まさに トラ・トラ・トラ




喧嘩別れした相手がいたとして。


さんざん格好をつけて出ていった割に十分もしたら戻ってきて、『夜道が危なそうだからやっぱり一緒に帰る』などと言い始めたら、言われた本人はそれはそれは滑稽なことだろう。


実際俺もかなり恥ずかしい思いでそれを言った。それ自体が少しヒーロー気取り、男を売り込もうとしている行為だと考えられなくもなくて、それが少し厨二病じみて感じられたのだ。



空気が読めて、なおかつある程度俺の気持ちも理解してくれる春日野道はここぞとばかりに大いに笑ってくれて茶化してくれて、まあ、そのなんだ、こちらとしてもかなり気持ちの上で助かった訳であるが。


事不器用な西九条はそうはいかない。余計なことを言ってしまったという思いと軽い傷心も影響しているのだろうが、その日互いの最寄りのバス停で別れるまで、終始無言を貫いた。


原因を作っておいてこんなことを言うのも何だが、さあこれから目標に向かっていこうという部活の雰囲気としては、最悪のものだと言えた。正味、めちゃくちゃに酷い言い合いをしたわけでもないのに……いや、却って言いたいこと全部ぶちまけなかったのが災いしてか、この先しばらくは、少なくとも西九条とは……まともな話ができそうもないような気がした。


結局、互いにクーリングオフの時間があれば気持ちの整理もついて次の日はぎこちないながらも話ができたのかもしれないが、やむを得ない理由とはいえそれをお流しにしてしまった以上、気まずい空気で顔を見合せ、それが継続してしまうのは目に見えていた。



案の定、というのか、もはや予想外というべきか、どうにもギクシャクしてしまった雰囲気は時間による解決が果たされぬまま、結局一月に渡って続いた。


部活審査会が迫っていることと、野球部への支援をおざなりにできないことが重なって、必要最低限の会話が行われないことは無かったが………気まずさを引きずってしまったか、西九条は明らかに俺との会話を避けていた。


針ネズミの恋という例え話がある。二匹のハリネズミが寄り添おうとするとき、互いの針が互いの体を傷つけあってしまう。それでもひっついて、はなれて、傷つけあってようやく自分達に丁度よい距離がわかるようになる、というもの。


よく恋愛に用いられる話で、安易に部活動に持ち込むべきそれではないのかもしれないが……本来、俺と西九条、春日野道はそうあるべきなのかもしれないと思う。


互いの針でグサグサやりあって相手のリーチを探って適切な距離を掴む。意外とチームワークが大切になるこの部活で、しかもトラキチである西九条を受け入れていくと曲がりなりにも宣言した身の上で、それは至極重要な事のように思える。


今回、西九条の針は長すぎて俺を刺した。それにビックリして伸びた俺の針で、西九条も刺された。


それはそれでよかったのだ。必要な事だったとすら言える。二週間弱では到底掴みようもない距離感を、なんとなく知ることのできた、いい機会だったのだから。


だが、後の事は非常によくない。つまるところ、西九条は刺すのも刺されるのも怖くなったか、あるいは億劫に感じたか、


近づいていこうとする努力をやめて、むしろ離れていってしまったのだ。



部活自体は、それでも順調に進む。香櫨園が立てた予定通り、平日はほぼ野球部の練習の分析を行って、まとめたものを武庫川へ提出。土日のどっちかは潜入偵察として県の強豪校へ赴き、データ集め。


互いの、最低限の仕事はこなすという根底にある真面目ささえ失われなければ、それなりには力を出せる。実際武庫川は俺達の持ってくる種々類々の情報を、手を叩いて喜んでくれるほどだった。



だが、そこに充足感はない。それが必要か必要でないか、と言われると、一度必要ないと定義してしまえばさほど重要ではないように思えてくる。が、部員三人の実力が全うに噛み合うかと言われればその限りではなく。西九条の圧倒的な観察力と知識、俺のプレイヤーとしての観点、春日野道のいい意味で平均的な感性と抜群の調整力、これらが組合わさったときようやく最高級のパフォーマンスができると考えている身としては……不完全燃焼というのか、


