容赦なきことは甲子園の住人たち




授業参観で親子合同作業なるものが展開されたとき、もし、自分の父親が、同級生の失笑を買うようなミスをやってしまったとしたら、


息子はどう行動するべきなのだろう。



孝行息子を気取って父親を庇い一喝して見せるか、何も言わず何も気にせずそのままやり通してしまうか、はたまた自分がもっと大きなミスをして見せて注意を反らしてやるか。


いずれにしても、同級生と一緒になって笑うような酷い選択肢ではない限り、そのどれもが正解に近く、しかし完璧な正解ではない。


ミスをした父親のことを考慮しているならそれは息子として正しい行動であろう。父親当人も場合によっては嬉しがるかもしれない。


しかし、父親にとって息子に庇われる経験が恥ずかしいものでないとは限らない。息子でしかない俺には父親の気持ちを代弁することができないが、わからないが故に想像は枝分かれして膨大な数の未来予想図になる。それこそ『個人差』の世界になるのかもしれないが、


ひょっとしたら、我が子に助けられることを、屈辱的と感じる者すらいるかもしれない。




………さても阪神甲子園球場において、そんな平常時なら考えもしないことを考えている理由は、目の前グラウンドで起きたとある出来事にある。


重厚感のあるロックンロールの入場曲に送られ、大歓声の中登板したタイヨウーーー父親は、


投球練習の段階から明らかに調子がおかしかった。


電工掲示板に表示される球速表示が、いつもなら150前半から145ほどで推移するものなのに、この日は140程しか出ていなかったのだ。


父親自身に聞いた話だが、こういう時は決まって爆弾を抱えた肘の調子がよくないのだという。疼くというのか、違和感があるらしい。それは、地震で例えれば本震前の初期微動、ということになるのだそう。ゆえに、終末的な結果を迎える事を避けるために意図的にパフォーマンスを落とすのだとか。


プロとしてどうなんだと聞いたら、ダメだろうなぁと言っていた。もう少し登板感覚が空いてくれれば、そう頻繁に起こりうるものではないから大した弊害にはならないのだが、とも。


ともかく父親がそんな状態であることは、この球場で俺しか知らない。知っててトレーナーくらいではないだろうか。監督も知らないようで。


隣で西九条が軽く呻いていたのは気になったが、もう片隣の春日野道は「でーやっしき、あそれ、でーやっしき!」と俺をおちょくりがてら非常に楽しそうであったし、香櫨園はぐてんぐてんで相変わらず訳のわからないことを叫んでいる。


周囲の他の阪神ファン、何なら読買ファンも含めて、誰もが、一昨年最優秀救援投手を獲得し今年防御率1.03と驚異的な数字を残す彼の完璧な投球を疑う者はいなかっただろう。



その期待感ゆえに、それが裏切られたときの悲鳴と罵声は殊更に強烈だった。



先頭打者西に初球をセンター前に運ばれた父親ことタイヨウは、その後も全くピリッとせず二番光岡にはフォアボール、三番の御代原は何とか三振に切って取ったものの、


四番ターフィーに甘く入ったスライダーを引っ張られライト前ツーベースヒットを浴びる。


これでそれぞれランナー二人が帰還し8対9。まるで先発安羅辺の壊滅的な不調を感染(うつ)されたかのような精細を欠くピッチングで、


この回の終了を待たずして降板したのだった。




息子であり、そして阪神ファンではない俺としては『野球だからそういうこともある』で済ませてほしい……例え肘の不調を押して出てきたとしても……という身内ならではの甘めの願望があったが、


まあー、血沸かず青ざめる阪神ファンの皆様にそんな願いが通じるはずもない。


まるで戦犯狩りのように、雨あられの怒号が飛ぶ。前日まで防御率1.03、チームへの貢献度は計り知れないものがあっても、打たれるときはこうなる。プロ野球選手というのは………相当きつい稼業なのだろうと思わせられる場面だった。それで食わしてもらっている俺は……やるせなくもなった。



