裏の裏は、表だったりして。
部として随分久々となるプロ野球観戦は、春日野道の歓迎会も兼ねての甲子園、
阪神カイザース対東京読買タイタンズ、いわゆる伝統の一戦だった。
せっかく春日野道が広島ファンなのだから、広島戦にすれば良いではないか、と俺は提案したのだが、西九条はそれを頑なに拒否した。曰く、
「甲子園で阪神と広島が試合をするとき、広島ファンはビジター席以外に座ってはならないの。その他で許可されるのは内野席アイビーシートとスウィートルームだけなのだけれど、
予算の都合がつかないわ。だから、
私たちが一緒に座ろうと思えば、どちらかの贔屓の球団を切り捨てなければいけないの。」
とのこと。事情に疎い俺は「そんなの気にしなくたって……」と言ったが、これを叱咤に近い勢いで戒めたのは、当の春日野道その人であった。
「アカンでシンジロー!
ルールは守らなあかん!一人破る奴がおったら、そいつからファン全体のモラルが下がっていくんや!!」
その言葉にはえらく力が入っていた。何でも、近年広島は『レッズ女子』と呼ばれる新たなファン層………若い女性ファンを筆頭にファン全体の数が急上昇しており、それにともなって観戦のルールがまだ今一つ理解できていない客も増え、それが他球団ファンとのいさかいに発展するケースが増えているというのだ。
もっとも、それは広島東洋レッズに限った話ではない。どこの球団も、ことにホームとビジターの各応援席の使い分けの徹底には力を入れており、同時に苦慮もしている。
そんなときだからこそ、昔からのファンは率先してルールを守り、後に続くファンの模範にならなければいけないというのが、春日野道の主張だった。
ついでにこれには西九条の全面同意が付属する。阪神ファンはその数の多さからビジターに座れず溢れるパターンが多くなり…度々同様の問題が取り沙汰されるのだとか。
いずこも同じ夏の夕暮れ、というやつである。
ーーーさて、そんなわけで阪神×読買戦。今回は部員三名に加えて香櫨園も参加している。
試合開始前から既にイライラし始めた西九条は試合開始の六時に近づくに連れて静かに殺気立ち、
そしてプレイボールと同時に例の人殺し目線で試合を睨み付け始めた。
今日は珍しく、彼女はスコアを書いていない。曰く、伝統の一戦はそれどころではないらしい。理由を聞いても、いけばわかるの一点張り。
で、実際ホントにいけばわかったのかという話だが、結論から言えば、ホントに解った。
冗談抜きに甲子園全体が殺気の塊になっていたのである。右も左も前も後ろも、皆さん殺戮マシーンに成り下がっている。読買の選手がヒットを打つかファインプレーでもしようものなら、
もはや悪口としか言いようがない罵詈雑言が、連合艦隊の一斉射の如く弾丸となって読買ベンチに降り注ぐのである。
もはや雰囲気は軽い戦場だった。一緒になって叫ぶことこそしないものの、間違いなく西九条も最前線に送り出された一兵卒、読買選手25人対阪神5万人の勝負の、阪神五万人の内の一員になっていた。
なるほど確かにとてもペンなど動かしている暇は無いのだろう。
ともなれば、記録係は俺か春日野道、あるいは少しは覚えのある香櫨園ということになるが、
香櫨園は例によって既にぶっ潰れているので論外。故に二択と言ったところだったが、
気がつけば何故か広島ファンであるはずの春日野道も、西九条と同じく殺人マシーンと化しており。
そして彼女は西九条と違って遠慮なく実弾を飛ばす。汚い言葉が出るわ出るわ。その様はまるで、在庫処分とばかり旧式のミサイルをボコスカとベトナムに打ち込む、アメリカ軍のような激しさであった。
曰く、「オレンジアレルギー」。
さいで、である。タイタンズに親でも殺されたのか。全くもって理解不能の感覚だった。
そんなこんなで今回は俺が記録係となる。正味西九条ほど正確な記録はできないが、そこはそれ。努力はしたのですが……で許してもらうところ。
