胸元直球乱闘の素
香櫨園が「あたし以外にも」と前置きした意味はわからなかったし、正直わかりたくもなかったが、
ともかく俺を諦めきれないもう一人の人物というのは、他でもない野球部監督の武庫川裕であった。
西九条たちとは別行動、香櫨園と共に体操着でグラウンドへ向かわされた俺を待っていたのは、シート打撃練習への飛び入り参加という無茶振りだった。
何が無茶かって、俺はもう野球から離れて一年半は経つのである。さすがに体も鈍っているし、準備運動すらしていない体で鉄のバットをフルスイングすればその結果がどうなるかは容易に想像がつく。これ以上怪我を増やしたくない俺は、もうあえて頑張ることはせずそれなり適当でその場をこなすことにした。
が、九年野球をやって染み付いた技術と闘志は長細い棒とコルクでできた鉄のかたまりのような牛皮の球を見れば、そこへ行きどころを求めて勝手に動き出すのである。
高校規格のボール、相手は上級生……とはいえ、マシン打撃、それも中速設定ストレートオンリーという内容とあっては、
プロ級のカットボールも打ち返す俺にとって、打ち返さない方が難しいというものだった。
当たるし、飛ぶのである。これが、遺伝子のなせる技、タイヨウの息子であることを宿命付けられた俺の、性であり隠しようのない能力だった。
さすがにブランクもあって思い通りのバットコントロールはできなかったが、それでも明らかに同級生とは一線を画したプレーができていた……という自覚がある。
自画自賛の嵐になってしまうようでなんだが、プロの宝石鑑定士がダイヤの原石を見れば、それがただの石っころではないことは一目瞭然なのである。
一通りプレーを終えた俺が香櫨園の元へ戻っていくと、そこには待ち構えたかのように武庫川の姿があった。俺は、彼が発するであろう次の一言が、容易に想像できた。
「野球部に入らないか」
「代打専門でも構わないから」
俺は、断った。丁重にお断りした。
理由は多々あって、表向きは『肘の具合が未だ良くない』ということにしておいたが、
自分の中では『野球観戦部』の存在と、『プレイヤー』としての出屋敷進次郎の死というのが大きな要素だった。
仮に、今から現役復帰をしたとして、最初から『野球を絶対やるんだ』と決め込んでこの学校に入った連中と一緒にプレーをすれば、温度差を感じることになってこちらが申し訳ななくることは目に見えていたし、それを申し訳なくおもうことそれ自体が失礼であるようにも思えたし。
………本当は肘が完治しかかっているのも知っていて、例えそれが治っていなくたって、それこそ武庫川の言うように『代打専門』のプレイヤーとして身を立てていくことは十分可能であって。足も速いことだし、戦略的に野球部の重要な駒足り得る自覚はある。
が、それがわかっていても自らそうすることをしなかったということは、
俺のなかで、プレイヤーとしての情熱、プレイヤーとしての自分は既に死んでいるということなのだろうと思う。
今自分には『野球観戦部』というものがあって、それは自分に非常に合っていて、情熱を燃やすだけの価値があると感じている。そんななかで、
死んでいる人間をたたき起こしてまで『プレイヤー』を続けたとして、果たして今以上の充実と幸福が得られるものか。
………それは『ない』話だと思ったのだ。結局三年を過ごして残るものは、潜在能力だけでレギュラーを奪い、真剣にプレーする人達に罪悪感を感じるという、その人達に対する侮辱的な行動に苦しみつつ、野球観戦部への未練を引きずりながら終わる空しい高校生活だけではないのかと、そう思ったのだ。
それに………俺には『野球観戦部』で、やらなければならないことがある。
西九条真訪、春日野道忍と、お互いを理解しあうこと。トラキチである西九条と、広島信者である春日野道と共に、自分がそれであることを苦に思わない、自分らしさの生かせる環境を作っていくこと。
オヤジと昨日、約束したばかりの事を、そう簡単に翻し捨てることはできなかった。
武庫川は再三考え直すように言ってくれたが、できるだけ丁寧に感謝の意を述べて、
俺も再三断った。
「あたしも踏ん切りがついたよ、出屋敷。」
音楽準備室へ帰る途中の廊下、並んで歩いていた香櫨園は唐突にそんな事を言ってきた。どういう意味なのか、彼女も武庫川と同じような期待を俺に寄せていたのか。
はかりかねて、俺は「何にです?」とストレートに問うた。香櫨園は深く大きく息をついて肩を落として、話し始めた。
「西九条と春日野道は、プロ野球に詳しい。プロ野球専門と定義しよう。君は……オールマイティーとでもしていればいい。
そういう分類で言えば、あたしは高校野球が専門だ。かなり、マニアックな部類のな。」
初耳だったが、不思議はなかった。昨日にオヤジと共に彼女を家に送り届けたとき、壁一面に張られている新聞記事は、総じて内容が高校野球のものだったのだ。トーナメント表、注目選手、結果、とるに足らない地方記事………そのスクラップの徹底ぶりは、彼女のそんな側面を証明する重要な証拠足り得た。
「何がどうマニアックなのかという話をしなければならない。
あたしの高校野球の楽しみかたは、数ある逸材のなかから近い将来、甲子園でスターになりそうな人間を見つけておいて、
春と夏にそれぞれ答え合わせをする。注目していた選手が活躍すれば当たり、出てこなければ外れ……と。特殊な楽しみかただろう?」
いなくはなかろうが確かに珍しい楽しみかたをするものだと思った。チームではなく、選手個人に絞った野球の見方というのはなかなかやろうと思えるものではない。手間がかかるし、情報の範囲が広すぎる。かなり、根気の必要となる作業だろう。
それを仕事でやっているのが、スカウトだということを思えばなおさら、だ。
「もちろん、高校球児などこの世に無数にいる。その一人一人をピックアップして選別することなど不可能に近いし、情報を収集することもなかなかどうして難しい。高校からの情報だけに頼れば結局、他力本願というか………他人の収集した情報に頼ってしまうことになる。
それでは、自分でやっている感覚に乏しいとは思わないか?
