球場は燃えているか




1877年、鹿児島で日本最後の内乱といわれる、西南戦争が起こった。


開戦の理由は新政府が、独立国の様相すら見せ始めた旧薩摩藩、鹿児島県から武器弾薬の類いを強奪……取り上げようとして、それに反発した薩摩士族が反旗を翻したことによる。


当時の鹿児島県の実質の最高権力者、西郷隆盛は、その一報を受けて「しまった!」と叫んだという。


それは、ある見方によっては「勝てる見込みの無い戦を始めてしまった」という意味にとれるし、またある見方によっては「始めるにしても早すぎた」という意味にもとれる。



ともかく、自分の管理の手の届かないところで思いがけず始まってしまった戦争に対しての、忸怩たる思いがそれを口にさせたことは間違いがないだろう。


当時の西郷にはどうしようもなかったことかもしれない。だが、たぶん、彼は……それでもやれることがあったはずだ、止める手段はあったはずだとの後悔を抱いたはずだ。


勝つ算段もつかず、また西郷自身本当は勝つつもりもなかったのかもしれないが………ともかくとして、西軍と呼ばれた鹿児島軍と、西郷隆盛は覚悟を決して果敢にも新政府軍に立ち向かい………そして、全滅に近い敗北を喫した。西郷隆盛は、一身に責任を負うような形で、詰め腹を切った。



………もし、タイムマシンが開発されて、今どこかの時代に飛んでいけるとしたら、俺はその時の西郷隆盛に会って話がしたい。そういう状況に出くわしてしまったときの対処について、少し心構えなどを伝授してほしく思うのだ。


つまるところ俺は今、早すぎる開戦を前にして、自分がどう立ち振舞うべきかに惑っている。準備不足のまま出撃した西南戦争、あるいは宣戦布告の遅れた真珠湾攻撃。西郷隆盛と山本五十六、それぞれがしまった!と思ってしまった状況と……もちろん規模と悲惨さに雲泥の差があるが、とかく似たような状況に立たされている。



しかも俺の場合、西郷隆盛とちがって、手を下せる位置にあった。


戦端が開かれようとする直前、その場にいて、そしてそのきっかけとなる事態を回避することは、


必ずしも不可能ではなかった。


俺は、しかしそれをしなかった。


できなかった、というのは言い訳になるだろう。他人への責任の押し付けにもなる。


過ぎたことはどうしようもない。問題はこれからだ。負け戦の臭い漂う戦場に、俺は、俺達は華々しく駆けていってせめて敢闘して意地を見せるべきなのか。はたまた、泣いて見せあくまで確実な生き残りの道を模索するべきなのか。


西郷隆盛は………西南戦争を戦ってみて、最期の時どう思っていたのだろう。やはり、数々のドラマに描かれてきたように、生涯に一片の悔いもなかったのか。はたまた、ひょっとして内心、頭下げて穏便に済ませりゃよかったと思ったのか。


まぁ、十中八九前者だろうし、最終的には俺もそういう判断を下すのだろうが………


それでも、できることなら聞いてみたいと思う。



少なくとも俺は……


野球観戦部員、出屋敷進次郎は、


非常に、真剣に、悩んでいるのだ。



ーーー*ーーー



話は野球部の準決勝、その前日に遡ることになる。


俺と春日野道は、夜半、西九条の部屋にいた。


その状況に至るまでの経緯を限りなく簡潔に説明すると、まず、いつもの通り、だがグレードはダウンした重音部の嫌がらせが部室に入る。これが夕方六時頃。


その嫌がらせ、まぁ具体的に言えばしつこい滞在は30分ほど続いた。俺達は正直その程度のそれには慣れ始めていて、癪には思いながらも部の活動に特に影響はなく、翌日の野球部の準決勝観戦に向けての準備を始めていた。まぁ、いつか覚えてろ、ぐらいに思いながら。


ところが、重音部、特に魚崎と姫島はそれを面白く思わない。そのままその程度のレベルの嫌がらせなら別に耐えてやったものを、久々にーーーといっても二日ぶりだがーーー度の過ぎた、これも具体的に言えば楽器のチューニングや簡易な演奏をやはり『道具の選別』と称して始めたのである。


これは、一応最もらしい理由をつけている以上完全に重音部に非があるとはできないものの、完璧に部活法廷へ訴えを出せるガイドラインには触れている行為であり。


そして正式部として認可された野球観戦部としては、それを主張、あるいは実行に移す権利があった。つまるところ、もう戦うことはできたのだ。


……が、時があまりにも悪い。頼みの綱の野球部が明日大会、甲子園も見えているという状況で、裁判を起こしたところで勝ち目がない。というか、仮に野球部を頼れたとして、こんなクソ大切な時期に部長に法廷に出てくれなどと、


頼めるわけがない。そんな状況を招いて迷惑を、かけたくもない。


それに、野球部との約束のこともある。武庫川に、データを届けると約束した手前………それをまとめる作業を、そんな小競り合いで遅らせる訳にもいかない。


つまることろ、結局、抵抗をするわけにはいかなかった、ということだ。


部長西九条は、この事態に際して苦渋の決断を下した。



「今日は、引き上げるわ。


これでは気が散って話にならない。」



要するに折れて負けて音楽準備室を立ち去ることにした、というわけである。


トラキチであることからも伺えるように、負けず嫌いな彼女のこと、たぶん俺や春日野道以上……いや、ひょっとしたら春日野道は西九条以上にキレていたかもしれないが、ともかく腸煮えくり返って口から熱湯吐き出せるレベルだったことだろう。だが、彼女はグッとこらえて作業に集中することを選んだ。


「絶対に奴らに邪魔されない場所があるわ」と言われて連れてこられたのは、何となく見覚えのある商店街、何となく見覚えのあるシャッター。


西九条の実家の魚屋だった、ということである。


以前、タイヨウタクシーのお世話になったときには店の前までしか来なくて中には入らなかったから、もちろん見覚えは外観まで。手招きされて、小さな通用口を潜って中には入れば、西九条の親御さんとおぼしき、腕っぷしの太い岩のようなオッサンが一人と、対照的にスレンダーで綺麗な印象の女性が一人。春日野道とお初の挨拶をすると共々、歓迎をしてくれた。


何だかよくわからないうちに魚料理を二三ご馳走になったあと、本題をこなすために二階の本人の部屋へ。女の子の部屋に入ることなど経験がなく、さすがにどぎまぎしないわけではない俺だったが、入ってみればそんな緊張は一瞬のうちに消し飛んだ。


ああ、西九条の部屋だな、と思ったのである。


壁には阪神の球団歌である『六甲下』を写したポスターが貼ってあり、その周りには往年の名選手の写真がびっしり。本棚は選手執筆の本や野球の技術本、そして『月間カイザース』で埋め尽くされており。半分開いたクローゼットにはメッシュジャージやユニフォームがぎっしりと詰められ、並び、真ん中の丸いテーブルはそれ自体が阪神のロゴマークになっていた。


とにかく、黄色と黒に埋め尽くされた部屋で、お世辞にも女性らしさの感じられるような空間ではなかった。部屋全体に立ち込めた、フワッと優しい香りだけが、辛うじて文字通りの『阪神狂』のイメージを押し止めていた。



「何か言いたいことがあるの?」



「いや、いい部屋だなと」



嘘っぽかったのだろうか。俺はその時、出会ってから初めて彼女に暴力をふるわれた。とはいってもテーブル上に置いてあった阪神カラーのハリセンで頭を小突かれただけであったが。


春日野道は……ルーブル美術館を回る老人の如く言葉を無くし、目を輝かせてその部屋を観察していた。たぶん、これを広島に置き換えたら……彼女の部屋になるのではないかと思う。


何かと言えば座布団まで阪神。何となく正座でその場に落ち着くと、程なくして小学校六年生くらいの女の子が一人と、中学生とおぼしき男の子が一人、それぞれお茶と刺身を持って上がってきた。さすがに刺身は衝撃的でしばらく目が離せなかったが、それよりも興味はその二人の男女にあった。


あまりこんなことを言うとロリコン判定を食らいそうで怖いが、西九条が西九条なら、とばかりに、その小六くらいの女の子もかなり美人の部類に入ると思われた。全体的におしとやかな印象で、西九条とはまたかなりタイプが変わるが。っていうか、これたぶん全員西九条なんだろうな……



「妹と弟よ。この部屋は三人で共同で使っているの。うるさくさせないから、ここにいるのは許してあげて。」



西九条……真訪の、紹介と言えばあまりにもおざなりな紹介で、二人の続柄は確定する。名前は女の子が豊(ゆたか)、男の子が知憲(ともあき)というらしい。二人とも丁寧に頭を下げて挨拶してくれたかと思うと、その場で正座で腰を折って土下座のような形で床を机に宿題を始めたので、


春日野道と俺、共々テーブルを譲る。西九条真訪曰く「お金がないから勉強机はないの」とのこと。言われてみればこの部屋は、子供三人が暮らすには十分と言えるほどの設備が無いような気がする。蛍光灯カバーはビニール紐で強化されてようやく形を留めているし、端に畳まれた布団は二組しかない。どうも、あまり裕福と言える家庭ではないらしい。短くなりすぎた鉛筆で必死に勉強している妹、豊ちゃんの姿を見ていると、何か、さっきまではおいしかったタイの刺身が鉛の味になった。売れ残りではあろうが、売れなかったがゆえのこの鉛筆だとしたら、心が締め付けられる思いだった。



「……今日は、阪神が勝ってるわ。」



西九条真訪は、静かにそう言った。この部屋にテレビはない。ラジオもあるにはあるが、ついていない。なぜわかるのか。



「サービスがいいもの。負けてたら……キュウリが出るわ」



春日野道も俺も、さすがにそれには笑いが堪えられなかった。キュウリという、質素な食事が滑稽だったわけではない。阪神の勝敗でタイがキュウリになるという、その落差が単純に可笑しかったのだ。西九条にしても、半分ネタのつもりで言ったらしい。俺達が笑えば、彼女も微かに笑った。隣でクスリと笑った妹ちゃんも、可愛かった。