「ウフェアアア!!ビールが旨いなぁ出屋敷!!どうだ、しっかりぃ、書いてるかぁ!?」
「飲んでるか?みたいなノリで言わなくていいんですよ。あと、ご覧のとおりです。めちゃくちゃ真剣にやってますから。」
ダル絡みの権化となった香櫨園を右手で押し返しながら、左手でカウントを記す。明らかなまでに泥酔状態であるのに、この女教師からは酒の臭いがしない。それもそのはず、彼女の持つカップの中のビールは、それこそ半分も減っていなかった。
もはや、アルコール消毒で酔ってしまうのではないかと疑うほどの弱さである。
「い、意外と君はぁ、真面目なやつだなあぁオイひひひ」
「まあー、今のあなたよりは確実にね」
「ああたしはぁ、いたって真面目さぁは!真面目に野球観戦部の顧問、しているではないかぁ!だからぁ、今だってこうして引率に!!」
「…………。」
どの口で引率、と思う。香櫨園が教師、顧問らしい仕事をしているのはスタジアム入口をくぐる前までの事で、そのあとの振る舞いはいい大人のそれとすら思えない。むしろ今、引率されているのは香櫨園の方である。
そもそも部活の引率を自覚するのであれば、飲酒自体を控えるべきなのではないかと思うが、
俺の見方が厳しすぎるのだろうか。まぁ、鬱陶しくて役にたたないだけで実害ほとんどないからいいんだけども。
「ところでぇ、出屋敷ぃ!!い、今、どっ、どっちぃ、勝ってるんだ?!
黄色い方か?オレンジの方か?」
「ああもうホントあんた何しに来たんだよ。せめてチーム名くらい言える程度に酔えよなもう。
阪神と読買!阪神が一点リード!今攻撃中!」
ーーー試合は現在六回の裏。序盤、阪神カイザースは読買の外国人エース、マイニコラスを完璧に捕まえ、
二回、四番金子の3ラン、
三回、七番片宮の走者一掃二点ツーベース、
そして同回九番矢納の適時打などで六点を奪取
マイニコラスをマウンドから引きずり下ろし蛍の光でベンチへ送り返すと、その後も四回、五回と金子の本日二本目ソロホームラン、新井熊のゲッツーの間などにそれぞれ点を加え、
五回終了時で合計八得点。完全に試合の主導権を手にいれた…………
はずだった。
ところが、相手のエースマイニコラスが不調ならこちらも負けていられないぜとばかり、阪神先発の安羅辺が大炎上。タイタンズの誇る超長距離砲打線にホームランの雨あられを浴び、
五回表終了までに七失点。阪神ファン達による「何でここまで引っ張ったんじゃボケ」の大合唱を監督にプレゼントして、降板した。現在マウンドには、二番手の福島が立っている。
さすがに三回の時点で八点差、いくら阪神だからって天変地異が起こったって負けやしないと安心しきっていたらしい、その殺気を失ってビールとつまみを楽しんでいた阪神ファン達は、
そのあまりに不甲斐ない試合内容に激昂。まるでどっちのファンだかわからないくらい、敵である読買にも、味方であるはずの阪神にも、それぞれ殺気と暴言の雨あられをお見舞いするのである。普段なら……いくらなんでも酷い、言いすぎだと思うくらいの、それを。
しかし、そんな光景を見せられてもなお酷いと思えるくらい、阪神の試合内容は最悪で、庇いだてできる要素が見当たらないほどだった。
いつぞや、西九条の言っていた『赤岩がホームベースを踏むまで片時だって点が入るなんて思っていないわ』という言葉がフラッシュバックする。
あの慎重さは、間違いなく経験に裏打ちされた、必要な警戒心であったのだということを、ようやく俺は事実として知り得る事ができた。彼女のあの言葉を言い換えれば『審判が試合終了を告げるまで片時たりとも勝利を確信することはできない』である。
俺に、そんな阪神ファンとしての野球の見方のなんたるかを教えてくれた西九条はと言えば、
頭に血が上って血流がよくなり、代謝が上がったのかしら、七点を失った四回以降、頻繁にトイレへ行くようになった。
