甲子園口改札で愛をさけぶ




俺にとっても、阪神ファンにとっても荒れに荒れた伝統の一戦は、


あの一件のあと、交代した藤掛がバットの上を通過すると表現される通称『火の玉ストレート』によって後続を二者連続三振に切ってとり、チームとしての失点を最小限に抑えると、


九回もそのままマウンドに立ち、一人だけ不調に対応するワクチンでも射っていたかのように三者凡退。読買打線を完封。


これで流れを掴んだ阪神はその裏、ランナーをファーストに置いた状態で前打席ゲッツーの新井熊が、それまでの凡退を帳消しにする価千金のサヨナラツーランホームランを放ち、


まるで前半の呆れてものも言えないような内容が嘘であるかのような劇的な幕切れで、勝利を納めた。


最終スコア11対9はどう見ても馬鹿試合の分類にはいるが、終わり良ければ全てよし。宿敵読買に対する痛快極まりない勝利に甲子園の阪神ファンは、火を投げ込んだニトログリセリンのような爆発的な盛り上がりを見せ。


球場外、国道43号線の高架下では試合終了後も延々と応援歌の大合唱が続き、阪神電鉄本線、甲子園駅発の梅田行き臨時急行の車内では仕事帰りのサラリーマンが観戦に行っていたユニフォーム姿のファンを祝福するといったような、兵庫県ぐるみのお祭り騒ぎが夜通し続いたというニュースが、翌日スポーツニュースを賑わすことになるのだった。



本来であればそんなバカ騒ぎが起こるほど阪神ファンにとって幸福が満ち溢れる状況下、阪神ファンである西九条は………同じように騒ぐまでのことはなくとも、嬉しそうにしていてもいいようなものである。


それは春日野道も俺も、同じ事。アンチ読買にして元新井熊のファンであるとおぼしき春日野道は、広島ファンとはいえ一緒になって喜ぶ権利を有していた筈だし、父親のミスが帳消しになった俺も、ホッとしてその勝利をありがたがるくらいのことは、


本来ならできたはずだったのだ。



………それができなかったのは当然、八回表の一件が原因の全てだった。



「見たのね。」



西九条がそう呟いてからこのかた、俺達はただの一言も会話をしていない。西九条は言わずもがな、俺と春日野道の間にすら交わした言葉はひとつもなかった。


無理もない、と自分でも思う。俺も春日野道も、端的に言えばある種の諦感を抱き始めていたのだ。見られたくないものを見せてしまった人間と、見てはいけないものを見てしまった人間の関係、その終着点はどこになるのか。その最悪のシナリオは、しかし現実になり得る可能性を秘めて背後に忍び寄ってきているのである。


極端に、恐怖と言い換えることもできる。その最悪のシナリオが起こってしまうことへの、恐怖である。それが、吐ける言葉の全てを肺で打ち消したのだ。



ただ一人香櫨園だけが酒の力を借りてやんやと騒ぎまくっていたが、それとて俺と俺の周囲二人が作り出す重い空気の中ではそれを吹き飛ばすほどの力はもたず。


終い、あまりに暗すぎる部員三名を見てさすがに何か雰囲気がおかしいと感じたらしく、最終的にはその口数すらゼロに近づいていった。酩酊状態の彼女に自制を促せるほど、その場の空気がひどいものだったということである。



階段を下りながら、帰り支度をしながら、ともかく帰宅へ向けての行動、そのうちの何かをしながらそれでも応援歌を歌い続け、余韻をひたすら楽しみ続ける阪神ファンたち。俺を含めた野球観戦部一行は、その間隙をすり抜け………阪神電車の甲子園駅に向けて歩みを進めていた。


行きは学校からであるからともかくとして、帰りはそれぞれ家の場所が違うからバラバラである。それぞれの帰宅に一番都合のいい交通機関は、電車だった。



事に梅田とは反対の方面へ行く電車に乗らなくてはならない香櫨園と春日野道は急ぐ必要があって、それは全員……いや香櫨園を除く全員が知っていることだったから次第全体として歩くペースは上がった。