今のままでは、実力の80%くらいで、適当にやっている適当な部活にしか、感じられないのだ。


つまり、不満、ということになる。




ーーー次第、野球部員からの信頼すら受けるようになって、香櫨園の目論見通りいよいよ部ぐるみの付き合いが始まろうかという頃になったとき、


常に中間的な立ち位置で、俺と西九条の仲をやんわり取り持とうと奮闘していた春日野道が、ついに動いた。


野球部三年生の最後の大会、夏の全国高校野球選手権大会地方予選、つまり夏の甲子園の予選大会開幕の、その約一週間前の出来事だった。


信頼を受けるということは、より充実した情報を求められるということである。それだけのパフォーマンスを期待されるということである。


実は部内の問題さえ解決すればそれが可能だと知る春日野道にとって、もはやその解決を先伸ばしにすることは状況的に不可能だったのだろう。単純に、そのギクシャクした雰囲気に耐えきれなくなっただけという見方も、できなくはなかったが。



ーーーその日は日曜日で、本来なら部活は休みだった。が、その前日、偵察からの帰り道での事。



「あんな、父親からチケットもらってん。三枚。


せやから明日、甲子園にデーゲーム観に行こう!


野球観戦部としてやなくて、うちら三人で遊びに行くつもりで!」



翌日の阪神広島戦ライトスタンドのチケットを三枚振り回して、春日野道はそう提案してきた。無駄に快活に振る舞う彼女を見れば、それが俺と西九条のためのものであることは火を見るより明らかなことで、


たぶん、お互い、いい加減に彼女に迷惑をかけ続けることにうんざりしていたのだろう俺と西九条は、揃った口で賛成を示した。野球観戦部を繋げるものははからずも野球しかないのだと、気づかされた瞬間でもあった。


プライベートでの観戦とあって、特にスコアブックを記す必要も、試合を詳細に分析する必要もなく、ただ純粋に楽しみに行こうという提案は、少なくとも俺の心に、解決への本格的な努力を決意させるものだったのである。それが、可能な状況が作られると……そう思ったからだった。


が、問題がひとつあった。カードが、『阪神対広島』戦、席が『ライトスタンド』であったということだ。


これまで野球観戦部は乏しい部費で二度、甲子園に赴いているが、どちらも、一塁アルプス席、しかも春日野道が来てからは広島戦を避けての観戦だった。


広島戦の時、基本的に『広島ファン』である春日野道は、外野席というくくりにおいて、外野レフトのビジター応援席以外に座ってはならないことになっている。逆に、ビジター席に阪神ファンである西九条は座れない。


つまり、互いに応援席を犯すなかれというルールが存在する、ということだ。


しかし今回、春日野道が持ってきたチケットは、阪神対広島の試合であり、なおかつ阪神ファンの聖地とも言える外野ライトスタンドのもの。本来広島ファンの立ち入りが許される場所ではなく、その応援などもってのほかと言わざるを得ない場所のものであったのだ。


無論、そんなことに春日野道が気づかない訳はない。彼女とて、親が優勝決定戦で離婚してしまうほどの広島ファンである。



「ウチは明日、広島ファンである事を一切表に出さん。


純粋なプロ野球ファンになる。観戦に来ただけの、シンジローと同じような人間に。」



不安を口にした西九条に、春日野道はそう答えた。つまり、限りなく俺と西九条のための観戦だということになる。若干の不安は残るが、その時点で俺たちは何も言えなかった。



………『ファン』というのは、別に戸籍謄本に記されているわけでもない、明記するものが何もなく、つまり精神的な部分に依るものである。自分が阪神ファンであると言えば阪神ファンだし、読買ファンであるといえばそういうことになる。それを証明する手段などは、存在しない。でなければ、もともと阪神ファンだった漫画家が、そのあと大英ファンになったなんて話は、認められるものではないだろう。これは実際にあった話なのだ。


