二枚目の手紙

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第1話

 窓からカーテンを靡かせる柔風が到来し、頬を撫でる。四月七日という春真っ盛りの時期で、とても清々しい空気が漂う。斜陽が部屋の薄暗さを切り裂き、暖かく照らした。


「いい天気、だね」


 彼女は仄かな微笑みを浮かべながら、そう呟いた。やせ細った体に、雪のような白い肌。その姿は美しく、尊さすら感じる。さながら、雪の妖精のようだった。


「そうだな」


 俺はベッドの横の椅子に座り、黙ってノートにペンを走らせた。


「今日、地球が終わるなんて、考えられないね」


 そんなことを、冗談めかして彼女は言い放った。しかし、それは偽りでも何でもない。


 アメリカからの発表によると、今日中に隕石がこの地球に飛来し、世界が終わるそうだ。

 全くバカバカしい。そんなもの、空想上のおとぎ話だ。信じる方がどうかしている。


 しかし、正確な情報が提示された瞬間に、世界は大混乱に陥った。交通状況は悪化の一途を辿り、通話もままならない。

 まさに、この世に混沌が舞い降りた瞬間だった。


 その為、この病院には俺と彼女以外の人間はいなくなっていた。


「それなのに、君はこんなところに居ていいの?」

「いいんだよ、別に」

「だって、最後の日だよ?普段できないことをしたり、好きなことを目いっぱいしたり、それこそ友達や家族と過ごすのが普通じゃない?」

「………………いいんだ」


 俺は俯きがちにポツリと呟いた。すると、彼女はキョトンと首を傾げた。


「まあ、君がそういうならいいけど!」


 彼女はん〜と体をぐっと伸ばした。


「それでさ、さっきから何書いてるの?」

「まあ、遺書みたいなもんだよ。どうせ今日死ぬんだし」

「えっ、そうなの?!見せてよ!」


 と、彼女が手を伸ばした途端、俺はノートを高々と上げた。


「やだよ」

「えー、いいじゃん!ケチ!」

「お前だって遺書書いてあるんだろ?なら先にそっちが見せるべきだ」

「それは嫌!」

「理不尽だな…………」


 俺達はそんな取止めのない会話を交わしていた。そうか、この日々も終わり、なのか。始まりは、いつだったか。


 丁度、一年前か。




───────────────────



 一年前。

 俺は、ある病気にかかり、突然病院へと入れられた。親からは何の病気か告げられず、ただただ甘やかされたのが、なんとなく俺のかんに触ったことを覚えている。

 そんな時だった、向かいのベッドに居る彼女が目に入った。とても儚げで、澄んだ瞳をしていた。


 彼女はこちらの視線に気づくと、柔らかな笑顔を向けてくれた。


「初めまして、新人さん」


 それが、彼女との出会いだった。





───────────────────





「この漫画、ほんと泣けるよね……」

「いや、別に」

「ええ?!君感性腐ってるんじゃないの!」

「ひどいこと言うな…………」



「は?ちょ、お前!」

「いえーい!また私の勝ち!」

「くそ、なんでだ……!」

「君、ゲーム下手なんじゃない?」

「うっせぇ!もう一戦だ!」



「あ、この女優可愛いよね〜。最近テレビにいっぱい出演してるし」

「ああ、確かに綺麗だな」

「……………………」

「いや、なんで睨みつけてくんだよ。お前が言ったんだろ」

「バカっ!」

「はあ?!」


 学校の女子とは特に会話をしたりしなかったが、彼女とはすぐに打ち解けられた。閉鎖的な空間で、近い年代だったから、というからだろう。しかし、そんな理由では収まりきらないほど、居心地が良かった。