そのせいもあって駅へは思ったより早くついた。電車の時間にはさほど余裕がなく、暗黙の了解的にそこでの解散が無言のうちに決まろうとしていた。


………その改札の前で、西九条はこんなことを言って、俺達の帰宅の足を止めたのである。



「私は、トラ吉よ。


もう、気づいているかもしれないけれど。」



西九条本人による核心直撃の告白。


もうその時点で、俺の頭の中から次の電車の時間が差し迫っていることなど、


殊更にどうでもいい事実になった。


それはたぶん、春日野道も同じことだっただろう。


最悪のシナリオを回避するための努力が、最も解決の糸口になりえる形……西九条本人の手によって切り開かれたのだから……


これをモノにできないということはすなわち、手に入りかけていた野球観戦部という自分達のなかのひとつの可能性を、


再生不可の状態にまで殺すのと同じことだというのを、皆、わかっていたのである。


ーーーこれを逃せば次などあり得ないのだ、と。



「………勝手だけど、冷静に野球を見るタイプのファンなんだと思っていたよ。


それこそ、ヤジなんかとは無縁な。」



さっきまで『青春は免罪符ではない』などと結論付けていた自分がまるで嘘であるかのように、俺は思ったままの事をそのまま言葉に写して、そしてぶつけた。


知らない事にするという選択肢があった時とは………状況がまるで違うのだ。お互いが『知っている』事を共通認識にしてしまった以上、その上に新たな何かを築くためには現状破壊が必要になる。


……見方を変えれば所詮、出会って二週間のものである。座していても壊れるし、空気を読んで現状維持を試みたところで将来的な破滅のフラグ立てにしかならないのであれば、


事はここで処理してしまうのが一番得策と言えるのだ。それで壊れてしまうなら………この部活に未来はない、ということなんだろう。



「………隠してたのは、何で?」



問うたのは春日野道。しかし、努めて責めるような口ぶりは回避しているようだった。彼女もわきまえている。自分達が、まだ、それを責められるような間柄には無いことを。どのような理由があってかは知らないが、西九条にとって自分達が、トラキチである彼女をさらけ出す事ができるほど信頼されていた訳ではないということを。


そして………それで当然だということも。



「………隠していたわけではないの。」



西九条は瞑目してそう言った。帰宅を急ぐ阪神ファンたちが間を通りすぎる度、彼女の表情は連写した写真のように、少しずつ変わって見えた。



「私は……私自身は、トラ吉であることになんの負い目も感じていないわ。


恥ずかしくもない。


………むしろ、誇りに思っている。」



「そういう態度には見えなかったんだよ。」



「わかってる。」



西九条はため息をついた。それは、理解されないのを嘆いているものではなかった。彼女もまた、こちらがそれを手放しで理解してくれるほど深い関係にはないことを、弁えているようだった。


故にむしろ、それは自分に対する落胆のようにもとれた。



「わかっているわ……あれで、それを信じてもらおうなんて虫が良すぎる。


私があなたたちの立場なら、絶対に疑う。」



「……あんな、疑ってる訳やないんよまこっちゃん。


ウチら、まだお互い疑い合えるほど時間経ってへん。信じ合えるほど話もしてへん。


シンジローかて……ただ、そう見えへんかったと言うただけや。懐疑的になってる訳やなくて………」



「………。」



「話したくなかったら、無理に話さいでもエエんや。ウチらにはまだ、それを受け止めるだけの器が………経験がない。まこっちゃんと関わりあった経験が。


ただ、ウチは………この部活は自分に合ってる思うし、まこっちゃんもシンジローも、香櫨園先生も、仲良くできたらきっと楽しいことになると思うたから……


できることなら、未来、っていうか、その………将来的に、お互いそんな風に思い合うような事がない間柄になれたら、


ええなと……思ってて……」



春日野道は慎重に言葉を選んでいた。そのがさつそうに聞こえる言葉遣いとは裏腹に……ハンマーで叩き割るのではなく、ピックで削り取っていくような、そんな丁寧さが感じられた。