では、スタンドにおいて、何がファンをファンたらしめるのか。


答えは、それらしい行動、という外ない。


声援を送ること、グッズを持ち込むこと、徒党を組んで応援をすること。目に見える行動こそが、ファンであるという証明であり、認知のもとになる。


つまり、ライトスタンドに広島のユニフォームを着て入ったり、応援歌を歌ったり、グッズを持ち込んだりしたのなら、


春日野道は広島ファンと認められ、ルール違反ということになる、ということだ。



………裏を返せば、その一切がなければ、彼女を『広島ファン』と証明するのは不可能であるということである。


例えば、広島の『栗山』という選手が好きな『阪神ファン』がいたとしたらどうか。心のなかで栗山を応援することを止められる人間がどこにいるだろう?それによって不快に思う人間が回りに生まれるだろうか。


他人に『広島ファン』である事をアピールする一切の手段を捨てた人間は、『広島ファン』である認知をされない。つまり、俺と西九条のために一肌脱いで、単純なプロ野球ファンになりきろうという彼女が、ライトスタンドで野球を観ることは……本来好ましくないことではあるが、


モラルに反するところまでには至らない、ということだ。


実際、ビジター応援席で禁止されている行動は……『対戦球団の応援、グッズの持ち込み』ということになっている。回りの人間が不快になる行為の禁止、ということだ。それが犯されていないのであれば……問題はない。



実際、当日春日野道は徹底的に広島ファンである事を捨てて現れた。グッズなどはもちろん持ち込まない。いつも使っているレッズ仕様のカバンですら、この日に限っては緑色の普通のデザインのナップザック、ケータイについていたキーホルダーの類いまで全部外してきたのだ。


これでもとが広島ファンだと気づける奴がいるとしたら、そいつは今すぐFBIの超能力捜査官にでもなるべきだろう。ともかく、そこからは春日野道の本気と思いやりが伺えて、その時点で既に西九条の態度は少し柔和になった。


もともと、憤りが元で俺に対しての態度が変貌したわけではない。少し歩み寄る気持ちがあれば、それだけで氷山の一角は溶け始める。春日野道の気持ちに応えようという彼女の意気は、一ヶ月もの間停滞していた空気を少し緩ませた。それだけでもはや、価千金と言うべきだった。



さて、試合の方はというと、そんな春日野道の想いを汲み取ったかのように、手に汗握る素晴らしい投手戦が展開された。


阪神の先発、エース川井はこの日とにかく決め球のサークルチェンジが冴え、五回までノーヒットピッチング、七回途中までを無失点に抑え、三振の山を築いてリリーフ陣にバトンタッチ。対する広島もエース黒木が力戦奮闘、要所をキッチリ締めるピッチングで三塁を踏ませず、両チーム打線が完全に沈黙という展開のまま、試合は八回表にに突入しようとしていた。


よく言えば接戦、悪く言えば盛り上がりに欠ける試合。だが、野球観戦部としては最高の展開だった。


俺達のために広島ファンであることを伏せている春日野道は、感情を表に出す事を我慢する必要性が(感情を表に出す展開がめぐってこないという意味で)さほどなかったし、少し変わり種のトラキチといった趣の西九条は、これぞ野球の醍醐味とばかり食いつくようにその試合を観ていて、


かなり楽しそうであった。普段と比べれば、目の輝きにアルタイルと五等星のごとき差があった。もちろん今日が、アルタイルである。両軍エースの見事なピッチングの上にあっては、阪神打者の不甲斐なさより敵ながら天晴れの黒木のピッチングが凄いのだとしか感じられないらしく、


今日に限ってはヤジも飛ばしに行かなかった。一度たりと、席を立ちはしなかったのである。


俺は俺で………春日野道の目論見通りに、一ヶ月冷え込んでいた雰囲気がどんどん柔らかくなっていくのを、心地よく感じずにはいられなかった。これこそが自分達の関係、などと言えるほど長い付き合いではないし、言えたほど仲良くはない。