 そんな、ある日だ。





「ねえ、君は好きな子とかいるの?」

「は?なんだよ突然」

「いや、いるのかな〜って。ほら、学校に行ってたら出会いとかもあるでしょ?」

「確かに、出会いなんて腐るほどあるけど、実際好意を抱く女子なんて、学校にはいなかったな」

「え〜!そうなの〜?!つまんないの」

「つまんないって…………。じゃあ、お前はどうなんだよ」

「どうなんだって聞かれても、私ほとんど学校行ったことないし」

「え…………?」


 彼女は平然とした様子でそう口にした。そして、淡々と言の葉を紡いでいく。


「私ね、昔から病気で、人生の大半は病院で過ごして来たの。だから、出会いなんてそもそもないんだよ」

「そう、だったのか………………。悪い」

「謝ることなんてないよ。君は何も悪くない」


 無意識に、彼女と話す時は病気の話題を避けてきた。プライバシーの侵害だからとか、他人の問題だから、というのもあるが、一番大きな理由は、怖かったからだ。何せ彼女はこの病院に気がしていたからだ。


 そしてやはり、彼女の言葉から察するに、かなり重い病気なのだろう。そう知っただけで、胸が締め付けられた。


「もうこの病気は一生治らない。ずっと、このままなの」

「……………………」

「だから、君が気に病む必要はないんだって」


 彼女は言いながら、俺の脳天へチョップをかましてきた。


「いってぇ!」

「あのね、今更心配されても困るの。今まで通り接して欲しい」


 彼女は凛とした強い瞳でこちらを射抜いて来た。その言葉の重みが伝わって来て、何か言葉を紡ごうとする。しかし、ろくなものが出てこない。だから俺は、黙って首肯するしかなかった。


「よろしい!」






───────────────────






 彼女と出会って半年が過ぎた頃、両親が俺の荷物を整え始めた。何してるのか尋ねると、穏やかな表情で「家に帰るんだよ」と告げられた。


 そうか、退院か。今までよく分からない薬を飲んできたが、それらが効いていたようだ。

 俺は自分の荷物を纏めながら、向かいのベッドに目をやる。しかし、そこに彼女はいなかった。確か、診察だとか言っていたか。せめて、お別れぐらいは言いたかったが、そう無理も言えない。