俺は、それを聞いていて、自分もそのようであるべきだと思った。例えそれが……一歩間違えて現状からの逃げになり得るとしても。


自分達の関係が前進しなかったとしても、彼女の尊厳は傷つけられるべきではないのだ。



「俺は疑えるほどお前を知らない。だから、そういう態度に見えなかったとすればそれは知らなかっただけだ。


………もし、お前がこの部活に……そうだな、活動内容以上の繋がりを求……必要だと思うなら、その理由を話してくれさえすればいい。


それがこれからの、俺達のお前への情報として書きかわるだけだ。


……必要でないと思うなら、黙っていればそれでいい。少なくとも俺は、知らないでうまくやる方法を模索していく。


この部活は……俺には合っていると思うから。ただそれだけのことだ。」



西九条は少し顔を伏せるようにした。地面を向いた瞳は明らかに泳いでいて、何かに迷っているのだということは容易に見てとれた。


しばらくの間、俺の背中に担がれた香櫨園の寝息だけがその場の四人の発する音だった。雑然とした帰宅ラッシュの阪神ファンたちの会話、足音は確かに響いていたはずなのに、


どういうわけか………それらは耳から排除されて、ノイズにすらならなかったのである。


ふと、顔を上げた西九条は、少し詰まり気味にこんなことを言った。



「……本来の私は、甲子園に来れば人が変わるわ。自分で言うのもおかしな話だけれど。


常時、ああいう感じになるの。応援歌も歌うし、手放しで喜び、悔しがるし、ヤジも平気で飛ばす。


完全無欠のトラキチ、それが………西九条真訪の、名刺のようなもの。」



ーーー前者だ。俺はそう確信した。上っ面だけで観戦部としての活動を継続したいなら、こんなことは言わないはずである。



「なぜ、俺達の前ではそうしない?」



「ウチら気にせぇへんのに……」



「野球観戦部として、来ているから。」



確固たる意思を持った、強い口調で西九条はそう断言する。先程までに比べれば、いくらか、いつもの凛とした彼女が戻ってきているように感じられた。



「当たり前の話だけど……この部は、阪神応援部ではない。出屋敷は、贔屓のチームを持たないただの野球ファンだし、春日野道さんは広島ファン。香櫨園先生も阪神ファンではない。


この部にトラキチは私だけなの。」



「………それで?」



「私は、部長として部の活動に責任を持つべきだと考えているわ。あなたたちが……この部を選んでくれたこと、素直に嬉しく思っているの。


だから、ちゃんとした活動内容で………純粋に野球を研究する部として活動していきたいし、継続もしていきたい。この部は、私が作ったけれど、私の所有物ではないわ。青臭いことを言うのかもしれないけれど、あなたたちも含めた………みんなのもの。


だからこそ、その活動中に……出屋敷が一生懸命スコアを書いている横で、ヤジを飛ばすなんて事は、できなかったの。」



「…………。」



「まこっちゃん………」



「ヤジは……確実にある一定の『清き野球ファン』からひんしゅくを買うわ。わかっているの、私も。少なくとも、誉められるべきではないことくらいはね。


ヤジを飛ばす私があなた達の隣にいれば、その一角がまとめて冷たい視線に晒される事になる。真面目に………野球だけを見ている、ただの野球ファンの出屋敷、あなたもね。


私は、それはダメだと思った。私が当然受けるべきひんしゅくを、あなたに肩代わりさせるのと同じことだから。


春日野道さんも……阪神ファンではないのに、ひとくくりでトラキチと見られるのは……広島ファンとして、屈辱的なことではないのかと、思ったから。


酔って何も覚えていない状態の香櫨園先生も、同じ。知らない間に身に覚えのないことで責められているなんて、おかしな話。」



「だから……迷惑がかからないように、他へ行ってたって言うのか。」



「ヤジを飛ばすのをやめればいいというのは理屈だし、その通りだと思うわ。


けれど………私は、トラキチなの。人生の半分近くを阪神に懸けている。


それを言い訳にするのはおかしな話なのかもしれないけれど………内側に湧いてくる熱情が、その………違うの。


圧し殺すことなんて、できないのよ。抑えれば抑えるだけ、膨張して、限界に達した時の爆発が大きくなるだけ。メルトダウンしたら、私が私でなくなってしまうわ。


言ったでしょう?阪神は酸素でもあり、アイデンティティーでもあるって。


息ができなくなったら死んでしまうし、個性を殺したら自分が保てなくなる。私は、阪神ファンである事がすなわち、自分の存在意義なの。


得点に喜び、不甲斐ないプレーにヤジを飛ばして。そうやって、息をして、自分を確認して、過ごしてきた。人生と等価値と言ってしまってもいい。


だからというわけではないけれど、我慢は……限界があるわ。そして、限りなく沸点が低い。これが……私という人間。


西九条真訪は、そういう人間。


そう、説明するしかないの。」



完全無欠のトラキチ。ある一線を越えた阪神ファン。西九条は、そんな自分に対しての理解を、俺たちに求めてはいない。それがアイデンティティーだとまで言い切る人間が、他人の目にどう映るものか、それをしっかり自認しているからだ。


………実際、狂人だと思う。通常時、極めて理性的でおとなしく、物事の判別もしっかりついているはずの人間が、こと阪神が絡んだだけで内から来る衝動を抑えることができず、ともすれば非難すら受けるとわかっている行動を平気で実行してしまうのである。その物事に対してだけ妥協ができない。容赦がない。まさに、阪神に狂った人間と言えるだろう。人生を捧げているというような趣旨の発言も、人格の全てを捧げているという点に置いて、過言ではないように思える。


阪神が酸素、というのもあながち、比喩ではないのかもしれない。呼吸と同等に、生きていく上で必要なもの。取り上げられたら死するもの、だから、彼女はトラキチである自分を絶対に捨てられない。


