四面楚歌



四面楚歌という言葉がある。


紀元202年、いわゆる中国楚漢戦争時代に一応の決着をつけた垓下の戦いにおいて、敗軍の将項羽に対して劉邦が仕掛けた心理作戦から来る故事成語だ。


戦力として圧倒的な劉邦の軍は、項羽の軍勢を押しに押し、ついに最後の砦となる防塁にまで押し戻して、これを完全に包囲した。


単純な兵力差はおよそ20万対800と言われている。一気に攻めかかればあるいは、数の絶対的有利は揺らぐはずもなく、簡単とは言わずとも攻め滅ぼせたはずだったが、劉邦は力押しをせず、項羽の側の最後の抵抗の意思をも削ぐ目的で、


項羽の故郷である楚の歌を、自らの率いる軍勢に命じて大声で歌わせた。


四方から所領の歌が、それもかなりの数をもって聞こえてくる状況に項羽は、劉邦のもくろみ通りというのか………既に楚までもが敵の手に落ちたかと落胆し、この戦争の完全な敗北を知る。


もはや周囲に味方なし……と悟った項羽はその晩、妻や愛馬、従者たちとの別れの席を持ったという。その出来事をして、以来、周りが敵だらけである様、味方ですら敵に回ってしまう様子を、


『四面楚歌』というようになった。




……野球観戦部は、土井垣学園において今、まさに四面楚歌の状況にあった。


原因は無論、件の準決勝での騒動にある。結論から言えば、魚崎という女は弱いものイジメのプロだった。


帰校即日起訴の手際は見事と言わざるを得ないほどのものだった。あるいは以前から周到に用意されていたのかもしれないが、電光石火の早業、俺達や準当事者ともいえる野球部の手が回らないうちに部活法廷開廷に必要な全ての手続きを済ませ、その日程をも完璧にコントロールした。起訴からわずか五日後、というのは史上類を見ないほどに早いらしく、そこには相手となる野球観戦部に反撃の準備をさせる余裕を与えない意図が見えた。実際、俺達はそのあまりの早さに対応するのが一杯一杯で、実質三日間で自らを擁護するための証人や証拠を用意する暇はほとんどなく。正直、彼女に見事に翻弄されたことになる。


だが、こちらの段取りがスムーズに進まなかった理由はそればかりではなかった。魚崎は………背後で泣きわめいていた取り巻き十数人、そして野次馬根性で集まった男子生徒達を煽りに煽り、野球観戦部についてあることないこと、冷徹にして極悪非道、道徳感情に欠けるクズの集まりとの悪評を触れ回り、土井垣学園を完全に『反野球観戦部』の集団に作り替えた。


それはインフルエンザウイルスの流行とよく似ていて、とにかく回るのは早く、気づいた頃には手の出しようがない状態になっていて。


例え誰か一人に弁明したところで学校全体に分布した感染者の一人でしかなく、根本的な解決にはならず。だいたい、話を聞いてくれる人間などは、野球部しか存在しなかった。大半がスポーツ推薦で入部している野球部員たちはそもそもからクラスが違うので他部員と関わる機会自体がそもそも少ない。彼らは唯一といっていい理解者だったが、それが全体に何らかの影響を与えることはなかった。


人間汚く恐ろしいもので、自分より立場の弱い、自分主観での『悪者』が沼で溺れていたら、ロープを投げるのではなく石を投げて追い討ちをかけるもの。大衆に流されがちな日本人はことに、周囲がそれで盛り上がっていれば、もはや自分の行動に疑問を持つことすらしないのである。



廊下を歩けば生卵を投げつけられるほど、野球観戦部の……俺、春日野道、西九条の立場は、恐ろしいまでに窮屈になってしまっていた。全体主義の恐ろしいところというのか、メディアリテラシーに恐ろしく欠如しているというのか。


ひとつ、周囲が噂を立て、それを真実と思い込んだ群衆はもはやそれを疑わず、あるべき疑問点をことごとく抹殺して、自分を正義の一部と仮定するのである。



四日目には俺達は登校を差し控えるように教頭に指示された。野球観戦部員の身を案じてのことか、あるいは流言蜚語の部類を彼も信じたのか。説明はなかったが、


ただ一つ言えることは、かの教頭こそが、バームクーヘンを食えへん部の必死のスピーチに耳も傾けず、第一印象だけで一点を叩きつけた、その本人であったということだけだ。



そんなことで、気づいたら今回の法廷は、学校全体の関心事となっていた。無論、望まれたのは野蛮で非道な野球観戦部の完膚なきまでの敗北、廃部。得たいものは、学校全体で悪者を裁いたのだという、達成感と正義感と見て相違なかった。


