第9話

「それで、痴漢をされたんですか」

「ああ。私の尻をソフトタッチしてきたよ」


 簡潔に言うが、実際はどうだったろうか。気持ち悪かっただろうし、怖かったりしたのではないだろうか。

 そんなことは、全く表情に出さないけれど。


「暴れたりしなかったんですか?」

「暴れたら電車が壊れてしまうだろう」


 まあ、そうなんだよな。強すぎると制御が難しいか。他に人がいっぱいいたりしたなら尚更。

 電車が壊れるっていうのは凄いけど。


「だから手を出せなかった。どうしたら良いか、我慢するしかないのか、と思っていたところを助けられたのだ」


 痴漢されてる人を助けるのって結構勇気がいるのに、その人もよく頑張ったな。


「で、どんな感じに助けられたんだ?」

「……犯人の手を掴んで『痴漢電車なんてことは現実にやるなよ! 薄い本だけの楽しみにしとけ! 少なくとも俺はそうしてるぞ!』と言って助けてくれたな」

「どんな助け方だよ!」


 その人も危ないやつじゃないの!? いや、俺も薄い本は嗜むけどさ。そういう系も好きだけど、そんな堂々と明かすか、普通。


「大学生だったようだし、まだ大人ではなかったのだろう。だからそんなことを言ったのだと思う」


 うーん、大学生でそれならギリギリかなぁ。俺もその頃はだいぶ子どもだった気がするし。

 ギリギリ、ギリッギリセーフかな。


「でも、だからこそ私は彼の純粋な正義に、ひどく感銘を受けたものだよ」


 それが、美咲のヒーローとしての原点か。中々生々しいが、現実感は強い。

 もしかして、美咲が方向性がおかしいヒーローになったのもそいつのせいか? だとしたらそいつの罪は重いな。


「ちょっと待ってください。なんで大学生だって分かったんですか?」


 あ、そっか。普通見た目だけじゃ分かんないよな。

 なぎさは鋭いなぁ。


「調べたからな」


 それも剣上家の力か? パネェな。


「顔しか知らずに? 大変すぎませんか?」

「いや、彼は堂々と名乗ったからな。『俺、やりましたよ!』みたいなどや顔で」

「かっこわりぃ!」


 名乗る程の者じゃないとか言えよ!

 ダサいよ!


「私としては、そういうところもかっこいいなと思ったものだ」

「え? どうして?」

「名乗ることとは、責任を負うということだ。そうしてくれなければ助けてくれた身にも、ある種の恐怖というものは残るし、行き場のない記憶としていつまでも引っ掛かってしまうだろう」


 ははぁ……。そんなもんかねぇ。たぶん、その男はそこまで考えてないと思うけどなぁ。


「なるほど。顔も名前も人柄も、ある程度知ることができたわけですね。それで、それ以来会っていないのですか?」

「いや、当然会った。会いに行った。お礼をするためにな。だが、彼は覚えていなかったよ。何も受け取ってはくれなかった」

「……なんで?」

「『たぶん、それ俺酔ってたわ。何も覚えてないもん。もしくは人違いだ。だから、お礼はいらねぇ』と」

「後からかっこつけてんじゃねぇぇぇ!」


 その場で決めれなかったら後から何言ってもかっこよくねぇから! 

 もしくは、本当に酔っ払い故の行動だったとしても、それはそれで残念だし。


「いや、その両方とも違うと思う」

「は?」

「きっと、私を助けてくれたのは、彼にとって特別なことではなかったのだ。何の変哲もない通常運転だったから、代わり映えのない日々に埋もれたのではないだろうか。私には鮮烈に刻まれた思い出、だがな」

「……たぶん、違くね?」


 そいつ、そんな人間か? さっきまでの話からではとてもそうとは思えない。

 美咲の、希望的観測ではないだろうか。そうあって欲しいという。


「違くないな」

「え?」

「何故なら、彼は今になって出会っても、何回話をしても思い出すことがないのだから。私が救われたと礼を言いにいったことさえ、彼には普通のことだったとしか思えない」


 そう語る瞳は、熱を帯びて輝いていた。こりゃ、何も口出しできねぇや。


「一度、会ってみたいな」


 美咲にそこまで言わせる男。とびきり頭のおかしいのであろうその男。

 是非会ってみたい。


「…………はぁぁ」

「何故に溜め息!?」


 当の美咲にめちゃくちゃ深い溜め息をされた。何故!?


「なるほど。全部分かりましたよ。そういうことですか」

「マジ!? 教えて教えて!」

「……お姉ちゃんも大変ですね」

「どういうことだよ、おい!」


 どうやら、姉妹の間ではもう通じ合ったらしい。妹は姉にすり寄り、同情したように背をさすっていた。

 俺だけ仲間外れだ。


「俺にもなんか教えてくれよぉ!」

「……この話はここで終わりですね」

「ああ」

「俺は無視かい!」


 ああそうかい!

 こいつはひでぇや!


「では、どうしてヒーローをやめるんです? 憧れて、やりたくてやっていたんでしょう?」

「それは……」


 三人の並びは、知らず知らずの間に円を描くように丸く、変わっていた。

 二人の顔がよく見える。

 なぎさは真剣な表情で、美咲は。

 いや、美咲も真剣な表情だ。


「気づいてしまったんだ。どれだけ努力しても、本物のヒーローにはなれない。彼のように、平気で誰かを救うなんて、私にはできなかったんだ」


 三年も特訓したのにな、と言って、自嘲するように小さく笑った。

 そんな美咲に、なぎさは。


「しっかりしてくださいよ!」


 平手で訴えるのだった。

 パチン、とカラカラに渇いたような音。だけど、何より熱い音がした。

 叩かれた方よりも、叩いた方が痛そうで。叩かれた方は驚きで目を見開いているだけなのに、叩いた方は目に涙を浮かべていた。


「ヒーローやってたんなら、助けた人の顔くらい、ちゃんと見てくださいよ!」


 声を張り上げるような子じゃないはずなのに、喉を燃やすような勢いで叫ぶ。


「責任を持ってこそのヒーローなんでしょう? それなら私たちの感謝をちゃんと受け取ってくださいよ! なんで逃げてるんですか!」

「……でも」

「たった一ヶ月で憧れに届くわけがないでしょう! 確かにお姉ちゃんは、今までやってきたことは全部、一ヶ月もあればできてしまったのかもしれない。でも、そんな簡単なものがしたいんじゃないでしょう! それならもっともっと頑張りましょうよ!」


 たいした努力をせずにあらゆることができてしまう姉に、どれだけ努力をしてもほとんど何もできない妹が、本当に伝えたいことなのかもしれない。

 それこそ、彼女の憧れは、そんな姉なのだろうから。


「三年の特訓って、体を鍛えただけでしょう? 方向性が違いますよ。今ならわたしにも分かります。そんな肉体なんてなくたって、頭だってそんなによくなくたって、人は救えます。ね、三つ雲さん」

「……そうだな」


 俺の返事を聞くと、なぎさはその場に立ち上がった。そして、彼女の手を借りて、俺も立ち上がる。

 そして


「大事なのは心なんですよ。ありがちですけどね」


 二人で笑って、美咲にも手を差し伸べた。


「……私も、まだまだ修行が必要だな」


 泣きながら笑って。

 笑いながら泣いて。

 美咲も、立ち上がるのだった。

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