 俺は彼女に手紙を残し、両親と共に病室を後にした。そうしてしばらく歩くが、医師たちに挨拶してくると言って、両親は俺を受付のソファーに置いて行ってしまった。


 どうしたものかと、考える。目を閉じれば、彼女の顔がすぐ近くに浮かんでくる。ああ、やっぱり、ちゃんとお別れを言いたかった。

 そんな夢想に浸っていると、唐突に、彼女の姿がちらりと視界の端に映った。今日の診察は長くなりそうだと言っていたが、どうやら今終わったらしい。


 丁度いい。両親もしばらく戻る気配がないし、彼女に一言…………。


 そう思ったが、その表情を見た瞬間、思考が消し飛んだ。いつも華のような笑顔を浮かべる彼女の頬に、熱涙が流れていたのだ。


 俺はいても立ってもいられず、彼女を追いかけた。


「おい!」


 そして、やがて彼女の肩を掴んだ。すると、彼女は振り返らず、わなわなと体を震わしていた。


「何……?」

「何って、お前、どうしたんだ…………?」

「別に、どうもこうもないよ。それより、君はその様子だと退院するんだね。おめでとう」

「そんな言葉はいらない!なあ、一体何が……?」


 そこまで言いかけると、彼女はこちらにゆっくりと振り向いた。

 その表情を見て、思わず呆然としてしまう。今にも崩れそうなその笑顔が、俺の言い知れぬ不安を駆り立てる。


「私ね、あと半年しか、生きれないって…………」





───────────────────





 俺達は一度病室へと戻った。沈黙が冷たく突き刺さる。未だにあの言葉が嘘に思える。病院に戻った彼女は、いつも通りの明るい表情でそこにいるからだ。


 彼女は俺が残した手紙をふむふむと読んでいる。


「へ〜。結構いい手紙書くね。退院したらまた会おう、なんて恥ずかしいセリフ言っちゃって」


 彼女は冗談混じりにそう告げる。それに対し、俺は顔を伏せることしか出来なかった。

 書いてる時は、本気でそう思っていた。病院にずっと居たなら外の世界のことをよく知らないだろう。だから、俺が色々案内してあげよう、なんて思っていた。


 しかし、今になってみれば、それはただの皮肉にしかなっていない。なんて無責任で、身勝手な言葉なのだろう。

 自責の念に押し潰されそうになる。そんな俺の様子を察してか、彼女はそっと告げる。


「私は普通に嬉しいよ。今までこんなこと言ってくれる人なんて、いなかった」

「………………ごめん」

「だから謝らないでって。君が純粋な気持ちでこれを書いたのは、わかってるから」


 彼女はそう諭すように言ってくる。しかし、そんな言葉に甘えられるほど余裕はなかった。つい、意味の無い疑問が口をついて出る。


「……………………さっきの話しは、本当なんだな」

「うん、本当だよ」


 彼女は少々目を細めながら、そう言った。


「余命宣告、だね。まるでドラマみたい」

「………………親御さんは、なんて?」

「あー、言ってなかったね。私の両親、もうとっくにいないんだ」

「え…………?」

「それだけじゃなくて、親族もほとんどいないよ。だから、誰もお見舞いに来てなかったでしょ?」

「そんな、ことって…………」


 それじゃあ彼女は、孤独の中、余命まで過ごすというのか。いや、それだけじゃない。彼女は今まで、一人で病気と闘っていたのか。そんな素振り一度も、今だって見せていない。

 運命とは、どこまで残酷なのか。


「ほら、また暗い顔してる。君って結構感情が出やすいよね」


 彼女はそう言って、微笑んだ。ならば、彼女はきっと俺の逆なのだろう。感情を笑顔で蓋をする。そんな彼女にひどく、苛立ちを覚えた。


「お前は、なんで笑ってるんだよ。余命が告げられたんだろ……!」

「そりゃあ悲しいよ。けれど、私には命を惜しむ理由がないから」


 彼女は、また笑顔になった。それがどんな感情の裏返しなのか、俺には見当もつかない。けれど、少なくとも、その笑顔通りの心持ちでないのはわかった。


「なんだよ、それ。もっと自分を大事にしろよ……!」

「してるよ。むしろ、されすぎてる。だから余計に、自分の価値がわからないんだ」


 その言葉はいやに、心に響いた。空っぽで、何も詰まっていない。そう彼女は言いたげだった。

 それがもどかしくて、悔しくて、許せなかった。


 俺は彼女から手紙を奪い、ビリビリと勢いよく引き裂き、散り散りにした。


「あ、ちょっと!」

「この手紙の言葉、全部撤回する。また会おう、じゃない。これから毎日、お前に会いに来る」

「え、どういうこと……?」

「そのままの意味だ」

「なんで、そんなことを…………」

「俺がただそうしたいだけだ」

「………………なによ、それ」


 俺はそれ以降、彼女の病院に一日たりとも欠かさず通った。雨の日も風の日も、話しのネタが無くても、俺が風邪を引いても、意地でも彼女の元に通ったのだ。



───────────────────



 そして、人生最後のこの日にも、彼女の病室に来ている。我ながらなんて押し付けがましくて、頑固な人間なんだと思った。


 俺は変わらずノートに文字を走らせながら、彼女と言葉を交わす。


「君って、本当にしつこいくらい毎日ここに来たよね」

「…………実際、嫌だったか?」


 俺がおそるおそる尋ねると、彼女は朗らかに笑みを浮かべながら、首を振った。


「そんなことないよ。最初の方は、あなたの時間を削ってしまってることが申し訳無くて、あなたに気負わせる自分が嫌だった。けれど、あなたはいつも嫌な顔一つせず私のところに来てくれるんだもの。そりゃあこっちも嬉しくなっちゃうよ」