だからな。あたしの場合………高校に上がる前の段階である程度目星をつけるのだ。
中学全国大会、シニアリーグ、リトルリーグ、少年野球………全国レベルの子達は、もうその時点で他の子供たちとは明らかに違う動きをしている。もちろん、成長が早すぎて伸び悩む子もいるがな。それはそうと、才能というのは子供の頃もっとも素直に現れるものだ、いや、現れやすいとしておこうか。」
……俺は、そこまでを聞いて、なんとなくこの後言われるであろう事がわかった。
数々つきまとってきた謎が、氷解するかのように音を立てて溶けていった。
「四年前、ということになるかな。
その年のU13日本代表の選手のなかに、一際才能を感じさせる選手がいた。
初戦から決勝ラウンドまで9試合全部を投げ、投球回数24を僅かに二失点。小学六年生にして既に7つの球種を操り、
球速は130キロをゆうに越えていた。
………特に決勝のアメリカ戦は衝撃的だったな。明らかに体格の違う外国の子供を相手に、ボールを外野に飛ばさせなかった。不運な内野安打はあったが、僅かにそれだけ、ほぼパーフェクトの内容だった。
鳥肌が立ったよ。その子が将来、甲子園のマウンドに立つ姿が目に浮かんだ。浮かぶようだった、じゃないぞ。浮かんだんだ。」
………さすがに他人事と聞くのは難しかった。心当たりがありすぎて、逃れられなかった。鳥肌が立ったのは香櫨園だけではなく、投げている本人もそうだったからだ。
「あたしはな、出屋敷。そいつの事を、高校三年の夏まで、絶対、片時も見逃すまいと思ったんだ。おそらく中学に上がってシニアリーグに入るだろう、そこでまた大活躍をして、数々の有名高校のオファーが来て、最後強豪校のエースになるに違いない、そいつの事を絶対に見逃さないとね。
それだけに、中学に上がって兵庫に越してきて、普通に野球部に入ったと聞いて拍子抜けしたよ。どうしたのかと思った。息子か恋人のように心配してたんだ、勝手にな。
何か………アクシデントが起きたんじゃないか、とね。」
かつての香櫨園の懸念は全くもってその通りだった。その頃にはもう、肘は痛み始めていた。違和感程度だったものがだんだん痛感に変わっていくのは……正直恐怖でしかなかった。
「だが、そいつは軟式野球でも実力通りのプレーを見せてくれた。球速137キロの豪腕投手が無名校を全国につれていったという記事を読んだとき、飛び上がるほど嬉しかった。ああ、あの子は無事だ、何があったかは知らないがただ部活野球を選んだだけなのだ、とね。ノーヒットノーラン五回、あの成績でどこからも声がかからないことはまず無いと思ったから………
ますます、二年後が楽しみになった。あたしがずっと注目し、応援してきた選手が怪物一年生として、世間を賑わすことを期待せずにはいられなかった。
………だがね。現実は思ったより残酷だったのさ。」
そう、そうだ。運命というのは、幸福よりも試練を好む。そしてその試練は時として努力ではどうにも越えられない壁となって目の前に立ちはだかる。そいつに………立ちはだかった壁も高く、そして残酷だった。婚約前の恋人を戦争で失ったような悲しみと憎しみを、感じずにはいられなかった。
「その子は三年の春に再起を危ぶまれるほどの怪我を負ったそうだ。それも肘にな。ピッチャーとしては致命的……一生ついて回る部分に。
……言葉を失ったよ。悲しみを通り越して怒りすら覚えた。もちろんその子に対してじゃない。過度な期待を押し付け、小学生の肘に7つの変化球を投げさせ、明らかにオーバースピードなストレートを強いて、世界戦などという過酷な環境下にその子を送り出した、
日本の少年野球のシステムと、そしてあたしのような無責任な観衆にな。
………何で、待てなかったんだろうな。小学生日本代表と、甲子園のマウンド、プロ野球選手………果たしてそのどれに価値があるのか、人によって意見は別れるだろうが……。少なくとも、それで野球人生が閉ざされるような事はあってはならないはすまなのに。
世界戦ともなれば、変化球なしでは戦えない。小学生と言えど。その子は絶対に努力したはずなんだ、大人の期待に応えるために。でなければカットファストなんて投げれるようになるはずがない。
もう少し、待てばよかったんだ。後悔したよ。直接関わってなくとも、期待をかけたことは間違いないからな。もしその場にいれば………例えば親族だったとしたら、あたしはその子に、
間違いなく『頑張れ』と言っていた。」
「…………。」
肘が壊れたのが大人のせいだと思ったことはない。変化球を投げたのも、自分の意思だったし、U13に選ばれたことも喜んだ。だから、それで肘に負担がかかって痛み始めたのも自業自得だと思ったし、誰かのせいだと考えたこともなかった。
だが、そうではないのか。自分だけのせいにするのは……おかしな話なのか。オヤジ………タイヨウは、中学三年の夏、俺に一言「すまなかった」と詫びた。俺はなぜ謝られるのか全くわからなかったが………ひょっとしたらオヤジも、そのような気持ちだったのかもしれない。
「そうして、あたしは……しばらく高校野球を見ることすらやめたんだ。ま、たかが一年だがね。大好きだった逸材探しもやめた。同じ思いをするのが嫌……なんて、また勝手な話だがね。
そうして、失意のうちに一年を過ごしてみたら………」
「………俺が来たって訳ですか。」
香櫨園は沈みかけて真っ赤になった夕陽を窓際に見つめて、足を止めた。そして、振り返り、悲しそうにうなずく。
「どうしていいのかわからなくなったよ。嬉しいのか、悲しいのか、悔しいのか。自分でも感情の整理がつかなくてな。
だが、気づいたら愚かにもあたしは……ひょっとしたら君が、また野球をやるために一般入試からでも野球部に入れる強豪校に来たのではないかと、
淡い期待を抱いてしまった。
………全く、いつまでも昔の彼氏を引きずる節操のないバカ女のような真似を……」
「………。
なんとなく、先生が入学したての俺にやたら親近感持って近づいてきた理由がわかりました。」
「軽蔑してくれ。そうでもされないと気がすまん。」
再び夕日の方を向いた香櫨園。白衣に手を突っ込み、佇む。俺は……なにも言えなかった。彼女が彼女自信を無責任な大人だと表現する理由がわかってしまって、フォローができなくなってしまったのだった。
「………けど、俺……部活希望表に『帰宅部』って書いて呼び出されたとき、
先生に野球部をそんなにごり押しされた記憶がないんですが。」
代わりに出たのはそんな言葉だった。それが救いになるのかはわからなかった。が、ともかくも………彼女は確か、何度か野球部の名前を出しこそすれ………殊更に野球部を押すような事はしなかった。
それに、最終的には野球観戦部に連れてきてくれたのである。
「………。
君は優しいな……」
香櫨園はおぼろげに微笑んでそう言った。
「全く自制が効かなかった訳じゃない。あたしは………君の肘の状態がどの程度のものなのかなど、知るよしも無かったからな。あえて、君自体を知らない体で……話をした。
本当に野球が……ボールを握れないほどの状態だとしたら、さすがにごり押しするような真似をしても仕方ないから。
……君はハッキリともう投げれない体であると言ったし、情熱がないとも言った。あたしはあのとき、確か聞いたな?