そんな中の野球観戦部の面々はというと、まずへべれけになってろれつの回らない香櫨園は論外。春日野道はマウンド上のピッチャーと俺の名字が同じーーー当然と言えば当然だがーーーであるのをいいことに、面白がって「出屋敷ーっ!!ピリッとせん男やのー!!」とか「出屋敷しっかりせんかー!!」とか「出屋敷いてこますぞー!!」とか笑いながら叫んでいた。


ご丁寧にも言葉尻に、「あ、シンジローに言うてんのんとちゃうで。」と自ら確信犯だとこくはくしているような、取って付けたフォローをくっつけて。



それがただのおどけであって、殊更に悪気もなさそうで何となく言葉の強さも配慮してあるのはわかったが、正直……自分が言われるよりも堪える事ではあった。実際、内容が内容だけに、特に。



さて、広島ファンである春日野道さえそんな様子であるなか、大本命、阪神ファンである西九条はというと………



「お手洗い。」



翻訳ツールに吹き込めば「さっさとどけ」に変換されそうな具合に、不機嫌極まりなくそう言ってくるのだった。


三十分ぶり八回目となるトイレ遠征。さすに平常と見れるレベルを越えている頻度。俺は、それまで彼女に直接的な問いを控えさせていた『デリカシー』を人道上の理由で捨て去り、そして思いきってストレートに尋ねた。



「お前、大丈夫か?さすがに多すぎるぞ。もし、体調とか悪いんだったらーーー」



「ーーーすこぶる健康よ。目の前で酷いものを見せられて、代謝が良くなっているだけ。


心配には感謝するわ。けれど、大丈夫だから。


早く、そこを、どいて。」



二度目はないぞとその瞳が強く警告してくる。生者と死人の中間のようなその瞳の圧力に屈して、俺は無言で道を譲った。特に抵抗の意思のない春日野道もそれに続く。

ぶっ倒れてそもそも道を塞いでいない香櫨園は、特になにもせずともよかった。


西九条は、「ありがとう」とだけ生気なく呟くとそこを抜け、疲労が限界に達した前線の兵士のごとくふらふらと、やはり人混みの中に溶けていく。



その足取りの重さ、彼女らしくもなく若干丸くなった背姿を見ていると、余計、ひょっとして体を悪くしているのではないかという疑念は沸いてくる。試合を最後まで見たいがために我慢をしている……という可能性は、彼女に限って全く否定できないものだった。




西九条同様重い足取りでオヤジがベンチに戻っていき、ウグイス嬢が『ピッチャー出屋敷に変わりまして、藤掛』をコールするなか、


俺は見つかればストーカーか良くて変人呼ばわりされるのを承知で、


西九条の様子を見に行くことにした。折よくも投手交代のタイミング、代わった藤掛がマウンドに来る間、そして七球の投球練習を行う間は、かなり時間が空くしスコアブックを記す必要もない。



万が一、本当に無理でもしていた時には大変だ。倒れられでもすれば、メンバー唯一の男が何をやっているんだという話になるし、会ったことはないが彼女の親御にも部員として面目がたたないし、


顧問として付き添っているはずの香櫨園は、間違いなく責任問題になる。香櫨園自身が咎を受けるのは自業自得で仕方ないが、それで顧問がいなくなるのも、そして変わってしまうのも非常に困る。


香櫨園は球場での観戦態度を見ている限りではもはやボンクラの域だが、それ以外で言えばこんなにこの部活に理解のある人間は他の教職員の中にはいないだろう。こんなところで問題を起こして、それが他の人間にすげ替わってしまうのはあまりにも忍びないし、部にとって不利益だ。



「俺、トイレ行ってきます。」



やはり、アホーボケーと実の全く籠らない、おちょくるためだけのヤジを飛ばし続ける春日野道に、俺はそう言った。


春日野道はカセットテープの如くテンプレートのような叩き文句を吐き続ける口を閉じてしばらく頬に人差し指を当てて物を考えるようにして、


それからにやっと笑ってこう返してきた。




「シンジロー、あんた意外とええヤツやな?」



「意外かどうかは春日野道さんの主観でしかないですし、何でそう思われるのかよくわかりませんが。」



「とぼけんでエエがな。ウチにはわかっとるさかい。


ええよ、ウチもそれは気にしとったしな。ていうか、一緒についていくわ。もし、女子トイレで何かあったら、あんた、入れんやろ?」



さっきまで荒唐無稽にして特に意味もないヤジを飛ばしていた人間とは思えないほどの読み、そして提案。彼女が西九条にたいして、俺同様の心配事を抱いているのは間違いないようだった。