だが、やはり話はちゃんとできた方がいいし、ほか二人が楽しそうにしている方が、部活としてはやりやすく、充実する。



春日野道には、感謝しなければならないと思った。どう考えても、俺から何かモーションを起こすことはありえなかったから……もし、彼女が重音部から移籍してこなければ、既に野球観戦部は崩壊していたかもしれないと思うのである。



今度は、俺が父親にねだってどちらのファンも入れる内野三塁アイビーシートのチケットを貰ってこよう。


そんな事を思いながらの八回表。



川井に代わって登板した藤掛兆治が威力抜群のストレートで面白いくらい簡単に三振を三つとり、大歓声の中で阪神の攻撃に移っていく。


さすがに三者連続三振とあって、球場の流れは肌に感じるほど阪神に傾いていった。西九条の膝の上の拳に力が入った事からもそれは伺える。春日野道がなんとなく複雑そうな表情をしていたことも、申し訳なくはあったがその証明にはなった。


打順は二番の辻本から。三番四番五番とスイーツ、金子、新井熊とスラッガーが続く。試合が動くとしたらこの回だ。球場全体にそんな希望と興奮、期待と祈りが渦巻く。一点取った方の勝ち。阪神は、大いにそのチャンスあり。


鼻息すら荒くなりそうな西九条の食い入りっぷりが滑稽にすら感じられて、俺と春日野道は顔を見合せて少し笑い。


やはり和やかな空気が、停滞していた悪い雰囲気を押し流し始めた、そのころ。




事件は、その時起こった。




「あらぁ~?西九条さんかしらぁ?こんなところで、奇遇ねぇ。」



背後から、招かざる客の声が聞こえて、俺含め3人ともは、後ろを振り返ることすらしなかった。緩やかに流れ始めたいい空気が、針でついた風船のごとく一気に弾ける。疑いようがなかった。声の主は、重音部部長にして生徒会会長の、


魚崎、その人のものであった。



「……ここにあなた方の荷物はないわ。


今日は邪魔される理由がない。消えて。」



地獄の獄卒のごとく冷えきった怒りを込めて、西九条はそう言った。振り替えることもせず、背中で撥ね付けるかのような言葉だった。


重音部の嫌がらせは一月の間にさらにエスカレートしており。わざわざ運ぶ必要のない荷物を音楽準備室に持ってきて置いて、回収せず手狭にして見せたり。あくまで『持っていく道具を選別する』という名目で教室内でチューニングや、酷いときは演奏を始めたり。彼女らの仕業とは断定できないが椅子がなくなったりと、その度合いを酷いものにしていた。


ゆえに、春日野道、西九条共々、彼女らに対する意識は怨念か憎悪といったレベルに、進化していた。


………まあ、俺も人の事は言えないが。



「あらあらぁ~、そんな冷たいこと言わないで。部室を共有するもの同士じゃないの。


ごめんなさいねぇ、最近は。打出さんと、姫島さんがぁ、注意しても止まらなくてぇ」



「言うに事欠いてワレ……!!」



春日野道が憤りを露に立ち上がり、高二とは信じられないような言葉を使い、魚崎を睨み付ける。俺も立ち上がって、春日野道がそれ以上前進するのを制止する。正直俺がこの手でボコボコにしてやりたいレベルに腹立っていたが、ここでの揉め事はすなわち、野球観戦部の終焉を意味していた。