『酷なことを言っているのか』と。
君は、『そうではない』と答えた。
それで、あたしのなかでようやく諦めがついたんだ、勝手な話だがね。
野球は好きだがやらない。それは、君が既にプレイヤーとしての自分に、考えた末区切りをつけたということだ。
そこまで来ればもう……あたしにどうこう言えるような……口はないからな。さすがに、この図々しい口も………」
そこで会話が断絶して、香櫨園が「長くなってしまったな、行こうか」と言って再び足が音楽準備室へ向かうのには、陽が沈む必要があった。いつもは図々しさ、破天荒さを感じる背中も、さすがに今日だけは小さく憔悴して見えた。
……過去はともあれ、今の香櫨園は野球観戦部の、頼りに……頼りになるかはともかく、理解のある得難い顧問である。
俺に対しての責任意識、それを感じてくれること……それ自体はありがたく感じるが、それによって沈んでほしくはない。
むしろ、俺としては………彼女がいてこそ、今俺が野球観戦部にいられるのであって、その事を感謝しているくらいである。自分を責める意味もわかるし、当事者としては慰めの言葉をかけることもできないが………
できることなら、いつもの通りでいて欲しいものだと思う。
小学生時代からのファンだと言われて悪い気はしない、と、
言えるような立場にあれば、それもできるのだが。今の俺は、宝を持ち腐らせた、ただの文化部部員なのだ………プレイヤーですらなくなった人間もまた、それを語る資格はない。
「今日はどうして、俺に野球をやらせたんです?」
思案の末に転げ落ちた言葉は、ともすれば追い討ちにもなりかねないものだった。間が開いて、香櫨園の自責の念が加速するのを嫌って何とか話を繋ごうとした結果だったが、何でもそう……焦りはよい結果を生まない。
「諦めきれていないんじゃないか、と言いたいのだろう。道理だ。だが、信じなくてもいいが、あたしは君が野球部に入る線はもう絶対にないと思っていた。
君には、西九条もいるし、春日野道もいるからな。現状に不満があるようにも見えない。それは、今が楽しいということだろう。」
「………だったらどうして」
「武庫川監督がどうしてもワンチャンス欲しいと言ってきてな。相当、この間の野田からのヒットが衝撃的だったらしい。
まぁ、気持ちはわかるな。あたしだって、あいつのカットボールが……いくら相手がU13代表だとしても、中学上がりたての高一に打たれるだなんて思ってもみなかった。」
そういえばあの時、顎を落とすくらい驚いていたな………というのを思い出す。
「野田さんのこと、よく知ってるんですか?」
「あたしも高校球児だったからな。あいつはチームメイトだった。」
あっけらかんと香櫨園は言った。俺が驚きの視線を送ると、照れ臭そうに少し笑う。
「神聖なグラウンドに女子を入れるなんてとんでもないという時代だったし、実際そういうことを言われもしたがな。武庫川監督はそういう部分に理解があったから。
現役中、何度か紅白戦で対戦したが……とても打てる気はしなかったよ。それを君があの時、平気で弾き返したので、やはりモノが違ったのだと再確認させられた次第さ。
何も知らなかった武庫川監督の衝撃はもっと大きかったはずだ。わかるだろう?」
「……察します。」
「あの人は、君の中のプレイヤーとしての情熱に賭けたんだ。バットを握りボールに触れば必ず野球への情熱を取り戻すはずだから……と言って引いてくれなくてな。
だからやむなく……というわけだ。君にしてみれば甚だ迷惑だったろうし、ひょっとしたら西九条にも悪いことをしたのかもしれないが。
君が面と向かって直接断りをいれるのが、一番説得力があると思ったのさ。」
香櫨園の言葉は、道理だった。なんにせよ、本人の言葉以上に信憑性をもつものなど存在しない。俺自身がその可能性の一切を否定するなら、それ以上に武庫川が諦めのつく展開など存在しないことだろう。
俺がそれで心揺れ動くことがないと確信しているあたりには、彼女の言っていることの信憑性があったりもする。本当に、面談の段階で……プレイヤーとしての俺を諦めたのだろうと思う。
彼女の行動は、ともすれば野球観戦部に対する………西九条に対する裏切りともとられかねないものだったが。事実がそのものである可能性は、その言葉によって完全に否定されたと言っていい。
「そして君はあたしの思った通りに断った。
野球観戦部をとった、という言い方は遅かったのかもしれないな。そもそも野球部は選択肢になかったのだろう?」
「……ええ、まぁ。よくわかるんですね。」
「他ならぬ君のことは何でもお見通し……と言ってみたいところだが、まぁあれだけ徹底的に断られてはいくら武庫川監督でも気づくだろうな。
さっきのシーンに、西九条や春日野道もいればよかったのだが。きっと、君達の団結に一役買った事だろうよ。」
本人にこんなことを言えばある意味で心外に思われるかもしれないが、その時の香櫨園の顔は完全に『野球観戦部顧問』としての顔だった。当然のことだが、彼女には俺だけではなく西九条との間にも繋がりというのか、それはそれの事情があるはずである。
俺が入学して以来の2ヶ月間は、香櫨園にとって、仕事や役目の上に成り立つ『教師』と、趣味に生きる『個人』の狭間で折り合いをつけてきた時間だったのではなかろうか。諦めはついていたとは言っていたが、微妙な感情のせめぎ合いは続いていて、それに完全な『踏ん切り』がついた……最終的かつ不可逆的な結論がついたのが、今日だったということになるのだろうか。
「もうひとつ聞いてもいいですか」
「何だね?」
「入学からこっち、何かと目をかけてくれたのは………俺のプレイヤーとしての側面を知っていたからですか?
