の自殺未遂で、電話で美咲さんが操られた可能性があるのは、3人も知っていますよ。用心しているから大丈夫じゃないですか」

「しかし、今の話しだと美咲さんが、単純に操られるということではなく、人格まで変わるということだ。もし電話一本で旅先でああいう恐ろしい研究を行う別の人格の人間が出現したとしたらどんなことを引き起こすかわからないと思わないか。」

「すぐに携帯に連絡しましょう。」

「いや実はさっきも連絡したんだが、用心しているらしく、つながらないんだよ。もう一度やってみるか。」

やはり、電源が切られている。おそらく例の不審電話のことがあって、不通にしているのだろう。

ただそうであれば、犯人も連絡がとれないのだ。逆に安全かもしれない。単なる気休めかも知れないが2,3日であれば多分問題ないだろうと考えて、山野は、3人の無事を祈った。

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