ストレスで腹痛を起こしたのかもしれない、なんていう可能性を語るのは本来冗談としてしかあり得ないことだったが、
膝の上でグッと拳を握りしめ、歯軋りし、一体敵味方どっちに送っているのかわからない殺意の視線を絶えずグラウンドに送り続け貧乏ゆすりで苛立ちを隠さない彼女を見ていれば、
そんな可能性も全く否定できるものではなかった。
……いつぞやのアメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルトは、野球においてもっとも面白い点差の決着は『八対七』であると言い、以降この点差の試合はルーズベルトゲームと呼ばれ、メジャーリーグなどではある種花形試合、花形決着とみられるようになった。
だが今の西九条は、冗談じゃない、とでも言いたげだった。
ーーーこのままの結果で決着してみろ、生きて甲子園から出られると思うな。
彼女の瞳が両軍の選手たちにそう語りかけているように思えて仕方なかった。もはや言うべきにもないことだが、今の彼女に野球観戦を『楽しむ』余裕は欠片も見受けられず、対照的に『生活そのもの』である『阪神カイザース』を『苦しむ』様は、痛いほど伝わってくるのだった。
「それで、香櫨園先生!阪神は今、チャンス!わかります?!ワンアウト1、2塁!バッター五番新井熊!ほら、周り、盛り上がっているでしょう?!」
泥酔の香櫨園と話している間にも試合は展開していた。一死から金子、スイーツが連打で出塁。甲子園は、叫ばなければ会話もできないほどの盛り上がりを見せていた。例によって………西九条は誰も信用していない冷たい目を正面下方に向け続けていたが。
「あー?そういやなんか盛り上がっているなぁ。なんだ?祭りか?」
「自分がどこにいるかすらわからんのですか?!ここ、阪神甲子園球場です!野球です!ワンヒットで点が入る場面です!」
「ワンヒット、ね………」
まるで21世紀最強の予言者のように、容赦なさげに身も凍るような冷たい声でぼそりとそう呟いたのは西九条。ああ、まただ。またこの子、カイザースを全く信用していない。
「そもそも、昔30盗塁をやってる金子はともかくとして、二塁のスイーツは大して足が速くないわ。ワンヒットが出たとして、帰ってこれるかしら。
まぁ、それも、ワンヒットが出れば、の話だけど………」
ほぼ出ないといっているようなもの、との印象しか受けない西九条の言葉の、疑念に満ちた余韻が未だ漂い糸を引くなか、
グラウンドに乾いたバットの音が響く。
ギリギリ冷静の皮をかぶり、座席に座っていた西九条は、まるでシートにカタパルトでもついているかのように飛び上がり、そして打者、新井熊の放った打球の行方を追った。つられて俺も、不必要に絡んでくる香櫨園を突飛ばし、立ち上がり、グラウンドで起きた出来事を追う。
俺の目が打球を捉えるより早く、もう二つ隣の春日野道が「ギャーーーー!!」と叫んだ。それでもう、大体何が起きたかはお察しだった。
甲子園球場は、それ自体がひとつの絵画………無数のムンクの叫びで満たされる。新井熊の放った打球はセカンドベース寄りに守備位置を取っていたショートの真っ正面に鋭いゴロで飛び、
次の瞬間阪神ファンの絶望の悲鳴とともに、6ー4ー3のダブルプレーは成立する。阪神カイザースのチャンスは五秒と経たぬうちに終了した。
「ああああ情けない、新井熊……広島出奔してこのザマか………!」
真っ赤な頭抱えて崩れ落ちたのは春日野道忍。新井熊はもともと、広島大洋レッズの四番を打っていた選手で、去年、FAで阪神に移籍してきたばかりだった。広島ファンの春日野道としては、懐かしい顔なのだろう。どうにも、出ていかれた事には憤りを感じているが頑張ってほしくなくはない、といった風に感じられる。ファン意識というのは、かくも複雑なものであるよう。
「広島の頃からホンマ何一つ変わらんなぁ!大事な場面でこそゲッツー!何でもないときはよう打って結局三割は打つのに………!