だが、トラキチとしての観戦スタイルは、自身の目指す『野球観戦部』の形には当てはまらない。どころか、そこに所属する人間……つまり俺や春日野道、香櫨園に、迷惑すら与えてしまう可能性がある。辛いであろう事には、その一番手っ取り早い解決がそれをやめることだと知っていて、それでいてそれは絶対にやめられないのだ。


彼女が……西九条真訪が、わざわざ俺達の前から消えてまでヤジを飛ばしに行くという行動をとったのは、そういう矛盾から来る葛藤が由縁だった。


ゆえに……事が露見した今、彼女が俺たちに求めるものとはーーー



「やめられないから、これからもそういう自分と付き合っていくしかない。


だけど、それでも野球観戦部は大切に思っている、と。」



「それこそ虫のいい話……なのだろうけど。」



ーーー『阪神カイザース』が最も大切である自分が、しかしその次くらいには『野球観戦部』も大切にしている


という逃れようのない業から来る優先順位を許して、その上で野球観戦部とその部員を大切に思っていることをわかってほしい。


そんな、見方次第ではわがままともとれる、自分への無条件の理解であるように思えた。



………要は、常人には理解できない彼女の阪神至上主義を、俺達が理解してやれるのか、という問題だった。理解できるにしても程度がある。全面的に受け入れるのか、現状のようにある一定の距離を取ってもらうのか、野球観戦部と阪神を完全に切り離して考えてもらうのか。


何を大切と見て、どうこれからを過ごしていくのか。彼女という人間を如何様に見ていくのか。


その解を出す、ということは、それを定めるということと同意義だった。



「…………。」



「…………。」



行き交う人の数が減り、券売機前は閑散とした雰囲気になる。


今度こそ、本当にノイズは消えていった。遠くで未だ、高架下の応援歌の大合唱が続いてはいたが、内容はとんと入ってこなくなっていた。


幾ばくかの時の隙間は、お互いの頭の中を整理させるのに必要なものだった。俺にしても、安い正義感で『受け入れる』と断言してしまいそうなところを、一旦でも踏みとどまれたのはその時間があったからだった。


………言うは容易い。


入部のとき阪神ファンが、事にトラキチが来たと聞いて声を上ずらせていた彼女は……おそらく同じような人種が近くにできること、理解してくれる人間ができることを嬉しがっていた彼女は、


俺や春日野道がその全てを容認すると言えば、確実に喜びはするだろう。嬉しくないはずがないのだ。


だが、現状でそれを手放しで認めてやることは、無責任というもの。阪神に人生を捧げてきたと断言する人間を、阪神ファンでもない人間がそう簡単に理解できるものか。敗戦の翌日、晩飯がキュウリになった話すら異次元の出来事に聞こえた俺に、そう簡単に……長いスパンで見ても三年以内に、彼女を理解することができるのか。


甚だ怪しいものがある。そこまで自分の器が深いものだとは思えない。


できないのであれば、できないと言うべきなのだ。ぬか喜びをさせることだけは絶対に避けなければならない。忘れてはいけないこと、彼女にとって阪神は呼吸。それを迂闊にも否定することはすなわち、


彼女の生存それ自体を否定することと同じ。


極端に言えば覚悟なしに彼女を『受け入れる』ということは、そのうち彼女を殺してしまうかもしれない、という可能性まで背負うということなのだ。


そんな重い責任を負う前に忘れてはいけないことがある。俺は一度、大好きだった野球にすら、背を向けているということーーー



「……ウチ、まこっちゃんに謝らんならん。」



重く閉ざされていた口を、開いたのは春日野道だった。少し伏せがちだった顔を、西九条がおもむろに上げる。



「謝る………?」



「まこっちゃんがそんなにウチらのこと気にしてくれて、野球観戦部のこと考えてくれてたのに……。


ウチは、なんも考えんとはしゃいで騒いで、その……ヤジとかも、飛ばしてたさかい。」



情けない、と唾棄する春日野道。確かに彼女は……いろいろ叫んでいた。新井熊のゲッツーの時にしても、タイヨウ登板の時にしても。思えば西九条よりその口数は多く、きつく。割に奔放で自由な観戦スタイルを、試合中貫いていたように思う。


………俺としてはある種その程度なら西九条ならずとも周囲もそのようであったように思うし、そう気にするようなものでもなかったとも思うが。


しかし彼女自身が自分を許せないというのなら、それは確かに西九条に対する『非』なのだろう。「ごめん」と呟いて歯を喰い縛って自らの行動を悔いる彼女は、心の底から自分を恥じているように見えた。