あるいは、何というか………さっき仰られたような、良心の呵責というのか、そういうものが働いたからとか………」
聞かなくても別に困らないことではあったが、聞かずにはいられなかった。
例え、香櫨園の答えがどのようなものであっても……例えば、選手としての俺にこそ 価値を感じていて手放したくないと考えていたり、哀れみに近い感情を抱かれていたり、責任意識からの慰みだったりしたとしても、それで彼女を軽蔑したり疎ましく思うつもりは毛頭なかったが………
もしそのどれかか、それに近いものが心の底に真意としてあって、
その裏返しに今の野球選手であることを捨てた俺に対する失望や、もはや幻想たる花形であった頃の自分に対する追慕、郷愁のような感情があり、それが今の彼女の、俺に対する勿体ないまでの親切心の原動力となっているのであれば、
それを拒絶することこそせずとも、勘違いだけはしていたくなかった。
優秀なプレイヤーである俺にこそ価値があって、そうではない俺にさほどの意味を感じられていないのだとしたら、
その自覚なく彼女の心遣いを享受し続けることは、恥以外の何物でもないと、そう思ったのだ。
「あるいは……小学生の頃の俺に期待をかけていたことを悔いている、と言っていましたね。その贖罪のつもりだったりとか……」
「正直に言って、君の言った全て、理由として無くはない……がね。」
香櫨園は少しため息をついてからそう答えた。それを聞いた俺の心に落胆はない。むしろ、あるのは妙な色を持った安堵だった。
ーーーそれで当然だと思った。彼女が俺を見初めた理由がそれである以上………少なくともきっかけがそれでなくては、どうにも説明がつかなかったからだった。
「つまり同情、ですか。」
「まぁ、そう結論を焦るな。話はまだ終わっちゃいない。」
香櫨園は寂しそうにそう言う。俺は……それでもいっこうに構わなかったし、例え哀れまれていたり理不尽に失望されていたとしても部活顧問としての彼女を信頼しない事は金輪際ないと思ってはいたが、
心外、と顔にかいてあるようなその表情に見つめられては、却って良心の呵責はこちらの心に生まれそうだった。
「かつてのU13代表エース出屋敷進次郎……もちろんその意識はある。諸々、思うこともある。あたしの選手としての君に対する思い入れは、そう生半可なものではなかったということだ。
それがきっかけとなったことは間違いがないし、否定するつもりもない。だがな。
それが今の……野球観戦部員としての君への、思い入れの直接の要因になっているかと問われれば、
それはそうじゃない。」
「………だったら、何なんでしょう」
訝しげに俺は問うた。香櫨園を疑うつもりはなかったが、野球選手としての俺の圧倒的なキャリアに魅せられた人間が、
今の凡庸な一介の高校生でしかない俺に肩入れする理由が、今一つ思い浮かばなかったからだった。
……たぶん、その思いはモロに顔に出ていたのだろう。香櫨園は、全く、とでも言うかのように仕方なさそうに苦笑した後で、
実にあっさりと、だが実感を込めてこんなことを言った。
「実際に会ってみたら、ヒネて歪んだ君が可愛く思えた、ただそれだけのことさ。ずっと言っているだろう?あれは嘘じゃない。
その上、付き合ってみれば案外義理堅くて、思いやりもある。さすがというのか、一度決めた事に対する情熱は大したものだ。
そういう、人間性に今度は魅せられた、という説明では、不十分かな?
単純に、今の君とこうして関わっていることが、楽しいと思うだけさ。」
返ってきたのが聞いていてこっちが恥ずかしくなるくらいドストレートな理由で、俺はさすがに面食らって何も言えなかった。
香櫨園のこういうところは少し狡く思える。野球観戦部に対しての徹底的な配慮も、西九条、春日野道と自分を頼るものへの全力全開の面倒見も、彼女の行動、意思、全ては純真で純粋、まっすぐ突っ走って反れることを知らない。
藤掛兆治のストレートのように、真っ直ぐな軌道で胸元を抉ってくる。言葉も出ないような威力で、目にも止まらぬ早さで、突き抜きていくので打ち返しようがない。
俺の中途半端なひねくれなど、かすりもせずにボールの下を通過していくのだ。
「誉めているのだぞ。何か言うことはないのかね?」
「こっ恥ずかしいです」
「正直なところも好きだな。
何、特別意識することはない。引け目を感じなくともいい。あたしは顧問で君は部員。
特別目をかけられることも、仲良くすることも何一つ不思議はない。」
話をしているうちに、廊下も階段も通りすぎ。気づけば部室たる音楽準備室は目前だった。香櫨園は、いつも通りにドアを三三七拍子でノックしながらこう言った。
「西九条や春日野道とも同じように接しているつもりさ。君だけという話ではなくて、あたしには野球観戦部を守り育てていく義務がある。
ごく自然なことさ。気にすることはないよ。」
「………。」
磨りガラスのむこうに西九条の影が現れたのは、それから数秒と経たない後の事だった。件のごとく香櫨園と西九条の間で片宮厚見の応援歌………合言葉が交わされ、ドアが開く。
部屋に入るなり香櫨園は「ご苦労!首尾はどうだった?」と西九条に尋ねた。西九条は入り口付近に突っ立ったままで「上々、と言っておきます。少なくとも、武庫川監督は感心していたように思いますし」と答えた。
その時、ふいなタイミングで俺と彼女は目があったが、何故か彼女はすぐにその視線を反らして、そのまま自分の席へと戻っていった。瞬間に見せたばつの悪そうな、気まずそうな表情がやけに印象に残って、
そんな態度をとられることに心当たりのない俺は少しばかり不快感を抱く。ただし、それが気にくわないというのではなく……ただただ、彼女の考えていることが全く見当つかないという、自分の知らないところで何かが展開している事に対する気持ち悪さのような物だった。
「まー、大したことはしてへんけどな。ブルペン行ってエースのピッチング見て、まこっちゃんが二三球で欠点見つけて………ウチがその改善点を適当にレポートにまとめて、提出して帰って来た、って感じかな。
