父と暮らせば
「浮かねぇ顔してるな、息子」
わかるものなのか、と俺は思った。
さすがに父親というのか、出張多しとはいえ16年間顔付き合わして生活してきていればそれくらいの事はわかられてしまうのか。
飲みかけの味噌汁のお椀に半分隠れた顔が、じっとこちらを見据えている。食卓を挟んで居間に二人。俺は、箸とお椀をテーブルに置いてこう答えた。
「わかるものなんだな」
「馬鹿野郎、俺が何年プロ野球選手やってると思ってんだ。表情から相手の感情読み取るなんざ、年がら年中やってることだ。」
精神のスポーツ、野球において、相手の一挙一動は全て貴重な情報。眉一つの動きにしたってヒントが隠されていて、それが勝負の分かれ目になることはまま、珍しくない。
心の読みあいの世界に長年身を投じてきたオヤジにとって、俺程度の若輩者の落胆を察し、感じとることには欠片ほどの苦も存在しなかった事だろう。
図星、と言う他なかった。実際俺は、気落ちしていたのだ。
「野球観戦部は潰れるかもしれない。」
俺は、真っ直ぐオヤジを見据えてそう言った。オヤジは、無言でご飯を掻き込んだ。
ーーー件の準決勝から、早くも二日が経つ。状況は、想像していたよりも遥かに悪い方向に進みつつあった。
魚崎は、生徒会長という役職の持ちうる権限の全てを使って、部活法廷即日起訴という早業を仕掛けてきた。
被告人は野球観戦部。起訴内容は、部活道中における他生徒への暴言。求刑は、当然『廃部』。
土井垣学園は、部活を作り易いことで有名だが、しかしその実無くなる部活も相当数ある。作りやすければ当然、数も増えるわけであって、多いだけなら歓迎のスタンスを取る学校も、その数があまりにも多くなりすると管理の手が回らなくなるので、一定数を淘汰する必要にかられる。
その効率化の意味も含めて、部活動の在るべき姿を定める部間規則は厳しく、そしてそれを破ることによるペナルティーは、重い。小規模な部活、創部したてなどの理由で立場の弱い部活には、それは殊更に厳しく働く。口べらしの格好の対象であるからだ。
創部したての野球観戦部は当然、その対象だった。もしこれが野球部であれば、いきなり廃部なんて処分が求刑されることはなかっただろうし、されたとしても認められる事はなかっただろう。だが、本活動を認められて数日しか経っていない野球観戦部は、その規模も実績もほぼゼロに等しく。
故に、その起訴内容はいとも簡単に受諾された。もちろん西九条も俺も春日野道も異議を唱えたが、そもそも開廷の権限を持つのが生徒会であることから、当然それが認められることはなかった。
くわえてまずいことは、原告側の名義が『重音部』ではなく『姫島』になっていたことだった。つまり、これは部と部の間の紛争ではなく、個人と部の間で起きたいざこざであると見なされたのだ。要するに、野球観戦部としては完全に罪を問われるだけであって、件の事件のそもそもの原因である重音部を『相手』として戦うことができなくなった。
つまるところ、酌量を求めるにも無罪を求めるにも、重音部そのものを引き合いに出すことが非常に難しくなったということだった。
一応、立場的に弱いものを庇うように作られている部間規則は、組織たる部活動よりも個人たる生徒の法律的立場を強めに捉えている。
過去、個人対部活の法廷が開かれたとき、部活側の敗訴の確率は95%近くに上るという。
前例から鑑みるに、野球観戦部が自らの主張を通し、姫島の訴えを退け、部としての活動を学校で継続できる確率は、
現時点においては、恐ろしいほど低いと言わざるを得なくなっていた。
「………。
どうにかするんだろ?」
「もちろんそのつもりだが……状況が悪すぎる。
………勝てないかもしれない。」
「勝ち負けがあるってこたぁ、相手がいるってぇ訳か。どれ、俺の得意分野じゃねぇか。話してみろ。たぶん、損はねぇぞ。」
「…………。」
正直、藁にもすがりたい心境だった俺は、今日に至るまでの経緯を洗いざらい全て話した。重音部の嫌がらせに始まって、自分達が暴言を吐くまで、その間に起こったことの全てを。
正直、自分で思い返しても要領が悪かったと思う部分はあって、それは息子としてはあまり話したくはないものであったが。それも、包み隠さず話した。
それで何か、野球観戦部を救うための知恵が授かれる可能性があるのなら、恥をしのんででもそれにすがりたいところだった。
オヤジは………腕組みして、黙ってそれを聞いていた。少々恥ずかしく思えるだろう息子の幼さにも、顔をしかめることなく無言を貫いていた。
大方全てを話終わって、ひと息ついた俺がすっかり冷めきってしまった味噌汁に手をかけたとき、
オヤジはその大柄な体をぐっと起こしてテーブルに肘をついて「そうか」と一言呟くと、組んだ掌に顔を沈めた。時計の針は短針長針とも12の文字を指し、日付が変わろうとしていた。