が、西九条はこの謝罪に対して、熱情を示さなかった。



「………あなたが謝る必要はないわ、春日野道さん。


あなたのそれと私のそれでは、程度が違いすぎる。


あなたは周りのファンに合わせて、加減ができていた。目立たない程度に、球場の空気に乗っていただけ。だから、周囲が不快になるような事はない。目立ちもしなければ、出屋敷や香櫨園先生が狂人の一味と目されることもない。


だけど、私は違う。私のそれは、他人の気分を害することがある。それは選手かもしれないし、他の観客かもしれないし、その両方かもしれない。


確実に、野球観戦のモラルの琴線には触れていくわ。


そんなものを、あなたのそれと同じ土俵で語ることはできない」



「それは違うで、まこっちゃん。そんなんは、他人の話や。他人からどう見られるかの話なんか、今はどうだってええんや。


問題はウチが、部の人間のことなんか考えてなくて、自分が楽しむことしか考えてなくて、


まこっちゃんは皆のこと考えてくれてたってことやねん」



「…………。」



「今、心の底から甘かったって思ってる。野球観戦部の事をまこっちゃんがどのくらい大切に思ってるか、考えもしいひんかった。ウチは………たぶん、さほど大切に考えてなかったんやと思う。趣味の合う人間の集まった、緩いサークルぐらいにしか……だから、適当に楽しめりゃエエかなって、どっかで………


あんな、せやから……ホンマにごめん!」



罪を謝って、謝罪と書く。今の春日野道は、罪悪感の塊で、それを心の底から悔いている。


直角90度に折れ曲がった体は、その角度のぶんだけ申し訳なさに溢れているようだった。



西九条はしばらく、なぜ今自分が謝られているのか、その状況を掴みかねたように呆然と立ち尽くしていたが、時間が経つにつれてようやく春日野道の『純粋さ』を理解したらしく、


無言で彼女に近づき、頭を上げさせた。



「………それでも謝らなくていい。


私が自分に課した枷を、あなたが背負う必要はないわ。


部を大切に思ってくれることは嬉しいけれど、あなたがあなたの思う野球観戦をしているなら………私にそれを止める権利はないの。


私だって………部を一番に考えるなら、ヤジなんて飛ばしていていいわけがないわ。だけど、それは抑えられないもの。大切に思っている、と口では言うけれど、事実は………所詮。


だから、私にあなたを責める権利はない。あなたも、謝る必要はない。」



「まこっちゃん………!」



春日野道は悲痛な表情だった。もはや、西九条の主張は自虐のスパイラルにすら突入しつつあった。西九条の消え入りそうに微かな微笑みが、彼女の自我の火傷のように見える。


これなのだ、と俺は思う。春日野道に悪気は欠片もない。だが、間違ってはいないはずのどこかで、確実に何かを間違えている。それが何であるかがわからないのは、西九条真訪という人間を、やはり知らないからだ。


西九条真訪を『受け入れる』ことの意味をどこかで一歩間違えれば、彼女は必ず、袋小路に迷い混む。


何度も言うが、一般人にとってトラキチは狂人なのだ。一般人の常識の海に彼女を連れ込むのは、海水に淡水魚を連れ込むのと同じ。彼女に『普通』とのギャップを示しつける事が最終的に何をもたらすかといえば、その肌を焼き、爛れさせ、呼吸を奪い、阪神ファンでしか存在し得ない彼女をなぶり殺すという最悪の結末でしかない。



………野球観戦部を本当に『部』として、西九条が大切に思うその気持ちに寄り添う形で、大切なものとして自分達のために扱っていくには、


絶対に不可欠な事がある。それは、今、はっきりした。



西九条真訪の阪神への狂気の愛。遠かろうが近かろうが、将来、俺と春日野道は、それを理解してやらねばならない。


お互いを『仲間』として認識する関係を目指すのであれば、それを拒絶して前に進むことは絶対に不可能だ。



そしてそれは、生半可な覚悟では勤まらない。その決意すら、淡水魚を殺す塩になりかねない。



西九条真訪。阪神に生きる淡水魚を、理解して前に進むだけの器量と覚悟が、春日野道と俺に在るのか。事に、一度海に浸かりきって海水に漬け込まれた俺に、


川を遡上していくだけの、勇気があるのか。



俺は…………どうなんだ。




「………部を作るとき、いずれはこの矛盾に……トラキチである自分と、単純な野球好きとの隔たりに、向き合わなければいけないときが来ると思っていた。


………あまりに早かったけれど。それが、今日なのだと思う。


価値観の違う誰かと過ごせば、その答えが出るかと思っていた。けど、今の私は、やっぱり阪神が一番大切な、トラキチ。


野球観戦部の事を大事に思うのは嘘じゃない。部員であるあなた達の事を大切に思っているのも全部。だから、うまく折り合いをつける方法を見つけようとした。


けれど………逃げでしかないのかもしれない。それは。あなた達の事を、阪神より大切に考えられないという結論から、逃げていただけなのかもしれない。いや、そうなの、きっと。