そして、そこまでの共通認識があればもはや語るべきこともない。お互い頷いて、俺と春日野道は………さすがにほったらかしにしておくわけにはいかない香櫨園を半ば担ぎ上げるようにして、席を離れる。


相手の攻撃中というのは、阪神ファンにとってはどうも、個々の用事……それこそトイレだとか、食事だとか、そういった行動に費やされる場合が多いらしく。座席下段から上段、球場内部施設を繋ぐ通路はかなりごった返していて、酔っぱらいを一人連れている身の上にあっては思うように行動の自由が効かず。


俺も春日野道も、途中で一度西九条の姿を見失ってしまった。内部施設、つまりトイレや売店などの並ぶ区域に入って行ったところまでは見えたが、その後人の海に埋もれてしまい、どこに行ったかわからなくなってしまったのだった。



「ありゃあ………どこ行ったかな、まこっちゃん。」



額に平手を当てて、キョロキョロと周囲を見渡す春日野道。あえて突っ込んでこなかったが、彼女は……いちいち行動の表現が古典的だ。



「まぁ……あいつの言葉通りなら………トイレに行きゃあ会えるんでしょうけど。」



それもそうだと合点した春日野道は、善は急げとばかりツカツカと一階にある女子トイレへと向かった。香櫨園を引きずりながら、俺もそれについていく。


ところが、そこに西九条の姿は影もなかった。


相手の攻撃中とあって、トイレには人が集中し、長蛇の列ができていた。俺も春日野道も、西九条を見失ったのはつい二三分前の話。仮に彼女が本当にトイレに並んでいたとして、その僅かなタイムラグの間にトイレに入る、あるいは用を済ませて外へ出ることはまずもって不可能だ。



「………一応中も覗いてくるけど」



あからさまに心配の色を増した春日野道が中の様子を伺ったが、結果は同じだった。まあ、当然といえば当然であるが……



「シンジロー。」



「心当たりがありますか?」



「いや?全く」



「売店とかの可能性は……」



「生理現象ならともかく、あの子が阪神のピンチをほったらかして食い物買いに行くとは思えんわ。」



「……ですよね。」



思いの外冷静な春日野道の言葉に、俺は同意を示して頷く。と、いうのも、俺はその可能性を否定する根拠を補完する事実を、もうひとつ持っていたのである。


西九条真訪は、おそらく『タイヨウ』のファンだ。かなり憧れを抱いていると考えていい。それは、初めて甲子園に行った時に証明済のこと。


そんな思い入れのある選手の作ったピンチの結末を、あの野球好き、阪神ファンが黙って見ている道理はない。どのような感情で見るかは知らないが、絶対に見逃すようなことはしないはずである。



「………本格的にキナ臭いですね」



「心配やと素直に言うたらええんや。ほら、行くで。」



急に五歳は大人びて、頼りがいのできた先輩部員の背中。やはり寝落ち寸前の香櫨園を引きずりながら、俺はその背中を追う。


春日野道の行き先は、外、つまりスタンドだった。夜空のもと、盛り下がる阪神ファンたち。浜風が前髪をしぶいて持っていく。



「もうしらみつぶしに探すしかないやろ。」



「………ですね。」



事務的とも言える会話を二三言交わして、春日野道と俺は下段へと繋がる階段を下りていく。そこに西九条がいる確証は全くなかったが、わずかでも可能性がある以上回らずにはいられなかった。