「なぁ、進次郎。」
「うん?」
「考えたくもねぇだろうが、もし野球観戦部がこのままつぶれたら、お前、どうするつもりなんだ。
西九条ちゃんや、真っ赤な頭の春日野道ちゃんとは、それでお別れ決め込むつもりなのか。それとも………」
「このまま西九条をほっとくわけには、どのみちいかないよ。春日野道さんも、同じ想いのはずだと思う。」
具体的にその後、どうするかなんて事は現時点では考えてはいない。だが、西九条という人間がなぜ野球観戦部を作ったか、その意味を知った今となっては、このまま彼女を孤独の海に戻す気にはなれない。それは哀れみではなく、一度トラキチとしての彼女を受け入れることを是とした人間の責務だと思っていた。野球観戦部が消えたとしても、野球観戦部員としての出屋敷進次郎がそれと同時に消滅することはなかろうし。
春日野道も同じような想いだろうと、それに関しては確信がある。
当たり前の話だが……入部したての頃とは、何もかもが変わってしまっているのだ。
「部費が下りなくたって、どこにでも野球はあるから、それを観に行けばいい。具体的な事は考えてないけど、やってみればどうにかなると思ってる。
………三人で野球を観るのは、楽しいんだ。」
オヤジは口許をふ、と緩めた。俺はどうにも小恥ずかしくなって視線をテーブルに落とした。オヤジは、口にかかった指のせいで少しくぐもった声で、こんなことを語り始めた。
「昔の偉い人は良いことを言ってる。
人間、学びたい気持ちさえありゃあどこでも学べるってな。例えそれが、便所の中だったとしても、だ。」
「…………。」
「幸い兵庫県に住んでるんだ。レギュラーシーズンならチャンネル回せばどこらかしこで阪神戦なんかやってるだろうし、うちには専用チャンネルも引いてある。いつでも使えばいい。
前に、西九条ちゃんがああいう部活を作った意味を考えてやれ、てなこと言ったな。お前はたぶん、八割がた理解してらぁ。あれは、きっかけだよ。お前らに出会うためのな。もちろん、部活としてやっていけんならそれに越したことはねぇが、お前らの活動はそれがなくちゃできないてぇもんでもねぇ。
三人が揃った時点で、もう十分だったんだろ。あとは……ちょっとした環境の違いだ。どこでやろうが、お前らはお前らで、野球は野球だ。そうだろう。」
言うとおりだ、と思った。無論、部活動として存立し続けることは大切だ。経済的、スケジュール的な問題はもとより、やはり学生として学校で活動をすることには、それなりの意義がある。その時にしかできないことをやっている、という、実感というのか。ちっぽけなようで、意外と大切なものだ。
だが、それがなくなったからといって、この先活動ができなくなるほどの影響を被ることがあるのかといえば、その限りではないだろう。三月になればプロ野球は始まり、十月には決着がつく。長い冬にもどこかで野球はプレーされていて、白球は空を飛び交う。
基本的に、野球の試合以外に必要なもののない俺達の活動は、部がなくなったとしても阻害されることはない。やろうと思えば、どうにでもなるものなのだ。
「わかるよ。わかる。」
「だろうともよ。」
「もちろん、部はあった方がいいけど……」
「まぁ、当然だわな。」
オヤジは、体を起こして再び腕をがっぷりと組んで椅子にもたれ掛かる。「それはそうだ」と呟いたあと、少し黙ってからこんなことを言った。
「藤掛兆治を知ってるだろう?」
俺は頷いた。藤掛兆治は阪神カイザースのクローザーで、オヤジ、ウィルキンソンと共にWTCと呼ばれる最強のリリーフ陣を形成している。『三日前から振りださないと打てない』とまで言われた豪速球、火の玉ストレートを武器に三振の山を築く、今や球界1の抑え投手とも言われる選手だった。
「ありゃあ、本当に凄いピッチャーだ。俺のような凡庸な人間が語るも烏滸がましいくらいにな。数年もすれば、球史に名を残すくらいの名選手になることだろうよ。」
「…………。」
「そんな藤掛だがな。ある時………あれは一昨年かな。ブレイクしはじめの頃だ。ストレート強しの印象を与え始めた矢先の事だったか。
ある選手に対して、二死満塁フルカウントからフォークボールで三振を取った。まあ、当然ちゃあ当然の選択だわな。バットの上を通るようなキレのあるストレートを投げれんだ、そこに変化球混ぜればまぁまず打たれることはない。ましてや、満塁フルカウントで相手はストレート待ちだろう。フォアボール覚悟で変化球を投げるのは、考え方として当たり前だった。
だが、この時に討ち取られたバッターがな。試合のあと、あの場面でストレートが投げられないようなピッチャーは男じゃないと……まぁ、今のはだいぶオブラートな言い方だが、とにかくそういう趣旨の事を言ったんだ。」
「………完全にいちゃもんじゃないか」
