第3話 予感
あれ以来マヤの治療に魅入られて美咲は、ちょくちょく治療院を訪れるようになって、マヤとも相当親しくなっていた。
何と言うか年齢も近いしウマがあったのかもしれない。大学院生の美咲は、生活費を稼ぐためにいくつかアルバイトをしていて、今日はバイト先での仕事を終え直接治療院に向かった。
バイト先は、民間シンクタンクでデータ分析のアシスタントとして働いている。
彼女は、大学院では心理学の他に統計科学のうち多変量解析とよばれる分野を専攻しているのだが、これは、簡単に言うと複数種類の変数データをより少ない変数データに集約する統計手法のことを言う。
たとえば、この手法を使って、地域ごとの住民の平均年齢や年収、人口増減率、自動車保有総台数・開通加入電話数・電灯年間使用量・教育費総額・テレビ契約数などさまざまな種類のデータからエリア別の成長度、富裕度などの指標を割出すのである。
そして、成長度、富裕度をX軸、Y軸とするマップを作製し算出した値をプロットすることで、地域が平均からみてどういう特徴を持つのか把握する、いわゆる「ポジショニング分析」が可能となる。
こういう分析は、企業がエリアマーケティングなどで販売戦略を立てる場合に応用されることが多い。例えばこの地域であればこうした商品が売れるなどの判断に使うのである。
美咲が出入する財閥系シンクタンク「四葉リサーチ」も、親会社が国内大手広告代理店の一つであり、活動の一つとしてこうしたデータ分析を中心とする調査研究を行っていた。
美咲は、自分の専門性が活かせるこの職場を気にいっていた。
ただ、ここ1ケ月、職場とその周辺でなんとも言えない不安な気持ちを頻繁に感じようになったのである。
どうやらアルバイト先の研究所内で常に監視されているような気配を感じる。
さらに最近では、エスカレートし、退社した後もつけられているような気までする。
最初、暗闇の帰宅道で人の気配を感じたとき、痴漢に追いかけられているのではないかと思い交番に逃げ込んだ。
痴漢は見つからず、その後、警察官も周囲を巡回するようになったがいまだ不審者は見つかっていない。
(気のせいかな。)
美咲は、研究生活からくるストレスのせいで神経が高ぶって錯覚を起こしているのではないかと考えた。
しかし、日中街中でもじっと見つめられている現実感を伴う違和感を感じるようになってくると今では、恐怖の入り混じった焦燥感さえ感じ始めている。
美咲は、何か原因があるかもしれないとも思い、思いあたるふしがないかを考えた。
(やはり、あれが原因かな。でも、そんなはずはない。)
自分でも否定したものの、四葉リサーチのある一件にたどり着かざるを得なかった。
ある日、自分の宛先に”CONFIDENTIAL”(機密)というタイトルの社内Eメールが送られてきたのだ。
メール本文はなく、ファイルのみが添付されていた。
何気なくデータファイルの中身を開くとタイトルに『潜在意識支配の実証データ』とある。
中身は、近年飛躍的な進歩を遂げつつある3D映像や音響効果などの電子媒体を通じて人の潜在意識に直接働きかける新技術に関するものだった。
一般にこうした技術の初歩の段階としては、『サブリミナル効果』が知られる。例えば、映画の画像の中に視聴者に秘密で『ある商品名を購入しなさい』とのカットを一枚入れておき、視聴者が無意識に商品を購入したくなる錯覚を起こさせることがある。
しかしながら、数多く行われた実証実験では、効果のほどは確かでなかった上、現在では、倫理的道義的な観点からも広く実用は厳禁とされている。
そのレポートでは、無作為に抽出された善意の一般市民約10000人を対象に高度な催眠術を使った映像や音楽等を本人に秘密裏に視聴させ、どこまで思い通りに操れるかを調査していた。
平たく言えば『サブリミナル効果』などといった生易しいものではなく遠隔催眠による第三者への洗脳実験だと言える。
人の食欲・性欲・怒り・憎しみをどうすれば高められるか、はては、思い通りに行動させた後、人の記憶をどうしたら消せるかといったテーマについても実験していた。
美咲は、衝撃を受けた。
この技術が完成すれば、おそらくメディアを通じて人の嗜好・信条・精神状態・行動を遠隔操作で思いのままに操つることができるだろう。
何でこのようなことを研究しているのか。確かこのシンクタンクの親会社は、国内大手広告代理店として広範に活動している。
魅力的な商品広告の提供はもちろん、選挙キャンペーンの演出まで幅広く手掛けているのは知られている。
しかしそれは、消費者や選挙民に対し、正常な判断のもとで正しい情報を提供して如何に効果的にプレゼンテーションするかという意味であり、あくまでも選ぶのは、それを視る側の方である。
商品や候補者が違法な技術を使って消費者や選挙民を惹きつけるなどというのは、主客転倒した考えであり、ましてや思いのままに操るというのは、犯罪だ。
美咲は、アルバイトと言えども自分の勤務するシンクタンクでこのような研究が行われていること自体ショックだった。そして疑問なのは、このメールがなぜ自分に送りつけられたかということだ。
発信先は、アメリカだ。
やはり、明らかに誤送信以外考えられない。
