2/
ぴぴぴぴ、ぴぴぴぴ。
何かの音がした。
「――――あ」
声が漏れて、紡は自分が目を覚ましたことに気づいた。
「ここ、は……」
しかし、頭の中は混乱していた。
「確か、僕は……有栖川に……」
どくり、と心臓が跳ねる。紡はそれを確かめるように、自分の胸に手を置いた。
そこには――当たり前だが――何もない。
心臓の鼓動が、掌へと一定のリズムで伝わってくるだけだ。
「あれも、夢……だった、のか?」
そう呟いてみるが、あの時感じた気持ちの悪さや、口の中に満ちた鉄の味はリアルに残っている。
「――う」
思い出し、再び込み上げてきた気持ちの悪さに、紡は体を起こして背を丸める。
ばさり、と何かが落ちた。
「あ……」
視界に捉えて、息を呑む。それは、寝る前まで読んでいた古びたハードカバーの本だ。不気味な緊張が、紡の体を駆け巡っている。
「う、あ……」
ぴぴぴぴ、と鳴り続ける目覚まし時計を、恐る恐る紡は止めた。確かめるのが怖い。しかし、確かめないではいられない。そして、その表示を見た。
『20xx/5/10(Mon) 07:15』
「な、なんで……」
紡はベッドから降りると、ふらつく足取りで階下へと降りる。
階段を一歩、また一歩と降りていく。嗅ぎ慣れた朝の匂いと、ベーコンの焼ける香りが、漂ってくる。
紡は息を呑んで、リビングの扉を開けた。
どん、と激しい爆発音が響いた。
「『スリーミニッツ』……」
テレビの中では、ぼろぼろになったヒーローが悪役と戦っている。それは、つい最近に見たアニメの一シーンだ。
「……」
紡は詠の隣に置かれていたリモコンを取ると、チャンネルを変える。
「何で変えるのぉ!? 見てたのぉ! 今いいところだったのにっ!」
詠が吼える。鼓膜を越えて脳に直接響いてくる。だが、それを全て無視する。
ややあって、切り替えた番組から流れてきたのは事故のニュースだ
『――速報が入りました。七時四〇分ごろ、調川市において、スクールバスと乗用車が衝突する事故が発生した模様です。詳しい原因は調査中ですが、余所見をしていた乗用車の運転手が、ハンドル操作を誤り、バスへ衝突してしまったのではないかと思われます。この事故で、スクールバスに乗っていた高校生三名がかすり傷を負うなどの負傷、事故を起こした乗用車の運転手は骨折するなどの怪我を負った様子です』
「わ、これ近所じゃない? 駅前だよね? 怖いなぁ。って、あ、お兄ぃこのニュース見たかったの? もしかして友達から連絡貰ったとか?」
詠の言葉は耳に入ってこなかった。
「嘘、だろ……」
崩れるように、紡はその場にへたり込んだ。
――五月十日の朝に戻っている。
既視感などではない。これは、間違えようのない現実だ。
「何が起きてるんだ……」
その疑問に答える者は、誰もいなかった。
◇
「お兄ぃ! かなちゃん待ってるよー!」
二度目、いや、もしかすればそれ以上聞いているかもしれない言葉を聞いて、ようやく紡は動き出した。
部屋に戻り、準備も適当に学生鞄を掴むと、そのまま家を出る。
「つむくん、おはよっ」
「……」
「……つむくん?」
「ああ、おはよう」
全てが変わっていない。繰り返されている。
そう考えると、紡はどうすればいいか分からなくなってきていた。
「……行こうか」
「うんっ」
とは言え、奏にそれを言っても仕方の無いことだ。紡はなるべく面に出さないように、奏の少し前を歩いて行く。
「ねね、つむくん。今日の朝、見た?」
「……『スリーミニッツ』、か」
「そーう! 今日のお話、すっごい、かぁっこよかったよねーっ!」
「ああ、そうだな」
おざなりに答えてしまう。だけど、奏はそれを気にすることも無く、今日の『スリーミニッツ』がどれほど良かったのかを熱く語っていた。本当なら、機嫌を悪くさせないよう、相槌でも打っておきたいところだったが、そんな余裕はなかった。
◇
気が付けば、紡は学校に到着していた。
どれくらいの時間が過ぎたのか、全く分からない。奏の話も途中から完全に耳に入っていなかった。
「つむくん、どしたの?」
下駄箱から上履きを取り出していると、奏が心配そうに言ってきた。
「……いや、なんでもないよ」
「そなの? なんだか、ずっと考え事してたみたいだから」
見透かされていたようだ、と申し訳なくなる。それでも、言い訳をする気力もなかった。思考は未だまとまりをみせてくれない。てんでバラバラの、ぐちゃぐちゃだ。
「大丈夫だよ」
紡はそれだけを言って、惰性に流されるようにして教室へと向かった。
教室は喧騒に満ちていた。勿論、それは記憶にあるものと違わない。
自分の席に座ろうとして、紡は止まった。
(――待て。このままでいいのか?)