「ああその通りだ。言いがかり以上のなんでもねぇ。俺はストレートしか打てませんと言っているようなもんでな。正直俺も、そいつがどんな神経でそんなことが言えたもんなのか、不思議で仕方なかったんだが。
その時俺は、藤掛に声かけに行ったんだよ。気にすんなってな。むしろ、フルカウントからフォーク投げる度胸の方に感心するってのは、慰めでもなんでもねぇ。
ところが、藤掛は『出屋敷さん、次はストレートでいきます』とこう言いやがる。事実、そのつぎの対戦であれは完全に見せ球のカーブ一球以外は全部ストレートで抑えやがった。
そんでもって、その日を境に、ただでさえバットにかすりもしねぇストレートを投げていたのが、更にパワーアップしてな。配球の割合としても、圧倒的にストレートが多くなって、
しかも打たれなくなった。前に飛ばなくなったとすら言っていいかもしれん。
今の藤掛のピッチングは、進次郎、尾前にもその凄さがわかるだろう。」
理解できる、とまで言えば高慢だが、見た目の印象としてはわかる。相手がストレートとわかっていて打てない球なんて、魔球としか言いようがない。どう打てばいいのかプロの打者が本気で悩む、それが俺の中の藤掛兆治のピッチングの印象だった。
「去年、年末、藤掛とその時のバッターが対談する機会があってな。何だかわかんねぇけど、俺も一緒にいたんだが………
当然、あの場面が話題に上る。進行役が藤掛に『あの時どう思ったか』と尋ねたんだ。すると藤掛は『あの事件のおかげで自分はさらにストレートに拘るようになった』と。
わかるか?ちょっとしたいちゃもんが、 今のあのバケモンを生み出すきっかけになったってぇ訳だ。」
「………。」
「まあ、何だな。人間、何が転機になるかわかんねぇって話だよ。そのバッターは、次からストレートが待ちやすくなるようにわざわざそんな事を言ったのかもしれん、けどそれは結局裏目に出て、誰も打てないようなストレートをこの世に産み出させちまった。藤掛は、最高の武器を手にいれた。
なぁ、進次郎よ。話を聞いてりゃ、その重音部だかの魚崎って女狐が、お前らにつけてきた因縁は、いちゃもんに過ぎねぇ。だが、だからってそんなことでクサっちゃなんねぇぞ。
例え部がなくなったとしても、お前らはこの先も部活を続けていくんだろ。だったらよ、お前はそれすら糧にして、藤掛みたく自分達を強くしていけ。それであとで、魚崎が『あんなこと言わなきゃよかった』って後悔するくらい、強くなってやれ。
因縁つけられたことで俺たちは強くなれましたと、そう言えるくらいになってやればいいんだ。そう考えれば、なぁ。
ピンチも、きっちりチャンスにならあよ。西九条ちゃん、春日野道ちゃん、そしてお前にとって、
無駄な時間ってのは、一秒も無くなるって訳だ。」
オヤジは、そこで長く長く息を吐いて、鈍重に体をもう一度起こし、
冷えて固くなってしまったメインのカットステーキを、箸でつまんで口へ運んだ。
俺は………ちいとも動けずに椅子に体を張り付けていた。八割がた理解している、とオヤジに言われた西九条の気持ちが十割になってまるごと自分の覚悟になるような感じで、自分のなかにとある決意が固まろうとしていた。
「なぁオヤジ」
「あん?何だ」
「俺、それでも、勝ちに行くよ。
負けたってその先、俺達の活動が終わらないんだとしても………野球観戦部は、無くさせない。でないと………」
オヤジは、水を飲んでそのグラスを置くと、にっ、と口許を笑ませてこう言った。
「勝ち負けは全力勝負の結果だ。心置きなく行ってこい。
そうでなきゃ、お前らは藤掛兆治のようにはなれねぇ。いいか。
渾身のフォークあってこその、あのストレートだ。それがわかっているお前なら、相手がどんな強力なバッターだろうと、
必ず、抑えられる。」
中学の二年秋………以来だろうか。最後の登板以来、久しぶりに、俺の心には火が点る。強打者と対峙し、それを抑えにかかるときの緊張に似た高揚が体を突き動かす。
いまから後手に回ってどうする。気持ちの上で勝てなくてどうする。俺は、野球観戦部を守る。因縁を糧にして強くなるのは、俺たちであって、そして野球観戦部でなければならない。
俺達の未来は、それが敗北によって途絶えるものでないとしても、音楽準備室になければならないのだ。
「オヤジ、ありがとう。
俺、やれるよ。」
個人差、という言葉に封じ込められてきた闘志が、抑え込まれていた鬱憤を晴らすかのごとく激しく燃え上がる。U13日本代表、決勝アメリカ戦に向かう前と同じような興奮が、体を突き動かす。
オヤジは、不敵に笑ってこんなことを言った。
「だったら、礼は野球観戦部全員で、
甲子園に言いに来い。」
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