アイアム・ア・トラキチ
「乗車料は年棒で二億三千万だぞ、進次郎」
「阪神に払ってもらうからいいよ。それよかオヤジ、四人だ。乗れるよな?」
「バカ、ファントムなめんな。六人が七人だって詰め込みゃ乗れるさ。
ったく……何もメタクソに打たれた日に呼ばなくてもいいのにな、カッコ悪ぃ。
よう、君らがあれか?野球観戦部の娘達か?バカ息子が世話になってるな。」
そう左ハンドルの運転席から声をかけられた西九条や春日野道の表情は、唖然と呆然を通り越し一周回って驚愕、それが転じて顔面蒼白といった感じだった。
ーーー出屋敷太陽、登録名タイヨウは、今でこそ阪神のベテラン中継ぎエースという立場にあるが、国鉄スワンズ若手時代は泣く子も黙る完投型のスーパーエースだった。ルーキーイヤーに13勝を挙げぶっちぎりの新人王を獲ると、それからは毎年のように二桁勝利。肘の具合が悪化して志願し中継ぎに転向するまでに三度最優秀バッテリー賞にキャッチャーの降矢とともに選出され、ベストナインも数えること四回。MVPも一度獲っている、球界を代表する大投手だった。まあ、三年前に最優秀中継ぎ投手を獲っている辺り、今もその限りでないとは言えないが。
つまるところ、日本のプロ野球ファンに知らない人はいないというほどの有名人なのである。しょっちゅうテレビにも出てるし、お立ち台にも年に二三回は立つ。
ことに、ウィルキンソン、藤掛兆治とともに形成される中継ぎ勝利の方程式、WTC(ウィルキンソン・タイヨウ・兆治)は鉄壁の防御率を誇り……今日はダメだったが、七回までリードがあればそこでその試合は終わりとまで言わしめるほどの完璧なリリーフを果たしている。
日本全国知らないものがいないのに、それを阪神ファンにまで絞ればそれはもう……目を見ただけで気づくレベルではなかろうか。たぶん、ファンである西九条はそのレベルだろう。春日野道も………広島もかなりやられているはずだから、印象には深いはずだ。
さて、そんな選手が、知り合いの電話一本で飛んできて、目の前に現れ、あまつさえその知り合いの事を息子と呼ぶのである。
黙り混んでしまうのも全く無理はなかっただろう。確かに出屋敷という名字は珍しいし、西九条は俺が結構能力のあるプレイヤーであることも知っているが、
それでもまさかそいつがかの有名なタイヨウの血縁者、それもバリバリの親子だなんて気づくのは、まずもって無理なはずだ。
「えーと、紹介する。俺の父親でプロ野球選手の出屋敷 太陽。オヤジ、こっちが右から西九条 真訪、春日野道 忍、背負われてるのが香櫨園克実で一応教師……」
「そんな話は後でいい。暑いだろうが、さっさとその子達乗せてやれ。石仏みたいに固まってんじゃねぇか可哀想に。
お前、事前にちゃんと説明したんだろうな」
「いや、めんどくさかったからしてない。言っても信じないだろうし。百聞は一見にしかずだよ。
西九条、春日野道さん、ほら、乗って」
「………あなた、本当にタイヨ……出屋敷さんの息子さんなの?」
この世の結末を知ってしまったかのような絶望的な表情を浮かべ、血の気を引かせた西九条が、体は動かず目だけをこちらに向けて問うてくる。俺は答えた。
「そうだよ。」
「バカじゃないの…………!?」
そう言ったときの西九条は、確実に何かを罵ってはいたが、その対象はおそらく俺ではなかった。たぶん、彼女自身なのだろう。
何せ、息子の真ん前で、父親へのヤジを飛ばしていたのだから………。