シンクタンクのメールアドレス一覧を開くと“Misaki_hamanaka1.~”“Misaki_hamanaka2.~” とアルファベットでは同姓同名のものがもう一人いた。
同じ研究所の職員らしい。
おそらくこの研究員に発信される予定のメールが発信者のミスで送信されたのだ。
どうやら世界規模で展開している研究のようだ。
シンクタンクもこの誤送信を認識すればきっと何らかの対応をしてくるだろう。
美咲は、とりあえずファイルを自分のフォルダーにパスワードをかけた上で暗号化して保存しておいた。
それからだった。保存しておいたファイルと受信メールの消失はもとより、誤メールとは関係ない自分の保管する文書の電子ファイルの更新日付も変更がおきるようになった。社内の誰かが美咲の動向を監視しているのは間違いない。
気分が悪いので思い切って、直接の上司の君島という課長に相談したが、思いもかけず冷淡な反応がかえって来た。社内ではそんな研究は一切していないし、監視しているなどあり得ない話だ云う。
不信感がたまった美咲は、シンクタンクをやめることを本気で考えていた。
そんなイライラが募るなか新橋の治療院に美咲は向かった。
「美咲いらっしゃい。今日はいつもの通りの治療でいい。身体の具合はどう。」
「うん、いつもの通りでOK。今日は、体が少し重い感じがするんだ。最近運動不足かな。」
二人は、親友といってもいいくらい打ち解けていた。マヤも美咲がくるとほっとした気持ちになる。
ただマヤは、今日に限っては、何が原因かはよくわからないが美咲がひどく疲れているのを感じた。口では、いつもの調子で冗談を言っているが、精神的に消耗しているのか声のはりのなさが、抑揚に出ている。
「忙し過ぎるんでしょ。今日はいつもよりずっと疲れてるみたいに見えるね。」
マヤは、いたわりながら美咲をベッドに寝かせた。とっ、その時だった。
次のイメージがはっきりとマヤの脳裏にまるでテレビ映像をみるように浮かんできた。美咲が帰宅客でごったがえす駅のホームに立っていた。
路線は・・・。JRのようだ。駅は・・・。新橋らしい。時刻は・・・。この後治療院を出て美咲が帰宅する途上だろう。
一日の仕事を終えてスポーツ新聞の夕刊を広げる疲れた背中のサラリーマン、スマートフォンに熱中している若い男女の姿が見える。
そんな中、あれ、何かホームに通じる階段の裏側のあたりから美咲の背後にそろそろと近づく男が見え始めた。タイミングを推し量るようにまた自分を見ているものがいないか探るような感じでちらちら見ている。一方美咲は、全く気がついた様子はない。心配だ。美咲を狙うスリだろうか。
しばらくすると、先頭車両のヘッドライトが遠くから接近してくる。
停車予定の扉位置のあたりで乗客が列になってゆく。美咲も含め、皆周囲のことは、見えていないというか見ていない。考えているのは皆帰宅することだけだ。
次の瞬間、男が隠し針のようなものを後ろから美咲の背中に刺した。不意を突かれ、倒れ掛かる美咲、突然もう一人の男が現れその美咲を抱えるようにして雑踏に消えた。
マヤは、じっとりと冷や汗をかいた。
目の前の美咲は、たった今、マヤを戦慄させたイメージとはおよそかけ離れた安らかな眠りの中にいる。やはりよほど疲れていたのだろう。首筋を指圧されると緊張感が溶けて、母親の腕まくらで眠る子供のように心地よさそうな無防備な寝顔をマヤに見せている。スースという寝息もわずかに聞こえる。
マヤには、もの心ついた時から予知能力に近い体験が多かった。特にそれは、自分の意思とは無関係に、唐突に頭の中に浮かんでくるのである。
そして相手の身体に触れているとその人の近未来と過去が明確に伝わって来るのだった。京都の治療院にいられなくなったのは、そのことが原因だったのだ。
人のよさそうな馴染み客だった。家電メーカーの営業課長をしていると言っていた。
あるとき、その営業課長が夜遅い時間に治療にきた。何気なく顔を見るとブラインド越しにできるようなストライプの黒い何本もの影のような線が見えた。さらに驚いたことに左手は切断されたように透けて見える。ただ事ではない。
治療しながら、世間話しをするとこれから11:30発の京都駅発の深夜高速バスで東京へ出張に行かなくてはならないという。
マヤは、その身体に触れてみた。すると、今度は、課長の乗る予定のバスが運転手の居眠りから前方の大型トラックに衝突し、彼の身体が飛ばされ、フロントガラスめがけて叩きつけられるのが見えたのである。
本当のことを言っても到底信じては貰えないと思い、マヤは、止むを得ず、それとなく最近のバス事故の多発を例に挙げ、いやな予感がするからと朝一番の新幹線の乗車を強引に勧めた。
相手からは、気味悪がられたがその課長はしぶしぶマヤに従い、難を逃れることが出来たのだった。バスの衝突は予知の通り起こり死者重軽傷者10数名を出す大事故となったのである。
当人からは気味悪がれつつ感謝されたものの、予知に対するうわさがうわさを呼ぶ事態となった。マヤに占いを頼むもの、嫌がらせするものも出てきたため、止むなく愛着のある職場を後にしたのである。
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