ところが常識は常識ではなかったという話
「アライグマーーーっ!!お前とうとうボール前にとばんようなってもーたんかーーーっ!!」
ああ、これが名物のヤジというやつか。
そんなことを思いながらの六回の表の広島の攻撃、俺の隣には酔っぱらいの女教師しかいない。
賭けで勝利を納めた西九条真訪は、とびきりの嘲笑一瞥をくれると、
「少し席を外す」
とだけ言い残して人混みの中へ消えていった。
ついていく理由もなく、実質『一人で』取り残される事になった俺は、さぁ西九条さんいったいどんな要求を突きつけてくるんだろうかと戦々恐々としながら、次第広島ペースに加速していく試合をぼーっと眺めているしかなかった。
……西九条は、阪神クリーンアップの凡退をまるで過去に見てきたかのように語り、欠片ほどの信頼も寄せなかった。
そしてその理由を自らが『阪神ファン』であるからだと断言した。俺は、それがごく少数、一部の偏ったものの見方だと考えて、あんな勝負をしかけた。が、
攻撃の後、見事なまでの拙攻でチャンスがつぶれた後の一塁アルプス、周りの声に耳を傾けてみれば、
やれ「そんな気はしてた」だの、やれ「スイーツから打てる気配が感じられなかった」だのと、無数の西九条真訪が存在することが確認できた。
つまるところ、この甲子園球場において、彼女の野球観は少数派でも何でもなく、
むしろ大半を占める多数派である可能性すらある、ということである。
………俺は、甲子園球場には何回も来たことがある。が、それはけして阪神ファンであるから、という理由ありきのものではなかった。母親につれられるから来る、という他力本願というのか、他動的な理由であって、殊更に黄色のチームが勝とうが赤のチームが勝とうがどうでもよかったのだ。
……故に、俺の方こそが知らなかっただけなのかもしれない。ファンとして見る野球観というものを。
選手を信用しきれない……というのは、結局それだけ回数を見ているからであって。例えば三割打者であっても残りの七割は凡退しているわけで、単純な計算でも、それを全部見ている人がいるとしたら、印象として残りやすいのは凡退するシーンということになる。回数が多いのだから当然のことだ。
一度一度の勝負だけを、ぶつ切りで見て、その瞬間の勝敗だけを印象に残すタイプの見方をする自分とは、まるで野球のみえかたが違うのかもしれない。
西九条真訪はまごうことなき阪神ファンだ。そして、自分を除く周囲の人間もまた、ほぼ阪神ファンだ。
少数派であったのは自分の方だった。それは………西九条に、楽観的とも言われるだろう。蓄積された彼女らのデータをまるで度外視して、数字の上の確率だけで勝負を見た。一死三塁でクリーンアップ、点が入らないわけがない………と。
「………高慢だったのだろうか」
「気にしなくていいわ。」
懺悔の言葉に、思いがけずフォローをかけてくれたのは、これまた思いがけずも西九条真訪であった。席を立ったときより、心なしかスッキリした表情をしている。
トイレかな?と野暮なことを一瞬考えはしたが、すぐにその思考は消し去ることにした。美人は、トイレになんていかないのである。
「あなたの野球の見方の方が楽なのは私もわかってる。」
「………?」
意外なことを言う、と思った。絶対認めないくらいの勢いで勝負を仕掛けてきたものだから、自分の野球観こそ至上、くらいに思っているものなのかと………
「………これは、もう程度の問題なの。
野球を見るのが楽しいか、苦しいか………そのレベルの話と言ってもいいわ。」
「ええ………?」
「……むずかしいかしら?」
「いや………それだと野球観戦は楽しくない事のように聞こえる」
「楽しいわよ。勝てばね。」
西九条は済まし顔で、レフトスタンドの証明施設辺りを望遠しながらそう言った。
「………あなたとの違いは、大きくひとつ。
負けたら信じられないくらい大きなストレスがかかるのが、
ある特定の球団のファンとしての野球の見方。
単純な野球ファンであるあなたにはそれがない。」
「………それは、まぁ………そうかも………確かに………
………って、
!?」
俺は思わず飛び起きるように体を起こした。同時に、しまった、と自らの言動を悔いた。
今、自分は認めてしまったではないか。阪神ファン……いや、トラキチでないことを。普通の、一介の野球ファンでしかないことをーーー
「あ、いや、俺は、その………」
「もういいわよ。バレてるから。」
ふ、とため息をつきながら西九条は呆れたようにそう言う。
あれ、意外と怒っていない………?
嘘をついた上に裏切り者、さすがに叱咤の嵐は回避できないか、と思っていた俺は、思いの外彼女が何とも思っていない様子なので拍子抜けする。
いや、そもそも俺ごときがこのアダムとイヴの最高傑作に何らかの影響を与えられると考える時点で思い上がりも甚だしいのかもしれないが……
「阪神ファンには、あんな清々しい野球の見方は………難しいわ。
私の野球の見方が、全ての阪神ファン共通の物だなんて言い張るつもりはないけれど………
皆、よく似たような感覚はどこかに持ち合わせているはずよ。人間、どうしても悪い記憶の方が多く印象に残るし、素早く思い出してしまうものだから。」
「………いつ、気づいた?」
「そうね……あなたが、一般的な見方の話をし始めたときかしら。
あなたの言葉、私の耳には綺麗事のようにしか感じられなかった。」
「綺麗事………」
「だから、あなたが悪いわけではないと言っているでしょう?
