あなた、何者?




「無理よ。あんなの。死ぬわ。」



バッターボックスから引き返してきた西九条は、開口一番そう言った。その表情はまるで、北海道の山奥で熊を見たかのように青ざめ、体は縮こまっていた。



………一応本人の名誉のため西九条自身の話を先にしておくと、彼女のスイングは間違いなく素人のそれではなかった。


右で文字を書くくせに左打席に入った時点で何か異様な雰囲気を醸していたが、打席の入り方から足場の慣らし方、フォームに入る前のルーティンに至るまでまるごと、阪神不動の四番『鉄人・金子憲明』をコピーし、


バットを相手へ傾け野球部顔負けの気迫で「ッシヤァコォーーーイ!!」と叫んだ彼女は、


もしかしなくとも打つ気満々だった。素振りのスイングも、力はないが無駄なく美しく、当たれば前にとぶくらいのことは可能なのではないかと思わせた。



………だが、圧倒的な実力差は気合いではカバーできない。


初球、二球目と球を見送った西九条。いずれもストライク。見逃すときの構えは超プロ級であったが、


その時点で既に顔には青筋が入っていた。右ピッチャーのカットボールは、ピッチャーから向かって右から左へスライドするもの。


つまり、左打席に立った西九条からは、腹に食い込んでくるように見えるのだ。


むしろ、女子なのに逃げなかったことが凄いというレベル。三球目を意地の空振りで、彼女はヘルメットを取り一例、さいごは逃げるように帰ってきたという訳である。



「プロレベルじゃないわ。あれはプロよ。来年阪神が採るといいわ。あんなのを草野球で野放しにしていたら、競技人口を減らすだけよ」



「わかった、凄いのはわかったから落ち着け西九条。それにまともに立ち向かっていったお前のクソ度胸と野球に対する飽くなき探求心に、俺は感心しているよ。」



「あなたの感心なんて求めていないわ……とにかく、打てっこないわ、あんなの。


絶対、右打席に立ちなさいよ。いい?でないと3Dのアバターを最前列で見るよりはるかに恐ろしい目に逢うわ。


私、こう見えても部員を大切にしたいと考えているの。話し相手が消えるのは惜しいのよ。だから、無事に帰ってこれるように努力しなさい。いい?バッターボックスの一番外側に立つのよ」



「いや……そこまでしなくたって大丈夫だって。あの人コントロール良さそうだし。第一お前も当たってないじゃんか」



「いいわ。ここまで言って聞かないならもう死んできなさい。あの世で後悔するのがいいわ。さぁ。」



とん、と背中を押してバッターボックスへ促してくる西九条。あんまりにもなげやりな送り出し方だなぁ、などと思いつつ、俺は左打席に入る。


向こうの方で西九条が片手で顔を覆うのが見えた。見てられない、とでもいうかのように。



仕方ないじゃないか、左利きなのだから。



足場を慣らしながら俺は思う。


そりゃあ、俺だって、あんな球が簡単に打てると思うほど楽観的じゃない。超プロ級だと西九条が表現するほどの球を、軽々ヒットにできるほど体もない。まだ高校生になって幾ばくも経っていないゆえに。


………だが。


だが、これでも九年間、確かに野球に打ち込んできた身だ。プロ級が相手とて、打ち返してみたい、ヒットを打ちたいという気持ちはある。


素人………かどうかは正直微妙だが西九条だって、勇敢に立ち向かっていったというのに、俺がここで消極的になれた訳があるか。


高レベルのピッチャーと対戦できる滅多にないチャンス。相手は九回を投げきったあとで疲れていて、しかも球種はカットボール一択。


攻める場面でも無いだろうし、内にえぐり込んでくることもあるまい。



ならば、可能性はある。わずかでも、前に飛ぶ可能性は、必ず。



「お願いします!」



ヘルメットに手を当て、一礼。ピッチャーの返礼を受けてバットを構える。短めに持って、テイクバックを小さく取って。イメージは外角から内に入ってくるカットボール、それを流しでちょこんと当てて三遊間を狙うイメージ。


大丈夫、行ける。俺のスイングスピードなら、


この球速でも力負けしないーーーー



ズドン。



内角一杯135キロストレート。



ーーーーえ?あれ?もしもし?



