#2

 蝉時雨を浴びながら、またひとり学生が図書館にやってきた。学内の奥まった場所にあることもあり、日頃学生の足が図書館に向くことはなかなかない。

 そんな状況の図書館の数少ない常連。棚本フミハルだ。


「あ、棚本くん。元気?」

「ダメです。レポートの提出に追われて、この一週間はあまり寝れてません」

「そっか、レポート大変だよね。分かる」


 力無くうなだれるフミハルに、シオリは厳しい現実を――大学の厳しさを教える。


「棚本くん、一年生ってことは……おぎちゃん先生の講義取ってる?」

「荻野先生の講義ですか? 取ってますよ、一年前期の必修ですから」

「期末レポート書かされたでしょ」

「書きましたよ。よくわからない哲学の講義を踏まえての一万字レポート。なんなんすかあれ。バカなんですかあの人?」

「バカではないと思うよ。東大の院卒業だし」

「だからなんすかね、あの人いちいち理屈ぽくて話聞きづらいです」

「でも一万字レポートの恐怖はこれから」


 眉をひそめたフミハルに、荻野教授の恐ろしさを伝える。

 かつてシオリも体験した恐怖。シオリはそれが理由でレポートを毛嫌いすることになった。卒論を書いているときに運悪く、教授のレポートの課題も提出され、半泣きでパソコンのキーボードを叩いた。それが去年の話。

 いまだに学内で顔を合わせると、表情が引き攣る。

 軽いトラウマだ。

 

「S評価以外は追加で、夏休みのレポート課題が出るから覚悟しといた方がいい」

「マジで……終わった」


 この世の終わりという表情を浮かべて、ボソボソと覇気のない声を漏らす。

 ちょっと可哀相に思う。しかし、たった今話した内容は全て事実。確実にフミハルに訪れるであろう未来だ。

 ――ピロン♪

 電子音が図書館に響いた。

 

「あ、すいません」


 フミハルは頭を下げると上着、ズボンと自分のポケットを探る。

 あれ? おかしいな、と首を傾げながら、ようやく上着の内ポケットからスマホを取り出す。

 げっ!? と苦い顔をして、


「荻野先生からです」


 そう言って、スマホの画面をシオリに向けた。

 保護シートに守られた液晶画面には「前期 哲学論レポート追加課題についての連絡」と件名にあった。

 真面目な教授らしい文面だった。電化製品の説明書きのように、文字が液晶画面を黒く塗り潰していた。

 追加課題を始めるにあたって、まずはこの長文を読まなくてはならないのだ。

 ご愁傷様。シオリは心の中で、フミハルに手を合わせた。


「頑張って」


 両手を胸の前に持ってきて、拳を握った。

 私にできることがあったら協力するから、と慰めてみる。とは言え、こんな慰めごときでは、一万字レポートの絶望を打ち払うことなど出来ないことは、シオリ自身も身をもって知っている。

 

「ありがとうございます!!」


 あれ? そうでもない? 何だかものすごく元気になっているような気がする。シオリは改めて考える。

 もしかしてS評価をもらって課題回避したのかと。


「棚本くん。もしかして追加課題回避した?」

「え? 全然ダメでしたよ。B評価でした」


 じゃあなんでフミハルは、こんなにも嬉しそうに笑っているのだろう。

 シオリは、いくら考えても答えにたどり着かなかった。

 「あ、そういえば……」と思い出したといった様子で、フミハルはシオリに尋ねる。


「昔読んだ小説なんですけど、タイトルとか全くわかんないんですけど、探せますか?」

「作者も分からない?」

「すいません。何にもわかんないです。俺、小説とか全然読まないんで。人生で始めて自分の金出して買った小説が『純愛の讃歌』なんで」

「入学式の日に買った本」

「そうです。シオリさんと出会った記念に買いました」


 白い歯を見せて笑うフミハルに、「ありがと」と言葉を返す。

 すると申し訳なさそうに、まだ読み終えていないことを詫びた。

 気にしなくていいとシオリが微笑むと、でも……と言いよどむ。

 本を読むペースには個人差がある。読むのが速い人もいれば、遅い人もいる。遅いというのは短所ではない。じっくり読んでいると思えば、速く読み終える人よりも一つの物語を長く楽しんでいる、燃費のいい読書と言える。