「あわわわわここここここんなことってあってええんか、そんなアホな、シンジローの父親がタイヨウ………」
たぶん春日野道の焦燥も同じようなものだろう。彼女に至っては、隠すことすらせず、隣で叫んでいた。「しっかりしろ出屋敷」と。
「こうなるんだよ。当たりめぇだろうが、こういうことはちゃんと先に言っとけ。
いいか、お前は慣れてるかも知れねぇけど世間一般的には……」
「わかった。オヤジ。反省するよ。
西九条、春日野道さん。とりあえず乗って。送ってくれるから、家まで。」
「タイヨウさんに私ごときの送迎をやらせるつもりなの……?!」
今度は本当にバカじゃないの、と言いたげな視線を送ってくる西九条。
「こんな機会滅多ないわ、かか、カメラカメラ……」
「あー、すまん嬢ちゃん、写真は勘弁してくれ。深夜街角でタイヨウが黒塗りの車で女子高生を拾ったなんて記事になった日にゃ、球界追放だ。」
苦笑したオヤジ。春日野道はスカートのポケットから出かかっていたスマホを、ポケットが破れるのではないかと思うほど勢いよく突っ込む。それからまた硬直して動かなくなる。
あまりにも緊張がひどく、これではいつまでたっても車が動けそうにないので、最終的には俺が二人と泥酔一人を車に押し込むことで解決を図った。西九条は「そんなことをさせるくらいなら補導される」と言って聞かなかったが、問答無用で詰め込んだ。
最後に俺が乗り込むと、車は発進し、国道43号線を神戸方面へ向かってひた走る。車内にベートーベンの運命が流れるなか、あまりに数奇な運命に言葉を失った西九条と春日野道は、黙りこくって緊張に血の気を失っていた。
「すまんなぁ、嬢ちゃんら。今日はあんな体たらくで。石投げたくなったんじゃねぇか?」
大して気にしてもいなさそうに、オヤジが問う。助手席に座る俺からは問われた彼女達の表情は見えなかったが、声からその大体の様子は伺えた。二人とも、完全に上がりきっていた。
「そ、そんな事……!」
「ウチ、実は広島ファンですさかい、全然気にしてません!」
そんななかでも、春日野道はいくらか楽そうだった。嘘をつく必要性が無かったからだろうか。確かに彼女は、ヤジっぽい何かをヘラヘラと叫んではいたが、それは本意ではなく俺をおちょくっていたに過ぎず、
広島ファンであるゆえに阪神の勝敗などどうでもいいというのもまた、事実だった。
逆にそうはいかないのが西九条。彼女のは完全に嘘だった。気にしていない訳もない。周囲のひんしゅくを買うと自覚のあるヤジを、わざわざベンチに近い位置まで言って叫んでいたのだから。
「はーん、それで赤い髪か。いいじゃねぇか、似合ってるよ。」
「え、おぇ、ま、ホンマですか?!」
「ああ、名刺みたいでいいやな。誰も疑わねぇよ、それなら。ありがてぇはなしさ、君らみたいなファンのお陰で俺らは食わせて貰ってんだ、どこファンだろうと関係ねぇ話。
ま、本当ならもっと綺麗にシメれた時に会えれば格好もついたんだが……まあ、それもそれで仕方ねぇか。
部長さんてのはどっちだい?」
「わ、たしです」
明らかに上ずった声で西九条。たぶん、彼女の心は今、興奮と緊張、幸福と罪悪感のマーブル模様だ。
「熱烈な阪神ファンらしいな。」
「……トラキチです」
西九条はそこを譲らなかった。なんとなく俺はほっとする。さっきの会話が茶番でなかったことが証明されたからだ。
「進次郎から聞いたよ。生活かけて応援してくれてるってな。ありがとよ。選手冥利に尽きるってもんだ。」
「…………!
