第10話

「……美咲」


 ゆっくりと立ち上がり後ずさり。猛獣から逃げるときのように社長から目をそらさず。美咲の元まですり寄り、耳に口を近づけ、小さく呟いた。

  

「み、耳に息を吹き掛けるな……」

「なんで、もじもじしてるんだよ!」

「私は、耳が弱いのだ……」

「マジか!」


 こいつ、胸より耳の方が敏感なのか。良いことを聞いた。


「いやいや、そんなこと言ってる場合じゃねぇよ」


 社長に大変なことをしてしまったのだった。しかも、三つ雲で思い当たるところがあるようだし、とてもやばい状況だった。

 早く揉み消さなきゃ。社長が顔を拭いている間に。

 ティッシュでは足りなかったか、床に擦り付けて拭こうとしてるから、土下座させているようでとても申し訳ないのだ。だから、できるだけ早く。


「さぁ、社長を気絶させてやれ」


 早く、楽にさせてやろうぜ!

 俺の罪も消えるし、社長も楽になれる。一石二鳥だ。

 剣上には、俺のこの意思はちゃんと伝わっている。はずなのに


「だが断る」


 名言を使って断られた。


「……どうしてだよ」

「私は、こいつにそんなことをするために来たんじゃないからな」


 アイマスクの奥、剣上の瞳が鋭く光を放っていた。

 明確な意志が宿っているのが分かる。こんな真剣なこいつに、言うことを聞かせるのは無理か。

 ……はぁ。


「分かったよ。好きにしろ」

「恩に着る」


 俺が諦めたとき、社長が口を開いた。


「君は、三つ雲渡くんなのかね?」


 やっぱりバレてる! 俺の人生終わりだ!

 ……なんて感情、表情に出す俺ではない。敢えて余裕ありげに、俺は答える。


「い、いえ。ち、ち、ちち、乳、違いますけど?」

「はぁ……バレバレだぞ、三つ雲殿。動揺しすぎだ。あと、欲望に正直すぎて、ちょっとひく」


 まったく、言われた通りだ。

 俺のヒザ、ガクガク。コエ、ブルブル。汗、だらだら。

 余裕を見せれるほどの強者じゃなくて、悔しい。


「そうか……」


 深く頷く社長。これは相当マズイ。


「では、隣にいる女性はどなただ?」


 俺の反応を他所に続ける質問。社長は、さっき凄いことをされたのに、それがなかったように振る舞っている。

 すげぇ。これが大人の余裕なのか。かっこいい……。

 だが、突然噴火した火山のように、美咲はその余裕とは対照的な怒りをあらわにした。


「やはり分からないのか! やはりお前の力は、お前の愛は、そんなものなのか!」


 剣上は、何をされても怒らないやつだと勝手に思い込み始めていたのだが、違ったらしい。

 唾を吐いて、激しく怒鳴る。


「…………愛?」


 でも、そんな怒りの中にあったそのワードに引っ掛かった。

 どういうことだ? まさか


「社長、援助交際とかしてたんですか!」

「そんなわけないだろう!」


 否定された。

 ちょっと安心。


「分からないなら教えてやろう。私の名は、美咲だ!」

「な、まさか!」


 苛立ちながら、彼女は名乗った。美咲、という名前に、社長は心当たりがあるらしい。

 驚きの表情。目を丸くしている。

 そして、その表情に自虐的ともとれるような笑みを浮かべて、美咲は深呼吸。そして


「そう、私は剣上美咲! どうして実の娘に気づけないのだ、父上よ!」


 自分のアイマスクに手をかけ、破りそうなくらいの勢いで取りながら、叫んだ。

 その瞬間、初めてちゃんと見る剣上の瞳。凛々しく、大きな瞳だ。

 そして、爽やかさすら感じてしまう、細く鋭い眉毛。

 ポニーテールが揺れる。


 ……めっちゃ美人だ。今日一番驚いた。驚きすぎて声も出ない。

 いやいや、そうじゃないか。見とれてる場合じゃない。もっと驚くべきなのは、そう。

 社長のことを、そんな超絶美少女の剣上美咲が、お父さんって言ったことだ!

 わぁ、びっくり!


「み、美咲……!」


 だけど、俺以上に驚いているのは社長だった。

 まあ、そりゃそうだよな。こんな美人の娘が、こんな残念な格好で、職場に押し掛けてきたんだもん。

 泣いていいですよ。


「どうして……?」

「こうまでしないと会うことすら出来ないじゃないか!」


 中々込み入った話のようだ。

 ……よし。帰るか。


「三つ雲殿。どこに行くつもりだ?」

「いやぁ、俺、邪魔かなって」


 だから俺は壊れたドアの上を通って家を出ようとしたが、止められてしまった。

 手を捕まれて、振り返る。

 止めろ、笑うな。その薄ら笑いみたいのを止めろ。怖いから。


「邪魔じゃない。むしろ必要だ」

「それはないだろ! それに、社長が娘に責められてるところなんて見たくないんだよ!」


 威厳ある社長のこんな無様な姿なんて……。泣ける。


「大丈夫だ、三つ雲くん。娘のことで、私が恥ずべきところは一つもないのだから」

「今さら父親面をするな、父上!」


 父親面するな父上ってどういうこと!?