「あらぁ~?春日野道。あなた、いたの。」



ーーー瞬間、魚崎の表情がぐらりと歪む。


不敵、と表現するのが最も相応しい、確実に腹に一物含んだ、見ているこっちがゾッとするような笑みだった。



「俺達は野球観戦部だ。野球観戦に何の不思議もないだろう。


逆に、お前らがここにいる方がよっぽど不思議だよ。」



春日野道が怒りに任せて取り返しのつかないことを言い出す前に、俺が答えた。魚崎の表情がふと緩んで、


「あら、出屋敷くん。こんにちは」と笑顔で頭を下げる。当然俺は返答しなかったが、腹のなかは熊手でかき回されたような不快感に溢れていた。



「私はぁ、友達と、野球を見に来ただけよ。


野球に興味は無いけれどぉ、男の子が、チケットくれて誘ってくれたから、ついてきたの。あなた達と同じ、純粋なぁ、野球観戦よ。」



「純粋?笑わせるわね。」



相変わらず冷徹な声で西九条が吐き捨てる。その背中から出る威圧感は、俺が押し出されそうなほどの威力があった。だが、魚崎には大したダメージはない。



「あなたにとやかく言われる筋合いは無いわぁ。


私、結構、ここに来るのよぉ?知っているんだからぁ、あなたが席を離れて何をしているのか。」



「………!」



西九条が後ろを振り返って魚崎を睨み付ける。激しい憎悪に満ちた、羅漢仁王の如くの怒りの目であった。



「ふふ、いい目ねぇ。私、あなたのそういうところ、好きよぉ」



「魚崎ぃ!!」



怒りを爆発させたのは春日野道だった。


あまりに激しく、そして唐突な叫びであったがために、周囲の阪神ファンの注目も集めてしまい、場は騒然とする。


この状況に、春日野道はたじろぎ、


そして魚崎は、


してやったりとばかりに大きく顔を笑みに歪めた。



「春日野道。あなた、何でここにいるのぉ?」



「野球観戦しに来た言うとるやろ!!


お前と話する口持たんのじゃ、はよいね(どっか行け)や!!」



「私が聞いているのはそういうことではないわぁ。


何で、あなたのような人がここにいられるの?と聞いているの。」



「は、ハァ?!お前、頭大丈夫か?しっちゃかめっちゃかでなに言うてるかわからんぞ!」



困惑を隠せず、だが気で負ける訳にもいかない春日野道は叫び返す。女子高生二人が言い合いをしているという状況下、回の合間とあって静寂に包まれているなかでの言いあいでは、目立たないわけもなかった。周囲の耳目がこっちに集中してきているのがわかる。


さすがに俺は不味いと思った。何が、というわけではなく、その状況自体が好ましくないと思ったのである。


へんな注目を集めてしまっている状況下、さすがに魚崎も同じように考えているだろう。そろそろ引き上げてくれれば。そう思って彼女の顔を仰いだ俺は、背骨から凍りつくような感覚に襲われた。


魚崎はこの上なく愉快そうに笑っているのである。


彼女は、残念ながら頭がいい。この状況下で笑えるということは、気が触れた訳ではない以上、何かメリットがあるということだ。


ヤバい。俺は直感的にそう思った。阪神ファンの注目と、春日野道という二つの要素が線で結ばれたとき、魚崎に大きな利が訪れるとすれば、それはなんだ。何かとてつもなく嫌な予感がするーーー



「あなたぁ、


広島ファンなのに何でここにいるのぉ?」




……魚先にこれほどの声が出せるのか、と驚嘆してしまうほどの大声だった。


耳目が集まった中で、あの声量では、聞こえない方がおかしい。周囲の阪神ファンの視線が、興味から一気に敵意に変わる。


春日野道から力が抜けていく音がした。西九条の怒りが限界に達した事を示す熱を感じた。


その時の俺達は、もう完全に魚崎の手のひらで踊らされていた。露見するはずのない事実が、ひとつだけ明らかになる方法があった。


誰がが、その事実を明かしてしまうことだ。


それに気づけなかった俺達は……もはや、三人まとめてライトスタンドに居座る非常識な広島ファンだった。タイヨウの息子でも、人生を賭けるトラキチでも関係なく、


ルール違反の、野球ファンの風上にも置けないクズ野郎という評価が、四面楚歌、矢のように突き刺さってきていた。



気がついたときには俺は、春日野道の手を引き、殴りかからんばかりの勢いで突撃していく西九条を抱え、勝ち誇った笑みを浮かべる魚崎を押し退け逃げるように甲子園の外へ出ていた。


ゲートを出てもその足は止めず、とにかく遠くまで走ろうと、球場から離れようとした。



それで、自分が何をしているのか冷静にはんだんがつくようになった頃になってようやく、足を止めた。改札を通って阪神電車を待つホーム、そこは甲子園口駅の一番線だった。



「………大丈夫か?」



そんな俺の問いに、二人は答えなかった。単に息切れが激しいのもあっただろうが、春日野道にはもはや立ち上がる気力もなく、西九条は溢れかえった怒りに自分を制御する術を失っているようだった。