さて、翌日の野球部の地方大会準決勝に向けて必要な作業といえば、以前偵察して収集しておいた対戦相手のーーー県内最強と目される功徳高校のーーーデータを、頭の中の印象を、可視化して紙面にまとめあげるというものだった。つまるところ、武庫川に渡すためのレポートを作成するというものである。


………とはいっても、文章や図に関しては既に事前に用意しており、あとはジャンルごとに糸で纏めておく、というような軽作業に、若干の書き足しを残すだけだった。


元々手際のいい西九条の手にかかれば、この程度の仕事は苦でもなんでもなく、それに付け加え器用ではないが手際は悪くない俺と、以外に何でもそつなくこなす春日野道がいれば、そう時間のかかるものではなかった。開始から45分、時計の長針が一周し終わる前にノルマは達成される。



「ぶっはーっ!オワターっ!」と両手を放り出して後ろに倒れこんだ春日野道は、恐らくさほど疲れてはいない。むしろ、隣の妹と、頑なに床で勉強する強情そうな弟に、勉強を教えながら作業をしていた西九条真訪のほうがよほどしんどそうだった。


ふ、と息をついて麦茶を飲んだ彼女は、らしくもなくくたっとテーブルに突っ伏して、大きなため息をつく。



「明日は、全校応援だそうよ」



「んな、あいつらも来るなぁ」



あいつら、の指し示す相手とは当然重音部である。重音部は、読んで字のごとく重い音楽を演奏する部活だ。大先輩であるTwo lucky&luckyという学生バンドグループが、当時の軽音部をぬるく感じて立ち上げたものらしい。結局、その実『軽音』に対する反発心からそういう名前がつけられたらしく、活動内容自体はそう変わらないらしい。


……つってもまぁ、現部員は遊び呆けているだけなので関係ないが。


とどのつまり何が言いたいかというと、彼女らは吹奏楽部やチアリーディング部のように、部としての応援として来るわけではない、ということである。よって、行動はほぼ自由であり……自由であるということは、それだけちょっかいだしにくる可能性が高いということ。


土井垣学園における『全校応援』は、進学希望者の事情も考慮して希望制ということになっている。行くか行かないかを生徒が決められるということだが、別に進学校でもない上は皆、授業が公的にサボれるということで、行く。ことに姫島や打出のような連中が、これを逃す手はないと考えられた。



「いくらあいつらでも大衆面前であんな下らないことをやるかな?」



甘い、と春日野道に一喝されるのを覚悟で、俺はそう言った。が、意外にも彼女も、そして西九条もこれにはさして疑問を呈さなかった。



「どちらかというと………陰湿なやり方を好む方よね。魚崎は……」



「まあ、甲子園の時みたいに自分に絶対の利があったら容赦ないけどな。


いつも部室でやってくるような事を、球場でやるのはちょっと考えにくいところではある。仮にも生徒会長や。イメージダウンは勿体ないところやろ。」



俺の言いたいことは、大体彼女らが言ってくれた。まさにそういうことである。姫島も魚崎も、決して頭は悪くない。これくらいの計算式ならば、簡単に叩き出せるくらいの頭は持っている。


まあ、なんだろう。それを当てにして、信用して行動するのは愚策の極みだが、少なくとも積極的でないと仮定できるなら、


翌日の、野球観戦部としての活動………いや、仕事と言い換えてもいい。その効率は、上がらずとも下がらないというものであった。



「学校の目が集まるなかで、ああいう事をやらかしてくれるのなら、それはそれでありがたい話だけれど」



「まあなー。動かぬ証拠ならぬ動く証拠やからな。将来部活法廷で証言する手間が省けるっちゅーもんや。」



春日野道がカラカラと軽快に笑う。だがそこには重い実感が籠っていた。全く、冗談というわけではないらしい。しかし……こっちのメリットが上がるたびに、よけいに無いような気がしてくる。皮肉なことだが、魚崎に対するそういう類いの信頼は、増すばかりなのである。


まぁ、基本何事もなければいいね、というおざなりな結論にその場は落ち着いて。とりとめもない話でしばらく時が流れて。時計の針が八時を指し示したとき、西九条真訪は両親のいる下階へ降りていった。


部屋に残ったのは妹の豊ちゃんと、弟の知憲くん。あと、俺と春日野道。


共通の知り合いが消えたパーティーが気まずいものになるように、その空間は西九条真訪を失って何となく硬直する。誰も何も言葉を発さず、ただ壁掛けのカイザース時計の針と鉛筆の芯が紙の上を走る音だけが響くなか、俺はその雰囲気に耐えかね、周囲をぐるりと見回すことで気を紛らわす事を試みた。


やはり見事なまでにタイガース一色。その印象が変わることはない。特に三段式の本棚が目を引く。一段目に『藤掛兆治 ストレートという名の剛球』『金子知典 心が折れるとも諦めるな』『阪神カイザース球団史』『阪神がPLより弱いといわれたころ』などなど……なんなら後で手に取ってみたいなと思わせられるような内容のものばかり。二段目はぎっちりと『月間カイザース』。40冊は並んでいるのではなかろうか。というか、これ確か一冊千円くらい。布団、もう一セット買ってやってはどうか……


最後三段目はコレクションスペースといった様相を呈していた。1985年の日本一記念メダル、金子知典の首ふり人形、4選手ほどのプリントサインボール。ひとつだけ直筆が混じっている。タイヨウのものだ。


どれも総じて阪神グッズ、小物。だが、その端に置かれたあるひとつだけ、見た目至って普通のものがある。百均によく売ってるタイプの、五百円玉で30万円貯まる大きな貯金箱。


裏に何か書いてあるように見えて、気になった俺は立ち上がってそれを手にとって背中側を見た。『甲子園基金』とマジックインキで記されていた。



「盗っちゃだめだよ」



後ろからそんな声が飛んできて、それがあまりに突然の事だったもんで俺の心臓は大きくはね上がった。たぶん、挙動にも出ていたのだろう。春日野道が「あんたホンマに盗るつもりやったんか……?」とブルータスに裏切られたカエサルのような声で言うので、あわてて「違いますよ!」と否定する。



「いや、何か書いてあるなと思ったからちょっと気になっただけ……甲子園基金?」



「みんなで甲子園に野球観に行くために、ちょっとずつお金貯めてるの。」



短い鉛筆を止めずに、豊ちゃんはそう言った。俺は何か………クリスチャンにとっての十字架を、何の気なくむやみやたらと触っているような感覚に陥って、それを手放し元のところへ戻した。



「皆でって……君もか?」



「うん」



俺は急に胸が締め付けられると同時に、随分わかってきたつもりではあってもまだ西九条のことを、一割も理解できていないことを悟り、そして自分の甘さを悔いる。


随所に見られる貧乏の、その差額は恐らくここへ行っているのだろう。二組しかない布団も、短くて書けなさそうな鉛筆も全部、この貯金箱になけなしの金を入れるための節約ということではないのか。


西九条は……西九条家は、俺が思っているより遥かに、いや、精神的なところばかりではなく経済的にも、阪神アニマルカイザースの応援に、そのほぼ全力を注いでいるのだ。


西九条真訪が発する『阪神は呼吸』『阪神は生活』『阪神は命』という言葉を、俺は否定こそせず、認めもしたが、


だがその本質は一割も理解できていなかった。生活を切り詰めて甲子園に野球を観に行きたいこの家族の、何を理解できていたか。晩飯にキュウリを食ってまで阪神の試合が観たいこの姉弟、姉妹の、何を知っていたというのか。


トラキチ、というのはやはり軽い言葉ではないのだ。本当の本当に人生を阪神になげうつ人間を指して言うことのできる、その壮絶な阪神愛をのみ表現しえる、


重く、深く、痛みを伴う言葉なのだ。


口にするたび、その苦労を咀嚼する心持ちあってこその、膨大な対価を払って、身も心も捧げた者達に贈られるべき、


特別な、称号なのだ。



「そんなに……阪神が好きか?」



恐らく、同じような衝撃を受けたのだろう。やはりさっきのキュウリの話で笑ってしまったことを悔いているのかもしれない。重苦しい声で、ともすれば泣き出しそうにつまった声で、春日野道が聞いた。答えたのは豊ちゃんではなく、弟の知憲くんだった。



「好きとかじゃないんで。もう、生活の一部……ってか。」



まるでおんなじことを言うんだな、と俺は苦々しさを伴った感心をする。


そりゃあそうだろう。床で勉強して、ともすれば蛍雪の光。不便を堪え忍んでまでも皆で行きたいところが甲子園。


好きとかじゃないだろう。世の中に余ったもので遊びにいくわけではない。この家は、阪神を中心に生活が回っている。他人とは、思い入れが全く違うのだ。


それは……西九条真訪が、ヤジなど我慢できるはずもないわけだ………



「阪神が追い付かれたわ」



いつの間にか、ドア付近には西九条真訪がたっていた。


俺はどうしてもどぎまぎしてしまって、落ち着きなくその場に立ち尽くす。春日野道は「あらら」と顔をしかめた。豊ちゃんと知憲くんの雰囲気が、殺気だつ。



「打たれたの、誰?」



「何対何?」



「間宮。2対2」



まるで殺し屋の情報交換のような会話。正直、怖い。



「春日野道さん、出屋敷。悪いのだけれど、今日は今のうちに帰った方がいいわ。


逆転される前に。リモコンが飛んでくる前に。」



もう、何を聞かされても滑稽には思えなかった。キュウリ同様ネタのつもりで言ったらしい西九条真訪はウケなかったこと、どころか何の反応もなかったことに対して若干ムッとしていたが、笑えないものは笑えない。