ようやく、思考がブレーキをかけ始める。その理由は分かり切っている。
視界の端に、その影が見えた。紡は、一瞬だけ迷って、そちらをゆっくりと見た。
窓側の席。澄んだ空色を背景に本を読む少女がいた。
そして、有栖川鎮と目が合った。
「う、うわあっ!」
がた、と取り落とした学生鞄が音を立てた。周囲の視線が紡へと向けられる。
「つむくん、どしたの?」
「い、いや……」
駆け寄ってきた奏に目を向けることすらできず、紡は視線を泳がせた。
どうする。どうすればいい?
あれが繰り返されるというのなら、僕はもう一度――
血の気がさぁと引いていく。喉を熱いものが駆け上がってくる。吐きそうだ。
「つむくん、顔色悪いよ……?」
周囲もそれで状況を把握していったのだろう、クラスメイト達もざわめき立ち、ぽつぽつと声をかけてくれる。しかし紡は応えることができない。混乱とフラッシュバックする記憶が胃の中をかき混ぜている。
「どうかしたのかしら」
「あ、鎮ちゃん」
びくり、と身体が強張る。クラスメイトが口々に話す中、その声だけが妙に大きく聞こえた。
「なんだか、つむくんが具合悪いみたいで」
「そう。なら、保健室に行った方がいいわ」
「そだよね。ね、つむくん、保健室行こ」
「あ……」
奏で腕を掴まれ、支えられる。
「私も手伝いましょうか?」
ぞわ、と。寒気がした。
鎮の表情は、一見心配しているそれだ。だが、紡にはその裏を探ってしまう。知って、体験してしまった以上は仕方のないことだ。
「だ、大丈夫」
どうにか絞り出した声で、奏と鎮を制する。
「でも、ごめん。具合悪い、から、今日は帰る」
それが精一杯だった。これ以上はこの場所に――有栖川鎮の前にいたくはなかった。
鞄を引っ手繰るように掴み、足早に教室を飛び出す。下駄箱に戻ると、急いでローファーに履き替える。
周りにはまだ、登校してきたばかりの生徒が多かった。その流れに逆らって、ぶつかることもお構いなしに足早に歩いていく。
一分一秒が惜しい。どうして学校なんかに来たのか。今更になって後悔する。
同じことが繰り返されているのなら、屋上でのことも繰り返されることになる。屋上に行かなければいいのかもしれないが、鎮が紡を狙っているとするのなら、呼び出しを断られた時点で別の何かに変わるだけだ。
しかし、もう鎮には見つかってしまっている。それに、目の前で逃げたとなれば、余計に怪しまれてしまっているだろう。
なら、とにかく今は逃げるしかない。それから、鎮が学校にいる間に、警察か何かに助けを求めるしかない。
学校の門を抜け、ついさっき上ってきたばかりの坂を下って行く。生徒達が不思議そうな視線を向けてくるが、もうどうでもいい。
だが、坂を下りきったところで、紡は恐怖した。
「神船君、人の顔を見て逃げ出すだなんて、失礼よ」
「あ、有栖川……」
なぜ。どうして。
学校への入り口はこの坂しかないはずだ。
「う、うわああああああっ!」
思考するよりも早く、紡は駆け出していた。
怖い。
恐ろしい。
身体を動かしていたのは、生物的な本能だ。
数分もしないうちに、登校する生徒の流れを抜け出た。それでも、足は止まらない。
――どこか、どこかに隠れないと。
どのような理由かは分からないが、鎮は紡より早く学校を抜け、先回りしていた。逃げても追いつかれてしまうなら、もう隠れるしかない。
路面電車の走る表通りには出ず、紡はその反対側の山手に向かう。この街は山の斜面に多くの家が所狭しと並んでいる。入り組んだ路地に入ってしまえば、早々に見つからないはず。
そろそろ時刻は九時に差し掛かっている頃である。通学や通勤のピークを終えた住宅街は人気が少なかった。その静けさの中、滑り込むように紡は路地裏へ入っていく。鉄柵の上を歩いていた黒猫が、にゃあと鳴いて影に消えていく。
じとり、と日蔭の路地は寒気を感じさせた。地元の人間でも滅多に通らない、ほとんど隙間としか言いようのない路地を紡は進んでいく。人一人がどうにか通れる程度。左右は民家の塀や、鉄柵で阻まれている。