「シンジローはさ」



階段を下る途中、唐突に振り返ってそう聞いてきた春日野道。俺は「何です?」と聞き返す。彼女は、少し頬を掻いた。



「まこっちゃんと付き合ってるのん?」



「いや?そういう事実は全く」



「ふーん。あ、そう。」



「そういう風に見えましたか?」



「いや、別に。ただ、あの子……ウチが重音部におって、魚崎の嫌がらせに付き合わされてた頃、いっつも部室で一人で………黙り決め込んで抵抗も何もしてけえへんかったさかいな。


こないだ、あんたとあの子がウチ庇ってくれたとき、ビックリしたんや。この子こんなに喋れんのかってな。」



「西九条が?」



意外という言葉以外にその話を表現するものが見当たらなかった。最初の印象は何もかも見た目のイメージでしかなく、積み重ねた時間もまだ薄っぺらいものでしかない中で、


全く無抵抗の彼女、そして何も話さない彼女というのは、想像がつかなかった。こと、野球観戦部の事において……



「せやで。意外やったか?


ほんでウチ考えたんやけど、何かあったとしたらそれはあんた以外にはありえへんやろ。部員が増えた、っちゅー単純な意味での転換点でもあるしな。


せやさかい、ひょっとしたら、思てな。ま、別にどっちゃでもええんやけど。」



「美人ですけどね。そういう感情は特にないですし、向こうにもないでしょう。」



至極冷静に考えて、俺は言った。出会った当初ならいざ知らず、今、野球観戦部として西九条と関わり初めて、彼女に対する感情は一定のものだ。野球に対する情熱が激しく、尊敬すべき相手。もしくは、野球を見るにあたって、共にいれば面白い相手。


そしてそれは、春日野道にも同じような感情を抱いている。そこまでといえばそこまでだが、大切といえばかなり、大切だ。



「まー、そう言われたらそうか。仲良くは見えるけどいちゃついてるようには欠片も見えんしなー。


あ、しょうもないこと聞いて悪かった。変に意識されても居づらいさかい、忘れて忘れて。ほな、続き、探そか。」



すまんすまん、と片手の平を顔の前でたてて、謝ってくる春日野道。「別にいいですよ」と返して、俺達は再び階段を下りていく。



と、周囲を警戒しながら二三段を下ったときの事だった。




「出屋敷ーーーっ!!肘の調子が悪いんなら先言わんかいアホーーーーっ!!」




張り上げしゃがれて、とても女性の声とは思えないほど荒れた声で、しかし女性のものとはわかるそれで、中段通路上方一塁ベンチ寄り、つまり背後上方から大きなヤジが飛んだ。


春日野道がハッとしたように振り返る。俺も、たぶん彼女とは別件でバッと声のする方を振り返った。


………俺がビックリした理由は、出屋敷家とトレーナーしか知らない、何なら監督ですら知っているか怪しいタイヨウのトップシークレット、


『肘の爆弾』の事実を知っていて、それを大っぴらに叫ぶヤツがいたことに対してである。


どこでそんな情報を仕入れたのか。知ってたとして大衆面前で暴露するとは何事か。



息子として非常に不味いという気持ちが肌を逆立たせた。そんな事が大っぴらになりでもしたら、我が家族はおまんまの食い上げである。


見つけたって止めやできないが、どんなヤツだか顔ぐらいは見ておかなければ。


目はあまりよくない方であるが、俺は声のした方を望遠して必死にそのヤジの発生源を探した。相手の攻撃中、大概の阪神ファンはシートに腰をかけている。だが、一塁アルプス席から阪神ベンチまで声よ届けとばかりに絶叫する人間が、同じように座っているとは思えない。