「わかった」と問答無用の了承で、俺は席を立つ。春日野道も続いた。もはや、同じ認識の上にあることは語り合うまでもないことだった。



手を振って見送ってくれた豊ちゃんに「またね」と声をかけて階段を下りる。突如「ボケー!!もっと守備位置右に取っとかんか!!それでもプロかど阿呆う!!」と怒号が飛んでくる。俺は飛び上がりそうになったのをなんとか手すりに掴まることでこらえた。西九条が「……近所からは一球速報と呼ばれているわ」と呟く。


意味はすぐにわかった。上手いこと言う、という気持ちと大概なあだ名だな、という気持ちで、俺は板挟みになる。と、同時に、この怒号を毎日聞く身は大変だろうとも思った。いや、ひょっとしたら西九条も場合によっては叫ぶのかもしれないが。


恐る恐る居間に顔を出して「お邪魔しました」と挨拶。ひきつった笑顔で「またおいで」と言ってくれたのは父親の方だった。阪神は逆転されていた。母親の姿は見えなかったが、奥の方でフライパンか何かが殴打される金属音が聞こえてきたりした。



再び小さなシャッターをくぐり、外へ出る。開口一番西九条が「わかったでしょ」と言うので、俺も西九条も小さく頷いた。



「まこっちゃんにとって……阪神はホンマに生活なんやな」



「ええ。紛れもなく。呼吸、という言葉が比喩でないこと、信じてもらえたかしら。」



「なるよな、これは……」



もう本当に一片の疑問もなかった。この家に阪神と酸素は間違いなく等価値だ。



「逃れようもないし、逃れる気もないのだけれど。私が、トラキチたる由縁は……この家が全て。


両親も、弟も妹も、引っくるめて全部。


時には……互いを遠ざける理由にもなるけれど、それが問題にならないくらい強い繋がりが……私達家族にはある。阪神が、繋いでいる。


だから、私は未来永劫トラキチ。阪神より大切なものは何もない。それは、家族が一番大切なものだっていうのと、同じこと。」



「………。」



「まこっちゃん……。」



「………だからこそ。


あなた達と野球観戦部を、続けていきたい。都合よく聞こえると思うし、自分勝手だと思われても仕方ない……けれど、


こんな私を、受け入れようとしてくれる物好きは、


あなた達以外にはいないわ。」



西九条は、少し俯いて、そして顔を赤らめてそう言った。いつか見た、スーパーレア、ガチャ当選確率1%の照れだった。


たぶん、これまで………そういった存在に巡りあうことはなかったのだろう。だからといって、理解のない人間にそれを求めるような事を、彼女はしてこなかった。


けれども、孤高の一匹狼、いや、一匹虎を気取っていられるほど、彼女自身は強くなかった。だから、土井垣学園という、比較的部活に寛容な学校に入って、そして求めるでも、諦めるのでもない手段として………野球観戦部を作った……と、そういうことなのではないだろうか。確証は無い。だが、ここ二ヶ月関わってきた彼女の印象は、それを否定しない。


少なくとも、ちょうどこの魚屋の前でオヤジが俺に言ったことは、まさにそういうことだった。彼女が、この部を作った意図を汲み取ってやれというのは………



「………言いたかったのはそれだけ。どさくさ紛れで申し訳ないのだけれど。


明日、また頑張りましょう。」



まだほんのり赤みのさす顔を上げた西九条は、ひとつ前の言葉を流すようにわざとらしく明るくそんなことを言う。春日野道も俺も、しっかりと頷いて見せた。月明かりと街灯、それに照らし出された春日野道は本当に満足そうな表情をしていた。


魚崎との一件のとき、甲子園口駅で『自分の居場所をなくさないでほしい』と懇願した相手である西九条に、そういう風に言ってもらえるのは嬉しいことであったに違いない。重いが通じた、というのか。安めのJ-POPの歌詞のような話になるが、心通った喜びを感じるに至ったということなのだろう。



「うん、ほな。また明日。」



「豊ちゃんと知憲くんによろしくな。」



春日野道は大手を振って、俺は小さく手を挙げた。西九条はその間を取ったように小さく手を振って店へと戻っていく。


小さな通用口を西九条の小さな体が潜ろうとしたとき、ふと、思うことがあって、


俺は部屋明かりの中に消えかけた彼女を呼び止めた。


前と同じく、上半身だけをせり出して、左手でバランスをとって体を覗かせる。「何?」と尋ねてきた彼女に、俺はこう言った。



「今度、オヤジに席を用意してもらうから。


その二人も一緒に、甲子園へ行こう。


バックネット裏なら……」



パッと表情を明るくしたのは隣の春日野道だった。そこには敵味方の区別はない。魚崎の手が届くような値段の席でもないので、余計なことを言われる心配もない。純粋に野球観戦を楽しめる。



「………ありがとう。伝えておく。


きっと、喜ぶわ。」



静かに微笑んで、西九条は再びその体を引っ込めた。春日野道が、何も言わずに背中をパァンと音がするくらい強く叩く。



たまにこの人自分の感情を俺の体を使って表現しようとするよな……と小さな不満を抱えつつ、俺達は帰路についた。



ことの起こりのくだらなさに反するように、


一言でいえばその日は『充実』していた。




ーーー*ーーー




思えば前日の余韻が仄かに残っていたこと、それが事の起こりへと繋がったのかもしれない。


幾度かの雨を経験して、ようやく地が固まり始めた充実感、幸福感がわずかでもあったからこそ、


それを蹂躙されることに対する怒りと悲しみは、より大きなものになってしまった……のかもしれない。



ーーー炎天下の昼12時。


土井垣学園野球部と功徳高校による、兵庫県大会準決勝の幕は切っておとされた。


さすがもう二回勝てば甲子園、というだけのことはあって、手狭な内野スタンドは両チームの応援団でぎっしり。ただでさえ直射日光が照りつけて暑すぎるくらいなのに、人の密集がその場の熱気をさらに押し上げて、止めどなく汗が吹き出すほど。


こんな中で試合をする選手達は全くエライもんだなぁ、などと、一年前まで同じ条件で野球をやっていた身ながらそんなことを思いつつ俺は、西九条、春日野道とともに野球観戦部としての活動に従事していた。香櫨園は、残念ながら学校で公務をしなければならなかったらしい。非常勤でなければと嘆いていた。



部員総数200名を数える野球部は、ベンチ入りした20人の他は全てが応援に上がる。それだけで味方側のスタンドの4分の1くらいは埋まるわけだが、


その野球部に配慮される形で、俺達は他人の応援に観戦を邪魔されない、最前列、一応………一般生徒との境目に、席を用意してもらって、そこから試合を観ていた。


周囲が総立ちで応援をする中、座って落ち着いて試合を観ているのはどうにも気が引けたが、こればかりはまぁ……仕方ないっちゃ仕方ない。俺達の活動は、もし甲子園にこの野球部が出場するとすれば10人目の野手くらいの力になるはずだし、ともすれば、未来……今二年生の選手が、三年生になる来年の夏にまでも役に立つ。野球部にとっても、雑多な声のひとつになるよりは遥かに有効な出屋敷進次郎の使い道なのだ、と一人納得することで割りきった。実際いくつか冷たい視線も感じはしたが、それで俺たちのスコアブックを記すペン、選手を観察する双眼鏡、球速その他もろもろのデータをとるためのストップウォッチの手が止まることは、なかった。



試合は高校野球らしからぬ投手戦になった。土井垣学園のエース梅田はそれなりのストレートとそれなりの変化球、そして超高校生級と言える抜群の制球力で、毎回ピンチを背負いながらも六回までを無失点。味方の援護を待った。


しかし相手は県内最強、甲子園16強をも経験している功徳高校。特にプロ注目のエースのピッチングは凄まじいものがあり、五回までをパーフェクト8奪三振、六回までランナーを二塁に進ませないという120点満点の内容で、完全に土井垣打線を沈黙させた。


点差はなくとも流れは完全に功徳。差し迫った打線の噴火を待つばかりといったなかで迎えた打者四順目に入ろうかという七回表、功徳の攻撃。


西九条は「動くとしたらこの回ね」と言った。それは単純に功徳に流れの利があるという話ではなく、双方に終盤戦の利が存在することを悟ったが故だった。


功徳の側の利は、圧倒的な流れの良さと打者四順目というその試合のなかでの経験値の差。そもそもからして最初っから梅田を捉えはしていた功徳にとって、既に三回同じ球をみた状態で立つバッターボックスは、球速に慣れ始めたころのバッティングセンターの打席のごとく、易い。


例え全てを三球三振で切り抜けていたとしても、9球は見せてしまっている。もともと球種球速共に突出したものを持たない梅田のこと。その間に引き出しは全て出し尽くしてしまっていることだろう。


上限を知ったバッターは当然、的を絞る。


例えば梅田の変化球は三種、カーブ、フォーク、縦気味のスライダー。これにストレートを加えて球種は四つ。つまり、単純な計算で四分の一の可能性に賭ければ、


見たことのある球を知っているタイミングで捉えることができるのだ。


……正直、疲れも見え始めた梅田には、風前の灯火といった状況だろう。圧倒的窮地であることは目に見えている。



が、だからこそ、土井垣学園にもチャンスはある、と考えるのが西九条真訪だった。まず彼女は、前の六回の裏、九番打者がツーベースヒットを放ったことに着目した。



「打たせてこんなにまずい相手はいないわ。


野田さんの時とは状況が違いすぎる。」



鳴尾浜商店街野球部と大物スターズの草野球。状況はあの試合に似ていた。五回までパーフェクトピッチング、回は違うが中盤にヒットを一本打たれる、というもの。


商店街野球部の野田と武庫川の場合、そのヒットは作為的なものだった。あえて一本出させることによって、ノーヒットノーランへのプレッシャーを無くさせ、安心を誘うというもの。


