摩天楼のサンタクロース

風希理帆

摩天楼のサンタクロース

 手の中の懐中時計が、ビル灯りを反射して淡く輝く。ため息をついてエミリアは、眼下に広がるマンハッタンの夜景を眺めた。右手にはハドソン川とジョー・ディマジオハイウェイの灯りが、左手には煌めくミッドタウンの街灯りが見える。


 あのどれもに例えば、シャネルのオードトワレのようなドラマがあるのだろう。むっとするほど濃密で、時には傍に置くのも嫌になるような――そこまで考えたところでエミリアは、うんざりとして窓から顔を背けた。懐中時計を机の上に置き、椅子に腰掛け直して資料の束をめくる。


 ホテルマンダリン・オリエンタルの四十階は、高い方とは言えないが視界を遮るものは少ない。ここからは景色が見えすぎてしまう。時には余計な考えが浮かんでしまうほどに。エミリアはもう一度椅子に腰掛け直し、会は二週間後に迫っているのだと自分に言い聞かせた。


 年明けにサンフランシスコで開かれる新年会は、起業家たちがそれぞれの年次計画に対して、丁々発止意見を述べ合う場になるはずだった。決して計画に穴があってはならないし、つけ込む隙を与えてはならない。この世界では気を緩めた者が背後を取られ、実力のない者が引きずり降ろされるのだとエミリアは知っていた。万年筆を持つ手に力がこもる。止めどなく溢れ出る文字が、瞬く間に紙面を埋めていく。


 たとえ十四歳であろうと何であろうと、シリコンバレーには十代で、世界を股にかけて稼ぐ人間もいる。一切の甘えは許されない。それはエミリアがかの父母の元に生まれた時からの運命、いや宿命のようなものだった。


 エミリアの母・クラリスは、巨大シンクタンクに勤める科学者だった。その手腕に目を付けた父・イアンにヘッドハンティングされ、母は父の会社に所属することになる。その内二人は親密な関係になってゆき、母は浮名を流し続ける父の三人目の妻となった。……つくづく馬鹿な女だとエミリアは思う。頭脳ぐらいしか取り柄がないくせに、分かりきった結末に気づかなかったのだろうか。


 案の定、父の派手な異性交遊に疲れ切った母は、落ち目になっていた研究内容と共に捨てられた。その時エミリアは四才。IQ値が突出して高かったエミリアを、父は利用できると考えたらしい。エミリアの親権は父のものになり、専属講師による教育が施された。今に至るまで母には一度も会っていない。


 ……会いたいとも思わない。懐中時計一つを形見だと置き残して、去って行った女などには。顔をしかめてエミリアは、時計を机の引き出しに放り込んだ。ふいに卓上時計を見ると、すでに十五分も過ぎている。……いけない、今日は集中力が欠如している。そういえばさっき見たニューヨークの街も、どこか浮き足立っていたような気がした。


 そこまで考えてエミリアはようやく、今日がクリスマスであることに思い至った。しかし十四歳になった今では、そんなことはどうでもよいことだったし、そもそも幼い頃から浮かれ騒ぐたちではない。ルームサービスでも頼んでリフレッシュしようかと思ったとき、ピンポンとチャイムの鳴る音がした。


 首を傾げてエミリアは、立ってドアまで歩いて行った。U字ロックを外さないままノブを回すと、わずかに開いたドアの隙間から、「失礼します」と慇懃に礼をするボーイが見える。「エミリア・ガルブレイス様にお届け物です」その手にはブルーの包装紙に金のリボンで、綺麗にラッピングされた小箱があった。


「届け物……? どなたから?」


「中で説明いたしますので、開けていただいてもよろしいでしょうか」


 訝し気な顔をしてエミリアは、U字ロックを外してドアを開けた。部屋に入って来たボーイの男は長身で、やや細身だが鍛えられた肉体をしている。瞳の色はヤドリギのような緑色で、その美しさに目を奪われていると、「こちらがお届け物になります」と言って、ボーイが小箱を差し出してきた。


「差出人はクラリス・スノーウェル様です」


 ボーイが滑らかに言った言葉を聞いて、エミリアは危うく箱を取り落としそうになった。「マ……ママ⁉ どうしてママが、」言いかけてはっと口を噤む。不意を突かれて、あの女をママと呼んでしまったことが腹立たしかった。「……中身は何なの?」平静を装い睨みつけても、「開けてみては?」気にしない様子で彼は言う。