これはもう………そうね、生活環境の違いなの。」
彼女がそれを言い終えた瞬間、周囲、いや甲子園全体から沸き上がるような悲鳴が無数に響いた。広島の四番、栗山が左中間深くにツーベースヒットを打ち込んだことに対する物だった。
西九条がちっ、と舌打ちをひとつし、そして「ボケが」と悪態をつく。俺にとってそれは衝撃的な出来事だった。そりゃ人間舌打ちのひとつや二つ、ざらにするだろうし、悪態も出るときゃ出るだろうが………しかしこの場合、相手はアダムとイヴの最高傑作である。超絶美少女の舌打ち、なんとも想像できない組み合わせだったのだ。
「………西九条?」
「部長と呼べと言ったはずよ。私をオウムにでもするつもりかしら?」
「…………。」
「生活環境の話だったかしらね。
あなた、確かお母様が阪神ファンだとか、いっていたわよね?」
「ん、まぁ………ファンと言うか……」
「似た者ならそれでいいわ。
では、阪神が勝った次の日の夕飯のメニューが豪華だった試しが、あったかしら?」
「いや、ウチは………試合のある日は総じて豪華だったと……」
「そこで既に隔たりがあるの。」
西九条は大きく肩を落とした。伝わらないわけだ、とでも言わんばかりの激しい落差だった。
「………勝敗でメニューが変わるのか?」
「ええ。そうよ。
小学生の頃……私は、阪神が勝った次の日の夕飯が楽しみで仕方なかったわ。
店の売れ残りなのだけれど、豪華な魚が出るの。鯛とまでは言わずとも、本ししゃもとか、規格落ちの蟹足とか、マグロだとか………」
「………本当に魚屋の娘なんだな。」
「よくそんな風に見えない、といわれるけれど。おそらく……あまりいい風な意味ではないのだろうということもわかっているけれど。
………でも、父母のことは誇りに思っているわ。私が一度も骨折せずにこの年まで生きているのは、両親と魚のおかげだから。」
「………。」
出会った瞬間から美人なのはわかっていたし、その外見だけでグッと来るものは正直あったが、
この日、最も彼女が魅力的に感じられたのはこの時この瞬間だった。もう半歩間違えれば、何かが崩壊していたかもしれない。
「話を戻すわ。
勝ったときはいいのよ。それで。みんなの機嫌がよくて、幸せだもの。」
「………。
その言い方だと………」
「代わりに、負けたときが最悪なの。」
「ええ……」
「………ひとつ気になっていたのだけれど、それは口癖なの?」
「え、いや、思わず出る。
……ああ、そういうのを口癖って言うのか」
「……まあいいわ。
阪神が負けるとね……
凄いときは、夕飯が胡瓜になるの。」
「ええ………」
「ほら、また。」
「いや、だって。キュウリって。
そんなのでどうやって飯を食うんだ?」
「ラー油で叩くの。それはそれで美味しいのだけれどね。
だけど、ひもじいの。想像つくでしょ?」
「………
すまん、俺では想像つかん………。」
「こんなのはほんの一例。
テレビが壊れたり、リモコンが飛んできたり、家出があったり………とにかく、阪神が負けたら………それだけで大変なことになるの。
わかるかしら?だから、私にとって阪神は………」
「………生活そのもの。」
「いい得て妙ね。」
ふ、と彼女が口許を緩めた瞬間、再び甲子園を悲鳴が包んだ。
五番の外国人エルニーニョが、これまた鋭い当たりで左中間を抜いていったのだ。
二塁ランナー栗山余裕のホームインで2対0。点差が開いた所で、西九条が今度は舌打ち程度で済まなかった。
「話の途中で申し訳ないけれど、ちょっとはずしても良いかしら?」
席で座っているのが我慢できなくなったらしい。道を譲ると、彼女は再び人混みに消えていった。
俺は、それで、彼女の言葉の意味を考え始めた。
俺の中で野球は趣味から、あっても修行程度の認識でしかない。基本的には楽しいものだ。やってても、見ていても。
だがそれは、生活がかかっていないからだとも言える。西九条にとって、阪神の勝敗はその日を楽しく生きられるか生きられないか、それに直結してくる。
………のであれば、自分を守るために、阪神カイザースとその選手に対して期待を込めることを制限するということもあっておかしくない話だと思うし、嫌な思い出………具体的には凡退や降板といった負の印象が、先行して残ることもあるのかもしれない。
三割バッターで、いい思い出が三割、悪い思い出が七割。
二倍以上の負の思い出を、埋めるのは相当難だろう。ともすれば………
「西九条のような野球観にもなる、か。」
狂信的な阪神ファンというのは、遺伝子レベルまで阪神ファンで、
その日の生き死に、将来の寿命までもをひょっとすれば掛けているのかもしれない、ということだ。
阪神ファンは、命がけなのだろう。
だから、西九条は…:…俺の野球感が、綺麗事にしか聞こえなかったのだ。