たっている人間がいるはずなのだ、どこだどごだ………



「藤掛ーーっ!!頼むぞーーー!!」



今度はヤジではない。普通の応援で、しかしさっき飛んだヤジと全く同じ声で声援がとんだ。


さっきは後ろを向いていたから気づかなかったが、その方向を向き、なおかつその声の主を集中して探している今回は、


見つからない道理はなかった。



声の発生源は、シートではなく、一塁アイビーシートと三塁アルプスを隔てるフェンス際の階段にあった。


俺と春日野道は、そこにいた人物………おおよそさっきの罵声に近いヤジを発したのとは全く想像もつかない、一輪花のように可憐な成りをした、制服姿の女の姿を認め、


その正体を知り、唖然とする。



「まこっ………」



春日野道が絶句するのも無理はなかった。何せ、俺自身が全く言葉を失っているのである。


これが予定調和だというなら神様はあまりに辛辣な仕打ちを彼女にしたことになるだろう。


フェンスに足をかけ、膝に体を預けて前のめりで………鬼のような形相でグラウンドを睨み付けているのは間違いなく……


西九条真訪、その人であった。




瞬間、今日の彼女の行動において、不自然に思える部分………具体的に言えば頻繁なトイレ通いの、その真相が俺の頭の中で一気に明らかになる。


そういえば………一番最初甲子園に行ったときから………彼女が席を外したときは、


決まって何らかのヤジが飛んでいたような。しかも、女性とおぼしき声で。今にして思えばあれらも……そういうことだったのか。


先入観にしてやられた。彼女はクールに野球の見れる稀有な阪神ファンとばかり思っていた。だが、その実は……


………ということは、である。必然的に、さっきタイヨウにヤジを飛ばしていたのも、彼女だということに………。




「………どないしよ、シンジロー。」




事の次第を全て把握したらしい春日野道が、殊更に深刻そうな表情で問うてくる。問題は明らかだった。彼女がわざわざ別の場所に移動してヤジを飛ばしていること……すなわち、何らかの理由で自分達に知られたくないと思っているということだ。


それを悟った上で、自分達はどう行動するべきなのか。気づかないふりをして席に戻ってやるのがいいのか、それともあえて声をかけてやるべきなのか。


知っていて知らないふりをするという優しい裏切りで事なきを得るのか、知ってしまった以上多少彼女の尊厳を傷つける事になったとしても正直者を貫くのか。


一長一短、などという単純な言葉では片付けられない、思いやりと道徳観の狭間の葛藤。


そうそう長く考えられる時間はなかった。西九条はいずれ、座席に戻る。そして、これまでの事を思い返すに、そのスパンは決して長くはない。おそらく、ひとたび気がすめばまっすぐ自分の座席へ帰ってくるのだろう。


そのとき、いるはずの三人がいなければどう思うか。ぐてんぐてんの香櫨園すらいないのである。さすがに……不審に感じることだろう。


本来ならそれが自分を探しに行ったのだという思考に至ることはないかもしれない、だが………


俺達は、さっきからずっと、露骨に彼女の頻繁なトイレを怪しがっていた。当然それを感じているであろう彼女は……むしろ聡明な彼女だからこそ、その可能性に気づくかもしれない。


そうなれば露見は時間の問題。


だからもし、気づかないふりをするのであれば、今、速攻で戻るしかないのだ。



「今声かけたらどうなると思います?」



「見られたくないもん見られたんや。確実に気まずい雰囲気にはなるやろ。」



「………いずれ避けては通れない道かも」



「かもわからんけど、それに思いきって踏み込めるのはある程度気心知れた間柄の場合や。


あんたらまだ二週間、ウチに至っては一週間経っとらん。野球好きっちゅー共通点で繋がっとるだけや。ボルトの絞まってない未完成の飛行機で飛び上がってみ、一瞬で空中分解するで。」



広義の意味合いでの『友達』であるかすら怪しい自分達では、ある種の闇に踏み込んでいく資格、資質はまだないというところだろうか。


わかる話だった。そういう折衝は部活に付き物である『青春』の醍醐味、重要な要素であるかもしれない。が免罪符ではない。それを盾にして彼女の深層に踏み込んでいくことができるのは、それを包容する覚悟のある人間だけ。そして自分達は……その限りではない。



『あなたのため』は時として『自己満足』でしかないことがある。今回は……その可能性が高い。お互いを解ろうとする努力は大切かもしれないが、下地すらしっかりしていない状態で高層の問題が扱えるものか。


