貴婦人 ―あるカフェバーでの話―
冬野ゆな
貴婦人
私の行きつけのカフェバーで、週末の夜になると現れる客がいた。
その客は中年の男で、いつも酔っ払っていた。スーツはくたびれて薄汚れ、白髪の多い髪の毛はボサボサ。あまり外見に気を使わないタイプなのか、清潔さからはかけ離れている。
場末の小さな居酒屋にいるほうがずっと自然だ。
それだけでも異質だろう。
だが何より変わっているのは、この店自慢のパンケーキを注文するところだった。
この店はカフェ寄りで、アジアンテイスト漂う静かな雰囲気が心地よい。なかでもパンケーキは、近年の人気も手伝ってか、そこそこ注文がある。ただ、夜にもなると昼間のように常に作っているわけではないので、少し時間がかかる。
にも関わらず、その客はやってくると、ため息をつきながらパンケーキをつつくのだ。
酔い覚ましに甘いものか――私のなかではそれくらいの印象だった。
シメにおにぎりやラーメンを頼むのと同じで、彼にとってはパンケーキというだけの話。
見慣れてしまえば、よくいる客のひとりだ――外見はおいておくとしても。
そんな彼の話を、はじめて聞く機会があった。
私は店員に顔を覚えられるのが苦手なのだが、ここの店長とはよく話していた。
店長は不思議な話をよく知っていたし、それを聞くのが好きだった。どうもむかし、客同士で怪談をして以来、そういう話が集まるようになってしまったらしい。
ここで聞きかじったことは、私の執筆業の良いネタになっていた。
「店長、ワリカタって知ってる?」
いつものように、カウンター席でなんとなく話を振る。
「いいえ。存じ上げませんね。どのようなもので?」
「見た目は人と変わらない怪異なんだって。だけど、特定の意味と言葉を知らないっていうんです。変わってるでしょう?」
仕入れた話題を誰かに話したかったというのもある。
いくらか話をしていると、急に横から割り込んでくる声があった。
「ふん」
面白くなさそうな声だった。
声でも大きかったか、機嫌を損ねたかと反省しかけたが、男は予想外のことを言い出した。
「そんなのはただの都市伝説じゃないか」
男はひっくとしゃっくりをしながら言った。
アルコールで紅潮しながらパンケーキをつつくさまは、なんだかちぐはぐだ。
「マスター、そんな冗談みたいなモンより、俺の話を聞いてくれ」
これまたさらに予想外だった。私は無言で頷き、二人に場を譲った。
興味がわいたというのもある。
「ええ、よろしいですよ」
「そうかい。じゃあ酒を一杯くれよ。なんでもいい。こいつは俺がはじめて他人に話すハナシだ――」
店長が酒を選んで作り始めている間に、男はぽつぽつと話し始めた。
男は十数年前まで、かなりの大企業にいたのだという。
そういった分野に疎い私でも名前くらいは聞いたことがあったので、相当だろう。
大学からするりと巨大企業に入り、一年後には付き合っていた女性と結婚。
ミスコンで優勝するような美人の妻と、そんな妻に似た可愛い娘もできた。平凡ながらも絵に描いたような幸せな旅路。
就職氷河期と重なっていたにも関わらず、男の人生は順風満帆だった。
そんななか、彼が命じられたのが海外出張だった。海外事業にも力を入れていて、そのひとつがタイだった。
当時は近代化が爆発的に進み、様々な日本企業が進出していた。