「…………そうか。それなら、良かったよ」


 俺は心からの安堵の言葉を漏らした。今まで、拭っても拭いきれなかった不安がようやく消えたのだ。

 そんな彼女の本音を聞けて、ホッとした。


「まあでも、女の子と話すならもっとトークスキルを磨かなくちゃね。それじゃあ彼女もできないよ?」

「それは、困るな」


 俺が平然とそう答えると、彼女は目をギョッとさせてこちらに詰め寄ってきた。


「え、もしかして好きな人いるの?!」

「さあな」

「えー!教えて教えて!どんな子?!」

「やだよ」

「いいじゃん!だって今日地球最後の日だよ?」

「…………まあ、考えとくよ。それより、いい天気だし、屋上にでも行かないか?」

「え、まあ、いいけど」


 彼女の承諾を得ると、俺は彼女の体を支えながら病室を後にした。




───────────────────




 病院内は、やはり完全に無音だった。元から騒がしい場所じゃないのはわかっているが、雰囲気はもう立派な廃墟だった。人がいないだけでこんなに変わるものなのか。


 そんな感想を抱きながら、俺と彼女は階段を一つ一つ丁寧に登っていく。俺は彼女のか細く、今にでも折れてしまいそうな体を支えた。


 そして、ようやく屋上につき、ドアを開け放った。


 すると、涼やかな春風と、心地よい日光が心身を覆っていく。


「ん〜、気持ちいい〜」

「清々しい天気ってやつだな」


 彼女は俺の手を離れ、よろめきながらも屋上の真ん中に立った。そして、空をふと仰いだ。


「こんな綺麗な空から隕石が降ってくるなんて、未だに信じられない」

「そうだな」


 俺は言いながら疲労に耐えかね、ベンチに腰掛けた。


「ごめんね、大丈夫?」

「ああ、気にするな。最近運動不足だっただけだ」


 彼女は申し訳なさそうに眉を曲げながら、俺の顔を覗き込んできた。近くで見たら余計にわかる、整った顔立ちだった。


「近いって」

「なになに〜?照れてるの〜?」


 俺はそんな子供っぽい彼女に、ため息で返した。すると彼女は頬を膨らましながら、よたよたと歩いて行ってしまった。


 そんな後ろ姿を見ながら、またも俺はノートにペンを走らせた。


「君って結構私に冷たいよね」

「お前がアホっぽいからだよ」

「何それ!」


 いつもの軽口を叩きあいながら、二人で笑みを交わした。こんなやり取りを、あと何度出来るのだろう。

 そんなことを思っていると、彼女はふと呟いた。


「私の余命って、丁度今日なんだよね。これって運命なのかな。余命の日に、世界が終わるなんて」

「運命、か」

「うん。なんか、世界中のみんなを道連れにしちゃってるみたいで、やだな…………」

「お前一人の命で世界がどうこうなるなんて、思い上がりっていうんだぞ」

「そうだね。私の命一つなんて、むしろ誰にも何も及ばさない」

「………………本気で言ってるのか?」

「だって、私には家族も友達もいない。私一人がぷっつり消えても、誰も何も変わらない」


 彼女は儚げにそう告げた。そんなあまりにも勝手な言い分に、俺は思わず言葉を紡いだ。


「俺が、いるだろ」

「え……?」

「俺は、お前が消えたら人生に多大な影響が及ぶ」

「そんなこと、ないでしょ?こうして今まで会いに来てくれたのも、私が可哀想だったからでしょ?」

「やっぱ、お前アホだな。」

「なんで……?」

「お前、自分で言ってたじゃねぇか。嫌な顔一つせず来てくれたって。そうだよその通りだよ。この病室に来るのに何の躊躇いもなかった。毎日通って、明日も行きたいって思った。お前と、同じなんだよ」

「………………やめて」


 彼女はこちらに背を向けたまま、今まで聞いたこともない低い声で告げてきた。


「君は、本当に残酷な人間だよ。余命を告げられた人間に、希望を持たせようとして。いつ死んでも問題ないように。何も心残りのないように。そうやって、残りの人生を送りたかった。けど…………」