それだけ、五千近くの阪神ファンによる刺すような視線は耐え難く、そして魚崎の策略は卑劣で愚劣だったということである。



「……ウチが……悪いんや」



球場を離れた安心もあったのだろう。とうとう春日野道は泣き出してしまった。西九条がすかさず「違うわ」と断言して彼女を抱き締めた。だが、春日野道の悔恨は留まるところを知らなかった。



「広島ファンやのに……ライトスタンドに座ろうなんて考えたウチが悪かったんや。シンジローとまこっちゃんにチケットだけ渡してればこんなことにはならんかったに……あかんかもしれんと思いつつ、ど、どうしても、試合、見たがった、ウチが……」



「違うの、春日野道さん」



「広島ファンの面汚しや………ウチは。球団の看板に泥塗ったんと同じや……もう、公に向かって広島ファンやなんて、公言できん。自分でモラル守らんといかんと言いながら、公然とやぶってしもうたーーー」



「「ーーー違う!!」」



俺と西九条は同時に叫んだ。俺も彼女も、完全に怒りに狂ったような、絶叫だった。


あまりにタイミングが合いすぎて、驚いた俺達は互いに顔を見合せたが、それは一瞬の事だった。すかさず、西九条が口を開く。



「何があってもあなたのせいじゃないわ。本当に悪いのは、そうまで気を使わせてしまった………私。」



「俺も混ぜとけ。春日野道さんがどれだけ気を揉んでくれたか、わかっていてこのザマだ。」



「せや言うても、なぁ、まこっちゃん、シンジロー。ウチがライトで野球観ようと言うて………」



「あなたの観戦スタイルに問題は何ら無かったわ。広島の応援歌も歌わない、グッズも持ち込まない。配慮して努めて平然とすごそうとして、事実平然と過ごしていた。今日のあなたは広島ファンではなかったわ。


あの、クソ女がわざわざバラすような真似をしなければね。」



「言ってしまえば俺だって元は国鉄スワンズのファンのようなものだし、別にカイザースのファンじゃない。だけど、だからといって父親がタイヨウの俺がライトスタンドで野球を見ることを誰が非難できる?


ファンであるかないかなんて、その時の状況心持ち次第で本人のなかでどうにでも変わるんだ。今日この日だけ、春日野道さんが阪神ファンだって別に不思議はない。


徹底的に広島ファンである事を忘れていた今日のあなたは、別にあそこにいたってよかったんだ。」



西九条と俺の見解は完全に一致を見ていた。故に、その先にたどり着く結論、悪いのは『つまらない防衛線を張っていた自分達』であるということと、魚崎許すまじという想いも、また共通のものであると思う。


怒りは限界値を越えていた。もはや、ハリネズミがどうとか言っている場合ではなかった。春日野道という、仲間想いにして仲間である人間にこれほどの辱しめを受けさせた魚崎という人間を、俺達はもう許せなかった。



「出屋敷。部活法廷にかけるわ。


重音部のこれまでの非道、まとめて全部。」



「ああ、それがいい。」



俺に異論は皆無だった。それすなわち、野球観戦部は仮部活期間中に揉め事を起こしたのだと自ら申告するようなもので、要するに野球観戦部の廃部は必至といった状況を生むことになるわけだが、