味方を探す足に枷を嵌められ、反論するための口に猿轡を食わせられ、抵抗するための手を後ろに縛られ。



まるで刑場に連行される在任のような格好で、俺達は部活法廷の日を迎えることになる。勘違いしないでほしいのは、そんな状況下にあっても、俺達自身は自らを魚崎主張するところの『冷徹で道徳感情に欠ける連中』であるとは思っていない。罵詈雑言を浴びせたこと自体は悪かった事として認めざるを得ないとしても、そこに至るまでの経緯を思えばむしろ被害者として出廷すべき立場であるとすら考えているものだった。


ただ……状況の圧倒的不利も、目を反らしがたい事実であったということだ。



校内の混乱を避けるため、俺達はその日も、放課後に登校し、別室で待機することになっていた。いつもなら部活のあと別れる場所であるバス停に、時間を示し合わせて集まり、三人で固まって登校する。別室は皮肉にも音楽準備室だった。


いつもなら中から暗号を求めてくる西九条も、今日は隣。鍵も開いていて、何やらそれだけでやるせない気持ちに襲われたところ。


足取りも重く入室すると、そこには顧問、香櫨園克美の姿があった。俺たちが入っていくなり座っていた椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、駆け寄ってきて、強引にまとめて抱き寄せ、一言「すまなかった」と呟いた。


おそらく学校全体が敵に回る事態になるまでなにもしてやれなかったと悔いているのだろうということは容易に想像がついたが、


当の俺達にそんな意識は汁ほどもなく、逆に何を謝る必要があるのかと西九条などは困惑しているようだった。かなり顔が近いなかで、俺と目を合わせにきたのがその証明だった。



「な、何を謝ることがあるねんな……先生。悪いのはウチらやし、ウチらも悪くないし、


先生が色々やってくれたんは、知ってるんやで」



突然の抱擁に動揺し、しかし張り詰めていた心がフッと緩んだか半泣きになりながら春日野道がそう言う。


香櫨園が色々やってくれた、というのはまるっと事実だった。件の日、学校に戻った俺達は、ホームルームが終わるとすぐに彼女のもとへことの次第の説明と、そしてこのような事態を招いてしまったことを詫びに行った。


言ってみれば香櫨園が全力で有利な状況を作り出そうとしてくれている最中で起こしてしまった騒動であって、その努力を無に帰すような状況になりつつあることはもはや、その時点で………魚崎の発言からして間違いがなく。ともすれば彼女に対する裏切りにすらなり得る行為だという自覚があった。


失望されてもおかしくない。面倒見きれんと言われても何も言えない。そんな気持ちでもって頭を下げたところ、彼女は「何を謝る必要がある?」と逆に問うてきて、次いでこんなことを言ってきた。



「諸君は自分の意思で尊厳を守ったのだ。


教師が……いや、顧問がしてやるべきことは、その選択を後悔させてやらないことなんだよ。」



以降、後は任せておけ、と言い残して教師の海へと消えていった彼女が、この四日間何をしていたのか、正確にはわからない。だが、噂(当然野球観戦部を悪者としたものだが)によると、野球観戦部がこれまでに重音部にされてきた仕打ちや、魚崎の主張の矛盾などを関係各位の教師達に一人づつ丁寧に説明して回り、時には頭を下げ、歩き回ることに労を惜しまず、徐々に教師間での野球観戦部への支持層を広げていくための努力をしていた、とのことだった。


魚崎の側には、一つだけ致命的な点がある。その不真面目さから、顧問の今津に見放されているということだった。すなわち、教師側に味方を作ることが難しい。連中の味方をしそうな教師は、現時点では魚崎の生徒会での活動、『表の顔』をやたら高く評価している教頭とその他重役クラス数名に留まっていた。香櫨園が出来る限りの事をやったのは、事実としてまず間違いないものだった。


………が、それゆえに、生徒の間に回った流言蜚語の類いをどうにかできるかといえば、そんなことができたはずもなく、また、その拡散のスピードも彼女の想像を遥かに越えており。登校差し控えの決定にしても、相手が教頭では非常勤の香櫨園ではあまりにも分が悪かった。職を賭してそれを取り下げるように談判することも考えたそうだったが、それで退職してしまっては本番で助けられない、と考えてやむを得ず踏みとどまったそうだ。これは……本人が俺たちへの謝罪の最中に話してくれたことだった。