 それにフミハルは大学に入ってから読書を始めた読書ビギナーだ。焦る必要はない。


「自分のペースで読めばいい。私も、読書家の中じゃ読むの遅い方だし」

「そうなんですか?」

「うーん……たぶん」

「たぶん、なんですね」

「読書って基本的に一人でするものだから。誰かと比べたことない」


 シオリは、一日一冊ペースで本を消費している。だいたい一冊を二時間程度で読破する。速読は出来ないが、集中力を極限まで高めることで、擬似速読(シオリ命名)を可能にする。

 一体何を言っているんだ、と思われる方もいるだろうから説明しておく。

 スポーツ選手なんかが集中力を極限まで高めたときに、能力の全てを引き出せるような状態をゾーンと呼ぶが、その読書版だと考えてもらえばいい。

 目茶苦茶な論理を展開してしまった。ともかく読書とは集中力を要するのだ。そんな読書を初心者のフミハルが行おうと思えば、身体が読書に順応するまでそれなりの時間が必要だろう。


 という主旨の話をすると、


「すいません。俺そこまで真剣に読書してなかったです」


 しょんぼりと肩を落としてフミハルが言う。

 生半可な気持ちで読書をするな、と叱ったとでも思ったのだろうか?

 そんなつもりは、これっぽっちもなかったのだが……

 これ以上怖がらせる必要もないので、話を戻す。


「それで、昔に読んだっていう本の話だけど」

「あ、はい」


 少し強引な気もしたが、フミハルの纏っていた空気が和らいだように感じた。微笑を浮かべるフミハルを見て、ほっと胸を撫で下ろす。

 

「詳しい話聞かせてくれる?」

「いいですけど……さっきも言ったように、覚えてることってほとんどないんですよね……」

「何でもいいからその本のこと教えて。その本のジャンルとか、ハードカバーか文庫本か、本のことじゃなくても、いつ頃読んだとか、何でもいいから」


 顎に手を当て、うーんと唸る。オーギュスト・ロダン作のブロンズ像、《考える人》とフミハルを重ねる。

 頭を悩ませる様子をカウンター越しに眺める。

 可愛いかも。

 そんな感想を抱きながら、そんなことを口に出したら大学一年生の男子としては、嫌がる(嬉しくない)であろうことに気がつき口をつぐんだ。

 はたと手を叩き、フミハルが整理しながらその本について語る。


「確か……その本を読んだのは小学生の頃ですね。低学年か中学年くらいだったと思います。他には……文庫ではなかったですね。小学生だったとはいえ文庫本を抱えたりはしないですよね。その本を学校の図書館では読みきる事が出来なくて借りたんですよ。その日は雨が降っていて抱えて走って家に帰ったんです」

「小学生だったらランドセルがあると思うけど、ランドセルには入れなかったの?」


 いやー、と首に手をまわして、少し恥ずかしそうに俯いて言った。


「子どもってチャンバラごっことか好きじゃないですか。俺もまあ、人並みにそういう事して遊んだんですよ。ランドセルでバリアとかってやってたら壊れちゃって、その頃は教科書を机に突っ込んだまま下校してました」

「人並みに遊んだだけでランドセルが壊れるとは思えないんだけど……まあ、いいわ。深くは追求しないで上げる」

「助かります」


 頬を上気させ、大きく息を吐いたフミハルがペコッと頭を下げた。

 

「あと、挿絵があったと思います。挿絵見て読もうと思ったので」

「成程、挿絵……」

「ジャンルはなんていえばいいのかな? スポーツもの? って言うんですか。サッカーが題材になってたかな?」

「……うん。大体分かった」

「ほんとですか!? でも俺、図書館探しましたけどなかったですよ。絶対に大学附属図書館ここの方が小学校の図書室より本あるのに」

「そうね。大学付属図書館ここには、その本置いてないかも」

 