なんや武庫川とかいう監督さんは随分と感心してくれはって、もうちょっと練習見ていってくれ言うとったけど、まこっちゃんが『今日は挨拶程度やさかい』ゆーて断って、早々に切り上げてきたっちゅう……お、シンジロー!」
足を組んでパイプ椅子に着席していた春日野道が、隣に座った俺に声をかけてきた。ぱあっと輝いて見えるその表情の明るさは………西九条とはまるで正反対。俺は却って西九条が何故あんな態度をとったのかという、その疑問を加速させることになる。
「二三球で欠点見つける西九条も適当に改善点まとめる春日野道さんもどう考えても大したことしているように思うんですが……」
「いやいや。ホンマに大したことあれへんよ。ただ、球速の割にはストレートに伸びが無かったさかいな。エース本人にも聞いてみたんやが、どうにもここんとこ調子が悪いんかして空振りが取れんと。
まあ、そういう言い方するっちゅう事はええ時期があったっちゅう事やからな。原因探りがてら見てたら、まこっちゃんが……」
「リリースの時のボールの切り方に問題があったの。疲れかしらね、少し肘が下がっているせいもあって、離すとき垂直方向に対する指の角度が大きくなりすぎていた。
基本的にボールは、縦に回転すればするほど浮力……いや、この言い方は正確ではないわね。落ちない力、とでもしておきましょう。それが維持されるようにできているの。
例えば藤掛兆治の浮き上がるようなストレートは、垂直に対しての傾きはわずか5度。回転数も関わるから単純には言えないけれど、それで平均的な投手とのストレートの落差は、理論上30センチ近くになる。
真っ直ぐ空気を切れる方が、抵抗を受けず進んでいけるから、ということなんでしょうね。
逆説的に、リリースで角度のついてしまううちのエースは抵抗を受けて球の勢いが死んでしまう、というわけ。」
野球を語る西九条はいつもの通り流暢で弁には熱がこもっていたが、
やはり俺とは目を合わさない。会話の相手は流れ的にはこっちであるべきだが、そのベクトルは何故か香櫨園の方を向いていた。
………別に不自由は無いが、やはり少し気味が悪い。
「だから、少し指を立てる意識をするか、いっそちょっと練習のペース緩めるかするべきやと、もっともらしくウチが文章にしたてあげて手渡ししてきた。
もっとも、手先の微妙な感覚をいまの段階から変えてたら本番に間に合わんようになるし、肘が下がっている上は変な負荷がかかりかねんし………指の角度意識は根本的な解決にならん、付け焼き刃や。
野球観戦部としては休養をおすすめしといた。まあ、マネージャーやないさかい、チーム事情とか他の部員のモチベーションとかは度外視した、血の通ってない提案やけどな。」
「夏の地方大会を前にして気合いが入るのもわかるけれど、エースがあの様子では緒戦はともかく上の方に上がっていけばかなり厳しい戦いを強いられる事になるわ。
私が監督なら、迷わずペースを下げさせるわね。でなければどのみちどこかで負けるもの。無難な0を選ぶか、賭けの1に出るか。あくまで全国を目指しているのなら、どちらを取るべきかは明らかだわ。」
一致しているようで微妙にニュアンスの違う、西九条と春日野道のそれぞれの言葉。年の功か、たぶん春日野道は『部活』におけるチーム全体としてのテンションの上下を問題として捉えられている。ある種挙国一致的なまとまりを必要とする夏の大会、全員がここぞの本気を振り絞って向かっていこうと意気込むなかで、
チームの主軸たるエースにその雰囲気に見合わない軽めの調整練習をさせることが、全体にどう影響するか。気勢を削ぐ、という捉え方もできる。
だから春日野道は『血の通ってない』という表現をしたのだろう。西九条の言っていることは99%正しいが、1%のズレがある。野球というスポーツのプレイヤーは、その1%を殊更に気にする人種だ。ひょっとしたらそれを気にするのは当のエース本人かもしれない。自分だけが軽い練習しかしていないという気持ちが、焦りに繋がることだってあり得る。
……そういう想像力は、実際にやったことのある人間にしか働かないもの。西九条はプレイヤーではないから、唯一そういうところの知識、感覚に欠けるのかもしれない。
そんな観点でいえば………春日野道がレポートを書いたというのは、大正解だっただろう。『男ならレッズ入団を目指していた』という彼女の事だ、ひょっとしたら経験があるのかもしれない。
ストレートな見解をぶつける西九条、その緩衝材の役割を果たしたのだろう。それは、必要な配慮であったに違いない。
「まぁ、武庫川監督も気づいていない訳ではあるまい。」
唯一立ちっぱなしの香櫨園が、高いところからそんな事を言う。西九条の肩にそっと手を置いて、労を労うようにしながら。
「春日野道の言うように、我々はチーム事情に精通しない。だから、簡単に休養という選択肢も頭に浮かぶが……
得てしてそう簡単にはいかないのが管理者の辛いところだな。少なくとも、この時期にペースを緩めるやり方があまり一般的とは言えないのは確かなことだ。」
高校野球専門、元高校球児という自己紹介を聞いたあとの香櫨園の言葉には妙に説得力がある。ひょっとしたら、現役時代か注目選手のどちらかに、同じような場面に覚えがあるのかもしれない。
西九条は、やんわり自分の見解が否定された形になって、少しばかり不満そうに顔をしかめた。「………だったら何故、武庫川監督は私たちにああも感心を寄せてくださったのでしょうか?」と、ある種反論とも取れることを呟く。春日野道が隣で苦笑いをしていた。彼女が意図してオブラートにレポートを記したのは、間違いないようだった。
香櫨園は、娘を諭すような優しい目で西九条を見る。つってこの人未婚だからあんまり言葉にリアリティがないが。
「痛いところをついてくる、とでも思ったのではないか?でなければ、逆にそうそう簡単に感心などしないだろう。