そんな……勿体ない………!」
「いや、勿体なくもなんともねぇ、ただの事実さ。それだけに、今日の不甲斐ないピッチングは申し訳なかったがな。
腸煮えくりかえったろ?いや、いい、言わなくて。自覚はあらぁよ。そうやって文句言われなきゃあ、次は絶対やらねぇぞって気持ちになれねぇ。」
感謝と一緒にフォローも混ぜたオヤジ。忙しいことだが、話のもって行き方はとにかくうまい。西九条がみるみる救われていくのがわかる。
「進次郎にも言ったが、ファンと選手ってのは表裏一体だ。どちらかが真剣みをなくしちまえばすぐにバラバラになって壊れちまう。言われている内が華なんて言葉があるが、まさにその通りさ。
厳しく応援されている内が華なんだよ。嫌でも気が入るからな。これが薄れて見向きもされなくなったとき、選手は選手としての終わりを迎える。まぁ、俺の持論だがな。
正直、嬢ちゃんみたいなファンの野球の見方は重いように思うが、だが、そんなファンがあってこその俺らでもあるんだよ。だから、本当に感謝してんだ。
これからも……ま、そうだな。ストレスで死なない程度に厳しく応援してくれりゃあ、ありがたい。」
「出屋敷さん……」
もともとファンだったのが、もはや陶酔のレベルにまで持ち上がっていくのが手に取るようにわかる。熱にうなされたようになっている西九条を見るのは、これがはじめてだった。まぁ、無理もないか。俺や春日野道の立場では不可能なフォローを、オヤジはやってくれたわけだ。
トラキチとしての彼女を認めるに最も効果のある立場の人間は、間違いなく選手なのだ。
「オヤジ」
「何だ息子」
「ヤジについてどう思う?」
後部座席からヒッ、と息を飲む声が二つ聞こえた。今日、目の前の人物に暴言を放った自覚のある二人だった。
ヤジというのは当然、フェンスの向こうの人間に、本来手の届かない声の届かない相手に飛ばすものであって、
実際に会うことになるなど、想定外も想定外だろうから、当然の反応だと言えた。本音を聞かされるのは、彼女たちにとっては怖いはずである。
だが、俺には確信があった。オヤジはおそらく………今までのファン観を紐解くに、
そこまで、ヤジに対して否定的ではないと。
「どう思うって、何だ」
「腹立つか?」
「そりゃあ、腹も立つわな。こっちも真剣にやってんだって、思わない事はねぇ」
サーっと後部座席から血の気が引く気配がした。だがここからだと、俺は後ろの二人に心の中で呼び掛ける。
「けどま、真剣にやってるから認めてくれってのが通用するのは中学生までだな。そんな言い分が通用しねぇのは当たり前のことだ。
それにヤジ飛ばす人間ってのは、それだけ思い入れがあるって見方もできる。熱烈なファンはありがてぇと言ったばかりな手前、否定はできねぇな。
実際、今日飛んできたヤジなんか……すげぇもんだったぞ。俺の肘のこと、見抜いてやがった。監督も知らねぇ超トップシークレットだぞ。
さすがに肝冷やしたわ。あれ見抜ける奴ぁ、相当よく野球を見てる。ああいうファンを、手放しちゃなんねえ。」
俺は後ろを振り返りたくて仕方なかった。もちろん、西九条の反応が見たかったのである。
今、オヤジは、かなり遠回りではあるが、そのヤジを飛ばした奴を……つまりは西九条真訪を、誉めて、感謝したのだ。かなり遠回しではあるが。
オヤジの仕事はパーフェクトだった。打ち合わせをしたわけでも、示しあわせたわけでもないが、望んだことのほぼ全てを果たしてくれた。西九条は、間違いなく自信を取り戻したはずである。
「ヤジも必要と考えてるわけだな」
「球界の総意と捉えるなよ。あくまで俺個人の見解だ。推奨はしねぇしよ。俺も表向きには、良くないことだと言うしかねぇ。」
どうにも、と軽く肩をすくめたオヤジ。西九条と春日野道は無言を貫いた。いや、ただ単になにも言えなかった、というべきだろうか。
車は街灯に照らされ夜の三車線をひた走りに走る。
最初に向かったのは春日野道の家で、その間もオヤジは色々と後部の二人に話しかけてはいたが、結局春日野道は目的地にたどり着くまでにその緊張を解くことはできずに、硬い面持ちのまま一軒家のドアの向こうへ消えていった。最後に「髪の色のこと、誉めてもらって嬉しかったです」とだけ言い残して。