このまま、物陰に隠れて――
「どこまで逃げるのかしら」
路地の角を曲がった時、降り注いだ冷たい声に、足が止まった。
心臓が破裂しそうに暴れている。呼吸は思うようにできない。膝が震えてくる。
それを確かめることなんてできやしない。
見てしまえば、受け入れることに繋がってしまいそうだから――
「見ぃつけた」
ふわり、と。
視界の上空から、何かが下りてきた。
「あ、え……?」
それが、鎮の髪だと理解し、紡は思わず見上げてしまう。そして、息が止まりそうになる。そこには、建物の影に重なるようにして、有栖川鎮の姿があった。彼女はまるでサーカスの空中ブランコのような体勢で、箒に膝を引っかけ逆さになって、紡を観察している。
くるり、とその長い髪を風に流して箒へ腰を掛けるように整えながら、鎮は緩やかに、重力を無視して、空から降りてくる。その姿は、まるで空想の世界の魔女そのものだ。鎮は、そのまま苔むした路地のアスファルトへ足を下ろし、冷たく尋ねる。
「どうして、逃げたのかしら」
答えることなんてできやしない。目の前の異常に、冷静な思考はどこかへと消え去ってしまっている。
「まぁ、逃げるという事は、私の目的も知っている、ということだと思うのだけど」
「ひっ」
「あら、そんなに怖がらなくてもいいじゃない。私だって怖いのよ」
鎮の吐息がすぐ目の前で聞こえた。
「でも、貴方が継いだのなら。全ては仕方の無い事」
「ぼ、ぼ……」
「持っているのでしょう? あの、本を」
「僕を、殺す、のか?」
すぅ、と。鎮の目の色が変わる。
「そうね。きっと私はそうするしかないから」
言って、鎮はスカートのポケットからナイフを取り出した。きらりと、暗がりの中でその刃が煌めく。
「う、うわああっ!」
思い出されるのは、屋上での出来事。
――あれは、僕の胸に突き立っていたものだ。
記憶が、咄嗟に、震える足で後退さらせた。
がしゃり、と背中で錆びついた鉄柵が音を立てる。
鎮は冷めた目で、黙ってそれを見ている。
二人の間には、数歩分のスペースが生まれていた。横を見れば、来た道が続いている。
――逃げないといけない。
そう、思った瞬間。
「――
鎮が、小さく何かを呟いた。
瞬間、鎮の手の中にあったナイフが、宙に浮き、まるで矢のように放たれる。
「ひ」
咄嗟に身を屈める。があん、と鉄の合わさる音が背後で響いた。
「……避けないで欲しかったわ」
紡がそれを無意識にかわしたと理解したのは、その言葉を聞いてからだった。
でも、何も変わらない。足は恐怖に動いてくれない。
「次は、避けられないようにするわ」
鎮は一歩下がると、横へと手を伸ばし、そこに在るものに触れる。
そして、もう一度「
「う……嘘、だろ……」
土煙が上がる。その光景に、腰が抜けた。
路地の壁を構築するブロック塀が、大きな音を立てて崩壊する。それとは対照に、宙に浮かび上がるのは、錆びついた鉄の柵。
まるで櫛か、フォークだ。
ぎ、ぎ、ぎ、と鉄柵が音を立て、柵はその向きと形を変えると、鎮の上空で静止する。
からからと、砕けたコンクリートが零れ落ちていた。その姿は、その歪に曲がった切っ先を、紡へと狙いを定めているようにしか、見えない。
「神船君、私はどうしても願いを叶えたいの」
それは、以前にも聞いた言葉。
「それを貴方に手伝って欲しいの」
だから、その次に放たれる言葉も、知っている。
「私の初めてを、貰ってくれないかしら」
それは合図だ。紡へ向かい、鉄柵が突進してくる。紡は避けることも叶わない。そのまま、背後のブロック塀へ縫い付けられるようにして、鳩尾を貫かれる。
「あ、がっ、ああっ!」
激痛に、声が漏れる。それでも、その鉄柵の突進は止まらない。じりじりと、錆びた鉄の棒が肉や骨、内臓を削りながら突き進んでいく。そして――
「ごめんなさい」
その言葉と共に、柵が体を通り抜けた。そして、紡の体は両断された。
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