香櫨園がその力不足を嘆き、詫びたのは結局そういう部分に自分の不甲斐なさを感じたゆえなのだろう。だが、俺達にしてみればそこまでやってくれただけで十二分に過ぎることだった。むしろ、やはり事をこんなタイミングで起こしてしまったことを、逆に何度でも謝りたいくらいの気持ちであった。



「謝らないでください。俺達、勝つつもりですから。」



さて、西九条と春日野道が俺と同じような意思を抱いていたかは甚だ怪しい。勝てないかもしれない、と考える心がどこかにあったかもしれないが、少なくとも俺は、オヤジとの話の中で意地でも勝つという気持ちを固めていたので、それが断言できた。それまで香櫨園との会話は曖昧で天の邪鬼なやり取りでしかなかったが、今日という日だけは確固たる意思を持ってそれを伝えることができた。


香櫨園自身も、いつもとは違う雰囲気に気づいてくれたようで、悲哀を含みながらも少し笑って「君がそう言うなら、そうなのだろう。」と言って抱き寄せていた手を離した。そして、ぐっと言葉をつまらせたように終始なにも言わなかった西九条の頬をぐにぐにとやって今度はいとおしそうに、優しそうに笑うと、


さっきまでの通夜のような雰囲気が嘘であるかのように大声で、




「だが、君たちがそうまで心を病む必要はないぞ。


校内は敵だらけだが、案ずることはない。あたしも君たち同様卵を投げつけられることもあったがその日の晩酌のツマミ代が浮いて助かったというものだ。人の金で食う卵焼きほど旨いものはないからな。


諸君には、この香櫨園克美がついている。大船に乗ったつもりでいてくれて構わない。


絶対に、例え地球が天地逆になろうとも、君たちの活動は継続させてみせる。


西九条、出屋敷、春日野道。君たちは既に自分のやるべき事を果たした。野球観戦部員としてのプライドを守って、自分を確かに持ち続けた。十分だ。


後は大人の出番だ。あたしに任せたまえ。この音楽準備室も、野球観戦部も、


絶対に君たちから奪わせはしない。約束する。」



現状でもってそう断言されても、正直気休め……というか励ましにしかならないように思えた。状況が厳しいどころの話ではないのは先刻承知だったし、絶対勝つとは口では言ったが勝てる見込み自体は薄口醤油を水で希釈した以上に薄いもので。俺の「絶対勝つ」にしろ、彼女の「絶対に奪わせはしない」にしろ、それくらいの決意、以上の意味はないものなのだと考えざるを得なかった。それでも、彼女の気持ち自体が嬉しくないはずもなく、俺も西九条も、半泣きの春日野道もしっかと頷いたものだった。


香櫨園は………嬉しそうに笑っていた。




ーーー校内の関心があまりにも集中したことを考慮して、開廷は部活動の平均終了時間、午後7時とされていた。魚崎は学校全体の支持を物理的な力にするためにこれを午後4時、つまり全校生徒が傍聴可能な時間帯に、完全公開で行うようにするつもりであったらしいが、これは教師側の反対意見多数で見送られたようだった。早くも、香櫨園の努力はこの時点で実を結んでいたといえる。


顧問の香櫨園も含めた俺達、野球観戦部は、それまでの時間をミーティングに当てることにした。すなわち、勝利条件と敗北条件の確認、そして自分達にいかに勝利を呼び込むかという方針の確定である。


部活法廷は、被告側と原告側のディベート形式によって行われる。原告側の訴えを『主題』として定め、それが『求刑』に値するかどうかを陪審員ーーー教師代表、生徒会、部活代表の各一名が、判断していくという形である。


判決は最後、『求刑』に対して『可』か『否』かをそれぞれ示し、その多数決によって決まる。要するに、実刑か無罪か、その両極端な判断しか下されないということだ。希に中間的な判断を下されることも無いことは無いらしいが………過去さほど事例も多くない上に、魚崎が生徒会長になってからは一度もない。どころか、勝訴率が前任に比べて著しく上がっているなど、それだけで疑問符のつくところはいくつも存在した。だが、そういう制度で成り立ってきた以上、安易に変更もされないらしい。