続いてそこから程近い香櫨園のマンション。爆睡していた彼女は結局、オヤジに担がれ俺に荷物を預ける形で部屋へ送り届けられた。部屋に入ってみてなんとまぁびっくり、壁一面に新聞記事のスクラップが貼り付けられていた。総じて野球のもので………彼女が野球観戦部の顧問を引き受けた理由が、なんとなくわかった次第だった。
それからようやく、最後に西九条の実家、魚屋へ。
甲子園口駅を軸にして考えれば春日野道の家方面と西九条の家は真反対になるので、移動にはそれなりに時間を擁した。
さすがにその頃にもなれば西九条も多少は慣れてきたようで、オヤジの全く人見知りしない性格も助けて、最初に比べればかなり会話が発展するようになっていた。
………とは言っても西九条がかなり自分の立場を弁えようと努めている印象で、野球の話は思ったより出てこなかった。。本来の彼女なら、タイヨウ……オヤジの肘の調子がどうだとか、今の阪神の弱点欠点はどこだとかそういう話をふっかけてもおかしくないところ、相手だったはずだが、ほぼ最後までそれは無く。
せいぜいオヤジの高校野球のころの話に耳を傾ける程度であった。それでも、彼女はかなり興奮して楽しそうに聞いている印象ではあったが。
大半を占めるとりとめもない話が散発的にあって、気付けばいつの間にやらカーナビは目的地周辺を示していた。商店街の角を曲がって、アーケードを100メートルほど直進すれば到着、というところで、オヤジは車を止めた。
曰く「そこまではお前が送っていけ」と。
要らぬ気を回されたのか………と俺は思ったが、察したオヤジはそれをわざわざ否定してきた。トラキチの家に自分がいきなり訪ねて行けば、大混乱の末近状迷惑になるだろう、とのこと。
なかなか的を射た予想だと思った。この娘を作り上げた親である。彼女と同等かそれ以上のトラキチであることは可能性として否めない。真夜中にタイヨウ本人が来たら、それはえらい騒ぎになることだろう。
西九条本人がそれに激しい同意を示したことで、それは決定の運びとなった。彼女は、死ぬほど丁寧に礼を述べ車を降りようとしたが、その際オヤジに甲子園の土のついたサイン入りのNPB規格ボールを手渡されて、
感激のあまり今にも泣き出しそうな表情を隠すように一目散にそこから離れていった。オヤジに追えと言われて仕方なく、俺はそれについていくようにしたが、
彼女は50メートルほど走ったところでその足を止めた。どうも、ついてきた俺を待っているようで、
ならばと俺が横に並んだとき、彼女はそのサインボールを両手で包むようにして握り、こんなことを言った。
「いろいろとありすぎて、疲れたわ。」
暗闇のなか、街灯に照らされた彼女の表情は、思いの外苦笑だった。そういう力のない笑みを見せる彼女というのはこれまでに知ったことがなく。
俺は、彼女が言葉通り本当に疲弊しているのだということを知るに至った。確かに………トラキチであることが露見し、憧れの選手と突然対面して………中身の詰まりすぎた一日であったことは間違いない。
「でも、悪い日じゃなかったろ」
「ええ。阪神も勝ったことだし。」
ふ、と鼻を鳴らすように息をついた西九条。結局それが最初に来るあたり、徹底していることだと俺は思う。
「何か、喜んでいる風には見えなかったけどな。サヨナラの場面も、椅子に座ったまま黙っていたし」
「さすがにあんな状況でははしゃげないわ。平気そうに見えたかもしれないけど、内心、かなり辛かったの。
主に……隠し事をしていたことを知られたことがね。」
「………?」
「裏切られたような気に、多少なりとなるものでしょう?隠し事をされていた時というのは。
私ならそう思うから、あなたたちもそのように感じていると思った。それが、堪えた。」
少しうつむいた西九条に、俺は「バカだな」と言った。彼女は、いつもの通りの透明な無表情を寄越す。俺は続けた。
「余計な気を回しすぎるな。俺ら、まだ出会って二週間と少ししか経ってない。
そんな間柄で、お互いに知らないことがあったって、そんなの隠した内に入んないって。そんなこと言ってたら、俺はいかほど隠し事していることになるかわからない。
実際、タイヨウの息子であることも……隠していたようなもんだし。だけど、そんなことにいちいち引け目は感じないぞ、俺は。」
「………あなたの話すこと、極端であまりしっくり来ないわ。さっきの駅前の話もそうだけれど。」