 いやまあ、それにしても、ゆっくりと立ち上がる姿もかっこいいなぁ、社長。

 お世辞だけど。


「美咲、私が何をしたというんだ?」

「何をしたと言われれば、何もしていないのが問題なのだ!」

「何もしていない?」

「そうだ!」

「そんなことはないだろう。私は今日もこうやって、お前たちのために働いている」


 お前たちっていうのは、剣上家の人たちのことだろう。家族構成は知らないけど。

 あ、俺、全く話に入れてないけどここにいるからね。いぇいいぇーい。


「私たちのためだと? 笑わせるな! 私たちのことを思っているなら、どうして家に全然帰ってこないのだ!」

「それは忙しいからで……」

「私たちと仕事、どっちが大事なんだ!」


 で、でたぁ! よくある面倒くさいセリフだぁ! 娘から聞くのは中々ないけど!


「それは勿論、お前たち家族だよ」

「それなら帰ってきてくれ!」

「でもやっぱりお前たちのために働かなきゃいけない」

「それで家に戻ってこないなら意味ないだろう!」


 無限ループって怖くね?

 このままだと永遠に終わらない気がする。しょうがないなぁ。


「二人とも落ち着いてください」

「うるさい!」

「黙っていろ、三つ雲くん」

「こりゃひでえや!」


 なんで俺ここにいるんだ? やっぱり二人から邪魔者扱いされてるじゃないか。


「でもいいから俺の言うことを聞いて下さい!」


 でも、それでも引き下がらなかった。このままじゃ終わらないしな。


「話し合いをしましょうよ。このままじゃ只の怒鳴り合いだ」

「三つ雲殿……」

「……そうだな」


 ……こうやって二人を見てみると、似ている部分も確かにある気がする。

 顔の凛々しさとかが似ている。鋭い眉毛とか。

 本当に、親子なんだなぁ。

 

「まず聞いておきたいんですが、社長は家族が好きですよね?」

「当然」

「で、美咲はお父さんが好きなんだよな?」

「ああ、当たり前だ!」


 言い切った! 凄い! 

 普通、思ってもそんな風に言えないけどな。だけど、おかげでよく分かった。


「二人は、社長と家族は、ちゃんと愛情で結ばれている。だったら簡単なことです。社長はちゃんと家に帰りましょう」

「三つ雲殿!」


 一目見てすぐ分かるくらいに、美咲は喜んだ。俺が味方になってくれて嬉しいのか。

 社長の顔が険しくなったのは辛いが。


「しかしね、三つ雲くん。私にはやらなければならない仕事が山積みなんだ」

「それは家族に会うより大切ですか?」

「……いや」


 これは行けるか。

 と思ったが、そんな簡単なわけはなかった。


「だが、私は社長なんだ。家族は大切だが、会社も社員も大切だ。私が仕事をしないで帰るようなら、会社は潰れてしまう。君も仕事を失ってしまうかもしれない」

「それは、確かに……」


 現実的にはそうだよな。

 俺のような社員ならともかく、社長がいなくなったら会社は大変だ。今でこそこうして社長室にいるが、普段は日本中のみならず世界中を飛び回る忙しい人なのだ。

 オッケー分かった。


「美咲、諦めろ」

「諦めない」


 美咲は物分かりが悪いようだ。


「オッケー。なら俺も諦めないよ」


 そんな物分かりの悪さは、嫌いじゃない。

 もう少し、頑張ってみるか。


「……たまになら、帰ってもいいんじゃないんですか? 毎日夜中まで働いているわけではないですよね?」

「まあ、な。だが、家に帰ったところで、落ち着ける時間はない。寝て起きたらすぐ出かけなくては」

「でもその少しだけでも!」

「駄目だ。そんな簡単な話ではないのだよ。ただ、そうだな。休みが取れたらできるだけ帰るように努力しよう。それでいいか?」


 俺ではなく、美咲に、その視線は向かっていた。


「……嫌だ。もっと私は父上と会いたい! ……父上は違うのか?」

「違くないさ。だけど、もう分かっただろう? そう簡単には会えない。私には、守らねばならないものがあるのだから」


 重みのある言葉だ。守らねばならないもの、か。

 でも、一番守らなきゃならない家族を傷つけてもなぁ……。わざわざそのためだけに、めちゃくちゃなことをやって来た家族を……。


「さあ、そろそろ帰りなさい。三つ雲くんを連れてね」

「あ、ちょっと待ってください」

「何だね?」


 すごく、馬鹿みたいなことを思いついたんだけど、いいかな。


「美咲とか、美咲の家族から、会いに来たらいいんじゃないですか?」

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