#3

 雲一つない夜空には綺麗な月が浮かぶ。

 月明かりだけで街灯の明かりをまかなえると思えるほど外は明るい。

 家の自室から月を見上げて、フミハルは嘆息する。

 不安と、喜びとが合併した心持でなんだか落ち着かない表情を浮かべる。

 課題の一万字レポートをシオリに約束した通りに秒(あっという間に)で終わらせ、月光の下テラスに出て本を開いた。自室の明かりを背に本をめくる。

 時刻は夜の十一時を回っている。それでも夏場の今はまだ暑いくらいだ。そんな中、蝉は日中ほどではないが鳴き続けている。いったいどこにそんな元気があるのだろう。それとも七日の短い命を、その瞬間を賢明に生きていると休んでいる暇もないと言う事なのか。そもそも蝉はひと月程度は生きる。一週間の短き命と言うのは飼育が難しいということに端を発した俗説である。それに蝉は幼虫の時は地中で数年という長い時間を過ごす。昆虫としては短命どころか長命だ。

 つまりこの夏の風物詩と言っても過言ではないBGMは、数年の準備期間を経て生まれているのだ。そのように考えるとこのBGMもおつに思える。

 心地好い風にページをめくられてしまわぬように本を押さえる。

 風が落ち着くのを待って、読み進める。


 『――誰かを好きになることに理由なんていらない。そんなものを説明できる人が居るのであれば、その人は本当の意味では相手のことを愛しているとは言えない。

 そしてまた、愛とは人を盲目にする。自分がいとも簡単に消し去られ、新たな自分に再構築される。それなのに自分ではその変化に気付くことも無い。

 相手の些細な一挙手一投足に心をかき乱され、知らず知らずのうちに相手を目で追ってしまっている。特に用もないのに呼び止めてみては、他愛ない会話を楽しむ。けれども用件などないからすぐに話は尽きて沈黙が訪れる。その度に強引に話を切り出しては、再び沈黙が訪れるその時までひたすら喋る。そんなことを繰り返して、一向に関係性が進展しないまま時は流れてあなたはわたしから離れて行く。

 あなたの隣にはわたし以外の誰かが立っていて、わたしよりも軽薄そうなその人を連れて、あなたはわたしの前に姿を見せる。

 そして一言。

「付き合ってるんだ」

 「そうなんだ、お似合い」と心にもない言葉を並べて二人を祝福するのだ。

 今でもあなたのことが好きなわたしは、これから先の人生どうすればいいのだろう。わたしの心に芽生えた淡い恋心を残したあなたは、満面の笑みで「またね」と再会を匂わす言葉を口にする。

 だから私は、あなたの言葉に歌うように優しく答える。

「さようなら」と。――……』


 パタンと本を閉じたフミハルは、自室にある置時計を確認する。

 時計の針は二時と三時のちょうど中間にあった。読書を始めて三時間半が経過していたが、フミハルの体感では小一時間くらいの感覚であった。これが世に言うゾーンか。初めての読書ゾーン突入を果たした読書ビギナーのフミハルは、自身の時間感覚と実際に経過した時間との差異を埋めるのに時間を要した。

 感覚と現実の差異――二時間を飲み込み、再びまるの月を見上げる。

 一時間前にそこにあったはずの月は、大きくその位置を西に移していた。

 読書など今までしたことの無かったフミハルが集中できたのは、本(物語ストーリー)の内容も関係していたのだろう。

 純愛の讃歌というタイトルに相応しい、一人の少女が恋をして愛を知るという純愛ストーリーだった。最後に想い人と結ばれない展開というのは胸がモヤモヤする。フィクションだとわかっているのに、遣る瀬ない気持ちが芽生えてしまう。きっとそれは主人公に自己を投影してしまっているからだ。男女という性別の違いはあれど、想い人に対して一歩が踏み出せない。そんな自分と、本の中の彼女とが重なってしまう。物語の中の彼女は想い人に想いを告げることなく、その恋に幕を下ろした。