………当たり前の人間性が、それはおかしいのだと言っているわ。それは人を大切に思っているのとは違うって。わかってしまうのね。


気を遣っても、それは阪神ありき。阪神があって、その下にあなた達がいるーーー」



「ーーー何が悪いんだ、それの。」



………まだ思考の中途だったはずの頭が、勝手に動いた肺と口を御しきれなかった。


意識を失い海底深く沈みかけていた西九条が、自分が今どこにいるのかを思い出したかのようにハッと顔を上げる。いなされかけていた春日野道も、水を得た魚のようにその表情に生気を吸い戻した。



ーーーバカ、覚悟も結論も何も出揃っていないじゃないか。



冷静沈着な部分の俺は、俺にその一言を喋らせた何かに対してそう警告を加えたが、


内部から俺を動かす熱情のような何かは、もはや立ち止まる方法を忘れたかのようにズカズカと一人歩きを始めてしまった。理性の手が届きそうもないスピードで。



「お前、死にたいのか?」



「………質問の意味がよくわからないわ」



明らかに困惑した表情で、西九条が言う。当然だろう。この状況で俺が問われたとしても、同じように返す。


だが、それでもこれでいいのだ。これが、この問題の本質なのだ。



「そのままの意味だよ。わからないなら聞き方を変える。


生きていたいか?」



西九条は黙った。答えに詰まっているというより、答える意義があるのかどうかを悩んでいるようだった。


俺は彼女からの回答を諦め、一方的に話し始める。



「俺は、生きていたい。死にたくない。この先何十年でも生きて、楽しいことをいっぱいしたい。それこそ野球も、ずっと見ていたいしな。


人間、基本的に自分の命より大切なものなんてそうそうないって話だ。」



「………ありきたりな人生観を聞かされている意味がよくわからないのだけれど」



「お前にとって、阪神は酸素なんだろ?呼吸をするのと同じことなんだろ?」



俺の言葉に、真っ先に反応したのは、当人よりも春日野道だった。ハッとしたように顔を上げる。何かを期待するような視線を、俺に送ってくる。


他方、西九条は未だにピンと来ないようだった。降雨前の曇天のような顔で佇む。


俺は、ため息をひとつついて、こんなことを言ってやった。



「俺はお前に、自分の首絞めてまで野球観戦部を大切にしてもらおうなんてこれっぽっちも思わないって話だよ。


俺は自分の命が大切だ。お前だってそうだろ。少なくとも、俺らはお前にとって、命をかけてまで守りたい間柄の人間じゃないはずだ。


だったら、お前がお前自身の命を大切にすることに、何の不思議がある?お前の命を継続するための『呼吸』を一番大切にすることに、何の引け目があるっていうんだ?」



………ここまで言って理解ができないほど、西九条は頭が悪くないし鈍感でもなかった。息を呑んだようにしてたじろぎ、その体を揺らがせる。想像もしていなかった言葉に面食らい、しかし返す言葉もない、といった風だった。実際、彼女は少し崩れた体勢を立て直すこともせず、ただ黙っていた。



「堂々と自分の命を大切にしてればいいだろ。お前、死ねと命令されて、死ぬか?そんなことないだろう?


お前に阪神を二の次にしろというのは、死ねと命令しているのと同じことだ。だから、俺は絶対にそんなことを求めもしないし、お前ももし、周りがそれを求めてきたとしても聞く必要はない。


わかるな?」



もうわかるだろう?という意味を込めて、俺は問うた。ここまで口が動いてしまった以上、もうやりきるしかなかった。


西九条は頷かなかったが、無言だった。この場合、それは肯定と取っていいものだと思う。阪神ファンである事を認められた上で、野球観戦部を大切にしているのだと認められることが、今、西九条にとって最もベストな状況であることは間違いがない。


俺の言葉は……それに則している筈なのだ。別に、則さそうとしてそうなっているわけではなく、ただ事実が彼女の生き方に寄り添っていっているだけなのだが。



「そ、そうや!まこっちゃん!