 渋々エミリアが包装を解くと、中にはベルベットの小箱が入っていた。蓋を開けてエミリアは息を呑む。中身はオメガの腕時計だった。 ボディは一点の曇りもない銀色の輝きを放ち、文字盤にはダイヤの粒が規則正しく並んでいる。恐らく価格にして一万ドルは下らないだろう。


「お手紙も預かっています」


 ボーイが懐から白い封筒を出して、呆然としているエミリアの手の上に乗せる。恐る恐るエミリアがそれを開封すると、中の便せんには細かな文字が並んでいた。


「最愛なる娘・エミリアへ   


 これまで何度も手紙を送りましたが、おそらくあなたの元に届く前に、お父さんが送り返しているのでしょう。全て私の元に戻ってきています。でも今度こそ……今度こそ届けたくて。


 ミリィ、元気にしてる? 寒いけど風邪なんてひいていない?……だめね、もっと言うことはあるでしょうに、いざとなるとありきたりな言葉しか出てこない。何度も書いては送り返されるうちに、言葉をすっかり使い果たしてしまったのかしら。


 十年前に私が精神を病んで、お父さんの元を去らざるを得なくなったとき、私はあなたのことだけが気がかりでした。その頃はもう、お父さんに意見できるような状態ではなかったから、子どもには母親が必要です、かつて私がそうであったようにと言うことすらできなかった。あの時私にあなたを扶養できたのかといったら、それも疑問があるのだけど、そんなことは関係なかった。あなたを私と同じ境遇にだけはしたくなかった。


でも、思いは叶わず病状は悪化し、まともに文字が書けるようになるまで、およそ五年もかかってしまいました。……こんなにも愚かで最低な母親を、あなたはもう母親だとも思っていないかもしれないわね。当然です。母親だなんて思わなくてもいいわ。ただ、これだけは受け取って欲しいの。


 別れる前に渡した懐中時計が、もう動かなくなっているかもしれないと思って。今回あなたにプレゼントするのは、再開した研究事業がようやく実り、初めて手にしたお金で買った時計です。きっと素敵なレディになっているであろうあなたに、この時計が少しでも相応しい輝きを添えるよう、そしてたとえ恨まれようと憎まれようと、一生をかけてあなたを遠くから見守り、愛し続ける誓いの証としてこの時計を送ります。……気にくわなかったら捨てても構いません。それでも私はあなたを想っています。ずっとずっとあなたの味方です。


最上の愛を込めて クラリス」


「……持って帰ってよ、こんなもの」


「気に食わないのであれば、そこに捨てては?」


 ボーイが屑かごを指さして言った言葉に、エミリアはかっとなって顔を上げた。何てことを言うボーイだとは思ったが、確かにその通りだからである。そう、気に食わなければ自分で捨てればいいのだ。そうすることが出来ないのは――その先を暗に言われている気がして、エミリアは手紙と箱をボーイに投げつけた。


「……何よ、今さら! 察しの通り私はこの女のこと、母親だなんて思ってもいないわ! 父と思う人もいない! 私に両親はいないのよ! 今までずっと一人で生きてきたし、これからも一人で生きていく! 味方なんていらない! こんなもの……!」


 エミリアは右足を振り上げ、床に落ちた時計を踏み砕こうとした。足が時計に触れたと思った瞬間、ぐにゃりとおかしな感触が伝わる。一秒遅れてエミリアは慌てた。ボーイが素早くその場に屈んで、時計を掌で守っていたのだった。


「な、何して……!」


 慌ててエミリアが足を除けると、ボーイがそれまでにない視線を向けてきて、エミリアは動きを止めた。いや、凍り付いたといった方がいいかもしれない。それは抜き身の短刀ダガーのような、真剣で鋭い眼差しだった。永遠とも思えるような数秒の後、ボーイがふっと瞳の力を抜く。


「……スノーウェル様が私共の所に来られた時、笑顔の素敵な女性だと思いました。しかし、顔や手に刻まれた皺からは、これまでのご苦労が伝わってくるようでした。一度は全てを失った女性が、この時計を買うことができるようになるまで、どれほどの心痛に見舞われたことか……受け取ってあげてはいかがですか。親だと思えなければそれでもいい。一人の人間として受け取って頂きたいのです」