状況的に考えれば、功徳のエースにも同じような効果が働いてもおかしくはない。だが、西九条曰く、それが『九番打者』であることに大きな問題があるという。



「あの人、間違いなくチームで一番バットが振れてないわ。ヒットにしても、ほぼまぐれ当たりね。


だけど、そんな人が打ったからこそ、


次の回の上位打線には希望と闘志が生まれる。」



野球は精神のスポーツである。ダメだと思ったらその時点で本当にダメになるし、もとダメでもやれると思い込み信じ続ければとんでもない奇跡を生むこともある。


チームで一番打てない九番打者が打っていて、上位打線がノーヒットに抑えられている状況。上位打線の面々はどう思うだろうか。


なにくそ、と思うのではないか。加えて、あいつに打てるくらいなら俺にだって打てる、と思うのではないか。



15世紀フランスの国民的ヒロインであるジャンヌダルクは戦士としては幼く、また当時社会的立場としては弱かった女性でありながら、常に先頭に立ってイングランド軍と対峙したという。率いられた戦士達にとって『神の子に守られている』という意識が戦意に繋がったのは間違いない。だが、他方で、あんな弱い幼い立場の人間が頑張っていて自分達が情けないままではしょうがない、という意識も少なからず働いたのではないだろうか。ジャンヌは、破竹の勢いで劣性のフランスの国土を回復していった。



要するに、九番打者がジャンヌダルクたる立場にたったことで、土井垣学園にもまた、打線爆発リーチがテンパイしているというのだ。ない話ではない。当然七回ともなれば功徳のピッチャーも体力は削げ力が落ちる。野球観戦部のデータによると、二三番手のピッチャーに彼ほど圧倒的な能力はない。加えて……おそらく七回表、梅田はピンチを背負うだろう。だがこれをもし、無失点で切り抜けられるなら?流れそのものが、土井垣学園に傾くことだってある。



高校野球は常に綱渡り。どちらに戦況が転ぶか、勝敗の境目は、常に足元に転がっていて、


ダビデがゴリアテに勝つことも、ドンキホーテが風車に勝つことも、可能性としてゼロではないのだ。



「………だから、功徳はこの回、


全力で来るわ。」



采配の良し悪しは流れを読めるか読めないかで決まり、流れの良し悪しは勝敗を決する。兵庫県下ぶっちぎりの常勝軍団を作り上げてきた功徳高校の監督は、この回が生み出した潮の目を見落としはしなかった。


驚くべきことに、功徳はこの回の先頭打者に代打を送り出す。代えられたのは九番打者ではあったが当然三順目の利を持っていたはずで、それをあっさり捨てるような采配に俺と春日野道は困惑し、功徳の監督の神経を疑ったが。


西九条はその采配を見てすぐさま「初球………!」と唸った。何の事かと俺が尋ねる前に答えとなるプレーは目の前で起こる。


初球狙い済ましたかのようなセーフティーバント。三塁線ギリギリを死にかけのハムスターのような勢いで転がり、白線の上で停止した。サードは送球できず、余裕のセーフでノーアウト一塁。


まさに奇襲、意表を突かれ、想定外の行動をまんまと決められたことに対する動揺が、土井垣学園ナインに広がる。最もそのダメージが大きかったのはピッチャー梅田だった。


ただでさえ球数が多く疲れの見えるなか、回の始めにバントの打球処理で走らされた彼は、そこから制球難に陥っていく。ここまでは決めるべきところに決まっていた球が、反れて甘いところへ入ってしまう。四順目の一番バッターに連打となるライト前ヒットを打たれてノーアウト一二塁。二番がこれまた絶妙に……ピッチャーとなりへの送りバントでランナーを進めるとともに梅田の体力をさらに削る。土井垣学園バッテリーは……ゲッツーの可能性に賭けて三番を敬遠。監督武庫川は、ここで一点が入ってしまうことの意味がよくわかっていたのだろう。


ノーアウト満塁で四番との勝負。梅田は変化球中心の、低めに集める投球で最後の力を振り絞って挑んだ。摂氏32度の炎天下、六回三分の一、120球を投げ抜いたエースの、魂のピッチング。


西九条の言うとおり……土井垣学園のスタンドから上がるものが大歓声であれば、一気に気勢は上がり、


悲鳴であれば、その瞬間に勝負は決してしまう。そんな究極の緊張感がグラウンドを支配するなかで。



一キロ先からでも聞こえそうなくらい大きく響いたのは、


功徳高校の歓声と、土井垣学園の悲鳴だった。



梅田がカウント2-1から投じた一球は右インコース低めのストレート。一球前の外へのスライダーが効いていた事を思えばここしかないというドンピシャのコースだったが、ここで働いたものこそが『四順目の利』。四番は、ストレートしか待ってはいなかった。


外のスライダーを見せ、意識が外に行っている状態で変化のない球を同じ外に投げるのは通常の感覚から言ってかなりリスキーだ。四番はそれをも逆手に取り、インコースを待っていた。体を開いて思い切り振り抜かれたバットは先っぽながら芯を捉え、ドライブしながらレフトライン際へ。これがフェアゾーンに落ちて、勝負は決した。


運の悪いことにはこれがファールゾーンに転がり、そしてフェンスに当たることなく止まる。三塁ランナーは悠々ホームイン、二塁ランナーも苦なくホームイン。一塁ランナーも本塁突入が可能なタイミングではあったが、しかし功徳高校はそれ以上進塁をしなかった。


一点を取るより、三塁にランナーを残してピッチャーに精神的なプレッシャーを与え続けることの利を選んだのである。


武庫川もここに来てさすがに梅田を交代した。接戦で張り詰めていた緊張の糸は、得点で解れ、失点で切れる。無失点、という事実が持たせていた梅田の集中力が切れてしまうのは、目に見えていたからだった。



二番手で登板したのは、二年生のやや小柄なアンダースロー。だが、彼の登板はこれまで武庫川がなぜ、限界一杯の梅田を引っ張り続けたのか、その理由を示す結果にしかならなかった。


二点が入ってしまった時点で勝負は決していたとも言えるが、それからの功徳高校の攻撃といえば苛烈を極めた。五番がいきなり初球を叩いてレフト前。一点はいって一二塁。六番が送りバント、だが集中が切れていたのは梅田ばかりではなく野手も同じだった。サードの送球ミスで一点。二三塁。七番は甘く入ったカーブを完璧に捉えてライトスタンドへ。


0対7となって、この時点で裏の攻撃が無得点だった場合のコールドゲームの条件が満たされた。


スタンドが失意に沈むなか、西九条はふ、と息をついた。どうしたのかと春日野道が尋ねると、彼女はこう言った。



「武庫川先生にはあれ以外に打つ手はなかったわ。


続投が仕方のない判断だったことが、証明された。


それはつまり………この試合、六回裏に九番がツーベースを打った時点で、


土井垣学園に勝ちは無かったということよ。」



野球において流れほど、見えないが確実に存在し、そして恐ろしいものはない。一点で支えられた水満載のたらいのごとく、一瞬でも傾けばそこから一気に体制は崩れ、水は片方に流れ落ちる。


まさにそれを見せられているかのようだった。もうこうなれば功徳高校は止まらない。連打、エラー、四球、死球。熱砂の中の死体蹴りは功徳スタンドに余裕すら生み、土井垣スタンドに……まるで身内の虐殺を目撃者させるかのような絶望を与えた。


二年半苦楽をともにしてきた野球部員たちはそれでも歓声を送り続ける。だが、一般観客はそうはいかない。


言葉を失うもの、ため息をつくもの。見ていられなくて席を立つもの、単純に興味を失って売店へジュースを買いに行くもの。



そして、泣くもの。



これは、野球部員でもなく、親御でもなく、一般客の、それも女子生徒に多く見られた。十数から数十の女子生徒が、それぞれ仲良しグループと集まってタオルで顔を覆い、さめざめと泣き続ける。


俺は………これがあまり好きではなかった。試合を見ろ、周囲を見ろ、と思ってしまうのである。


グラウンドを見れば、それがただの惨状であり、投げた数だけヒットを打たれる二年生ピッチャーにとってはリンチ以外の何ものでもないことがよくわかる。目の前で起こっていることは、突撃しか手段のなくなった敗残兵を、大軍が包囲殲滅するという、敗者に訪れるべくして訪れる残酷な現実でしかない。


その、残虐性というのか……うち倒れる兵士たちへの哀悼の意が彼女たちを涙させているのならそれはわからなくはないが、おそらく大半はそうではないだろう。彼女たちは、感動をしている。何に、かはわからない。そもそも俺には感動をする理由がわからず、その要素も見つけられはしないからだ。


負けることが悲しいのか、負けという事実そのものが感動に変換されるのか。敗戦が悲しいものであると、刷り込まれでもしたのか。それがおかしなことであるのは、隣の……野球部員が証明している。彼らは確かに沈みはしているが、泣きはしていない。


この内容でどこでどうやって泣くのか。未だマウンドでもがいている後輩、あるいは同期、あるいは先輩を見て、ただ落涙する無責任があるものか。


同じ釜の飯を食い、寝床を共にした彼らですら、そんなだというのに。何故、泣く。何故、試合を観ようとしない。


お前らは、何を見に来たのか。何を感じようとしてそこで水滴をボタボタ落としているのか。授業をサボりたい一心で集った人間の一部が、何に感化されてそうなるというのか。



………昔、同じような想いをグラウンドからしたものとして、


未だにそれは理解ができない。




……結局、功徳高校の攻撃は打者を一巡し、一挙10得点という結果を叩き出して、事実上勝負は決してしまった。土井垣学園にはもう後に続くピッチャーが三番手しかいなく、それが二番手よりさらに劣ることは明らかで。つまるところこれ以上の試合の継続は惨劇の追加でしかなく、来年に向けてのチーム作りにトラウマを残す結果にしか生まず。


もはや、コールドゲームに終わることが冷徹な目で見て最良の結果と言えた。40分近くの攻撃にさらされた野手陣も、体力的に限界のように見えた。



事ここに至りてようやく、野球部内にもちらほらと涙を流す者が出てきた。親御さんも、タオルで目頭を覆い始めた。


これは、わかる。何故ならこの人たちは、泣いていてもきっと前を見つめ、グラウンドに目を凝らし、大声で声援を送っているからだ。それだけの、思い出、思い入れがあるということなのだろう。二年半の……苦行と言ってしまっていいだろう。苦行の終わりが、目の前に迫っている。いわば、高校野球からの卒業が目前にまできている。



