第5話 戦闘
その夜、美咲がいつものように治療院にやってきた。
紺のブレザーを着て店内に入る。
1時間もすると、すっきりしたのだろうか足取り軽く治療院を出て、JRに乗って根岸駅で降りた。
根岸駅から本牧通りと並行に住宅街を横浜方面に向かって歩くとその先に美咲のマンションがある。付近を歩くと海側の京浜工業地帯に林立する化学プラント工場の煙突からチロチロと上がる炎が見える。
住宅街と言っても薄暗く夜はさびしい場所だ。
すぐ脇には、主要幹線道路があって車の多いところなのだが、何といったよいのだろう。このあたりは、車はスピードを上げて通過するだけで反対に歩行者それ自体はひどく見かけない。照明も少ないような気がする。もう少し明かりが多ければ雰囲気も変わるのだろう。ただコンビニエンスストアも駅前にはちらほらあるがここまで来ると何も見かけない。住宅の明かりが着いている家もあまり多くない。
『みんな見ている!』というタイトルとギョロッとして描かれた目の犯罪防止の看板だけがまるで周囲の状況をからかうように電柱に張られている。
そんな中を歩いて行くとかなり広い児童公園が左手に見えてきた。
美咲は、やや歩速を速めて公園の中を通り過ぎようとする。とっその時だった。
滑り台の裏から三人の人影が美咲に向かって飛び出した。
三人のうち二人は、美咲の進路を左右からふさいだ。
もう一人は、背後から近寄って来ている。正面の二人は、一見浮浪者風の格好をしており凶悪なぎらぎらした目つきで美咲を見ながら手に警棒とおぼしき武器を持っている。背後の男も浮浪者風でロープを握っている。
「おとなしくね、暴れてもムダ、痛いだけよ。」
たどたどしい中国なまりと思われる日本語を吐きながら、舌舐めずりするような視線を美咲に投げかけつつ右手の男がじりじり近寄ってきた。
背後の一人は、両手で美咲にロープを頭からかけるようなしぐさで飛び掛ってきた。
その瞬間、美咲は、背後の男に自分からぐっと近づいて行くとテコの原理を応用したように相手の肩を自分の身体を軸にして傾けた。
背負い投げのようになって相手は地面に強烈に叩きつけられた。
非力と思われる女に投げ飛ばされたのを見て焦った男は、今度は警棒を渾身の力をこめてふり降ろした。
美咲は今度も少しも慌てずに振り降ろされたその腕にさからわずにその方向に身体をあわせた。
そしてそのままその腕をテコにして、相手の身体を地面に叩きつけたのだ。
土煙があがった。
木端微塵といった感じで男は意識を失っている。
その様を見て右手の男は、猛然と空手の正拳突をしてきた。
しかし美咲は、その突きを全て受け流してしまった。
そしてすばやい身のこなしで相手のふところに入り、今度はその男のみずおちに強烈な当身をくらわせた。
「ぐうっ。」
声にならぬ声を上げながら男は、胸を押さえて膝をついた。
だが、相当タフと見えて再び立ち上がってくる。
今度は、全身で覆いかぶさるように掴みかかってきた。
美咲は、悠然としてスーッと右手の人指し指と中指、薬指を伸ばして揃え向かってくる相手の胸元に触れた。
その瞬間「ばっち」と乾いた音がすると同時に、5、6メートルも男が美咲の背後に投げ飛ばされた。
いや強力な爆風で吹き飛ばされたような感じだ。
二人の味方が手もなく倒されるのを見た最後の男信じられないという驚愕の表情を浮かべた。
完全に戦意を失ったようすで、駅とは反対の本牧方面に向けて走りさった。
わずか1、2分の出来事だった。
動けなくなった二人の男が放置されたゴミ袋のように倒れている。
帽子をまぶかにかぶった美咲が呼吸も乱さずに立っていた。
マヤだった。
マヤは、古武道と合気道の有段者というだけでなく、生まれ持った気も扱うことが出来た。
帰り道の襲撃を予測して治療院で美咲とマヤが入れ替わった。危険な賭けだった。いくらマヤが相手を倒せる未来を仮に予知していたとしても、確定した未来というのはあり得ない。
激しいぶつかり合いの中で何かの拍子に展開が変わってしまうこともあり得る。もちろん、襲撃を避けることも出来ただろう。
しかし、決定的な証拠を握るため、敢えて相手の仕掛けた罠にかかったのである。
美咲が連絡したパトカーがすぐに駆け付けた。
警察は、二人を傷害の現行犯で本格的に取り調べた。
犯人は、中国からの密入国者だった。
金に困って、外国人の多い新大久保駅周辺に潜伏している際、逃げた男に雇われたという。
しかし彼らと逃亡した男にそれまで面識はなく事件の背景や男の足取りをつかむことはできていない。
「マヤ、私もう怖くて、外を歩けない。」
「大丈夫、犯人の一部も捕まえたんだし、逃げた男も指名手配されているんだから、今度は、四葉リサーチも簡単に美咲には手は出せないよ。」
「それにしてもつけられているみたいだから、マヤが私の身代わりになると言ったとき心配でしょうがなかったよ。でもどうしてあの公園で襲ってくるって思ったの。」
「いくら犯人だって人目のある繁華街で襲ってくることは避けるでしょう。
そうなると美咲がいつも通る通勤経路の中で一番襲撃される可能性が
大きいのは、人通りの少ない自宅周辺ってことにならない。」
マヤは、自分の能力を隠しながら、怖がる美咲を何とか安心させようと努めた。
美咲にとってこれまでは、怪しい人物が自分のことを聞いていたとか、監視の目を感じるとかいう程度での感覚に近いレベルの話だった。
それが三人もの男たちが実際に自分を狙ってきた心理的ショックは、かなり大きかった。
しかも一人は逃亡中だから、事件が起こるまでとそれ以降では、自分の周りの景色が変わって見えるほど強い心理的ストレスを感じている。
「美咲、警察に四葉リサーチの件、話したよね。」
「もちろん。今回の事件とあの誤メールの件を結びつける証拠は今のところないと思うけど、私にはあのことしか身に覚えがないもん。」
「そうすると四葉リサーチにも警察の事情聴取が入るかもしれないから、もうきっと迂闊には動かないんじゃない。」
マヤは口では安心させようと楽観的なことを言ったが、美咲がまた襲撃される可能性はないとは否定できない。
確かに警察も事情聴取するだろうが、美咲の話しがあまりに突飛に見えること、そして事件と結びつける証拠やレポートの存在の裏付けも取れなければ、四葉リサーチへの牽制が期待できるかどうかは難しいところだ。
やはりもう一人の主犯と思われる男を捕まえて、決定的な証拠を握るしかない。
マヤは、引き続き自分の予知能力を最大限に使って美咲を守る決意をかためた。
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