「………ちょっと!」



「はい?」



「話違うくないですか!?」



俺は心の限り叫んだ。マジ、お小水をチビりあそばすかと思った。イメージ通りに動いた体は、足半個分内側へ踏み込んだのである。



当然クロスファイアー気味に伸びてきたストレートと体の距離は近くなる。というか、とっさに避けたがそれがなければ普通に当たってた。



「何が?」



野田、と呼ばれていたピッチャーはとぼけてそう言った。俺はすかさず、



「いや、カットボールでしょう?カットファストボールを見せてくれるんじゃないんですか?」


と叫びかえした。すると、向こうの方………西九条が立っているはずの方角から、聞き覚えのある高笑いが聞こえた。


香櫨園だった。腹を抱えて転げ回っている。まさかとは思うが……



「だってあの人がそういうサイン出すんだもん」



「香櫨園先生、後でコンビニにビール買いに行きましょうね。鳴尾浜の海釣り公園で一緒に飲みましょう。」



「そんなこども名探偵も見破れないような完全犯罪の予告はやめたまえ。何、ちょっとの遊び心さ、許せる広い心を持つべきだとは思わんかね?」



「遊びで死にかけた身になってください。ならないとわからないならチューハイ持って海釣り公園へ」



「二球目いきまーす!」



待ちくたびれたらしい野田がワインドアップに入る。俺はあわててテイクバックを作った。


が、今度はカットボールを投げてくるという確証はない。どのみち速球系の球にはなろうから、バットを持つ長さは変わらないが………イメージは変わってくる。


もしインコースのストレートなら……踏み込みは自殺行為だし、135キロの速球相手に流し打ちというのは、おそらく手首が死ぬ。


ここは狙いを絞るしかないのだが……さて、どっちに絞るべきなのか。



俺は、じっとピッチャー野田の顔を見つめ続けた。ヒントがほしかった。具体的には……まだ、サインは香櫨園が出しているのか、そうではないのか。



その答えは、案外すぐに出た。野田は露骨に右を伺ったのだ。それは、野田からのサービスだったのかもしれない。要するに、配球を決めているのはどういうわけか香櫨園だということだ。



であれば。ひとつ仮定できることがある。


香櫨園は今日、西九条から裏をかく投球術の有効性をしこたま説かれている。そしてそれは、例によって納得感心しきりの内容だった。俺も含め。


人間、その日学んだことは実践したくなるのが人情というもの。


この勝負は三球。裏をかく投球を実践しようとするなら、既に初球はその布石になっていなければおかしい。



単純だが、今日の試合の一回、二回、三回を一球目二球目三球目に当てはめれば。



初回はストレート責め、二回は変化球主体、三回はカットボーラー。



もし香櫨園がこの通りの配球をするとすれば、この二球目はーーー



「……外角のカーブじゃないの!?」




お見事。


外角一杯、ドロップ気味のカーブ。



俺はわざと空振った。ストレートのタイミングではるか上を振った。



香櫨園がさらに笑い転げる。俺は、ほくそ笑みたいのを必死に堪えて香櫨園にこう叫ぶ。



「今から海釣り公園へ行きますか!?」



香櫨園は笑い転げるばかりで何も言い返してはこなかった。俺はその瞬間次の球を確信した。


香櫨園は悦に入っている。投球術がモロにはまって、楽しくて仕方ないはずだ。



であれば、絶対。


次こそ、あれが来る。



野田が、両腕を大きく振り上げる。


俺は、あえてさっきよりバットを長く持った。


そして、テイクバックも大きめに取る。



野田体が右に反転し、体が沈み、足が前へ出て。


しなった腕からボールが繰り出される瞬間、



俺は前の足、すなわち右足を外へスライドさせてステップを踏んだ。


そして、早めに振り出す。バットを前へ送り出す。内角ギリギリに、芯が来るように。


野田のボールは、直線軌道で真ん中やや内よりへ。しかし、徐々に曲がる。スライドする。



俺は、香櫨園に負けないくらい心のなかで高笑いをした。



ーーーカットボールだ。



予想通り。この球を、俺は、待っていたーーー




「ていっ!」





カーン、と金属バットの乾いた音が響いて、真っ芯を喰ったボールが直線軌道を描いてライト方向へ飛んでいく。


さして飛距離は出なかったが、それが却ってよかった。ボールはライトの手前でバウンドし、転がっていく。



クリーンヒット、というやつだった。



野田が「やられた!」と悔しそうに、だが楽しそうに声をあげる。


俺は歓喜に叫び出したくなるのを堪えてマウンドに一礼し、それから自分があるいてきた方角を見た。



顎が落ちたように唖然とした表情を見せるのは香櫨園。ありえない、何で、嘘だろと言わんばかりの驚愕が表れている。


そしてそれは、その隣の武庫川も同じだった。当然だろう。自身がプロ並みと認めたカットボールを、高校一年生の素人と思っていた相手が打ったのだから。


それだけで俺は十分嬉しかった。だが、何より意外で、かつ最高に嬉しかったのは………



「………あなた、何者?」



出迎えてくれた西九条が、眉を潜めて……



オヤジや野田のカットボールをみたのと同じような、


輝く瞳で俺を見ていたことだった。



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