西九条は冷静にそう言ってきた。それを言われると辛いところがある。多少自覚はあるのだ。相手を納得させるために、例えが大きな話になってしまう癖ーーー
「なまじ、筋が通っているから答えのように聞こえてしまうけれど、本当はそうではないのかもしれない………良いのかしら。私は。
それに、簡単に乗っかかってしまって……」
「いいんだよ別に。言われた方に責任は無いんだし」
「ほら、またそうやって。」
「…………。」
西九条も西九条で大概揚げ足取りな奴だと俺は思う。
いいと言っているのだからそれでいいではないか。まだ腹の探りあいの段階なのに、彼女は慎重に過ぎるし相手を大切にしすぎる。却って困るのだ。
グラスでの乾杯に例えればいい。ぶつけて早々に壊れるものならただ単に相性が悪いのだからそれまでのものだし、割れない程度の接触を望むにしてもやはり、ぶつかってみなければその限界はわからない。
俺や春日野道に気を遣いすぎる西九条は、衝突のない現状維持を続けているに過ぎない。乾杯すること自体を避けているに過ぎない。そういうつきあい方を続けていけばお互いに壊れることはないし、そういうやり方もあるにはあるのだろうが………。
俺と春日野道はそれを拒絶した。完全に壊れるか、限界の強さの接触を勝ち取るか。そういう賭けに足を踏み出したのだ。
いわば、もう探りあいは始まっているのだ。西九条は………自分が思うスピードで、自分が思う力で、ぶつかりにきてくれればいい。俺がグラスを差し出したのだから、ためらわず当てにきてくれればいいのだ。その結果、割れてしまったってそれは乾杯を求めた俺の責任であって、西九条に罪はない。そのあと、新しいグラスを用意するのかどうかは……お互いでまた、考えれば良いことだ。
「………まぁ、いいわ。変に保険をかけられるよりは、好感が持てるもの。」
「そうかい。じゃ、それでいい。」
ほんの微かに口許を緩めた西九条に、俺は適当な返事をする。減らず口を、と言いたいところだったが、また揚げ足をとられるような気がしたので、なにも言わなかった。
彼女が足を止めたのは、西九条魚市場という看板のかかった、ほんの小さな一商店だった。当然ながら既にシャッターは下り、二階の居住スペースとおぼしき部屋からも電気は消えていた。気付けば時間はもう11時を回っていた。
シャッター横にもまた小さなシャッターがあって、西九条はそれを押し上げて「じゃ、また明日」と愛想もなく呟いて中へ帰っていった。
「ああ」とだけ返事した俺は踵を返して車へ戻る。と、二三歩を踏み出したところで後ろから「出屋敷」と、再び西九条の声で呼び戻された。
振りかえってみると、彼女はシャッターの影から半分だけ体を乗りだし、左手を地面についてバランスを取り、
ばつの悪そうにこっちを見つめていた。
「どうした?」
「……言っておきたいことがあるの。」
少し言葉を詰まらせて西九条。何だ?改まって。告白か?
ありもしなさそうな想像を冗談のうちに働かせた俺は、完全に体を彼女の方へと反転させ「何?」とだけ聞いた。
彼女は、迷った風に数秒目を泳がせたが、ある時ふと顔を上げて、意を決したようにこんなことを言った。
「タイヨウさんにお会いしたからこんなことを言うわけではないのだけれど。
私は………阪神の、得点も信用していないし勝利を最後まで疑ってしまう。純粋な野球ファンからは理解しがたいだろうと思うのだけれど、何もかもをネガティブに考えるところから入るわ。
知ってのとおり。打たないだろうとか、リードを守りとおせないだろう、とか。」
「………そうだったな。」
「けれど」
「おう」
「それでも、私は……阪神カイザースの勝利を、いつも信じているわ。期待している、と言い換えてもいい。
基本的に辛辣なことしか言わないし、何が楽しくて阪神を応援しているのかわからない、と、思われるかもしれない。けれど、
それでも、阪神より愛しているものは、この世に存在しないの。
阪神カイザースの優勝を望む私こそが、
本当の私なの。」
「………。」
ーーートラキチは、阪神が憎いから暴言を吐くのではない。その愛ゆえに、厳しくなり言葉が辛辣になる。全ての試合を獣のように食らい付いて見るからこそ、悪い印象が残りやすい。三割いい成績があれば称賛される世界、残りの七割を逃さず見ている人間なのだから………当然と言えば当然なのかもしれない。