西九条、君の観察力と知識は既にプロの領域に達していると思うが、武庫川監督もまた、選手育成のプロだ。君と同じように自分の目と考えには自信を持っている。
もし、自分の考えとはかけ離れたことを目前の高校生が堂々とのたまわったとしたら…………まずは首を捻る。なぜそんな結論に至るのか、不思議に思うのが先だろう。あるいは、解っていない、と一笑のうちに伏すかもしれない。」
「……………。」
西九条は反論しない。この場合沈黙は肯定だろう。香櫨園は続けた。
「逆に、自分の目と同じものを持っているとしたら……無条件にその目を信用できるんじゃないか?武庫川監督は、まず一に自分を信用している。でなければ監督など務まらんからな。その信用している自分と同じ感性をもつ人間がいたとしたら、それこそ最も信用するに易しい存在ということになるとは思わないか?」
西九条はぐうの音も出ないほど黙りこんでしまった。それくらい、香櫨園の言葉は的を射ていた。
「だからこそ、あの人は君たちに、また来てくれと言ったんだろう。もし自分が二人いたとしたら、こんなに大きな戦力もないと考えるはずだ。
何も気落ちすることはないぞ西九条。
得るべき信頼とコネクションを最短で勝ち取ってきたんだ、君も君で自分の慧眼を誇ればいい。持てる能力を順当に評価された結果だ、顧問としてはこれ以上嬉しいことはない。」
慰めではなく、正しい物の見方だと俺は思った。逆に考えれば、立場的には未だアマチュアでしかない彼女は、一足とびにその道のプロに認められたということになる。
自分の目に絶対の自信を持つ彼女だからこそ、恐らくはその段階など別に欲してはいなかったのだろう、だが、単純にキャリアの差もあるなかで、二つ、三つと大きくひと跨ぎにしていくのは、やはり人間社会においてそうそう簡単なことではない。
「………お前は黙ってたってそのうち常人じゃないことを悟られるよ」
俺は、ぼそっとそう呟いた。別にこれも慰めでも何でもなく、実体験に基づく事実だった。むしろ、香櫨園の言うように初回としては、武庫川がその意味を瞬時に理解できるレベルの話に収まって良かったのだと思う。あんまり余計に期待をかけられるよりは………少し感心されたくらいからのスタートの方が、
後に判明するであろう彼女の変態的な知識と分析力は、そのインパクトが増すだろうと思われるからだ。
「それは、誉めているつもりなのかしら、出屋敷。」
彼女としては割と不快感を前面に押し出した表情で、西九条はそう言ってきた。そこでようやく………退室前ぶりに俺と彼女は顔を合わせる。特に感ずるところがあるわけでもなかったが、元の通りに戻ったことに単純に安堵した。
「どうとでもとってくれ。少なくとも貶してない。」
「……紙一重だと思うのだけれど」
「ホンマに素直やないなぁ、シンジローは。まこっちゃん、大丈夫や。ウチから聞いてても今のは誉め言葉やで。
だってまこっちゃんは、野球オタクやろ?」
何故か俺の肩をバシバシ叩きながら、笑って春日野道はそんな事を言う。香櫨園は西九条は一瞬言葉の意味を理解できなかったらしくキョトンとしたが、
しばらくして「そう言われれば、そうね……」と顎に手の甲を当て、納得の表情で頷いた。
発言者の俺としては春日野道が彼女に納得させた内容が果たして自分の意図したものであるのか、甚だ怪しいと思う次第だったが、香櫨園も満足そうでなんとなく場がまとまりかけているように感じたので、
そういうことにしておいた。いい悪いはともかく、彼女を野球オタクと認めているのはその通りで、そしてそれを彼女が悪い風に思っていないなら、なんの問題もないと思ったからだった。
「よし。ともかく初日としては上出来だったということがわかった。あたしとしてはそれを嬉しく思う。
後で、武庫川監督に挨拶をしに行っておく。まぁ、さっきまで半ば一緒にいたようなものなのだが……今後の予定の調整も兼ねて、な。」
「予定、とは?」
いくらか顔色のよくなった西九条がすかさず尋ねる。香櫨園はふむ、と息をついた。
「知っての通り、野球部は夏の大会まであと1ヶ月とほんの少しだ。まさにラストスパート、一番大事な時期といえる。」
「そうそう、なんか知らんけど出所のようわからん気合いとか出てきたりなー。よくも悪くも。
上手いこといったら一番成長できる時期やし、気合い空回って怪我するやつもおるし。」
実感の籠った声で春日野道。やはり、小学中学はわからないが、どこかしらで野球はやっていたのか。香櫨園といい、女性プレイヤーのその意欲には素直に尊敬の意を持つ。たぶん……野球は、体格的にも歴史的にも、最も男女の混じりにくいスポーツだと思うからだ。
「そう………吉とでるのか凶とでるのか、蓋を開けてみなければわからない、流れ次第で一回戦敗けのチームにも甲子園出場クラスのチームにもなってしまう、一言に怖い時期だ。武庫川監督はそれをよく知っている。キャリア長いからな。
あたしが高校三年の時、あの人が言って寄越してくれた言葉がある。
『追い込み時期の吉凶は運の要素も深く絡んでくる。それを人間の力で根本的にどうこうすることはできないが、
少なくとも幸運は準備していたチームにしか訪れない』。」
「ええ言葉やけどその前に何で高三の香櫨園先生を武庫川監督が知ってんのかがきになってしゃーない」
「元高校球児だそうですよ。この人。それでその時の監督が武庫川さんだったとか」
「うぇっ、マジ?!先生、野球できんのん?」
「初耳だわ。」
透明感いっぱいの表情で、しかし目を輝かせて西九条が香櫨園を仰ぐ。野球を見るのが大好きな彼女だからこそ、男性のチームに混じって女性がプレーをするその難しさとかしんどさとか、そういうものが察せるのかもしれない。タイヨウや野田に送ったのと同じ、興奮と尊敬の入り交じった視線だった。
「その話は後日皆でキャッチボールでもしながらしようじゃないか。今は先の話だ。
いいかね、諸君。この『準備』が重要な時期だからこそ、我々の力が最も生きる、そうは思わないか?