仲間との別れを惜しむ、その結末がこのようなものであることを哀しむ気持ちが溢れるのは当然の事であり、また、子供があるひとつの旅立ちを果たすことに万感の想いを寄せることもまた、当然であると思う。


要するにこの人たちには……その権利がある。



他方、一般観客は、どうか。俺はあまりにもひねくれて、意地の悪いことを言っているのかもしれないが、


果たしてこの時に至るまで野球部を一度でも見たことがあったのか。その圧倒的な苦労に寄り添う機会が一秒でもあったのか。あったとして、それを理由に泣くとしたらそんなに愚かしい事があるものか。長い時間を苦労してようやく流せる涙を、その場にいるだけで同じように流していいものなのだと、勘違いしているのではないか。


それは……冒涜ではないのか。極端な言い方だが、そんなことをされるくらいなら……俺なら、スタンドで自分の無様を笑ってくれる方がまだいい。


そんな奴の事を擁護する奴はいないだろうから。だが、彼女らは違う。


周囲の慰めを受けるという特典がつく。泣くだけで周囲が優しくしてくれる、共感をしてくれる。擬似的な団結に身を溶かすことができる、いい気分に浸れる、感動できる自分の人格に酔いしれることができる。



………学生野球は見世物ではない。タダで泣く場所を提供するためにやっている訳じゃない。


自分探しを戦場に求めて物見遊山で軍隊に入る大馬鹿者がいる、


彼女らは、俺からすれば、大きなくくりで見てそういう人間と大差がない。




一言で言えば………彼女らは、そう、



勘違いも甚だしいのだ。




………そういう想いを抱える人間が、野球部観戦部にはもう二人存在した、ということが、


その後起こることになる、あるひとつの騒動の、直接的な原因となる。



七回の裏、四点とらなければ負けが確定する土井垣学園だが、その戦意はほぼ削がれてしまっているとみてよかった。高校球児である彼らは、決して諦めを表に出さない。それを忘れ去ろうと、声を張り上げ気持ちを奮い立たせ、努力をする。


だが、一度切れた緊張の糸は修復しない。ただでさえ完璧に抑え込まれていた相手である。冷静さと集中を欠いたチームに、かのエースを捉えることは不可能だった。


先頭打者は三球三振。次も、ファールで粘りはするがボールが前に飛ぶ気配がない。時間の経過、終戦への秒読みの数字が小さくなっていく度に………左からも右からも、鼻を啜る音が増えてくる。ちょうどその中心に座る俺には、その両側の寒暖差がひどく気持ち悪く感じられた。何て停滞前線なのだろう。偽善と情熱が混在して………こんなに胸糞の悪い気持ちもない。


ふと、思い出すことがあった。U13日本代表としてアメリカに赴いたとき。第一リーグでは全く注目されず、今年は小粒とまで言われていたのが、いざ決勝まで進んで優勝が見えてきたとたん、スタンドに日の丸の数が増えた。カメラの数が増えた。歓声が大きくなった。


最初から注目しろ、というのがどだい無理な話なのはわかっている。ならば、あくまで、あくまで俺は、最後までそっとしておいてくれと思うのだ。決勝だけをみて、評論家気取りであーだこーだとごたく、感想を並べて悦にひたる奴がいる。結局試合には負けた。するとため息ばかりを残してさっさと球場を後にするミーハーどもがいる。


香櫨園みたいなのは希だ。選手一人を労を割いて追いかけ回すような、思い入れのある奴は。観客であれば、そういうものにこそ、感動を得る権利がある。彼女へのひいきも混じった上の、あくまで俺の意見だが。


少なくともここの観客はそうではない、皆本当は大して野球にも興味ないし、選手の事を想ってもいない。


願わくば早くこの場を離れたい。偽善の臭いは鼻をついて腹に刺さり、吐き気をもよおす。


……相当具合の悪そうな顔をしていたのかもしれない。隣の西九条が珍しく俺を心配してきた、大丈夫かと尋ねてくる。平気だと答えた。野球観戦部としての本懐を通すことが今の俺の意地だ。この空気に逆らって見せれなければ、俺は俺の野球観戦の形を、否定することになってしまう。


ペンを強く握って、スコアブックに結果を記す、三振。いっそう泣き声が大きくなった、負けるものか。ダイヤモンドにKと記す。次が最後の打者になるか、俺は、野球観戦部は、彼らの来年のために惨状を記し続けるーーー




「あらぁ~?こんな時にまでご自分の部活が大事かしらぁ?」




この場面で、この世で一番聞きたくない声が耳元に響く。西九条も、春日野道もその想いは同じだった事だろう。


いつもなら、瞬時に振り返って………たぶん西九条あたりが「消えて」とか言うだろう。だが、今は場面が場面だった。あと一人で試合が終わろうかというところ。


野球観戦部が何かしらのピンチを迎える度、顧問の香櫨園も含め、必ず誰かが義理堅い一面を見せていた。が、結局のところこの部は全員が全員それなりに義理堅いところを持っていたという事なのだろつ。


言い返したい気持ちはひしひしと伝わってきた。だが、西九条はも春日野道も、後ろすら見ずぐっと唇を噛んで、


作業に徹していた。



もちろん、無視したからといって後ろの声の主……魚崎が、諦めて帰ることなどあり得ない。むしろ、反撃がないのは攻撃のいい機会とばかり、ねちっこく、そして嫌味に語りかけてくる。



「呆れたものねぇ。どこまでがめついのかしらぁ。


ブラスバンドも、チアリーダーも、必死に野球部を応援しているのに、あなたの部活は自分達のため?結構な活動精神だわぁ。」



「見てわからないか?俺らは俺らで野球部の記録作ってるんだ。これは来年役に立つ。


ボーッと見ているだけのあんたらより、よほど野球部のためになってるよ」



西九条と春日野道がそれぞれ、双眼鏡とストップウォッチを武器にしようとしはじめたので、先手を打って俺が答える。丸きり事実であったが、魚崎はそんなことは先刻承知、もはやいちゃもんつけたいだけという様相で、こんな事を言った。



「ふふふ、そうよねぇ。審査会を通るのに、野球部味方につけなきゃいけなかったものねぇ。恩を売り込んでまで続けたかったのかしら、さすがは魚屋の娘は算盤が上手いこと。」



これはもはや完全に侮辱でしかなかった。マグマに核爆弾を落とされた西九条の怒りが限界に達し、爆発する。立ち上がり、まるでゲッツー態勢下、素早くセカンドへ送球するショートのような身のこなしで双眼鏡を振りかぶり、魚崎めがけて投げつけようとする。が、すんでのところでそれは春日野道に抑えられた。勢い余ってすっぽぬけた双眼鏡が階段に叩きつけられ、甲高い音を立てて割れる。


が、止めたからといって春日野道が冷静だったわけではなかった。制止を振り払おうとする西九条を必死に押さえ付けながら、唸るようにこう告げる。



「お前………マジでええ加減にせえよ……!」



「惜しかったわねぇ。アレが当たっていれば確実にあなたたち廃部だったのに。


春日野道、ファインプレーねぇ」



「黙れ魚崎っ!!」



叫んだのは俺だった。思わず出てしまったものだった。今は試合中、部活間の紛争を展開する場面ではない。野球部にこそ注目がいくべき場所であって、俺に注目が集まってしまうのは絶対避けなければならなかったが、


遺憾にも叫びは喉を通ってしまったのだった。


野球部も含め、一部の注目が集まってしまう。しまった、と俺は思った。これもおそらく、魚崎の計略……そう、たぶん、この場面でようやく嫌がらせをしに来た彼女は、最初からこの試合のどこかで、何かを仕掛ける機会を伺っていたのだろう。


露骨な煽りも、タイミングも、全て計算付くだとしたら、西九条への『算盤上手の魚屋の娘』というあまりにも酷い侮辱で冷静さを失った俺たちの現状は、かなり不味いものであると言える。



「………。」



「………。」



「黙ったら何か言い返してくれるかと思ったら、そうではないのねぇ。ちょっと期待外れ。


それとも……意気地無し?」



「試合が終わったらなんぼでも相手したるよってに、今は去ねや……!心配せんでも、ウチら今のお前の言葉、忘れんさかいな………!」



俺をかばってか、春日野道が小さく、だがドスの利いた声でそんなことを言う。味方であるはずの俺まで気圧されそうな、強烈な怒りの籠った声だった。


……が、魚崎は去らない。鉛で体ができているのか、立ち去る気配すらない。



「あなたたちがぁ、自分達でお楽しみをやっている間、みーんな、一生懸命応援してたわよぉ。


それで、ね。泣いているわぁ。感動して、野球部の頑張りを想って、泣いている。


うちの姫島でさえね。ほら」



魚崎の手の示した先に、姫島と打出の姿があって、彼女らはマフラータオル片手に確かに泣いていた。


俺は、五臓六腑から怒りと気持ち悪さが全てひっくりがえって出てきそうな感覚に陥った。奴等こそ、もっとも涙を流す意義のない人間だと、そう思ったからだった。



「比べてぇ、あなたたち、どうかしら?