そもそも目的が半分『部活動の淘汰』であるから………三権分立などあったものではないのだろう。


で、今回の法廷の『主題』であるが。姫島……実質魚崎の手下である彼女は、


『野球観戦部による暴言、及び野球観戦の有り様における価値観の押し付け、部の活動内容に対する疑問点』としてきた。


暴言、とは魚崎に対して………相手方は姫島に対するもの、としているが、俺も含めた野球観戦部三人が彼女に対して最後に放ったものである。


相手側の主張では、俺が「お前ごときのそれと一緒にするな」、西九条が「バカにするのも大概にしなさい」、春日野道が「晩飯三食キュウリにしてから言えど阿呆う」であったとされている。これらすべてが暴言に値し、部間規則に定められた「他部員を貶めるなかれ」に引っ掛かるというのだ。春日野道が重音部を抜けるときに西九条が引用していた、アレだ。


言った言ってないの話で言えば、おそらく言った。それはこちらも認めざるを得ない。故に、論点は「その暴言に情状酌量の余地が認められるか」ということだった。


正直、ひとつめから非常に厳しいものになることが予想された。判決は無罪と有罪の両極端。つまるところ、『野球観戦部は暴言を吐いても仕方なかった』という状況を認めさせる必要があるということなのである。これは、完全無罪を求めるということとほぼ等しかった。


見込みは無くはない。重音部のこれまでの非道は確かなもので、それを反撃に値するものと認めさせればそれでいいのだから。


まともな目で見てもらえれば、それが我慢できるものかどうかは一目瞭然といっていい。つまるところ、教師代表、部活代表、生徒会代表からまともな人間が選抜されれば、その目があるということだった。他の議題に関しても言えることだが、この代表選抜の抽選は非常に大きな意味を持つ。


二つ目は『価値観の押し付け』。つまり、泣いた泣かないの話である。西九条が姫島に言い放った『泣く理由がわからない』という発言が、侮辱にあたるかあたらないかという話である。


野球観戦部としては、その主張の正当性を証明する必要があった。いや、証明という言葉は的確ではない。つまり……ディベートで相手を打ち負かせるかという単純な話だった。


そして、それらを総括したのが三つ目。そういう問題行動(相手主観)を起こす部活が、そもそも存続に値するかという話である。


これこそもういいあいで有利不利で決着をつけるものでしかなかった。存続に値すると思わせれば勝ち、疑問を呈されれば負け。読んで字のごとく、である。



戦いとして、たいがい厳しいものになろうことは間違いなかった。何せ、三つの議題でそれぞれ勝利を納めなければならないのである。一つとして落とせない戦い、皮肉な話だがまるで野球部の地方大会のようである。



さて、これらを……どう捌いていくのか。香櫨園は、序盤で徹底的に重音部の非道を叩く、という方針を打ち出した。


今回、原告側は『姫島他数人の女子生徒』ということになっており、本来なら『重音部』を本題に引き出すことは認められるものではない。法廷中、本題からかけ離れた話題であることを陪審員が確かな理由をもって認めれば、その発言を取り消させることも可能である。


ゆえに、仮に無理に出してきたとしたって………おそらくは生徒会がその主張を法廷中の発言として認めない、却下される可能性は極めて大であった。


なぜならば、生徒会代表には魚崎が出廷することが、濃厚だったからである。


本来なら、当事者は(当然ながら)陪審員として出廷することはできない。が、今回は姫島個人の訴え、ということになるので『重音部』は当事者ではなく。ゆえに、魚崎は陪審員である権利を失っていなかった。昨期、金属探知機愛好会が潰されたのもこの手法によるものだったという。


いわば、原告と陪審員が繋がっているという状況が可能であるということになる。そんな中、却下するに十分な理由のある発言をこっちがしたとしたら、魚崎がそれを取り下げさせないわけがない。さすがに俺は香櫨園に尋ねた。そんな状況で重音部を引き合いに出すことが可能なのかと。



香櫨園は自信満々に答えた。


「任せておけ」と。


その理由はついぞ話さなかったが、彼女には既に何かしら腹案があるらしい。彼女の話は総じて、魚崎が陪審員として出廷していないことを前提としているかのようなものばかりであった。


今さらだが、香櫨園はバカではない。不安要素から目を反らして都合のいいことばかりを考え策を立てる、皮算用で物を考える愚か者ではない。法廷で勝利を得るにあたって、最大の障壁となるであろう魚崎の存在を忘れるとは、到底考えがたかった。


つまり、彼女には何か、魚崎を陪審員から弾くための策がある、ということなのだろう。



もし、重音部を引き合いに出して、それを徹底的にこちらが糾弾できるのであれば、戦いはおそらくかなり優位に運べる。証言さえできて、それが認められるのであれば、ことの起こりでどちらに否があったかは一目瞭然だからだ。


