第15話 自己紹介

 少女が部屋から出ると下に降りる階段と廊下があった。


「リビングはどちらにあるのでしょう……」


 廊下にはいくつかのドアがあるが、どこからも人の気配は感じられない。少女は人の気配をたどって階段を下りた。


 一つ下の階にも廊下と複数のドアがあり、階段はまだ下に続いていた。しかし少女はドアの一つから人の気配を感じて、そこへと歩いていった。そのまま躊躇うことなくドアノブを握ると、静かにドアを開けた。


「あ、おはよう。よく眠れた?」


 リビングに入った少女を出迎えたのは、エプロン姿で満面の笑顔で食器を洗っているオーブだった。


「ちょうどクッキーが焼けたんだ。一緒に食べよう」


 オーブの説明通り焼きたてのクッキーの匂いがリビングに広がっている。

 少女は懐かしい匂いに思わず頷いた。母が生きていた頃は父がおやつに手作りクッキーを作っていてくれたのだが、隠れ里に住むようになってからは食べるどころか見かけることもなかった。


「じゃあ、そこに椅子に座って。飲み物は紅茶がいい?それとも珈琲?あ、あとミルクもあるぞ」


「え、あ、どれでもいいです」


「じゃあ朱羅と同じのにするぞ。朱羅は紅茶でいいだろ?」


 ソファーに座って本を読んでいた青年が答える。


「あぁ」


「もうすぐ準備が出来るから、おまえもこっちに座れよ」


 オーブの指示に青年が無言で本を閉じてテーブルの椅子に腰かける。そこにオーブがテキパキとクッキーがのった皿やティーセットを並べていく。


 その手際の良さに少女が見惚れているとオーブが手招きをした。


「ほら、さっさとその椅子に座って。クッキーは焼きたてが美味いぞ」


「は、はい」


 少女が勧められるまま椅子に座ると、そこは青年の前の席だった。


「あの……先ほどは、はしたない格好で失礼しました」


 そう言って頭を下げる少女に青年が首を傾げる。


「はしたない?」


「あ、いえ。気にされていないのなら、いいです」


 少女が少しだけ顔を赤くして首を横に振る。


「そうか。それより……」


 青年が言いかけたところでリビングのドアが勢いよく開いた。リビングにいた全員がドアに注目すると、そこには怒りに燃えている風真がいた。


「朱羅!どういうことだ!?」


「なんのことだ?」


 心当たりがないという風に首を傾げる青年に、風真が足音を荒くして詰め寄る。


「突然、人の腹を殴って気絶させといて、なんのことだ?は、ないだろ!」


「あぁ」


 淡々と頷く青年に風真が掴みかかる。


「では、納得がいく理由を聞かせてもらおうか?」


「あ、あの兄様、落ち着いて下さい」


 いつのまにか二人の間に来ていた少女が声をかける。そこで風真は初めて少女がリビングにいたことに気が付いた。


「紫依!?いつ目が覚めたんだい?」


 風真は怒っていたことも忘れて黒い瞳を丸くしたまま少女を見る。


「先ほどです」


「調子が悪いところはない?痛いところとか、怪我とか、ないかい?」


「はい。大丈夫です」


 平然と答えた少女に風真が安心したように微笑む。


「良かった。よく眠れたかい?」


「はい」


「起きた時、混乱しただろ。ごめんな、そばにいなくて」


「確かに驚きましたが、この方が教えて下さいましたので大丈夫でした」


 そう言って少女が青年を示す。そこで青年のことを思い出した風真は怒りよりも先に疑問が出てきた。


「……朱羅がそばにいたのに起きなかったのかい?」


「はい」


「……まあ、あれだけのことがあったからね。疲れていたんだろう」


 風真が一人で納得していると、四人分のカップに紅茶を注いだオーブがエプロンを外しながら訊ねた。


「朱羅がそばにいて起きなかったことが、そんなに不思議なことなのか?」


「あぁ、まぁね。紫依は僕や父様以外の人間が寝室に入ると、すぐに目を覚ますんだ」


 風真の言葉に少女が思い出したように頷いた。