野球部のためだとか、御託よね。年末の会議に向けてぇ、実績が欲しいんでしょお?うーん、わかるわ。一見、完全に道楽部だものね。野球部の爪先でも舐めていないと、廃部にされてしまうもの。バームクーヘンを食えへん部の二の舞には、フフッ、なりたくないわよねぇ。


本当に、銭勘定ばかり得意なのね。だからそうやって、この雰囲気のなかでも、冷静に自分達の趣味を楽しんでいられるんでしょう?」



もはや何からキレたものか。野球観戦部を趣味という言葉に伏したこと、西九条を算盤上手の魚屋と罵りあまつさえ野球部との関わりを銭勘定と揶揄したこと。野球部の爪先を舐めているとバカにしたこと。バームクーヘンを食えへん部を侮辱したこと。


俺は……生まれてこのかた、人を殴ったことがない。右手はボールを投げるために、左手はグラブをはめるためにあるのだと思って生きてきて、それを暴力に使おうと思ったことは一度もない。


だが、ありとあらゆる理性を吹っ飛ばしかけた今の頭には、その選択肢が間違いなく存在した。初めてその対象に選ぼうというのが女というのは、さすがに人間としてどうなのかと思わない心が無いわけではないが、それとて仕方のないことだと思えてしまうほど、


魚崎の一言一句は酷いの一言に尽きた。



もうあと数秒、魚崎の口が動き続ければ、恐らく俺は野球観戦部の廃部どころか自分が退学になる行動に出てもおかしくなかった。安全装置の外れた銃は、引き金を引けば簡単に人を打ち倒せる。指に力はこもった状態だった。


だが、タイミング良く……というべきだろうか。甲高いサイレンの音が球場に鳴り響き、左右から落胆の声、そして反対側のスタンドから大歓声がわき起こった。それは試合が終了したことの合図だった。


一塁にヘッドスライディングを慣行したらしい土井垣学園の選手が、ふらふらとホームベース付近へと走っていく。総じて、負けチームの足取りは重く、勝利チームのそれは軽い。


その光景を目にすること、感じることで、俺は終末的な行動を辛うじて圧し殺すことができた。同じく今にも殴りかかろうかという気迫を見せていた西九条も、春日野道の必死の制止の中で少し冷静さを取り戻し、グラウンドに目を向ける。制止を続ける必要のなくなった春日野道も同様に、整列する二つのチームの方を向いた。


背後から「あらあら………」とわざとらしい落胆の声が上がる。俺はそれにも腹が立ったが、しかしここはこらえることができた。西九条も春日野道も、たぶん同じ思いを抱えていただろうが、彼女らも、あえて反応しなかった。


高校野球観戦、試合終了に際して両軍の健闘を称えて拍手を送るのは、観戦者の当然の義務。それを疎かにして、野球観戦部を語ることなどできないと考えた故だった。



総勢40名の両チームが、互いに頭を垂れて、試合の終了が宣告される。勝利チームの校歌が流れ、相手側スタンドは大いに盛り上がる。そして最後、両スタンドによるエール交換が行われるまで、俺達はグラウンドを、相手スタンドを注視し続けた。


魚先も、最後選手がスタンド前に整列して観客へ礼をするまでは、何も言わなかった。狂気と怒気、愉悦と憤怒の狭間で奇妙な停戦は合意なきまま続いたが、


全てが終わり、スタンドの野球部ともども引き上げを始めたころになって、


火薬庫に火を投げ入れたのは、やはり魚崎だった。もとより彼女に野球に対する敬意など存在しない。ただ、あの状況でわめき続けることが自分にとって不利に働くというのを、当たり前の感覚で察知しただけの事だった。



「とんだ冷血人間の集まりというわけね。


野球観戦を楽しむ事をとことんまで突き詰める……フフッ、聞いて呆れるわぁ。部活審査会……方便も大概にしてほしいものねぇ。」



……正直、恐ろしく雑で恐ろしく明白な煽り文句ではあった。普段なら、そんな言葉を……俺も西九条も、春日野道も相手にはしない。



が、累積した怒りと西九条への侮辱は、ようやく『仲間』の意識を持ち始めた俺達のスルースキルを、完全に忘却の彼方へと遣っていた。


試合が終了し、人がはけ始めた今、口を塞ぐものは何一つとして存在しなかった。



「そこで泣きわめくのが血の通った行動だと言うのなら、私は冷血で構わないわ。


それより、魚崎。あなたのさっきの発言は、れっきとした侮辱発言よ。


帰ったら速攻で部活法廷にかけるから、覚悟なさい。」



「冷たい血は頭まで回らないのかしらねぇ。今、部活動中なのは、あなた達だけよ。


部活法廷で裁かれるのは、部活だけ。私は個人で見に来ているだけだからぁ、重音部が裁きにかけられることは無いわぁ。」



春日野道が「そんな屁理屈!!」と叫んだが、残念ながら魚崎の言葉には筋が通っていた。部活法廷は、基本的に部活動の非や部同士の争いの調停をする機関である。ゆえに部から個人に対しての訴えはできない。


つまり今日の出来事によって重音部に対する訴えを出すことは不可能。できることは個人に対する訴えを個人で各担任に訴えることくらいであり、多くのいじめが解決されない事をみればわかる通り、効果はほぼないに等しいと言っていい。学校生活においての揉め事は、例え100対0の責任比であったとしても、何故か両成敗に終わることが好まれる。例えば今この状況を西九条が訴えたところで、それはさすがに煽った魚崎が悪いという話にはなるだろうが、絶対に停学やら退学やらという罰則がつくことはない。口頭注意程度ですむだろう。


魚崎は、それを知っていたからこそこれほど露骨に煽りに来れるのだ。


西九条は一瞬反論に詰まった。魚崎の言葉の意味を理解したからと考えて間違いなかった。その合間をついて、魚崎が口を開く。



「姫島ぁ。それから、そこで泣いている人たちぃ。ちょっとこっちへいらっしゃあい。


この人たちが、面白いこと言ってるわぁ。」



さほど大きな声ではなかったが、試合が終わって応援の声もなく、人もまばらになり始めたスタンドではそれが十分通る。驚くことに、彼女の一声で、姫島を含むいつまでも席を立たず泣き続け、しまい周囲の男子生徒や気のいい女子生徒に心配され始めていた連中が、わらわらと10人くらい、


まるで生まれたばかりのゾンビのように集まってきた。事情も説明しないのになんの疑いもなく簡単に集結するあたりを見て、俺は一つの事実を知る。


……こいつら、魚崎の取り巻きだ。



「な……なにっ、っく、魚崎ぃ……い。


あーし、なんか、っ、涙、止まんね」



ゾンビの群れの先頭、姫島が嗚咽混じりにそんなことを言う。魚崎は、その頭を撫でながらこう言った。



「そうよねぇ。わかるわぁ。野球部の頑張りに、感動したのよねぇ。


ふつう、こんな大切な試合を観に来て、目の前で頑張っている人を見て、応援しない訳がないわよねぇ。自分達の趣味を優先していて、いいわけがないわよねぇ。


あなたが感情移入することは、何もおかしな事ではないし、恥ずかしいことでもないわぁ」



「っく、うええ……」



さめざめと泣き続ける姫島。それを励ます奴がいて、肩を支える奴がいて。そして、俺達を睨み付ける奴がいる。まるで、訓練された劇団のような、酷い茶番劇を見せられているかのようだった。


青春に定義はない。恐らく、彼女たちにとってはこれが……そうなのだろう。答えがないから安易に否定はしない。が、西九条の言葉を借りれば、


『そこで泣きわめくのが血の通った行動だと言うのなら、冷血で構わない』


である。



「けれど、ここの野球観戦部の人たちは、ね。


この試合中、一言も発さず、ずーっと、座って、自分達の部活動を優先させていたわぁ。あなたたちが必死に声をあげている時もねぇ。


ねぇ、あなたたち。どう思う?酷いと思わない?」



魚崎は問いかけの対象を魚崎ばかりに絞らなかった。取り巻きの十数人が、計ったかのように口々に俺達を非難する。もういちいち一人一人の言葉など聞いていなかったが、おおよそ「最低」とか「考えられない」とか「人間としてどうかと思う」とか、そういう類いのものだった。当たり前だが俺たちを擁護する意見はない。


しまい、小さな人だかりができていて、何やら言いあいが起きていると見るや、何事かと野次馬が数人、いやさらに十数人集まってきた。


これには男子も含まれている。観客シートを一列挟んで、他方は険しい表情で相手を睨み、他方は四五人がタオルで目元を覆っている。一人は大号泣。


端から見たとき、どちらが『悪そう』に見えるかは言うにあらずだろう。俺の頭は冷静さを取り戻しつつあった。これは、魚崎の計略だ、と。



「ウチらはなぁ!野球部に頼まれてーーー」



「ーーー野球部に売り込みかけたのは非常勤の香櫨園だと聞いているわぁ。あなたたちは、頼まれたんじゃないでしょお?自分達から、頼まれに行ったの。是が非でも部活審査を通りたかったから。」



「馬鹿は休み休み言え………!あの審査会は、たとえ部活代表が野球部でなくたって十分通過していたはずだ」



「どうかしらぁ?」



魚崎は無邪気そうに微笑んだ。俺は悟る。恐らく……恐らく、もし他どちらかが三点だったとしたら、あの時点で魚崎は一点を出すつもりだったのだと。二点代は再審査、そして再審査は更に条件が厳しくなる。3.5点以上。もし審査員に魚崎がいればその条件達成は限りなく不可能に近くなる。


魚崎は、あわよくばあの時点で野球観戦部を潰すつもりでいたのだ。



「全ては自分のため。全く、酷いものねぇ。おまけに言っていることも恐ろしく独善的。フフッ。


そりゃあ、野球部が負けたって、何も感じない訳よねぇ。双眼鏡覗いて、レポート書いて楽しいんですものね。


まぁーったく。


『野球好きが集まって、とことんまで野球の奥深さを楽しんでいく。』だったかしらぁ?あなたたちが審査会で言った、部の活動目的は。


笑えてきちゃうわね。人の敗北を無慈悲に分析して、わかったつもりで悦にでも入るのかしら。それが野球の奥深さだと言い張るつもりなら、あなたたちに野球ファンの資格は果たして本当にあるのかしらーーー」



「ーーーあなたごときが野球を語らないで。」



氷山の中にマグマが詰まったような、冷たくはあるが確実な熱情を込めて、西九条はそう言いはなった。


今まで聞いたことのない種類の、怒気の籠った声だった。その表情は羅刹か悪鬼かというほど険しく、刃物のような視線は魚先を鋭く刺す。若干、魚崎はたじろいだほどだった。



俺は、それを見聞きして、悟る。


西九条は、自分で耐えられる怒りのラインを越えてしまった。それが明らかに相手の策略で、見え透いた煽りだとしても………彼女にとって絶対に許せない、そして譲れない言葉を、それぞれ一つづつ魚先に言われてしまった。


事を、ここで構える気だ。今の彼女に先を見据える冷静さはない。実家の魚屋を馬鹿にされたこと、そして野球ファンであることを、野球を馬鹿にしたような見方しかできない連中に、否定されたこと。


彼女はもう絶対にそれを許さない。誰にだって譲れないところがある。彼女にとって、今がおそらくその時だ。そこに若さは関係ない。


それを止められるのは俺と春日野道だけ。だが、春日野道はおそらくもう止めない。一度甲子園口で引き留めをしている彼女は二度までも西九条に耐えることを求められないだろうし、


そもそも彼女自身が既にキレている。広島ファンであることを甲子園でカミングアウトされたことに対する恨みも当然あるだろう、西九条と彼女の様相はほぼニアイコールで結べるものだった。


となれば。止められるのは……まだ幾分かは冷静で、これが魚崎の嵌め手だとなんとなく察せている俺だけ、ということになるが……



止める必要があるだろうか?止めたところで、ここを耐えたところで、その先どうなるだろうか?