香櫨園が、それを可能だと言っている。俺は、曇天に光が射すがごとく、勝利に向け更なる希望を抱かずにはいられなかった。それができるのならば、ひょっとすれば………問題は本来こちらがそう持ち込もうとしていた形である、『野球観戦部』対『重音部』の構図になって、三番目の議論を必要としなくなる可能性まであったからだ。


春日野道は香櫨園のあまりの自信に疑問を持ったか今一つピンと来ないようだったが、西九条の表情は徐々に良い血色になりつつあった。たぶん、あちらのいやがらせに関して証言できる機会があるなら絶対に容赦はしないという気持ちがあるのだろう。


どこかで見たような気合いの入りかただな、と思ったら読買戦を見ているときのそれだった。意地でも倒したい宿敵を睨むのと同じ目、つまるところ彼女は、ようやくその闘志を戦いに必要なレベルで燃やし始めた、ということである。



開廷10分前になって、俺達は音楽準備室を出て生徒会議室へと向かった。若干、名残惜しそうにする春日野道に、香櫨園は「大丈夫、必ず帰ってこれるから」とこれまた堂々と言い放った。その出所が一体どこにあるのかと疑問符をつけたくなるほど、今日の香櫨園には絶対の自信があるようで。


訳は今一つわからないものの、そこまで確信のこもった態度を見せつけられては、あえてそれに疑問を持つことすらバカらしく感じられるようになり、


次第、根拠はなにもないはずなのに、本当に勝利が確定しているかのような気分、満々たる自信が、俺の中にも沸いてきた。それは、春日野道も、そして西九条も同じだったらしく。


春日野道は、迷いを振り払うように、一度閉めたドアを全力で開け放った。そして、


「二時間後に帰ってくるところに鍵なんかかけんでええ!」


と、校内中に響き渡らせるかのごとく、吠えた。


香櫨園がうんうん、と満足そうに頷く。やや沈滞気味だった春日野道の顔に、完全に生気が戻った。自分が奮い立つために十分な勇気が、香櫨園の謎の大いなる自信に由ってその身に宿ったようだった。


そして、もう一人。西九条は。




「………聞いてほしいことがあるの。」




会議室へ向かって猛然と歩き始めた、俺、春日野道、香櫨園の足を掴んで止めるように、


出会ったときと同じ、か細く小さな、しかし芯の通ったきれいな声で、そう呼び掛けてきた。


少し気勢を削がれたように、しかし一も二もなく、俺達は後ろを振り返った。西九条は、音楽準備室のドアの前から一歩も足を進めてはいなかった。


俺達は、示し合わせた訳でもないのに、無言で彼女の言葉を待つ。


彼女は、目線を合わせず、だが言葉ひとつに物理的な手応えすら感じそうなほどの重さを乗せて、


徐に語り始めた。



「今、こんなことを言うのは……あまりよくないことなのかもしれないけれど。


だけど、今でないと言えないことだと思うから、言うわ。



私は………少し前まで、もう野球観戦部なんてどうなってもいいって、心の中で思っていた。」



それを、額面通りに受けとる者は、俺も含めたこの三人の中にはいなかった。それが証拠に、ともすればすべてが瓦解してしまう危険もはらんだ言葉であるにも関わらず、春日野道も、香櫨園も、そして俺自身も、


全くもって動揺せず、声のひとつもあげはしなかった。


むしろ……なぜかはわからないが、最初からそのあとに続く言葉を知っているかのような、そんな既知感すら、俺の中にはあった。白衣のポケットに手を突っ込み微かに微笑む香櫨園も、背筋を正して彼女の言葉を待ち構える春日野道にしても、おそらく、同じようであったのではないだろうかと思う。


西九条は、続けた。



「どういう気持ちで……部活を作ろうと思ったのか、忘れてしまったの。


………思い出せなくなった。何かを望んで、この学校に来て、この部を立ち上げて。


必死だった。自分でもよくわからないくらい躍起になって、そういう空間を……野球を誰かと一緒に見て、研究していく場所を作りたくて………出来てからは守りたくて、ここまでやって来た。


何か、使命感のようなものがあったの。ずっと、その出所がわからなかった。絶対に作りたかったし、守りたいと思った。けれど、それがどうしてなのか………」



西九条は、思い詰めたように押し黙った。が、俺たちもまた、なにも言わない。


時計の針は一秒につき一度音を鳴らし、ひと目盛りずつ動いているはずなのに、


この空間に限っては、まるで時間ごとすべてが固まったかのように、何もかもが止まっているように感じられた。西九条の下向きの視線、春日野道の呼吸、香櫨園の微笑、俺の心臓の鼓動。そんなものまでが全部、静止しているかのようだった。