「そういえば、そうですね。起きた時に誰かがいるというのは久しぶりでしたので、驚いて思わず攻撃をするところでした」


 無表情で淡々と話す少女にオーブが苦笑いをする。


「だから風真は誰も部屋に入れようとしなかったのか。まあ、とにかく二人とも座れよ。いろいろ聞きたいこととかあるだろうし」


 オーブが納得したように頷きながら立っている二人に椅子を勧める。その言葉に風真は青年を睨みながら何か言いたそうな表情をしたが、少女が服の裾を引っ張った。


「兄様、座られないのですか?」


 小首を傾げたため肩から黒髪が流れ落ちる。大きな深紅の瞳が下から見上げてくる姿は、無表情でも可愛らしい。


「……わかった」


 風真が渋々椅子に座ると、オーブも椅子に座ってその場を仕切った。


「よし。じゃあ、まずは自己紹介からしよう。オレの名前はオーブ・クレンリッジ。オーブって呼んでくれ。で、こいつは朱羅・アクディルだ。朱羅って呼んでやってくれ」


 オーブが勝手に紹介をして呼び方を決めたが、朱羅は気にした様子なく紅茶に口をつけている。


 その様子を横目で見ながら風真はオーブに言った。


「僕のときは先に名乗れ、って言ったのにな。いきなり自分から名乗るのは、どういう風の吹き回しだい?」


 風真の嫌味にオーブが口元だけで笑う。


「女性に先に名乗らせるなんて無粋だろ。それで、名前は?」


 オーブに問われて少女が隣に視線を向ける。風真はそれだけで少女の意思をくみ取り頷いた。


 少女は名前を言って良いのか無言で訊ねたのだが、風真があっさりと許可したので素直に本名を名乗った。


「私は紫依・シェアード・龍神と申します。紫依(しい)と呼んで下さい」


「うん、じゃあ紫依。何か聞きたい事ある?」


 オーブの質問に紫依が風真を見たあと、朱羅に視線を向けた。


「先ほど兄様がそちらの朱羅さんに気絶させられたとお聞きしましたが、どうしてそのようなことをされたのですか?」


「あ、そこ?」


 予想外の質問にオーブが乾いた笑いを浮かべて朱羅を見た。朱羅は飲んでいた紅茶を置くと紫依に視線を向けた。


「今にも倒れそうなのに風真が休まなかったからだ」


「それは兄様が悪いです」


 簡潔すぎる説明で納得した紫依が隣に座る風真に抗議の視線を送る。紫依からの思わぬ意見に風真が慌てて首を横に振った。


「いや、僕は大丈夫だって言ったんだよ。紫依が起きるまでは、そばに付いていられるって」


「兄様、無理はいけません。ちゃんとお休みになられていれば、朱羅さんは兄様を気絶させなかったでしょう。非は休まれなかった兄様にあります」


 紫依が完全に朱羅の意見を肯定してしまったので風真が慌てて訂正を入れる。


「わ、わかった。休まなかったことは僕が悪い。だけど、なにも気絶させることはないだろ。他にも方法はあったはずだ」


「余計な痛みが残らないように、みぞおちを殴ったつもりだが……なら次は頸椎に手刀を入れることにしよう」


 勝手に自己完結した朱羅に風真が吠える。


「違う、そこじゃない!気絶以外の選択肢はないのか!?」


「あるのか?」


「一つもないのか!?」


 あまりの選択肢の狭さに風真がガックリと肩を落とす。そこに紫依が追い打ちをかけた。


「他に方法があるのですか?」


「紫依!?」


 あまりの衝撃発言に風真が慌てて顔を上げる。そんな三人の様子にオーブが笑いを堪えながら会話に入った。


「風真が頑固だから説得とか他の選択肢がないだけだろ。ま、自業自得だな」


「自業自得ではない!と、いうかオーブ!わかって言っているだろ!」


 オーブが楽しそうに口角を上げてクッキーを口の中に放り込んだ。


「ま、諦めろ。この二人はこういうところの感覚は同じみたいだ」


「……兄なのに」


 両手を握りしめて悔しそうにテーブルに突っ伏した風真に対して、紫依は不思議そうに首を傾げた。

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