言い返すこともせず、自尊心を傷つけられたまま活動を続けて、何か得るものがあるだろうか。こうまで言われて、それでも部の保身を求めて制止をする俺を、彼女達はこれから先信頼していけるだろうか。


冷静であることは生きていく上で大切なことだ。だが、怒るべきときに怒れないのは感情が死んでしまっているのと同じことだし、感情がなくなった人間はもう人間ではない。行動を、危険の少ない方向に選択するだけの、ただの機械かコンピュータだ。


西九条がトラキチであることをカミングアウトしたとき、俺は彼女の心を救うために『活動目的を沿わせればいい』と言った。野球の楽しみかたを突き詰めていけばいいと言った。感情のない人間に果たしてそれができるのか?できはしないだろう。


感情あってこそ、ファンであれる。阪神への『好き』で狂っている西九条がそうであるように。


過去、プレイヤーだった俺も、野球観戦部に所属する俺も、野球ファンであることに変わりはないし、この先もそうでありたい。


であれば、答えは自ずから生まれ来る。



ーーー俺は、もう、彼女を止めない。




「………野球部が負けて何も感じないのが冷血?全くおかしな事を言うものね。


そもそも私達は泣きたくなるような感情を持たないだけで、この試合から色々な事を感じている。バッターの視線、監督の腕組み、ピッチャーの息づかい。グラウンドが一つの生き物のようなもの。それを、目を凝らし耳を研ぎ済まして感じている。


敵味方関わりなく、試合の声を聞いているの。一つの試合が訴えかけてくることを、逃さず漏らさず受け止める努力をする。


私達には、野球そのものに対する熱情があるわ。」



魚崎が鼻で笑ったのを皮切りに、人だかりの中から複数の嘲笑が起こる。だが、西九条は全く意に介さないようだった。確固たる信念を持った人間は、自分の言葉を疑わない。



「魚崎。あなたの話を聞いていると、さもあなたたちが血の通った人間であるように語っているように思うのだけれど、


私にはそれがわからないわ。何故、あなたたちは泣くの?この試合を見て、何を思って泣いているの?それが、あたかも正しい事のように語れるのは、何故?」



真っ向から立ち向かっていく西九条。数の暴力たる魚崎の取り巻きに、屈する気配は欠片もない。


その行動が果たして意味を成すかはわからないが、俺は一歩、西九条の前へ出た。春日野道も同じように前に出る。これ以上何かが起こることは避けたいところだが、万一何かあったときには、盾になるつもりでいた。要するに………西九条の心に欠片でも安寧を与えたかった。


わかりきった事ではあるが魚崎は狼狽えない。むしろ、少し気圧された様子は後ろの取り巻き達だった。魚崎のそれがあると言うわけではない、が、彼女らは命じられて動員されたに過ぎず、その行動に信念はない。たとえ大人数相手でも自分を曲げないと決め込んだ西九条相手に、気迫で勝てるわけがなかった。


魚崎が微笑み口を閉ざすなか、西九条は続ける。



「野球部はこのグラウンドに来るまで、長くて二年半、壮絶な苦労をしてきているわ。私が語るもおこがましい話だけれど。


今日、七回に打ち込まれた梅田さん。一年の頃からレギュラーで一線級を張ってきたツケがここに来て出て、コンディションはお世辞にも良くなかった。本人から聞いた話よ。


残り一ヶ月で休養を挟みつつ何とか、今の状態に戻してきたけれど……最良の状態なら今日ほど打ち込まれる事はなかったはず。無念だったと思うわ。


けれどそれは、裏を返せば本来の力を発揮できないほど、ボロボロになるまでこの二年半を全力で駆け抜けてきたということ。


人に想像ができないくらいの苦労を重ねてきた結果の、あのマウンドということ。」



「だから!だから泣けるんだろーがよ!」



酷い泣きっ面でそう叫んだのは姫島だった。後ろで泣いていた取り巻きの女子生徒数人も、声は大きくないものの同意の声を上げ、また泣き、それを野次馬の男子生徒が慰める。



「逆に、何でそこまでわかってて、泣けないのか、あーしにはわかんねー!


お前ら、楽しいんだろ?勝とうが負けようが、野球見てれば楽しいから、人の苦労なんて考えられないでそうやって、自分勝手に、自分の楽しいことだけやり通して!


人の気持ちなんて、何もわからねーからーーーー」



「ーーーわかる?


何があなたにわかると言うの?」



降り下げられた刀を奪い、一刀両断に伏すかのように、厳しく険しい声で西九条が言う。


姫島は明らかにたじろいだ。西九条は気にもかけず畳み掛ける。



「私に人の苦労がわからない、と言ったわね。


だとしたらあなたは、梅田さんの苦労の一端でも理解しているということなのかしら。


一年生の頃から将来のエースと目され、常にチームの要としての重責を任され、その責任意識から自分のコンディション不良を監督に訴えることもできず、最後実力をフルに発揮できないままマウンドを降りることになったあのエースの、


努力を、苦悩を、理解できるということなのかしら?」



「そ、そのしんどさが想像できるから!だから、感情移入して、泣けるんじゃねぇかよ!お前らとは違うんだよ!」



「想像できるですって?笑わせないでくれるかしら。


春日野道さんに聞くところ、あなたたち重音部は伝説的な先輩たちの栄光を傘に着て、毎日遊び呆けているだけらしいじゃないの。それはそうよね、毎日飽きもせず私たちへの嫌がらせばかりしに来れるのだから。随分暇がなければあんなことはできないわ。


そんなあなたたちが?毎日朝5時から朝練をし、昼休みも返上して野球に打ち込み、寝る間も練習に費やすような生活を続けてきたあの人たちの、


苦労が想像できるって言うの?


野球を愚弄するのも大概にしてほしいものね。あなたたちごときが感情移入していい領域にないわ。もう一度聞くけれど、あなたたちは何故そうも泣けるの?」



「それは……お前………!」



何か言いかえそうとしているのはわかったが、姫島は明らかに西九条の怒濤の押しに対応できていなかった。無理もない。ここまで感情的になった西九条を俺も初めて見たが、


普段とはその気持ちの入り具合が段違いだった。


彼女自身は、野球部の為に怒っているわけではない。つまるところ、ふざけた野球の見方をしている上に人の観戦の仕方を批判する彼女らの、その高慢さに怒っている。無論、自分の生い立ちや部そのものをバカにされた怒りも追い風になっているのだろう。だが、今の彼女をもっとも大きく突き動かしているものは、


自分の大好きな野球に、半端者が土足で入り込んできてそれを我が物顔で語り始めたことに対する怒り、


つまるところ、野球への彼女の思い入れそのものだった。


気が入るのは……当然のことだろう。



周囲の人間も、押し黙る。何も言えるはずがなかった。人間が元来持ち合わせて生まれてくる、ほんの少しの自制心さえ残っていれば、


西九条の言葉は、鋭く、胸に突き刺さるはずだったからだ。



「私は、人の野球の見方をとやかく言う趣味はないわ。けれど、そんなうだった自分勝手な観戦……いいえ、あなたたちは戦いを見てはいないわ。もはや私利私欲といってもいい。自分の心の貧しさ、努力の乏しさ……今の自分では絶対に得られないとわかっている感動を、手っ取り早く補給したいが為に、そして周りに優しくされたいが為に野球を使う、そんな青春のごっこ遊びを、あたかも正しいと思い込んで、他人を貶すのだから、


それを許さない。私はいいとしても、


私につきあって、真剣に野球をみている、


春日野道さんと、出屋敷を、愚弄することは、


決して許さない。」



それを聞いても俺は後ろを振り返らなかった。春日野道にしても、魚崎と姫島をきっと睨み付けたまま、頑として動かなかった。


だが、確かに心は打ち震えていた。ここで表立って喜んでしまっては、自分も野球部をダシに使って青春を得ようとする愚か者になってしまう。そんな気持ちが、すんでのところでそれを思い止まらせたのだった。