もうどうでもエエんやけどな。どうでもええんやけど、ええ加減にもうちょっと勝負強くなったらどやねん、もうどうでもエエけど!!」
恨みと愛情の板挟みでかなり苦しそう。抱えた頭を自らの膝にぶつけ、自分への謎の制裁を行っている。
………この拘りよう、たぶん彼女はもともと新井熊のファンだったのだろう。他チームの人間となってしまった選手を応援してしまっている自分が許せないといったところだろうか。これまた理解に苦しむ感覚だが、贔屓以外のチームの試合でも、プロ野球ファンは場合によっては激しく苦しむ事があるようである。
「………ごめんなさい、私、ちょっとお手洗いに」
のたうち回る春日野道には目もくれず、
果たして本当にトイレにいくのか、実際のところは誰か暗殺しにでもいくんじゃないですかと問いたくなるくらいの殺気を纏わせて、ゆらりと西九条が立ち上がった。
甲子園のシートとシートの間は狭く、通路へ出ようとするときには他の観客の協力を必要とする。つまり道をあけてもらう必要がある。
「またか?お前、今日何回目だよこれで」
頻尿か?というあまりにもデリカシーのない言葉は置いといて、俺はあきれ混じりにそう問いかける。実際、彼女がトイレに行くと席を立つのはこれでもう七度目だった。それも、四回から六回……わずか一時間と半分の間に、である。
「仕方ないでしょう。行きたいものは行きたいのよ」
説明もなく、理由付けもなく。ただ平然と自らの意思だけを通す。
普段から理屈っぽい彼女にしては雑な対応だな、と思う。それほど尿意が切羽詰まっているのか、あるいは誤魔化したい事情でもあるのか。ともかくどこか不自然。
可能性としては後者かな?と思いながらも、俺は席を譲った。多少不思議に思わなくはないが、道を塞いで問いただすほどの事でもない。万一本当に頻尿だったとしたら自分は彼女にとってとんでもない極悪人になることだろう。
興味本意でリスクを犯すことは……愚かなことだ。
「春日野道さん、西九条がまたトイレらしい。悪いけど退いてやってくれますか」
「お?トイレ?近いんか?えらい多いな。」
元自球団選手のふがいなさに頭を抱えていた春日野道だったが、呼び掛けにはすぐに応じてくれた。俺のように何か得体の知れない事実を疑う様子は全くなく、問いに対する彼女の答えを聞くまでもなくあっさりと道を開ける。
西九条は「……ありがとう」と呟くように言うと、泥酔のあまり何の反応も回避行動もできなかった香櫨園のことは突き飛ばして、通路の行き来でごった返す人混みの中へ消えていった。
気がつけば、七回の表は既に始まっていた。レフトスタンドで、オレンジ色の風船が無数に天に上っていく。序盤で大量失点したにも関わらず怒濤の追い上げ、しかもピンチを凌いだばかりとあって、あちら側は大盛り上がりだった。
上空からみた甲子園は恐らく、お通夜の端で結婚式をやっているかのようであろう。
「はーまったく。オレンジが鰹節みたいに揺れとるんはやっぱり気分悪いなぁ」
とすっ、と軽い音を立てて、春日野道がシートに腰をもどす。プロ野球、読買を除くセリーグ五球団のファンはひょっとして皆こんな感じなのだろうか。確か、以前父親の所属していた東京国鉄スワンズのファンたちも、ことオレンジ色を極端に嫌い、なんなら読買戦でもないのに対戦球団のファンと………具体的にはその日は中日シェンロンズだったが、彼らと東京音頭にのせて『くたばれ読買』と叫びながら傘を振り回していた。
「何でそんなに嫌いなんです?」
「遺伝子。」
素朴な疑問は、即答される。そのあまりの早さは、それがこの世の不偏の摂理であるかのように感じさせられるほどだった。
「細胞に刻まれた記憶とでも言うんですか」
「せや。」
「ええ………」
「出たな!」
嬉々として指を指し、満面の笑みでツッコんでくる春日野道。見上げた適応能力である。このノリが西九条の専売特許である時代は終わったようだ。
「冗談というか……大袈裟に言ったつもりだったんですけどね」
「あんなー。贔屓の球団持たんやつには難しい話かもしれんけど、読買ってのは特別な球団なんや。」
「特別?」
「せや。