 フミハルは彼女のようにならないために、今できることに全力で取り組む。

 たとえそれが、無駄な足掻きと言われようとも、何もせずに公開するよりはマシだ。お疲れ様会を開いてくれると言うシオリの言葉は、冗談として受け取るのが正しいのだろう。大学附属の図書館は、大学の夏休みと同時に長期間の休館に入ってしまう。そうなれば、図書館以外では逢うことの無い、シオリと連絡をとる手段は無い。大学に連絡先を問い合わせたところで、個人情報保護だとかプライバシーだので門前払いになるのは目に見えていた。

 だからこそ早急に課題を終わらせる必要があった。シオリは本気で無かったとしても約束は約束だ。きちんと課題をこなした以上むげに断ることはばかられるだろう。さらに、嬉々としてお疲れ様会の話をすれば、より断りづらくなること請け合いだ。

 自分でもひどい人間だと思う。相手の善意に漬け込む形で事を運ぼうとしているのだから。けれどもそうする他ないのだ。これまでの十九年間の人生で、恋愛などと言う青春イベントが、フミハルに到来したことは無かった。なまじ中途半端に人生経験があるが故に初々しさというものが欠如し、何が何でもこの恋を成就させたいという渇望がフミハルを突き動かす。垂涎すいぜんの的であるシオリを手に入れるためならばどんなこともいとわない。

 色恋沙汰にここまで真剣に向き合い、悩み、葛藤していることを初々しさと呼ぶのであれば、フミハルは初々しい初恋の真最中ということになる。折角の初恋なのだから打算的な恋よりも感情的に――情熱的な恋がしたい。

 シオリ相手にそんな恋ができるのかは不明だが、理想の一つや二つあってもいいだろう。

 

 入学から四か月。

 シオリを見ていてわかったことは二つ。

 まず一つ目。めちゃくちゃ美人。テレビに出ているタレントなんか目じゃない。だからこそフミハルは一目惚れをしたわけだが、それが一時の気の迷いなどではなかったことがこの四か月でよくわかった。

 二つ目は、完全なインドア体質だということ。本好きなのだから、どちらかと言えばインドア派であろうことは予測していた。しかしシオリのインドア体質はその予想の遙か上をいった。

 休日は何をしているんですか? などというお見合いの席での常套句じょうとうくばりの質問をぶつけてみた。

 するとシオリは「読書」と答えた。他にはと尋ねてもみたが、逡巡した後に「やっぱり読書」と答えた。他には、と尋ねたのだが、質問の回答としては不十分である。質問を追加した意味がまるでない。

 しいて収獲があったとすれば、彼女が本のことしか頭にない人間――完全なインドア派――本の虫だということがわかったくらいか。

 だからこそ、シオリの方から誘ってくれたこの機会を逃すわけにはかなかった。

 インドア派の彼女のことだ、夏休み期間に入ってしまえば家から一歩も出ずに、山積みの本に囲まれた部屋で、一日中読書を嗜んで過ごすに違いない。あくまでフミハルの想像にすぎないのだが、当たらずも遠からずと言ったところであろうことは普段のシオリを見ていればわかる。

 毎日勤務中だというのにカウンターの下で本を広げている。だからよく本を借りに来た学生が気づいてもらえず、声を掛けようかとカウンターを窺う学生は多い。だからフミハルを始めとする図書館の常連はあえて館内に足音を響かせる。

 意図してうるさくすることは図書館という静寂を求められる場所では好まれない――マナー違反だ。だが、そうしなければ気づいてもらえない。それに声を掛けると暗に仕事をしてくださいと言っているようで申し訳ない気持ちになる。それはフミハルがシオリに対して好意を抱いているから、余計にそのように感じるのかもしれないが……。兎も角、そんなインドア派のシオリとお出かけする機会など、超激レアなケースなのだ。

 このチャンスは逃すわけにはいかない。故に明日は勝負の日だ。有無を言わさぬ押しでお疲れ様会の開催の確約をとりつける。

 

「ちょっと! あんたいつまで起きてるの! さっさと寝なさい!!」


 母からお叱りを受けたフミハルは渋々床に就いた。

 夢の中でシオリから色よい返事をもらい、気分よくフミハルが目覚めた時には、すでに部活帰りの高校生たちが帰路につき始めていた。

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