西九条の真意を……わかってやらなければならない。


彼女は、野球を愛するもの………ことに、一つの球団を狂信的に愛するもの、トラキチとして、


俺や春日野道も含めた野球ファン全体を愚弄するかのような、重音部の連中の言動、行動が、


ただただ、許せないだけなのだ。



「お、お前らだって!お前らにだって、野球部の苦労なんかわかるわけねーだろ!何を偉そうに!」



完全にいなされた背後の十数人とは違って、姫島は意地でも言い返そうとしていた。魚崎の手前、もう引くに引けないだけだったかもしれないが。


だが、これは全く悪手としか言えない発言だった。姫島の苦し紛れの……持ち時間一杯、熟考の余地もない焦りの一手は、


西九条に付け入る隙を与える結果以上のものを生まなかった。



「だから私達は、泣かないわ。


自分のできることをやるの。野球観戦部としてできることを。


香櫨園先生が、武庫川監督に協力を依頼しに行ったのは、確かに事実よ。野球部に、力になってほしいと思ったのも、確かなこと。


………だから私は……私達は、私たちの思う最大限の敬意を払った。野球部でもなく、グラウンドにも入れない、共に汗を流したこともない、その苦労の一端をも知らない人間だから、できることとやってはいけないことを確かめた上で、この試合を観ていた。


言ったでしょう?バッターの視線、監督の腕組み、ピッチャーの息づかい。一つの生き物たる試合の、その一挙一動を見逃さない。事細かに記録して、分析する。そして、野球への理解を深めていく。


今日の試合は、血肉として私のが滅ぶまで永遠に残っていくわ。それくらい、真剣に観ていた。それが私たちの敬意。


私達にできることは、その苦労も想いも理解できるはずのない立場で、あくまで第三者として、


その試合に選手達がぶつける力と技と思考を、


感じ取ろうとすることだけなの。」



詭弁のようだが、それが全てだった。


俺の心からつっかえ棒が取り外されていく。七回の表に感じた苛立ちや憤り、心にかかっていたモヤの類いは、霧が晴れるかのように穏やかなものになっていった。


野球観戦部にできることは、野球観戦だけ。


感情移入などとんでもない。その苦労を知らないものに、それに関わった事のない者に、それに触れる権利はないし、


西九条の言ったように、安易にそれに触れようとして、触れたつもりになって、擬似的に同じ感動を得ようとするのは、


単にずぼらでしかなく、9の怒哀あって1の喜楽ありと言われる運動部の修行僧のような生活の、1だけをつまみ食いするような、卑怯な行動に他ならない。



であれば、俺達にできることは。その万感の想いの込められたプレーを、力と力のぶつかり合いで生じる火花の美しさを、


感じ取ろうとする、ただそれだけのことなのだ。


こと、学生野球。彼らは感動の売り手ではない。視る側も、買い手であってはならない。プロ野球とは違うし、映画とも違う。


彼らの苦労は、それを共にしたものにしか共感する権利はないし、他人が土足で踏み込んでいいわけがないものなのだから。



「うっ……ぐ………」



姫島にもさしたる信念はない。彼女は、言わば買い手であろうとした人間。なんとなくそこに、安くて感動が手に入りそうなものが転がっていたから、手をつけただけのこと。


そんな人間が、確固たる意思を持った人間である西九条に、その想いの強さで勝てる道理はなかった。


もはや彼女には、反論を用意するだけの材料は手元になかった。



涙など引っ込み、その場に釘付けにされた女子生徒、知らぬ間にその数が激減した野次馬の男子生徒。数の暴力は跳ね返され、完全に瓦解した。姫島も打出も、歯を食い縛るだけで何も出来ないし、何も言えやしなかった。



「………もういいかしら。


あなた達が突っかかって来さえしなければ、私達にはこんなことを言う必要性も理由もないの。


自分をそこまで立派な人間だと威張り散らす趣味はないわ。


お互い気分悪いだけだから、さっさと消えて。」



荒れに荒れた息が整ってから、西九条は瞑目してそう言った。自らの信念が守られ、野球を愚弄する者をいなした今、これ以上彼女が求めることはなかったのだろう。


おそらく『魚屋』のくだり、完全無欠の悪口に関してはやはり、何か物申したいことがあったはずだ。だが、彼女はそれを蒸し返すことをする気はないようだった。あるいは……そっちはあくまで何か公的な機関で、この後徹底的に叩くつもりでいたのかもしれないが。



………ここが野球場であって、スタンドであって。


一つ起こってしまった争乱は仕方がないにしろ、互いに言葉を撃ち合って、撃ち尽くして。


一応の決着がついてしまったと判断できる以上、これ以後の継続はどう考えても避けるべきだった。



内容はどう考えても西九条の勝利だった。彼女とて言われること言われて、いわれのない誹謗中傷まで受けてボロボロだったが、しかし最後まで立っていた以上、彼女は間違いなくその小競り合いにおいては勝利者だった。


男子生徒はバスの時間を理由にすべて去り、取り巻きですら悪態こそつきながらも退散する。勝負ありでそのまま終息。これが、どう考えても双方の採るべき選択肢だった。



…………が、しかし。


勝利目前から一気に敗者に転げ落ち、その事をよしとできず、引き下がれもできない人間が、そこにはただ一人存在した。


姫島を同情の集積地としようとした、魚崎。


その目論見がほぼ失敗に終わっても、それが彼女の引き際にはならなかった。



「ご高説痛みいったわぁ。


ふふ、まるで月夜の蟹、といったころかしらぁ。


噛んでいて、まるで味がしなかったわ。」



一目で作り物とわかる微笑を浮かべながら、言葉を失った姫島の前に立つ。俺と春日野道は更に間を詰めて、西九条を庇うようにした。西九条は、それを押し退けるようにして前に出てくる。



「味覚音痴なのね。あれで話がわからないのならもうどう料理すればいいのかわからない。」



「どうとでも言えばいいわぁ。あなたの味付けが悪いのか、私の舌がおかしいのか。」



ふふ、と魚崎は不敵に笑った。まだ何か腹に一物抱えているのはそれですぐにわかった。



「食う気もあらへんで手ぇつけへんかっただけやろ。」



「勝手に食レポでもやってろ。もう帰れ。」



春日野道と俺から、それぞれそんな返事が出たのは、ほぼ同時のことだった。俺と彼女は、その事実に顔を見合わせ、そして頷く。


もうこれ以上西九条にこいつを近づけまいという合図だと、俺は受け取った。


予想済みではあったが、その程度で魚崎は怯まない。



「言葉遊びをしたいわけではないのよぉ、春日野道、出屋敷くん。


ただぁ、そこの小娘がわかった風な口をきくものだから、その勘違いを正しておかないとぉ、


気がすまないだけ。」



「勘違い………?」



食らいつくように西九条が前に出ようとする。春日野道と俺はそれを必死に抑えたが、それはさして意味を成さなかった。


魚崎が、やはり微笑で向こうから近づいてきて、突如西九条の目と鼻の先にまで顔を近づけていったからだった。


さすがに怯んだ西九条。更に俺達はそれを庇ったが、魚崎はまるでそれが存在しないかのように、透過して西九条だけが見えているかのように、彼女だけを見据えてこんなことを言った。



「あなたは阪神カイザースにあれだけ感情移入しているじゃあない?


姫島は許されなくて、フフッ、


トラキチは許されるのかしら?」



ーーー最後の最後にとんでもない煽りをブチこんできてくれた、と俺の頭のなかでそんな思考が弾けたとき、


冷静な部分の俺は西九条を抑える事を考え、爆発した方の俺は、魚崎に口汚い思い付く限りの罵声を浴びせようとした。



昨日の、西九条家の光景が甦る。地べたで勉強をしていた弟たち、二組しかない布団、短すぎる妹ちゃんの学習鉛筆。


晩飯がキュウリになるという話。爪に火を灯すような生活。


そうして貯める、甲子園へ阪神の応援に行くための資金。甲子園基金の、貯金箱。



姫島ごときのそれと、西九条の阪神愛を比べるな。それは、完全無欠の冒涜だ。


トラキチとして16年間を過ごし、自分の何もかもを投げうって阪神を応援する彼女は、もはや応援する立場において、今日試合をしていた野球部員にも等しい苦労と、それを支える情熱を持っている。彼女は、並の覚悟で阪神ファンをしているわけではない。


軽々しく口にするな。彼女が阪神に感情移入するのは当然の権利だ。


プロ野球選手はファンに生かされている。オヤジは……タイヨウはそう言った。ああまでよく野球をみているファンを、命をかけて、生活をかけて応援してくれているファンを逃しちゃならねぇ、と。



そんな人間が、冗談でも姫島のように野球を舐めている人間と同じ土俵に乗せられていいわけがあるか。魚先のように、本当に野球を道具としか見ていない人間に、語られていいはずがあるか。



いいわけがない。許されるはずがない。



俺の頭は、爆発した。冷静さはその勢力範囲を、意図的に譲り渡した。


肺に新鮮な息が入り、毒と混じって喉を通り、外へと飛び出す。



その瞬間、自分が何を言ったのか、正確には掴みかねた。白熱した頭の中では思考より言葉が先に出ていたし。


何より、それを聞き取る耳が全く機能していなかったからだ。なぜなら、


同じタイミングで、全く同じタイミングで春日野道と西九条も何かを叫び、怒鳴り散らしたからだった。



その瞬間。その三つの声が混じり、三つの言葉が一つの塊になった瞬間、


魚崎の表情が愉悦に歪んだ。彼女は、その場に膝を折り、呆然とする姫島にこう囁きかけた。



「泣きなさい。姫島」



姫島は困惑して顔を上げた。魚崎は今にも人を殺しそうなほど冷酷な笑みでもって、



「あなた、今、侮辱されたのよ。


だから、泣きなさい。悲しみなさい。


これは、命令よ。得意でしょ?」



そう、もう一度ささやいた。



姫島は………訳もわからないまま泣いた。まるで迷子の四歳時のようにわめくその様は、ネグレクトを受ける幼児のようにも感じられて、変な哀れみすら、生まれてくるほどだった。


そんななか、「よーし、いい子ね」と姫島の頭を満面の笑みでもって撫で回した魚崎はゆらりと立ち上がり。



俺達三人のそれに負けないくらい憎しみの籠った目でこちらを睨み付けて、


それから黒笑としか表現のしようのない、腹の底から何かが抉れ出てくるような表情でもって、


こんなことを言った。




「条件は整ったわぁ。部活法廷で会いましょう。


ただし、被告人はあなた方よぉ。」



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