 シオリは自分の仮説に自信を覗かせる。

 

「勿体つけないで教えてくださいよ。シオリさん」

「ダメ。ここでその本が分かったら棚本くんはどうするの?」

「そりゃもちろん読みますよ! 気になって課題なんて手につかないですからね」


 ふう、と嘆息たんそくして、シオリは子どもに言い聞かせるように淡々と告げた――窘めた。


「棚本くん。それは現実逃避。試験前に部屋の模様替えをするとか、掃除を始めるみたいなヤツ。そういう人は目的を達せられない。棚本くんの目的は何?」

「その本を読むこと」

「違う。レポートの課題を提出することが一番重要。本はその次。だから棚本くんがレポート課題提出したら探している本教えてあげる」


 お預けを食らったフミハルは、承服しかねるという様子で、レポート作成に必要な文献を探しに書棚に向かった。その背には不服だという空気を背負っていた。ガラス越しにでも響き渡る蝉の大合唱が、フミハルを励ます応援歌のように感じられた。当人――フミハルはその応援を煙たがって窓から離れた。それでもなお流れ込む大応援に集中をかき乱されていた。喜怒哀楽がすぐに顔に出る。

 

「棚本くん」


 手招きしてシオリはフミハルを呼んだ。

 花の蜜に誘われる蜂のように、フミハルはシオリに引き寄せられる。

 そこには引力が存在し、その引力は絶大な力を持っていた。

 シオリが手招きするよりも早いか、フミハルの身体はすでにシオリの方を向いており、手招きと同時に一歩目を踏み出していた。


「一杯どう? 麦茶だけど」

「いただきます」


 フミハルは、カウンター越しにシオリの手から、水滴の付いたキンキンに冷えたグラスを受け取る。内緒だからねとシオリが、人差し指を口元に持ってゆくと「うす」と短く答える。その時のフミハルの顔が、また一段と赤みを帯びていて、シオリは微笑ましく思った。


「そうだ、棚本くん。レポートだけど、この本参考に書いてみたらどうかな?」


 そう言ってシオリは四冊の本を見せる。『ストア派のパラドックス』、『饗宴きょうえん』、『デカルト著作集』、『スピノザと表現の問題』の四冊。

 フミハルの為に見繕った本だ。

 フミハルは感謝を口にしながら、マルクス・トゥッリウス・キケロ著作の『ストア派のパラドックス』を選び、受け取った。

 シオリは本のバーコードリーダーを読み取り、パソコンにデータを入力。貸出カードを本にはさみ、手渡す。

 軽く手と手が触れる。フミハルは、ポッと高揚し、耳まで赤くなっている。


「ありがとうございます」

「その本、荻野先生が好きなんだよね」

「あ、そうなんですか……」


 風船のように萎んでゆくフミハルの感情を面白がって、シオリは課題が終わったらお疲れ様会をしようかと提案してみる。

 マジですか!? と目を見開いたフミハルに、うんと頷く。

 秒で終わらせてきます。そう言い残して、蝉の大合唱の中を駆け足で突っ切っていった。


 フミハルの姿が見えなくなると、はぁー、と肺にある酸素を一気に吐き出した。ため息を一つ吐くとその分の幸せが逃げてしまう。一体誰がそんなことを言い始めたのだろう。もしそれが事実だとすれば、シオリは今年の春から僅か四ヶ月余で、不幸のどん底にまで落ちていることだろう。

 彼と逢う度に零れるため息は……いや、あえて口にする必要はないだろう。

 それよりも、フミハルが次に来る時までに彼が昔読んだと言う本を見つけ出しておかなくてはならい。シオリの仮説通りであれば、大学附属図書館ここにはない。

 四か月遅れの入学祝いに、その本をプレゼントしてあげよう。

 そんなことを思っていると、学生が一人本を借りに来た。

 パソコンで処理をして本を渡す。やっぱりこの時期は哲学書がよく借りられる。それはシオリが学生だった頃から変わらない。

 シオリがフミハルに薦めた残りの三冊も、その日の内に全て貸し出された。


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