ウチも………そら、あんたみたいに強烈やないけど……広島ファンやさかい、気持ちはわかる。


もし、明日から広島の試合見るな言われたら……窒息はせんけど、この世の中が窮屈になって、息苦しくなるわ。広島ファンは宗教やさかい、生きるにあたっての信条奪われるようなもんで……」



「春日野道さん………」



呟いたのは西九条。俺の時は何も言わなかったのに、と変な嫉妬が頭の片隅をかすったが、それは一瞬にも満たない時間で消えた。


それよか、春日野道の意外な頭の回転の早さと、彼女も彼女で大概な広島への執念的なもの、その両方に驚かされることで頭は容量を満たされていた。


春日野道は続ける。



「なくても生きていけるウチでも、そんなもんを人に奪われんのは嫌やし、自分で捨てるのも嫌やもん。


まこっちゃんほどの阪神ファン………トラキチが、何よりもそれを大切にするってのは、当たり前のことやん!何もおかしくないし、負い目感じることもあらへんし、


ウチは、そんなにひとつの事に打ち込める人って、


むしろかっこいいと思う!!」



ーーーそこまでは思わない、と復活を遂げた『冷静な俺』が頭の中で野暮なことを言う。が、本当に野暮な限りなので絶対に口にはださまいとして、嘘でも頷くことにした。


すると、西九条の表情に生気が戻ってくる。やはり、彼女が俺たちに……いや、野球観戦部に求めているものというのは………



「むしろ、自分の命の次に野球観戦部が大事だなんて言い切るあたり、すごいと思うよ。俺も。


俺は、言えん。例えば今………俺の背中の香櫨園が、ナイフ首筋に突きつけて『野球観戦部』を壊せ、って命令してきたら


たぶん俺は壊してしまうだろうよ。命が惜しいからな。」



「香櫨園先生はそんなことはしないわ。」



呆れたように、しかし優しく小さく苦笑したのは西九条。まともに文になって出てきた彼女の言葉は、随分と久しぶりのように感じられた。


ホッとしたのもつかの間、すぐに俺は心の中で意義を唱える。お前は知らないだろうが、俺は廊下で………



「う、ウチも逃げるで!一目散に!何でも、命あっての物種っちゅーやんか!」



熱弁の春日野道。彼女としては励ましているつもりなのだろう。だが、流れとはいえ、それはいざというときは野球観戦部など気にしていられない、ということを強気に主張しているに過ぎない。


まぁ、それ自体が間違っているとは言わないし、むしろそれで正常なのだというのを俺も示したかったので別に構わないのだが………



「……二人とも逃げてしまうのね。」



「そう、もちろん逃げ………って、あれ?それでエエんか、これ?


命がけで守るとか言っといた方がポイント高いんちゃ……」



「いいんですよ、それで。できもしないこと、できるなんて言わなくていいんだ」



もう一度大きく俺はため息をついた。春日野道は「まぁそんな状況に当たったらホンマに逃げるやろうしなぁ」と糞真面目に言って、唸る。


西九条は………呆れたように、こう言って、笑った。



「部員がみんな逃げ出してしまうんじゃ………残るだけ損ね。


……私も命を大切にしようかしら。」



言うまでもなく、命とは阪神の比喩だ。彼女にとって、阪神は生活と等価値であるからだ。


それを大切にする、ということはつまり。もう、トラキチとして阪神至上主義を貫くことに………その上で野球観戦部の活動を続けることに、何の遠慮もしない、ということだ。


それでいい。俺はそう思った。彼女がトラキチとして部に参加することで、その活動が……というか俺達の関係が、破滅する恐れはある。だがここでそれを封じたとして、許さなかったとして、その延長線上には確実な破滅しか待っていない。西九条真訪の人格の死、という最悪の結末しか。


であれば、だ。もはや可能性のある方を選ぶしかないのだ。無い方を選んでなんとする。それこそ自身の保身でしかないではないか。



「それでいい。薄情者の為に命かける必要がないと思ったら、お前も楽だろ?」



「それだと、あなたの隣で口汚いヤジを飛ばすことにも抵抗がなくなってしまうけれど?」



口は努めて冗談めかしていたが、声も目も、何もかもは真剣だった。そういう自分を受け入れてくれるのか。そう問われているような感じがした。


ーーー折りあいをつけてうまくやる、という線はもはや消えたのだ。完全に手放すか、受け入れられるよう努力するか、もうその二択しかない。俺の本能的な部分が導いてしまった結論だった。


そして今、手放す選択肢は………無いも同然なのだ。西九条のこともそうだが、俺は『野球観戦部』というものが、自分には非常に合っていると感じている。


その奇っ怪な活動内容に、居心地のよさと学校生活への希望を、確かに抱いている。



「初日だったかな。俺、お前に言っただろ。野球観戦部は野球を楽しく観るための部活なんだろう、って。」



「………言ったわね。違ったけれど。」



「ヤジが活動内容に則さないって思うなら、沿わせてしまえばいい。野球観戦部は、野球そのものの分析、研究を進めるとともに………観戦の有り様も研究する部活にすればいいんだ。