日本で一番歴史の古いプロ野球チームで……職業野球発足以来ずっと強いんや。この球団は。短期間の弱体化があっても、あれやこれやと手ぇ回してすぐに強くなりよる。それもまぁ……大昔、自前で超スター選手を引っ張りあげた歴史ありきではあるんやけども……。
なまじ日本一の新聞社がバックで金があるさかいそれで引き抜きをやったりしよるんや。それも派手ーなやつをな。
昔の広島や阪神……それに横浜も国鉄も中日も、金のない球団はみなスター選手を持っていかれる。まあ阪神はほぼ無いけどな。タブーみたいなところがあるんで。
複合的な理由はよーけあるやろけど、つまるところ、そういう常勝軍団的な強さに対する妬み……まぁ裏にあるのは憧れかもしれんけどな。と、その多少強引な経営手段が、その割にチームカラーが『紳士たれ』みたいなキザ気取ったもんやったりして、
結果的に強烈なアンチを生むわけや。
他五球団からみて特別な球団……恨むべき妬むべき、っちゅー具合にな。
ま、自分の球団が弱い時期の怒りの捌け口っちゅう見方もできるさかい、多少気の毒……いやいやありえへんありえへん。あいつらそんなことはこれっぽっちも気にせえへんさかい、気の毒に思う必要なんか無いんや。」
「は、はぁ………」
謎の自問自答。耳の片隅で、女性ファンのヤジとおぼしき「アライグマーっ!ラスカルの最終話みたいにしてまうどーっ!!」との声が上がる。結局、怒りの捌け口というのはどこでもいいのだろうか。その一番大きな受け付け口が、東京読買タイタンズということなのだろうか。
「で、ウチの遺伝子の話か。生物学みたいやな。
ウチの両親は、父親が広島生まれのバリバリのレッズ吉で、母親が大阪生まれの阪神ファンやねん。メンデルの法則で言えば、優勢遺伝も劣勢遺伝も両方ともアンチ巨人っちゅーことになるやろ?」
「なんですかその贔屓球団のサヤエンドウ実験………」
「父親が婿入りの形やったさかい、ウチ自信は大阪生まれの大阪育ち。土壌の条件で言うたら阪神ファンになっててもおかしくなかったんやけど……」
「土の質では遺伝は変わらない、ってことですか?」
「いやいや。生物学的にはそうなるんかもしれんけど、そうやなくてな。
ほら、12年前に阪神と広島が優勝争いした年あったやろ?ほぼ最終戦近くまでもつれて、1ゲーム差を争った大接戦の年が……」
「いや、僕それまだ3歳の頃ですし」
「覚えてへんか。まぁ、あったんやそういうことが。
結局その年優勝したんは広島やったんやけど、それがもとで父親と母親、リコンしてもうてなぁ」
「ええ………」
「出たな!」
「いや出るでしょそりゃ」
西九条の『阪神は生活』という言葉が思い出される。春日野道家の場合、生活どころか幼児期の生育環境まで左右されるのだ。彼女がやさぐれず、快活に育ったのは奇跡ではなかろうか。まさに、プロ野球ファンが命がけであるという証明のような話だ。
「どっちが親権持つかで一年争って、決着は広島と阪神、来年上位におったほうって事に決まって。
で、結局父親の方についていくことに決まった訳やねんけど。」
「ええ………」
「出たわね。」
気がつけば通路側には西九条がたっていた。春日野道が「おっ、エエとこに来たなまこっちゃん、今読買について話してたところや!」と言いつつ道を譲る。
西九条は器用に誰にも触れずそこを通り抜けると自分の席に座し、それから精神を落ち着けるように一息つくと、こんなことを言った。
「その年の阪神は最下位よ。勝つとか負けるとかの話じゃないわ。」
「ええ………」
「多いわね。」
「いやもう話が別次元過ぎて……」
「それでウチは広島ファンになった、っちゅー訳や。ウチの父親はそりゃあもう強烈な広島ファンやさかい、読買は親の敵、阪神は主君の仇、広島至上天下一ってな具合で。
ウチはまぁ、母親がアレやさかい、そう阪神を嫌うようなことは無いんやけど。あ、これ他の広島ファンにバレたらにわか扱いされるさかい、内緒やで。」
人差し指を口に当てた春日野道。
なんなんだ、その村八分的なルールは……
「そんなんで野球自体をよく嫌いになりませんでしたね。普通、そんなことで両親に離婚されたら、野球自体を恨むもんじゃ……」