 彼女はこちらに振り返り、俺の目を見た。その瞳は波打つように揺れており、目元には熱い涙を溜め込んでいた。


「君のせいで、まだ生きたいって。明日が欲しいって思っちゃう。ずっとこんな日々が続けばなんて、思っちゃったの…………!」

「…………………………」

「今までは受け入れていた病気も、余命も、憎くて憎くてしょうがなくなった……!こんな苦しい気持ち、初めて、だったの」


 彼女はその場で崩れ落ち、顔を両手で覆った。思えば、これが初めての、彼女の心からの叫びだった。


「…………悪かった、な」

「本当、本当最低…………。けど、あなたは悪くない。むしろ、感謝してもし足りないくらいで…………」


 彼女は言葉に詰まり、頭を振った。おそらく唐突に様々な激情が舞い込んだのだろう。


 俺は、彼女が落ち着くまで黙ってペンを動かしていた。





───────────────────





「はあ…………。男の子に泣かされちゃった」


 彼女は泣きやみ落ち着くと、そんなことを言い出した。


「いやな言い方だな」

「事実でしょ?あー、色んな意味で恥ずかしい」

「まあ、そんなの今更だろ」

「ひどっ!」


 俺達は他愛のない会話をしながら、空を見上げた。


「ねえ、私の余命と世界の滅亡、どっちが先だと思う?」

「どっちにしろ死ぬんだから、先とかないんじゃないか?」

「そうじゃなくて、私が余命いっぱい生きれるかどうかってこと」

「………………」


 どちらにせよ、彼女は死を迎える。しかし、それでも、意味が無いとしても、明日が来るものだと証明したいのだ。

 世界の滅亡さえ無ければまだまだあの日々を繰り返せたと。そうすれば、悔いや心残りは残れど、自分はその日々に価値を見出していたことになるからだ。


 ならばと、俺は素直な気持ちを言葉に出した。


「そうだな。お前と一緒に、死にたいよ」

「そっか」


 彼女はにししと心底嬉しそうに微笑んだ。それにつられ、こちらも自然と笑みがこぼれる。


 それを見ただけで俺はもう、満たされていくのが、わかった。


 彼女は再びこちらに背を向け、ふと言葉を紡いだ。


「私ね、君と出会えて良かったよ」

「なんだよ、急、に…………」

「あの日出会った時は無愛想だな〜とか思ったけど、話してみると結構感情的で、優しくて、面白かった。友達がいたらこんな感じなのかな〜って思ったんだ」

「そう、か………………」

「そんな君に出会えたから、私は今こうして笑顔でいられるんだよ。孤独を忘れられた。世界に仲間外れにされていた私は、君と会うことで、その一部になれた気がした。全部全部、君のおかげなんだよ。この胸の痛みも、幸せな心も、君がくれたものなんだ。だから、私は、あなたのこと─────」






──────カランっ






 不意に、何かの落下音が響いた。彼女はその音の方向へ首を向ける。すると、先程まで彼が握っていたペンがベンチから転がり落ちていたのだ。


 この大事な時になにしてるのよ!


 彼女は勇気を振り絞った言葉を遮られたことに怒りを顕にしていた。そして、彼の方へと歩み寄っていく。


 彼女はペンを拾い、彼に差し出した。


「ほら、落としたよ」


 そうしかと告げた。しかし、一向にこちらに手を伸ばそうとしてこない。何をしているのかと顔を覗き込む。

 すると、何とも幸せそうな表情で、目を閉じていた。寝てしまったのかと体を揺らすも、起きる気配はなかった。

 そこで何か違和感を覚えた彼女は、彼の口元に手を当てた。


 しかし、


 彼女は急いで彼の胸元に耳を当てた。そこには振動も、音も、何もなかった。まるで、中身が何も入っていないような。


「嘘、でしょ………………?」




───────────────────




 私はありとあらゆる蘇生術を試した。しかし、何をしても全く反応はなかった。先に自分の体のピークが到来し、結局は彼の隣に腰掛け、絶望するしかなかった。


「なん、で…………」


 全く理由がわからない。私ならまだしも、なぜ健康で何の病気も患っていない彼が、命を落とすのか。


 先程まで普通に言葉を交わしていた。呼吸もしていた。心臓も動いていた。なのになぜ、止まっているのが私ではなく、彼なのだろう。


「なんで、なんで?ねえ、教えて。教えてよ…………!」


 絶叫と願いの混同したものを彼にぶつける。しかし、返答など返ってくるはずもない。

 彼は紛れもなく、死んでいるからだ。それでも、認めたくはなかった。


 そうして呆然としていると、ふと目に入るものがあった。それは、彼が命を落とす直前まで記していた、ノートだった。


 彼は遺書だと言っていたが、一体中身はどうなっているのだろう。こんなものを、勝手に見てはいけない。


 そうわかっていても、手が止まらず、思わず手に取って、ページをめくってしまった。


 すると、そこには薄らと弱々しい字が連なっていた。






愛する君へ     四月七日


 これを読んでいるということは、俺は死んでしまったのだろう。だって、俺は死ぬまでこれを君に渡すつもりはないからだ。死ぬ前に、全てを伝えるつもりだからだ。けれど、それが叶わなかった保険として、ここに記して置く。