俺たちの間でだけ、動かなくなった時計。


それ再び動かすのは、


いうまでもなく西九条真訪の役目だった。



彼女は、顔を上げる。いつか見せてくれた、緩やかに流れる夜風をそのまま顔に載せたような優しい表情で、


俺達三人に向かって、はっきりと、こんなことを言った。



「香櫨園先生に誘われて、出屋敷がやって来て。春日野道さんが重音部を辞めてまで入ってくれて。


この四人で、野球を観て。野球を、語り合って。


ようやく、それが何故なのか、わかったの。



私が欲しかったもの、それが何もので……私が守りたいもの、それが何ものであるのか……ようやく。


だから、一瞬、部活なんてどうでもよくなった。



………こんな青臭い言葉、恥ずかしいから二度と言わないけれど。


本当に大切なもの……いえ、これから大切にしていきたいと思うものが何なのか、


わかったから。」



………それが何であるのか、尋ねるような野暮はしない。俺達にはそれが何を指しているのか、よくわかっている。オヤジですら………タイヨウですらわかったことだ。それより近くにいる俺達にわからないはずがない。春日野道も、香櫨園も、俺も。あの日、甲子園口で彼女の告白を聞いたときから………それが守りたかった。それを、これからも続けていきたいと思っている。


つまるところ。


俺も含めたここの全員、同じ想いを抱えている、ということ。


西九条が守りたいものは皆、守りたいものだし、


西九条が続けていきたいものは皆、続けていきたいもの。



それを思えば『野球観戦部』などというものは、せいぜい器でしかなく。さほど、重要なものではないのかもしれない。無くなってしまったって、かまわないものなのかもしれない。


けれど。けれど、それはーーー




「けれどそれは………私が、本当に守りたいと思ったそれを繋いでくれたのは、やっぱり、紛れもなく……この部なの。


まだ、役目を終えたというには早すぎる。私と……あなた達のために、必要なものだと、今はそう思うの。


二日間、学校にこれなくなって、その間に気づかされた。部活動であなたたちと、顔を見合わせなくなる期間があって、ようやく気づいた。



私達の『契機』になった場所を、


失ってはいけないんだって。」




彼女の心に生まれた、爛れるような熱情を感じずにはいられない。まるで直にそれに触れているかのよう。


そう、そうだ。


やはり、守らなければいけない。音楽準備室で出会い、そう長くはないがしかし凝縮された時間、それを失うことは良いことではない。


例えこの先『大切なもの』が続いていく確証があったとしても、ここでそれを生み出したものを簡単に諦めてしまうようでは、それを最後まで守り抜く事は……できないと思う。


オヤジの言葉を思い返す。



『渾身のフォークあってこその、あのストレート』



今は、フォークを投げて見せる場面だ。その先に、敵が頭を抱えてしまうほどのストレートを投げるために。


俺たち自身を、先へと導くために。



「………おいそれと失うわけないだろ」



俺は、まるでさっきの時間の停止が嘘であるかのようにあっさりと動きだし、早足で西九条の前まで行って、そう言った。身長差で、西九条が俺を見上げるため少し顔を上げる。


俺は、親指で廊下の向こう……生徒会議室へと向かう方角を指さして、おそらく彼女が求めているのであろう台詞を、渡してやった。



「俺も、俺たちも、野球観戦部を大切に思ってる。


だから、行こう。


俺たちの場所を、守りに。」




西九条は確りと頷いた。俺も頷き返し、そしてほんの少し離れてこちらのようすを伺っていた香櫨園と春日野道に、合流する。



彼女たちも、非常に満足そうであった。これだ、と思う。


この一体感が四六時中欲しくて、そう簡単に手に入る代物でないことに気づいて。だからこそ行くのだ。


やはり、野球観戦部を守るために。野球観戦部を、続けていくために。




四人で歩く廊下は夏にしてはひんやりとして冷たかったが、体から漏れだしそうなほどの熱情を、それが冷やすことはない。


九回ツーアウトランナーなしから逆転勝ちを決めたチームなどは星の数ほどいるが、


俺は……俺もそのチームのひとつに『野球観戦部』の名前が刻まれることを望みつつ、


完全アウェーのバッターボックスへと、その歩みを進めていった。



時計の針はもうすぐ七時を指そうとしていた。


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