すべては、阪神への慕情へ繋がっているのだ。それありきの、ヤジであり。それありきの、トラキチであり。
西九条はこれまで、俺にその毒舌とシビアな物の見方しか印象として寄越さなかった。周りの阪神ファンがお祭り騒ぎを起こすような勝利にも喜ばず、ともすれば文句が言いたいだけととられてもおかしくないような態度を取り続けた。
彼女は、それを気にしていたのだろう。
あえて訂正するとはそういうことだ。だが、俺にはわかっていた。狂信的である上は、その根幹をなす狂気の愛がなければ自分を維持できないということが。
西九条真訪は、トラキチである自分を見失わない。何よりも阪神が大切なのだと、俺と春日野道の前で断言して見せた。十分ではないか。これ以上、彼女の何を………疑えと言うのだろうか。
阪神を好きで好きで仕方のない、
阪神狂(トラキチ)である彼女の事を。
「……サインボール」
「?」
「よかったな。」
「ええ。家宝にするわ」
彼女はそれっきり体を店の中へ引っ込めて、今度こそ姿を見せることはなかった。
街灯に照らされた道を車の方向へ戻っていくと、わざわざオヤジが車を降りてこっちへ向かってきていた。
そして、普通の話し声でも通じるくらいの距離まで近づいたとき、こんなことを言った。
「今日俺にヤジ飛ばしたのはあの子だな」
俺は自分の事でもないのにドキッとした。が、ヤジに否定的でないと言ったオヤジに隠しても仕方がないと思い「そうだよ」と頷いた。知っていたとすれば、俺の問いにああ答えた以上、西九条のことも否定的に捉えていないと思ったからだ。
「知ってたんだな。」
「意外とグラウンドからはよく見えるしよく聞こえんだ。ユニフォーム姿のなかに一人だけ制服がいたんじゃ、特にな。」
「そういうものか」
「なぁ、進次郎。俺がさっき言ったのは、嘘じゃねぇ。本音だ。
ああいうファンは逃しちゃなんねぇ。あんなに真剣に野球を見れる輩は、そうはいねぇ。」
「………まぁ、そう思うよ。」
「だが、ああいう類いの人間は絶対ぇ周りから浮くもんだ。兵庫に阪神ファン多しとは言ってもな。あのレベルについていける奴なんざ、たかが知れてら。ましてや、女子高生だ。オッサンは、ちゃんと友達がいるのかすら心配だ。」
「…………わかるよ。」
「俺は、お前が、中学で肘を壊して………全治一年の診断を受けたとき、内心ホッとしたんだ。大好きな野球を捨てさせなくて済むってな。一年経てば………ちょうど今年の今ごろになれば、野球がまたできるようになるんだってな。」
「………。」
「だから、野球そのものを選ばなかったお前が、なに考えてやがるのか、不思議で仕方なかった。別にプロ野球選手の息子が野球をやり続ける必要はねぇ。世襲じゃねぇんだから、やりたいことやればいいと思ってるさ。だが、それにしても野球観戦部というのはどういう了見なのか………」
「…………オヤジ、あのな」
「いい、いいんだ、息子。俺はな、今物凄くホッとしてんだ。全治一年の診断を受けたときより、遥かにな。
もうわざわざ言わなくてもわかっていると思うが……進次郎よ。
あの、真訪という子が野球観戦部なるものをわざわざ学校に部活として立ち上げた意味を、真っ赤な頭の春日野道って子と一緒に、しっかり考えてやれ。
それができるようなら、俺は、お前が五回ノーヒットノーラン達成するより遥かに嬉しい。」
「…………。」
オヤジの目がいつになく真剣で、俺は返す視線に困った。だが、言われていることは……一時間前、駅の前で自分が西九条へ語ったこと、思ったことと全く同じだった。
さいは投げられた、という言葉が頭を過る。どのみち、何かを無理に推し進めるようなやり方では先はないが……しかし、覚悟は新たなものを用意しなければならないということなのだろう。
「……帰ろう。母さんが待ってる」
「ああ、腹へったわ」
ばつの悪い会話に終止符を打って、俺は後部へ、父親は運転席へ。
普段なら車の中で眠気など感じないところだが、この日の心身の疲れは半端なものではなく、
車が止まった音がしたかと思ったらベッドの上、
気がつかないうちに既に翌日になっていた。
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