もはや構ってはいられなかった。春日野道の屍の上に建てる部室に、ぬくぬくとこれから過ごしていこうなどという頭には、到底なれなかったのだ。



「香櫨園先生には悪いけれど、ここは我慢するところじゃないわ。どのみち、ここで引き下がれば一生舐められ続ける。活動どころじゃなくなる。」



「わかってる。本気で潰しにいくぞ。」



俺と西九条は互いに頷いた。皮肉なことではあると思うが、俺達は背部を前提とした決意の下でようやく纏まりつつある。


不本意ではある。だがもうなりふりは構ってられない。魚崎は討たねばならない。


これほどまでに俺達の事を考えてくれた人を、コケにしてくれたツケは、


身を賭してでも払ってもらわなければならないーーー



「ま、待って……シンジロー。」



生まれたての雛のような弱々しさで、春日野道はそう言った。メルトダウン寸前の怒りが、その一言をもってようやく危険域程まで落ち着く。西九条は「もういいの、春日野道さん」と言った。だが、春日野道は「よくないんや……まこっちゃん」とこれまた弱々しく、涙声で、唸るように呟いた。


俺も西九条も、言葉を失う。



「恥を負うてでも………野球観戦部を続けたいと、思うてるんやと、思うてほしい……怒ってくれるんは、嬉しいけど、


それで部が潰れるのは、ウチは……」



「………春日野道さん、それは」



「どのみちこのままでは部として成り立ちません。過去にも潰された部活があることが示している通り。


今は、戦うタイミングです。」



「それでも………!違うんや……あと、あと二週間、待てば………仮部活が終わって、束縛のないなかで堂々と……戦える。


ウチら、それを当てにして……耐えてきたんやんか。


だから、今は……今は待って……今日のウチの事は忘れてもエエから……もうちょっと、チャンス、待って………」



怒りにヒートアップしていた頭が急速に冷却されていくのを俺は感じた。当の被害者本人が一番冷静でどうする。今すぐにというのは確かにどう考えても現実的な線じゃない。即刻反撃というのは批難されるべき行動ではない、だが、


春日野道がよくしてくれようとした部活を、春日野道を発端とする事件で潰してしまうのは、彼女に対する裏切りの行為ではないか。責任を感じてしまっている以上、彼女に計り知れない心労を課す行為でもある。



「……………。」



俺は何も言うことができなかった。西九条も、同様だった。唯一口を開いたのが春日野道だったという事実は、なんとも情けない。



「帰って……香櫨園先生にも相談しよ。野球部も………ウチらの情報、当てにしとる。


感謝されてる以上は……最後までやりとおさなアカン。大会はもうすぐそこや………今野球観戦部は潰れるわけには………」



春日野道は、その見た目や性格からは考えられないほど、冷静で、頭が切れて、そして義理堅い。


こんな時に今さら……と思うが、ややバランスに欠ける野球観戦部の屋台骨は、この人なのだと俺は思った。西九条と俺だけでやっていたとしたらどうなっていたか、想像するだに恐ろしい。今、彼女のお陰でこの部活は……という想いは、前の比ではなくなっている。



「お願いやから、待ってほしい。


ウチの新しい居場所、潰さんで……」



そこまで言われては、西九条ももう何も言えなかった。彼女は彼女で義理堅いのだが、その方向性はどちらかというと戦闘に向く。断固戦うという意地に変わっていくので、ストッパーが必要なのだが、


今回はその役割を、春日野道が果たしたようだった。彼女は、ひとりで野球観戦部を守ったことに……なるのだろう。



「………明日から、対策を検討します。


それは、いいかしら?」



妥協とも呼べないような妥協案を、ポツリと口にした西九条。春日野道は「ありがとう」と呟いた。




敵の存在は味方を団結させるという。だが、敵がいなければ団結できないというのもまた、愚かな話だ。


野球観戦部の場合、愚かだったのは俺と西九条であって、それを愚かたらしめなかったのは春日野道ということになる。


絶対に許さない。その気持ちの上に気持ちを結集させた俺達は、結局敵の存在によって団結させられてしまったわけだが……その結果を身をとして導いた春日野道を、


延々ネチネチと責め続ける魚崎ほかの重音部メンバーを、俺は心の底から許せないと思った。



部活審査会の後、覚えていろ。



………そんな気持ちと共に、後日、香櫨園に三人で相談をしに行ったら、


抜き身のナイフを持って音楽室へ特攻をかけようとするので、


それを抑えるのは並大抵のことではなかった。



義理堅い人間は、頭のネジを飛ばしてもう一人いたのである。



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