スカスカのジェンガを下から順に抜いていくようなものだ。



「………先延ばし、ですか。」



「しゃーないんちゃうか。なんぼなんでも早すぎるやろ。今は。」



「………。」



それ以上妥当な意見は見込めそうもなかった。俺は無言で頷き、香櫨園を背負い直して、かつ自分で歩く事も同時に促すため、声をかける。



「香櫨園先生、起きてください。戻りますよ」



だが、香櫨園は完全に睡眠モードに入りつつあった。立ち止まっている期間がそれまでに比べ長かったためか、ホッとして睡魔が襲ってきたらしい。


仕方ない、多少重いがおんぶで帰るか。手段を選べないと判断した俺は、今度は完全に彼女を背負うために、一度体を沈める。


が、この時、この状況を俺より冷静に判断できなかった人間が一人いた。春日野道だった。


声をかけても肩を叩いても起きない香櫨園に、彼女は相当に焦ったらしい。


急がないといけないという思考ばかりが先行したのだろう。



「先生っ!はよ起きぃな!!ウチら急いでんねん!!」



手形がつくのではないかと思うほど強烈に、春日野道は平手で香櫨園の背中を叩いた。いや、シバいた。


たぶん、そもそもビール90mlしか飲んでいない香櫨園の酔いは、酩酊状態にあっても深くはなかったのだろう。彼女はそれで「痛っ!」と声を上げて、俺の背中で跳ね上がるように起きた。



……それで上がった顔の先に、ちょうど一直線上に、


西九条の姿があったのは、


不運………いや、もう少しオブラートな表現で運命だったのかもしれない。



「あれー?に、西九条ーっ!西九条ではないか!


何をやっているんだねー?!こんなところでー?!ひぇっく」



ケラケラ笑いながら大手を振ったのは香櫨園。


西九条のことしか見えていない彼女には、


俺と春日野道の、世界の終焉が回避できないものになったような絶望感に溢れた表情を見ることはできなかっただろう。


寝た子を起こす。この諺がこれほど身に染みて感じられたのは、あるいは生まれてこのかた、なかったかもしれない。



焦燥のあまり言葉を失った俺、自分の行動が導いた最悪の状況に絶句する春日野道。


……わざわざ名前まで呼ばれた西九条が、気づかない道理はなかった。


硬直してしまったのは、あるいは愚かであったかもしれない。固まって声もかけられない今の状況は、確実に不味いものを見てしまったときの反応……「一部始終を見てしまった」と明言しているようなものだったからだ。



西九条は、俺達と同じようにしばらく硬直して動かなかった。ただ目線と目線だけがぶつかる時間が幾ばくか過ぎた。互いにどうしていいのかわからない。それが俺と春日野道、そして西九条の三人の、共通の思考であったことは間違いないだろう。


唯一、その束縛の下になかったのは未だ事情の一端をも掴めない香櫨園克実だった。



「まぁまぁ、降りてきたまえ!そんなところで突っ立っていても仕方なかろう。


この二人は君のことが心配で探していたのだぞ。全く、面白いばかりかいいヤツと来た。益々かわいいじゃないか、ほら、君たちもなんとか言ったらどうなんだ?」



ーーー聞こえていたなら歩けよ!という憤りは頭のほんの片隅に浮かんで消えた、シャボン玉のような思考だった。


いったいどこまで知っていて聞いていて、どこまで知らなくて聞いていないのか。へべれけになって口もまともに利けていない状況だったはずなのに、なぜその会話は頭に残っているのか、どこまで酔っていてどこまで意識があるのか。


もはや判別もつかない。今の口ぶりから、数十秒まえの俺と春日野道の会話は聞いていなかったようだが…………



「…………。」



西九条は取り乱さなかった。冷静……かどうか、心の中までは見てとれないが落ち着いてフェンスにかけていた足を下ろすと、いつもの調子でおしとやかに階段を降りてきて。



「なんだ何も言わないのか君らは」とこっちの気も知らず口を尖らせる香櫨園の下、何も言えない俺と、


呆然と佇む春日野道の前までゆっくりと歩いて来て。



笑うでも怒るでもなく、それこそいつものように限りなく透明に近い表情で瞑目し、


一息ついて肩を落とすと、


か細い声でこう呟いた。




「………見たのね。」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る