「だから遺伝子なんや。」
ひどく清々しい表情で春日野道はそう言った。そのあまりの透明度に、俺は初めて四万十川を目の当たりにした江戸川流域住民のように、たじろぐ。隣で、西九条が僅かに頷いていた。野球の結果で晩飯のメニューが変わってしまう家庭に生まれた彼女も、よくよく考えれば野球を恨んでいてもおかしくない生育環境下にあったのだ。
「ウチも、何で自分が野球好きで、何で広島ファンなんか、未だにようわからん。物心ついたら、っちゅーやつや。
読買嫌いも、今はゴタゴタ理由つけられるけど、そんなもん後付けでしかない。気いついたら怨み辛みの対象やったやんや。
……わからんかなー。わからんよな。
でも、父方の祖父はは太平洋戦争終わって復員してきて、例のアレで更地なってもうた広島市内、河川敷みたいなグラウンドで試合やって樽募金募ってた頃からの広島ファンやし、
母方は別当影浦の時代から家族ぐるみで阪神ファンや。
野球に対する情熱も、読買に対する憧れも妬みも恨みも、みんな細胞にまで刻み込まれとる。
それを受け継いだとしか、説明つかんのやわ。
だから、遺伝子。」
「…………。」
こんな話でまさか、自分の幼い頃のことを思い出すとは思わなかった。父、出屋敷太陽は俺が生まれた頃には既にプロ野球選手で、母親は野球が大好きで父親の大ファンだった。
それこそ物心ついたときにはバットを握っていて、ボールを投げていた。
それは父親が四歳のクリスマスに枕元にバットとグローブとボールを置いていったからであり、母親としょっちゅう神宮球場に父親の試合を見に行っていたからでもあり。生育環境次第という考え方も確かにできる。が、
野球のせいで父親と遊びに出掛けるような機会はほぼなかったし、成績いかんで父親の機嫌が悪くなったときには、母親との口論もよく聞いた。
野球を恨んでいてもおかしくない条件も確かに混在したのに、そうはならなかった。
………俺の野球好きも、少し見方を変えれば………遺伝子レベルの話、としか説明つけられないものなのかもしれない。父親も、爆弾を抱えた肘とだましだまし付き合いながら野球選手を続けてきた。ケガをする場所もよく似た親子の遺伝子に、そういう共通項目の記憶が刻まれていたとしても、不思議はないのかもしれない。
「まあ、あえてウチは難しく考えんことにしてるわ。
そういうしがらみに縛られたら、応援の方向性が行方不明になってまうさかい。」
鰯の頭を出刃包丁で落とすように、それまでの話をぶつ切りにした春日野道。他方、西九条は少しそれを不満げに聞いているようだった。たぶん『阪神は生活』と断言する彼女には、そういうしがらみも、阪神と自分を繋げる要素で、大切なものなのだろう。
これは、人それぞれの考え方としか言えない。信条の問題であり、程度の問題ですらない。
ーーー七回の表の読買の攻撃は三者凡退に終わった。阪神の誇るスーパーリリーバー、ウィルキンソンがキレッキレのスライダーでクリーンアップを完璧に封じ込めたのだった。
やや重い話で終始したその回の観戦を吹き飛ばすが如く、阪神ラッキーセブンのジェット風船が上がる。四万五千人近くの阪神ファンの作り出す虹の壁は、まさにこの試合に望む未来を描いた壁画のようで。
こんな試合を見せた上に負けでもしたら承知せんぞとばかりの威圧感が、美しさのなかに混じっていた。だが、序盤の勢いを忘れてしまったかのように、その回の阪神の攻撃は低調、ゴロ三つの三者凡退に終わった。
風船のかわりに阪神ファンの怒号とヤジが飛ぶなか、ウグイスのお姉さんの綺麗な声に乗せて、とある選手の名前がコールされる。
なんとなく、運命的な物を感じる展開ではあったが、だからといってそれが何かをもたらすかと言えば、
俺にはそういった類いの予感はなかった。
『カイザースのピッチャー、ウィルキンソンに変わりまして、
タイヨウ。
ピッチャーは、タイヨウ。背番号、18。』
隣で、春日野道がおどけたように言う。
「おっ、シンジロー、出屋敷やで、出屋敷!」
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