別にわが校のチームの分析でなくてもいい。将来トーナメントの上の方で当たるであろう強豪校の情報を集めることも、十分『準備』にあたる。そうだろう?」
「それはそう思います。」
俺は頷いた。情報を集めるということはすなわち、それを持ち帰って試合前に対策を立てるということである。どんな種類の球種があるのか、どのくらいの割合で投げ分けてくるのか。これを知っているだけで、打席での心理状態や読みの正確性は大きく変わってくる。
それこそが、準備ということになるのではないだろうか。少なくとも俺は、そう主張する香櫨園には賛成の立場だ。
「………つまり、その準備にこれからも手を貸していこうと」
「元々そういう話だっただろう?ただ、あたしの思っていたより監督の食い付きが良かったものだからな。その頻度と関わる範囲を広げてもいいかと思ったわけだ。
具体的には……校外活動として、他強豪校の試合を観に行き、そして分析したもの今日のようにレポートにまとめて、それを武庫川先生に渡す、というところでどうだろうか。
もちろん、わが校の分析に加えて、な。」
「恩を売りやすい状況にあるというわけね」
「ざっくばらんに言うたらそういうことやねんやろうけど、もうちょっとオブラートな言い方あるんちゃう?」
春日野道が頬を人差し指で掻きながら、苦笑して言う。西九条は特に気にしてはいない様子で「そう?」と聞き返していた。
香櫨園は「まあ、どう思って活動するかは君たちそれぞれの意思に任せる。」と、大して気にしていそうもなく言った。そして、窓際の、重音部が落書きしていったと思われるホワイトボードの、その落書きを乱雑に消して、生まれた余白部分に青いマーカーで一心不乱に何かを記し始めた。
三分ほど経って彼女がペンのキャップを閉めたとき、そこに書かれていたのは大まかなこれからの予定だった。
「兵庫県の県大会は七月の一週から始まる。だが、初日に初戦が行われる例はかなり希だ。だから、七月の中旬、くらいに考えていればいいだろう。
部活審査会もほぼ同時期にあるから、我々は我々でその準備も進めていかなければならない。が、まぁ……野球部支援そのものが既に『実績足り得る』ものだから、そう強く意識する必要もない。なんなら、今ある資料を提出するだけでも、それなりには形になるだろうからな。
で、だ。諸君。あたしが考える具体的な支援の内容でだが………」
香櫨園は、平手でホワイトボードをバンと叩いた。その手のひらの下に書かれていたのは、
『強豪高校の試合偵察、最低四試合!』
だった。
「………少ないですね。」
呟いたのは西九条。大盛ラーメンを目前にしたフードファイターのような、物足りなさを滲ませたやるせない表情をしていた。
香櫨園は苦笑して「君がたくさん試合を見たい気持ちもわかるが、この程度が限界なのだ」と言った。
「基本的に土日祝日にしか練習試合はできないからな。あたしはこの部活をブラック部活にするつもりはないから、一週間に一回は必ず休んでもらいたいと考えている。とすれば……開幕まであと六週として、土日のどちらかを偵察に費やしたとしたら、
最大6試合、ということになるだろう。まぁ、そういうことさ。」
「多くても少なくてもそんなもんっちゅーわけやな。」
ええんちゃう、と春日野道。西九条はそれでもどこか何か不満なのかうずうずしているように見えたが、反論らしい反論は何もなかった。要するに妥当だと思ったということなのだろう。
「出屋敷、君はどうかね?」
香櫨園は、最後俺にそう尋ねてきた。特に反対する理由もなかった俺は、「ハイブリッドでいいと思います」と答えておいた。殊更に嬉しそうに「そうか!よしよし」と返事してきた香櫨園は、事の真相を告げられた後でもやっぱり少し気持ち悪い。
「では、鉄熱打だ。今からそういう方向性で武庫川監督に話してくる。
君たちへの話は以上だ、あたしはこのままこの部屋に戻ってくることはないが……いつも通り好きなタイミングで帰って構わないからな。出屋敷、君は私と帰りたければ残っても構わんぞ」
「お疲れ様でした。また明日よろしくお願いします。あと、諺を略すな」
「ふふ、つれない子だな。私が一番略したいのは君との距離だよ。」
高校教師がおおよそ男子高校生に言ってはいけない言葉のグレーゾーンを平気で踏み越えて、
白衣を翻した香櫨園は足取りも軽く部屋から出ていった。
西九条がドアを閉めて鍵をかけ直し、彼女自身も椅子に戻ることで部屋は静寂に包まれる。
だが、いつもならしばらく続くそれは、今日に限ってはすぐに打ち破られる。
「なぁなぁ、シンジロー。見てたでー、さっきの……入団テスト?みたいなやつ!」
「ああ、見てたんですか」
話題にひとつも上らなかったので、二人は見ていないのかと思っていた。打席からブルペンは死角になって見えなかったのに、どっから見てたんだろうか。
「最近のピッチングマシンは凄いと思いましたよ。指定したところに同じ球速でほぼ正確に投げ続けてくれんだから。昔はタイヤ型が主流で安定感無かったんですけど……あそこまで一定だと、もはやリズムゲームですね。太鼓の鉄人みたいなもんです。誰でも打てます。」
「またまたー!あれ130くらいは球速出てたやろ?あんなもん、素人がバット握って打てるもんやないでな。ウチもちょっとやってたさかいわかるんや。
あんた、ウチの目から見ても『さすがプロ選手の息子』って感じやったで。スイングスピードはさほどでもないけど、ミートする力と下半身の安定力は少なくとも並のモンには見えんかった」
「いやまぁ……九年やりましたからね。それなりにはなりますよ。確かに。
てか、春日野道さんも野球やってたんですね」
「ウチのはほんの趣味の延長線上やさかい。大した腕はないわ。いやホンマの話。あんたのアレ見せられた後にどうこう言う話やないよ。」
「いや、俺もマジでそんな大した……」
「いいの?出屋敷。あなた、このままで。」
か細く、抑揚のない……だが、少し熱の籠った声で、俺の言葉を遮るように西九条は言った。入室したその時の、おざなりな態度を取っていた時の彼女が帰ってきていた。視線は合わせようとせず、頬杖をついてばつの悪そうに外を眺めている。
俺は「このままとは?」と尋ねた。西九条は少し言葉を詰まらせた。
「………不躾だとは思ったけれど、あなたの事、調べさせてもらったわ。
あなたがタイヨウさんの息子なのだと知った今となっては、もう何を聞かされても驚けないけれど………」
「え?なんや?シンジロー、何か凄いんか?」
「U13日本代表よ。」
「………。」
凍りつく春日野道。だがその反応も、俺は大して嬉しくはなかった。今となっては、殊更にどうでもいい話、過去の自分の栄光でしかなく、今の自分を示す要素の一端にもなりはしないと思っていたからだった。
「昔の話です。今となってはどうでもいい。」
「全治一年の怪我だと聞いたわ」
「…………。」