「…………。」
納得したとたん、心にずんと重いものがのし掛かってくるような感覚があった。自分の主張は、飢餓の国で食べ物を見せびらかすが如くの、勘違いも甚だしいものであったのではないかと、今更ながらに思うのだ。
「ボケコルァ宮間ーーーっ!!おんなじところ投げて二本おんなじところへ打たれて、
バッティングセンターに就職斡旋したろかーーーーーっ?!」
女性の声でヤジが飛ぶ。これには周囲の阪神ファンからもどっと笑いが上がる。
一般論的には下品だ。だが、それぐらい言ってしまうくらい、このチームの応援に懸けているということなのかもしれない。
まあ、選手に対して投げ掛ける言葉として、良くないものであることには全く代わり無いが………。
「呼吸と同等なのよ。」
しばらくぶりに声がして、振り向いたらそこには西九条が立っていた。手にはジュースが二本。一本を手渡してくる。ありがたく受け取った。
「酸素が無くなったら、人間は窒息するでしょう?」
それはそうだ。息が出来なくなってそのうち死んでしまうだろう。窒息なんて最悪の死に方だろうと思う。苦しくって、のたうち回って、それがさらに酸素を消費して、さらに苦しくなって、のたうち回って。
のたうち回れなくなったとき、最大の苦痛を得ながら死ぬ。
「生きるために、酸素を吸うのでしょう?」
生まれながらにして呼吸することを知っていて、あたまのどっかが勝手に肺を動かしてくれているもんだから特別意識したことは無かったが、そういうことになるのかもしれない。
死にたくないから呼吸するのだから………裏を返せば生きるため、と言えなくもないか。
「そういう風に考えれば、
人間と酸素は、絶対切り離せない関係にある、と思わない?」
なんとなくわかる感覚だ。まぁ、酸素は人間が居なくたって存在していけるのだが、それはこの際野暮だし深く考えないでおこう。
人間は酸素を吸い、二酸化炭素を吐いて生命を維持している。酸素と人間は切り離せない。人間にとって酸素はほぼ命と等価値だ。それがないと生きていけないのだから。
「阪神も同じようなものよ。私にとってはね。
無いと生きていけないもの。
………いいえ、
一緒に生きていくことを、宿命付けられたもの。
だから、命がけで応援するのよ。」
「…………。」
………さぁ。
それを理解しきれないのが、今の俺には問題だ。酸素と同等……彼女にとっての阪神カイザースというのは、ないと生きていけないものだという。普通の野球ファンに過ぎない今の俺には、その感覚は………
西九条が席に座ると同時に、広島の攻撃は終わった。さっきヤジを飛ばされていた宮間が、奮起したのか一死一三塁のピンチを凌ぎきったのだ。
甲子園が心なしか安堵に包まれる。それは、さっきのチャンスでの周囲の反応ににていた。たぶん、ここにいる大多数は………ツーベースを放たれた時点で、二三点の失点を覚悟したのだろう。
一点でよかった、とため息が漏れるのは、つまりそういうことだ。
「なぁ、西九条。」
「部長と呼べと………もういいわ。あなた、修正する気が欠片もないんだもの。
呆れた。折れることにするわ。」
「………選手を恨んだりするのか?」
「しないわ。」
それに関しては西九条は即答だった。俺はどこかほっとした心地になる。
「こういう言い方ばかりするからそう思われるかもしれないけど、
阪神ファンであることで人生が華やぐのも事実よ。私は……自分の生命の源が、甲子園にあるとすら思っているわ。」
「…………。
そこまでか。」
「ええ。そこまでよ。
アイデンティティーなの。」
西九条はキッパリと言いきった。その言葉には欠片の迷いも存在しないようだった。
六回の裏の阪神の攻撃は、全くいいところなく三者凡退で終わる。七回表、広島追加点のチャンスを宮間が何とか抑える。七回裏、阪神三者凡退。
花火のように美しいジェット風船もこれではまるで形無し………と言わざるを得なくなってしまうような広島ペースの試合。ちらほらと帰り支度を始める客もいる中、
八回の表、ピッチャー交代でとある選手が登場する。
『代打いたしました 八本に変わりまして、ピッチャー、タイヨウ。背番号18』
そうコールされて出てきたのは、体格のガッチリした中年のオッサン。リリーフカーから下りると駆け足でマウンドへと向かう。
球場スピーカーから登場曲である威風堂々が流れるなか、
西九条が「知っているかしら?」と声をかけてきた。
何を?と訪ねると彼女はこう答えた。
「タイヨウの本名、あなたと同じ、出屋敷姓よ。
出屋敷太陽、って言うの。」
俺は「知ってるよ」と答えた。
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