「そんな……全てを失ったって、それはあの人の自業自得じゃない。あんな男に引っかかるのが悪いのよ。そのせいで私がどれだけ……それを今さらこんな……」


「男女のことは失礼ですが、まだ良くはお分かりにならないかもしれません。しかしそう思うのであれば、いつか素敵な伴侶を手に入れて見返してやればいい。心からの贈り物を壊すなどしては、かのエミリア嬢が随分と小さい人間に見えてしまいます」


「……マンダリン・オリエンタルのボーイは、いつから客に無礼なことを言うようになったの?」


「私共は常に現状に留まらず、サービスの向上に努めております」


 答えにならない答えが返ってきて、エミリアは何と言ったらいいのか分からなくなった。「……無礼ついでに。素直になってはいかがです?」ゆっくりと立ち上がりながら、ボーイが更に言いつのる。


「案外あなたも渡された時計を、今でも大切に持っているのではないですか? それだけではない。あなたは母親から授かった頭脳そのものを、心の支えにしているのかもしれない。……本当は会いたかった。寂しかった。そういう気持ちもあるのではないですか」 


 エミリアの顔から血の気が引いた。「……どうしてそう思うの?」辛うじてポーカーフェイスを保っても、「私は昔から、第六感が鋭いようで」また煙に巻くような答えが返ってくる。まさか、時計を出しっぱなしにしていたのか。卓上を振り返りたくても振り返ることができない。吸いこまれるような緑色の瞳から、エミリアは目が逸らせないでいた。


「きっと、ガルブレイス様の心を乱すのも助けるのも、両方スノーウェル様なのですね。極東にはこんな諺があるそうです。『禍福は糾える縄の如し』……親子とは因果なものですね。どんなに恨んでも憎んでもガルブレイス様の半身は、スノーウェル様の遺伝子で出来ているのだから」


 言葉が継げなくなったエミリアの前で、ボーイが時計を拾い上げて埃を払った。それをベルベットの箱の中に入れ直し、手紙と共にエミリアの手にそっと乗せる。「とりあえず私は、職務を果たしましたので失礼いたします」そう言って出て行こうとするボーイを、「……ねえ」何故かエミリアは呼び止めていた。


「私、もう十四歳なのよ。もう、プレゼントで無邪気に喜ぶ年じゃないわ……」


「『まだ』十四歳でしょう。十年間貰っていなかったことを考えれば、個人的には喜び方が足りないぐらいだと思いますよ。……それでは」


 最後に少しだけ微笑んで、ボーイは静かに部屋を出て行った。エミリアが掌の中を見ると、そこには時計入りの箱がある。反射的にまたどこかに投げつけたくなって――エミリアは寸前で腕を止め、ベッドにそれを放り投げた。ふらふらと歩いて行き、自らも羽毛布団に体を沈める。


 ボーイの発言は怖いぐらいに当たっていた。会社の登記を済ませた日に、エミリアが母譲りの頭脳に祈った事、今回だけと自分に言い訳して、母の本をこっそり参考にしたこと……どうしてあの男には分かったのだろう? 胸の中心が軋んで音を立てる。母は憎い。どうしようもなく憎い。自分をこんな場所に置いた母を、今までどうしても許せないでいた。


 しかし、自分を遺伝子という形で助け、自分が心の支えにしているのもまた母なのだ。胸の奥から感情の奔流が溢れてきて、エミリアの瞳から涙が零れ落ちた。シーツの上に小さな海ができるまで、エミリアは涙を流し続けた。




☆ ☆ ☆




 ふるりと肩を震わせてエミリアは、眠りの淵から意識を取り戻した。ベッドサイドの時計を見るともう、日付が変わろうとする時刻だった。


 まず、何も出来ていないことを悔やんだが、久々に泣いたせいか頭がすっきりとしている。少し首を横に傾けると、そこにはあのベルベットの箱があった。ふいに憎たらしいような思いが湧き上がってきて、中指でそれを思い切り弾く。当分は机の中に入れっぱなしにしていても、罰は当たらないだろうと思った。


 ベッドから立ち上がり、大きく伸びをする。頭蓋に血が巡り始めたせいか、エミリアの頭にふと疑問が浮かんだ。……どうしてクラリスは今日、自分がこのホテルにいることを知っていたのだろう? 