ある程度英語が話せれば問題はない。宿泊も会社の寮が用意される。期間も半年から一年程度だというので、一も二もなく快諾した。唯一、妻と子供を置いて行かねばならないことは心残りだったが、海外出張は彼の出世街道の第一歩になるはずと信じていた。男はタイへと単身旅立った。
二週間もすれば向こうの生活にも慣れたが、寂しいことには違いない。毎晩送られてくる娘の写真に寂しさを埋めながら、昼間はそれを忘れるように仕事に没頭した。
そんなある日のこと。先にタイへ来ていた先輩から声をかけられた。
「来週末に秘境ツアーへ行くんだが、お前もどうだ」
「秘境ツアー……ですか?」
男はひとつ瞬いた。
「国立公園のなかの古い寺院だとか、ジャングルを巡ろうってやつだ。そこのコテージに一泊してお開き。ま、観光客相手の商売だな」
「はあ……」
「せっかく来てるんだから、たまには観光もいいもんだぜ。それに、色々見ておけば人生のプラスになる」
日本ほどではないが、日常は近代化されたビルの連なる中心街ばかり。仕事ばかりなら、たまには息抜きも必要だろう。タイらしい景色も見ておけば、土産話くらいにはなる。一泊だけというのもあって、男はツアーに参加することにした。
先輩に連れられていった先は、実に新鮮だった。
国立公園というからどんなものかと思えば、古くからのジャングルがそのまま保護されていた。むっとする湿気や、見たこともない植物。奥ではまだ原住民がかつての生活をしている集落もあると教えられ、驚いた。
象の背に乗る体験は、恐ろしさと高揚感に胸躍った。
背から降りると、今度はカヌーに乗って奇岩を見る旅へ。小さな滝の裏を通り、狭い洞窟の中を屈みながら進む。終わる頃にはすっかりへとへとになっていた。
宿泊先であるコテージも、思ったより快適だった。そのぶん雰囲気は抜群で、清潔さも備えていた。観光客用なのだろう。
食事が知っているものだったのもありがたい。
男はすっかり夢見心地で、床についた。
いい気分転換にはなったが、興奮もありなかなか寝付けない。
意識だけははっきりしていた。
――水でも飲もうか。
そう、体を起こしてふと外を見たときだった。
――えっ?
一瞬、見間違いかと思った。
草木の間に、女が一人立っていたのだ。
コテージ群には仄かにあかりがついているが、それでも外は暗い。こんな時間に一人で出歩いているなど危険だ。
――いったいどうして。
目が慣れてくるにつれ、男は驚愕に目を見開いた。
女は、巨大な草のような木に手を伸ばしていた。
頭の先端から何枚も垂れ下がる、長楕円形の葉の下。それに混じり、花とおぼしき巨大な蕾のようなものが、大地を突き刺さんばかりに垂れ下がっている。紫色に染まった突起は妙にグロテスクであり、エロティックなイメージを喚起する。もっと直接的にいうなら卑猥ですらあった。
女は、そんな花に手を伸ばしていたのだ。
だが、男はそれ以上に女の美しさに目を奪われた。
妖艶、艶麗、妖美――女を表す言葉は日本語でも足りなかった。
ごくりと喉が鳴る。
どこかで嗅いだような、熱帯性果実のとろけるような甘ったるい香り。
民族衣装に身を包んだ姿は艶めかしく、エキゾチックな雰囲気は官能的ですらある。久しく感じていない劣情さえ覚えたほどだ。
衣服から覗く肩、伸びた腕、妖しくしなやかな指先。胴体の優美な曲線から続く、蕩けるような腰。裾の中に隠されているであろう、柔らかな尻と太もも――なにより、少女のごとき悪戯っぽさときたら!