どこにその情報筋があるのか。全国大会に出たとはいえ、所詮は公立高校の一野球部員でしかない俺の、怪我をした程度の情報が世間一般に回っているとは到底考えにくい。
まあ、香櫨園も知っていたし、詳しく調べればそのうち到達するものなのかもしれないが………
「あなたが怪我をしたのは去年の4月。今、ちょうど一年になる。
私はあなたじゃないから、怪我の程度はわからないわ。だけど、仮に今、まだ完全な状態ではなかったとしても、もう半年もすればそれも見込めるはず。
………あなたの実力は、既に高校生級か、素質は確実にその上を行くわ。だから武庫川監督はあなたにプレーをさせた。野田さんとの対決を見て、素質を見抜いて………」
「…………。」
「いいの?このままで。
正直、あなたは………
本来、野球観戦部にいるべき人じゃないわ。」
西九条は、そっぽを向いたまま最後までを言い切った。衝撃に言葉を失っていた春日野道が、今度は別の理由でさらに言葉を失う。
俺は………俺の心は揺れず、ただし得体の知れない憤りのようなものが、ほんの小さな穴を通して涌き出てきていた。
「俺の決めたことだ。他人にとやかく言われる筋合いはない。」
「そう、今ならまだ他人なのよ。入部届だって、撤回できる。私とあなた、あなたと春日野道さんは……引き返せるわ」
「引き返す……って……」
春日野道の表情は悲壮だった。たぶん、俺と彼女の感覚は近い。当事者たる西九条にはさして重いものではなかったのかもしれないが、
甲子園口駅前で俺と春日野道が口にした言葉は『引き返す』などという選択肢がポンと机上に載ってこれるほど、軽いものではなかったのだ。
「野球観戦部でやっていくと決めた。トラキチのお前を部員同士として理解していくと決めた。引き返すなんてのはもうあり得ない。」
「私のため、というなら、それは違うわ。
………いえ、昨日の出来事があなたを縛るというのなら、それは私にとってあまりに不本意なこと。」
「まこっちゃん、あんたな………!」
珍しく春日野道が西九条に憤りを露にした。たぶん、昨日の自分の言葉が『不本意』という三文字のもとに伏されたことが、それこそ不本意であったのだろう。
西九条もさすがにこれには気づいて、頬杖を外して「う……」と小さく呻いて、それから少し下を向いた。あくまで目線を合わせようとはしなかった。
「ウチは……ウチらは、何も……まこっちゃんを哀れんであんなこと言うたんやないんや。
野球観戦部っちゅー部活に魅力を感じたさかい入部して、トラキチやっちゅーのを隠さんと堂々としてるあんたのことを面白く思うし、自分らしくあってほしいし、これから仲良くしたいと思ったからああ言うたんや。
シンジローだってそう変わらんはずや!」
春日野道ほど粘着の強い考え方こそ持っていなかったが、感覚としてはだいたいそのようなものだった。
情熱を失った野球はハナから候補になかった。だが野球は好きだった。野球を観る部活があったから入った。そこに、トラキチがいて、彼女はそれを誇りに思い、引け目にも感じていた。俺は、引け目に感じられていることを嫌って……トラキチである彼女を受け入れていけるように努力することを決めた。
すべては俺自身の決断で、他動的な要因はない。無論、西九条のために何かを決定したという事実は……無くはないが、それが俺自身を縛ったというのは決してない。
西九条が、野球観戦部に優秀な野球選手を縛り付けていて、それをまた引け目に感じているのだとしたら、それは俺に対する冒涜でしかない。春日野道に対しても、同じことだ。
何に縛られた事実もない。この部室に部員としているのはただただ、俺の意志がそうさせたから、ただそれだけの事であって他人の介入する余地など存在しないのだ。
「西九条、お前、いろいろ勘違いしてるよ。」
「………何を、かしら。」
「いろいろだって言ってるだろ。いちいち口で説明したって仕方のない話ばかりだ。お前の安心を売るために俺の口はついている訳じゃない」
「……………。」
「ただひとつだけ言っておく。
U13だからって、優秀な野球選手って訳じゃない。135キロ投げたって、七つの球種を扱えたって、野球に対する情熱が無いんだったらそいつはただのボンクラだ。
肘が治っているのに、すぐに野球を選べないやつは、その時点で既に選手としては終わっているんだよ。
それを自覚することは、そいつの意地なんだ。だから、回りが余計な気を回して尊厳を傷つけるようなことは、するべきじゃない。」
西九条の顔がさらに下を向いた。彼女は聡明だ。俺のこの簡単な言葉を理解できないほど頭の回転は悪くないし、感情が理解できないほど冷血な人間でもない。
俺は、使ったばかりの体操服をねじ込んだ鞄を持って、席を立った。この場でこれ以上自分が話すことは無意味だと思った。あとは、それを西九条がどう消化するかの問題だと思ったからだった。
「………今日はもう帰る。
明日も……来るからな」
西九条の顔は見ずに、俺はさっさと音楽準備室を後にした。ドアを閉めるその瞬間まで、西九条はどうも、不動で無言のようだった。
帰路となる廊下を憤りそのまま速足で歩いていると、後ろから春日野道の赤い髪が追っかけてきた。息を切らして猛ダッシュで近づいてくる。さすがに俺は足を止めた。
「辞めんよな?!シンジロー!」
春日野道が心配しているのは、自分を除いた野球観戦部全体の事なのだと、俺は悟る。彼女は、ひょうきんな性格だがかなり鋭い部分もある。今回の事は……俺の気持ちも、西九条の不器用な思いやりも、両方とも理解しているのだろう。だからこそ、やめないことを『求める』のではなく『確認』しに来た。
「俺が続けたいだけです。その時、西九条が自分をさらけ出せた方がお互い楽しいだろうと、そう思っただけで。」
「………安心したわ。」
息も絶え絶えに春日野道が言う。彼女はそれだけを聞くと、踵を返して準備室の方へと戻っていった。
…………わかっている。
西九条真訪は、慣れていないのだ。同種の人間と、同じ事を楽しむ環境に、人間関係に。
だから、心遣いを間違える。不必要な優しさを、相手の気持ちを考える前に口に出してしまう。
春日野道は、それを諭すつもりで来たのだろう。ゆえに、安心したと言い残して西九条の下へ戻った。
「…………。」
無駄に青春の臭いがする。ごっこ遊びがしたいわけではないのに。無論、西九条にそのつもりがないのはわかってはいるが………
これは、残念だが茶番に近い。
ーーー校舎を出て、校門へ向かう。日が沈んで辺りは暗い。街頭の光だけが世界を辛うじて照らしている。
俺は頭を掻いた。この辺りはそんなに治安がよくない。この時間のこの暗さは、女の子の二人歩きには危ない。
「………ああもう。」
結局俺も踵を返して校舎へ戻っていった。学校で一番大きな時計の針が、夜七時を指していた。
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