 考えてみればおかしい。普通ならサンフランシスコにいると考えるはずだ。イアンから情報を聞き出せるわけがないし、もちろん会社から聞き出せるわけもない。すると誰かが調べたことになるが、一体誰が……。高速回転し始めたエミリアの頭が、更なる疑問点を弾き出していく。


 よくよく考えてみれば、さっきのボーイはどこかおかしかった。ボーイの態度としては不適切すぎるし、なぜ、あそこまで自分のことを知っているのだろう。……そもそも彼は、本当にボーイだったのだろうか? 困惑し始めたエミリアが、視線をぐるりと室内に巡らすと、ドアの横のボードの上に、カードのようなものが置いてあるのが目に留まった。



☆ ☆ ☆



 バックヤードで制服のレプリカを鞄に詰め込むと、ボーイの男は客の振りをしてホテルを出た。レプリカ制作班の苦労を知っているので、あっけなく終わってしまう仕事が少しだけ心憎い。


 ガルブレイス社のサイバーセキュリティを突破し、エミリア嬢のPCをハッキングするのも大変な仕事だった。どうしても見てしまうことになる文書の中身からは、十四歳のエミリアの本音が窺い知れるのも辛かった。


 しかし、苦労はしておくほどいいのだ。この一瞬に全てがかかっているのだから。男はそう自分に言い聞かせて、早歩きでセントラルパーク沿いの道に出た。人気がない辺りまで来た所で、懐からiPhoneを出して電話をかける。コール音が数回鳴り響いた後、『……遅いわよ!』受話口から女性の叱責が飛んできた。


「すまない。少し時間がかかってしまって」


『キースあなた、これが最後の仕事じゃなかったらどうしてたの? クリスマスの時間は有限なのよ。一人の子どもに時間はかけられない。可哀そうかもしれないけれど……』


 これってジレンマよね。私だって悔しいわ。調子を落とした声にキースは笑う。彼女――ナタリーはいつだってこうだ。


「安心してくれ。限られた時間の中でベストは尽したつもりだ」


『エミリア嬢と何かあったの?』


「まあ、少しな……。彼女が身に纏う雰囲気は、一分の隙もない大人のそれだった。ああいう大人の顔をした子どもを見るのは辛い。この仕事を始めてから随分、そんな子に出会った気がする」


『依頼が来るような子は大半がそうなのよ。自分を取り囲む環境に訳があると、早く大人にならなきゃって思うのよね。……思い出しちゃうな、昔の自分の事』


「スノーウェル様も手紙の中で、君と同じことを言っていたよ」


『因果は巡るってやつかしらね。悲しいなあ。私も……』 


 さらにナタリーが語ろうとするのを、「……今日はクリスマスだぞ」とキースは押し止めた。


「全ての仕事が終わったら、みんなでパーティーをやるんだろ? エバが超特大ケーキを作るって、今年も張り切ってたじゃないか。……そうだ、来年はスノーウェル様自身を届けてもいいんじゃないか? 例えばクレオパトラのように、絨毯で包んでいくなんてどうだ?」


 キースの冗談にナタリーが笑い声をあげた。『そうね。それもいいかもしれないわね。じゃ、帰社を待ってるわ』その言葉を最後に電話が切れる。キースも通話停止ボタンを押し、少しの間消えた画面を眺めていたが、やがてiPhoneを懐に入れて歩いていった。


 彼の懐からiPhoneと引き換えに、カードのようなものがひらりと落ちる。そこには金色の文字で、こう書かれていた。


「〝訳ありお手紙、お荷物届けます〟でお馴染の《Secret Sending Service》。当社は十二月には《Secret Santa Claus Service》と名前を変えて、あなただけのサンタクロースになります。


 行方知れずの方、数十年会っていない方、訳があって直接伺えない方……。そんな方に贈り物をしたい貴方に代り、私共がサンタクロースになって、迅速・丁寧にプレゼントを届けます。皆様方に等しく聖夜の奇跡が起こりますよう、心を込めて……。Merry Cristmas.」

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