 まず、俺は病気を患っている。君と同じものだ。





「え…………?」


 思わず呼吸が止まった。だって、今までそんな素振りは一度も───。





 余命は君より半分ほど短い。それが告げられたのは、君と約束してからしばらく経ってからだ。おかげでなぜあんなに親が優しかったのか合点が言ったよ。


 余命宣告をされた虚無感を、今でも覚えている。けれど俺は、君の元へ訪れることをやめようとは思わなかった。親には止められたが、それでも、一秒でも君と一緒に居たかったんだ。





 気づけば、涙が止まらなかった。どれほど流しても流しても、止まらない。ノートにポツリと当たり、字をにじませ、視界もぼやける。


 これは遺書であり、私への、二枚目の手紙だった。


 私は必死に嗚咽を留めながら、続きの文字を追った。





 君には迷惑だったかもしれない。鬱陶しかったかもしれない。けれど、俺は俺を止められなかった。どうせ残りの、君より短い人生、好きなことをしたいと思った。それが俺にとって、病室に訪れることだった。

 けど、君は迷惑じゃないと言ってくれた。本当に、嬉しかったんだ。

 だって、俺がこうして余命を越えて生き続けられたのも、君のおかげだったから。


 君と過ごす一日一日が、どれだけ俺の支えになっていたか。君は知らなかっただろう。けれど、同じように君にとって俺の存在がもし、少しでも希望となっていたら、嬉しく思う。


 俺は、あっちへ行っても、決してこの思い出を忘れない。君と話したことも、一緒に食べたケーキも、遊んだゲームも、しかとこの胸に刻む。


 そして、一つだけどうしても伝えたいことがある。

 覚えているか、君が好きな人がいるか聞いたことを。好意を抱く女子なんて学校にはいないって、俺は言ったよな。

 それはその通りなんだよ。なぜなら、あの時目の前に居たからな。


 一目惚れだったんだと思う。あの日から、完全に俺は君から目が離せなくなった。そして、君と時を刻んでいくうちに、これが恋だって気づいたんだよ。


 それなのに、神様は非情で、君に人生のタイムリミットを決めた。その事実に絶望はしたものの、俺はできるだけ一緒に過ごしたい。そう願ったのに、俺にまでさらに短いタイムリミットを付けた。その時はさすがにへこたれたよ。物にあたり、親にあたり、何の希望もなくて、自殺まで考えた。


 そんな時に、君の顔が頭を過ぎったんだ。だから、俺は決めた。余命いっぱい彼女と居ようと。


 そんな執念深さが実を結んだのか、こうして今日まで生きてこれた。


 本当に、君には感謝している。そして、心から愛してる。


 願わくば、君と一緒に最後の時を過ごせれば、俺は





 そこで、文字は途切れていた。


 私は思わず彼の体を強く、強く抱き締めた。涙も止めどなく溢れ、感情の波が押し寄せる。


「私も、私も愛してる…………。君の笑顔も、低い声も、男らしい体も、優しい心も、全部大好きだった。ごめんね、わかってあげられなくて。ごめんね、先に逝かせてしまって。そして、本当に、ありがとう」







 ────彼女は死ぬその時まで、彼の体を離すことはなかった。縋るように、庇うように、包むようにして抱く彼女の姿は、何よりも美しく、儚かった。


 神は乗り越えられぬ試練を人間に与えない。そのような言葉があるが、彼らは乗り越えられたのだろうか。越えた先に、何か見い出せたのか。それは、神のみぞ───。いや、彼と彼女だけが、知っている。

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