そうすれば、な。それぞれ個性の出る応援の仕方も、立派な研究材料になる。


だから……何だ、お前が飛ばしたヤジで周りがどんな反応を見せるか……それすら俺達の活動の糧になるって寸法だ。


それなら、遠慮要らないだろ?」



「シンジロー、あんた実は頭ええんか……?」



呆けたような表情で、春日野道が見つめてくる。考えもしなかったことを提案した者に送る、手放しの感心が籠った瞳だった。


まぁ、妥当な解決案だろうと俺も思う。確かに、隣であんな風に叫ばれてはやかましいし、周りの目も冷たいものになる可能性はあるが………


赤信号皆で渡れば恐くない、ではないが、甲子園においてああいう風になるのはなにも西九条だけではない。ともすれば球場全体がそうなることもある。


ヤジは、非常に判断の難しいものだ。絶対に良いことではない。良くないことであることも間違いがない。だが、ファンはそれを完全に否定してしまうことは……なかなかしづらいものなのだ。


だからここは、我慢してやってもいい。春日野道は、そもそもそんな彼女を否定していない事なのだし。酔っ払いの香櫨園にそんな気遣いはいらない。



「まあ、それは部長権限でお前が決めればいいさ。自分にとってやりやすいようにやればいい。さっき、野球観戦部は自分の所有物じゃないと言っていたが……実質そのようなもんだろ。俺や春日野道さんはお前のモノではないけど………


部の有り様は、お前に任せる。」



「随分と、信用されたものね」



「そんなんじゃない。お前が部長で、他二人にこの部を引っ張っていけるだけの適任がいなかっただけの話だ。


作ったならそういうところの面倒も見てくれって、責任転嫁の話だよ。」



そこで西九条は久々に笑った。呆れとも取れるような、してやられたような、不思議で小さな笑いだった。


春日野道の表情も緩む。どうやら、もう大丈夫なようだった。



「……いいでしょう。


あなたの責任放棄、拾うことにするわ。」



「そうしてくれ。明日からもよろしく頼む。」



「ええ。」



凛としたもとの西九条も帰って来た。なんとかなったか、と俺は心の中で安堵の息をつく。いや、正直新たに重いものがのし掛かったのは間違いなく、安寧は遠退いたに過ぎないが………この場はこの結論で、良かったのだろう。少なくとも西九条が呼吸をやめてしまうよりは、はるかにいい選択だった筈だ。



……気付けば高架下の大合唱も終わり、甲子園の内部も照明施設の電灯は落ち始めている。電車を求めて駅へ向かう人の影は劇的に少なくなり、時計は夜10時を回ろうとしていた。



「不味いわね」



せっかく笑ったはずの西九条が、再び顔をしかめる。彼女も時計を睨んでいた。春日野道が「なにが?」と首を捻る。


西九条はこう答えた。


「ここの条例では、10時以降高校生は外を出歩いてはいけないことになっているわ。保護者の同伴なしではね。


本来、同伴者の役目は香櫨園先生が負ってくれるはずなのだけど、この通りでしょう?起こしたところで自分の家に帰れるかすら怪しいわ。


春日野道さんは途中まで道が同じだからいいけれど……私たちは完全に逆方向よ。この時間に男女高校生二人では、補導されかねないわ。そうすれば……」



「それが学校に伝われば、部活審査に響く可能性がある、か。」



「それヤバイな」



事の重大さを認識したらしい春日野道。確かに状況はそれなりに不味い。駅前でこうしてボーッと突っ立っている状況すら、不味いものになりかねない。試合後の甲子園は高架下の合唱を中心に少し荒れやすくなるので………警察官は増えるのだ。



「………あの手しかないかな」



俺は呟いた。ひとつ、無敵の帰宅手段を知っていた。おそらくまだ間に合うはずなのだ。今からなら。


それぞれの家に確実に人を送ることのできる、自由自在の交通機関がある。たぶん、今なら使えるはず………



「何か考えがありそうね、出屋敷」



「ああ、あるよ。ま、考えなんて大層なものではないけど」



「補導は勘弁や~めんどくさいんやで、いろいろ」



されそうな連中とつるんでたもんなぁ、と妙な納得もそこそこ、俺はその『考え』を証明するためにポケットからスマホを取り出し、とある番号にダイヤルした。


「何処へ?」と西九条は眉を潜める。俺は……頬を掻いた。なんと説明していいものかわからず、とりあえず誤魔化しがてらこんな風に説明しておくことにした。



「タクシーだよ。」





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