ぞくぞくと男の背中に冷や汗が流れた。
あまりの出来事に、現実感さえ奪われてしまったようだ。
視線に気が付いたのか、女がつと男のほうへ目を向けた。
一瞬の邂逅、ほんの少しの逢瀬。
視線が交わったあと、女はするりと夜のなかへ溶けていった。
だがそれで充分だった。
つまるところ、男は――、一瞬で心を奪われたのだ。
結局よく眠れることができず、男はあくびをしながら昨夜のことを思い返した。
「どうだ、ツアーも良いもんだろう」
「ええ、そう――ですね」
先輩には、そう答えるのがやっとだった。
もう一度女に会いたいという思いが渦巻いたのだ。
それ以来、男は憑かれたように女の影を追った。
週末になるごとにツアーに参加し、コテージに泊まっては女の姿を探した。
何度目かの参加で、とうとう月明かりの下で女を見つけた。紛れもなく現実だったのだ。あまりの美しさに絶句し、二人は無言のままだったが、確かに二人は通じ合っていたのだと男は言った。
その頃になると、昼間の男はますます腑抜けのようになった。
細かなミスを連発するようになり、それだけならいざ知らず、とうとう他人が何人もとっかかって尻拭いをしなければならない重大なミスまで犯した。
何度目かの注意のあと、ついに先輩が声をあげた。
「おまえ、最近おかしいぞ。何度もあのコテージに泊まってるみたいだし、何があったんだ」
最初は突っぱねていた男も、会社に迷惑がかかる、クビがかかると言われてしまっては白状せねばならなかった。
先輩は男の話をしばらく聞いたあと、男を連れてどこかへ向かった。
あれよあれよという間に、気が付いたときには、男はどこかの首長だか部族の主だかいう老人の前にいた。いままでのことを話すよう促され、先輩へしたのとまったく同じ話をした。
老人はゆっくりとうなずくと、男に言った。
「きみが懸想しているのは”貴婦人”だ。悪いことは言わない、彼女のことは忘れなさい」
「彼女のことを知っているんですか?」
男は身を乗り出した。
「きみは日本人で、妻子ある身なんだろう。それ以上に何を望むんだ」
「それは……」
「彼女を連れ出そうとすればきみ自身に悪いことが起きる。彼女のことは忘れるんだ、いいね」
だが、忠告が強ければ強いほど男は燃えた。
道ならぬ恋とは、あらゆる男の目を曇らせるらしい。
老人がまだ何か言っていたが、男の耳には届かなかった。
もしかするとあの老人は娘の親族かなにかで、隠しているのだ。あんなにも美しいのだ。無理もあるまい。もしくは何らかの理由で捕えられているのか。
男は、女と自分が通じ合っているのだと信じていた。
妄想と想像の区別は崩れはて、やがて現実の垣根を壊し、破綻した考えであっても、男の中では真実になった。
結局、男はコテージに行くのをやめなかった。
何度目かの宿泊のあと、その日に限って男はいつもと違う光景を目にした。
それはタイの寺院の修行僧といった服装の青年だった。
青年は女と何事かと話していて、ひどく親しげだった。それだけならばいざ知らず、女は青年へと贈り物をしているようだった。
途端に、男の心に怒りと嫉妬の念が湧き上がった。
冷静に考えれば、二人の関係を単に恋人同士だなどと判断するのは早計だ。特に相手は修行僧。僧侶に食べ物を恵むことで徳を積むという考えもあるし、単に兄弟ということもあろう。
だが男にとってみれば、女がほかの男に色目を使ったと言うに等しかった。
男は修行僧が去ってから、ずかずかと彼女の目の前へと歩み寄った。
文句のひとつも言ってやろうとした勢いは、彼女を目の前にすると唐突に萎んでしまった。
「きみ!」
代わりに、男は渇いた口で熱弁した。
この数ヶ月で覚えたタイ語に英語を交え、妄想と現実が入り混じりながら。
自分ならもっと素晴らしいものを見せられる。
もっと違う世界を見せられる。
きみはこんなところにいてはいけない。
そんなことを必死になって説いたように思う。
だが、女はやんわりと男を遠ざけるように言った。
「私はここを離れたくないわ」
「どうして! 僕が日本人だから?」
「あなたがどこの誰かなんてこと、関係ないわ」
「それなら、なんで!」
「私がここを離れたくないからよ」
無垢な瞳は妖精のようだった。
ヨーロッパのそれとは違う、しっかりと大地の土壌に根を張った精霊。
男はそんな彼女に魅せられるがままに、ぐいと腕をつかんでたぐり寄せた。女はあらという暇もなく、男に連れ去られた。二人は走り出し、暗いジャングルの中を進んだ。
このままどこへともなく連れていくのだ。
会社がなんだ。
妻がなんだ。
僕はこのまま彼女とどこへだって行く。
息を切らせ、月明かりの下を走る。
「私は行きたくないわ。離して、離してったら――」
女の声が聞こえる。わずかな抵抗を見せて腕を振り切ろうとするも、男はぐっと強くつかんで離さなかった。無視して走り続ける。
このままどこかへ行ってしまおう。
二人しかいない場所へ。
薄暗く、されど輝くような未来へ向かって――。
「愚か者が」
冷たく突き放すような声がした。
「え?」
急に腕の感触がなくなったかと思うと、男は突然暗闇の中に一人で立っていた。
「きみ、きみ!」
男は必死になって女を探したが、なんの手応えもなかった。
「私を連れ去ろうなど、思い上がりも甚だしい」
ふわりと甘い香りがした。
だがその甘さとはほど遠い、非難がましい口調だった。
男は名も知らぬ女を呼びながら、あちこちを彷徨い続けた。その間にどんな恐ろしいことがあったのか、頭からは当時の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまったらしい。
男は五日後、国立公園のジャングルでひとりでいるところを保護された。
衣服はぼろぼろで、今が昼なのか夜なのかわからなかったという。まだ黒くあふれていた髪はすっかり白くなっていた。
話は日本まで駆け巡り、療養という名の暇を言い渡された。実質上の戦力外通告であり、男は会社を辞めた。転職先を見つけるのも難しく、数ヶ月ほどだらだらと過ごしたある日、妻は娘を連れて出て行った。後から離婚届だけが郵便に入れられていて、必要事項を書いて送り返した。おそらく受理されているだろう。
それから日雇いやアルバイトで食いつないでいたが、あの出来事はついに忘れられなかった。今でもタイのあの空気を思い出しては、かなえられない恋心に身を焦がす。
特に彼女と同じ香りがすると、どうにも手を出さずにはいられないのだ。
男はそこまで言うと、パンケーキの最後のかけらを口にした。
「ここのパンケーキが、一番なあ――食ってると、パンケーキの奥で……あの女と、同じ香りがするんだ」
夢見心地のようだった。
男は店長が出した酒をぐいと飲み干すと、そのまま代金を払って出て行った。私はぽかんとしたまま、その背を見送ることしかできなかった。
「店長。今の話、どう思います?」
私はどうしても理解できなかった。
「わかりませんか? 草のような木というのですぐにわかりましたが」
「それはわかりますよ。物自体はどこにでもあるし、正しくは木みたいな草ですよね」
「うちのパンケーキにも、隠し味で入っているんです」
ちょっと笑いながら言う。絶対に隠し味ではないと思う。
とはいえ店のためにも――隠しておこう。あくまで、店のためだ。
だいたい、ちらと店の中を見れば、当然そこにも飾りのように置いてある。幾本も繋がった鮮やかな黄色が眩しい。
店長は、「聞いたことがあるんですがね」と前置きした。
「さきほどの”貴婦人”ですが――タイの伝承であるんですよ。件の木に住んでいる精霊だそうです。旅の修行僧には好意的で、人を傷つけることはしません。ですが、木から離されることを嫌い、ひとたびそうなれば元凶となった人間に罰を与えるとか……」
「本当にあるんですか?」
「ありますよ。そもそも、タイの文化や食事とは強く結びついている果実ですからね」
それもそうだ。私はうなずいた。
「でも、僕はもっと別のことが気になりますね」
店長は置きっぱなしになった食器を片付けながら言った。
「きっと同じ香りを求めていろいろ行っているんでしょう。だけど、ここで話したということは、やっぱりこの店には怪異譚が集まってしまうんでしょうかねえ」
店長はため息混じりだったが、どこか楽しそうでもあった。
私はしばらくそんな店長を見つめたあと――にやりと笑った。
貴婦人 ―あるカフェバーでの話― 冬野ゆな @unknown_winter
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