第2話 禊

 太陽が沈み、月が顔を出してから数時間が経った頃。秋の虫の音が心地よく響き、月明かりに照らされた木々が鮮やかに紅葉している。たまに風のいたずらに乗って葉が舞い落ち、茶色の地面に色を添えていく。

 人工の照明がない獣道を、月と星の光を頼りに一人の少女がうつむいたまま歩いていた。秋特有の少し冷たく乾燥していた風が湿気を帯びてくる。そのことに気づきながらも少女は足を止めることなく目的地に向かって歩き続けた。


 少しして轟音が耳に届くようになり、水しぶきも飛んでくるようになった。そこで、ようやく少女は顔を上げて前を見た。

 少女の前には岩肌がむき出しとなった断崖絶壁と、遥か上空から永遠と降り注いでくる白滝。そして、並々と水をたたえた滝つぼがある。

 滝の水は落ちてくる高さゆえに細かい粒子となって色を白へと変えているが、滝つぼは水深が深いため暗緑色となっている。


 巫女装束を身にまとった少女は、滝つぼを囲んでいる大岩の一つに上ると履物を脱いだ。それから、そのまま迷うことなく滝つぼに足を踏み入れる。

 普通なら、そのまま足が水に浸かるはずなのだが、少女の足は水に沈むことなく水面に浮いた。そして少女は今までの道と同じように水の上を歩いていった。


 暗闇と同じ色をした髪は腰元で揺れ、長い睫に縁どられた大きな瞳は深紅に輝いている。陶磁器のように肌は白く、小さな顔と長い手足は表情のない顔と相まって人形のようにも見える。


 少女は轟音をたてて落ちてくる白滝を前にしても表情を表すことはなかった。大量の水をもろともせず白滝の中心に鎮座している岩の上に立つと、そのまま深紅の瞳を閉じて胸の前で両手を合わせた。


 何も考えず、ただ心を無にする。自身からあふれそうになっている力を鎮めることだけに集中する。


「明日には……明日には兄様が来られる。それまでは……」


 そう少女が決意した瞬間、脳裏に草原の映像が現れた。


 地平線まで広がる草原に青年が立っていた。白髪に白い肌に白い服。全てが白一色で染まった姿は天使のように汚れなく凛としている。


 青年は少女を見ると微笑みを浮かべて手を伸ばしてきた。


「探しましたよ」


 青年の表情は天使のように優しそうなのだが、少女の足は自然と後ろに下がっていた。本能的に何かが危険だと告げている。


 後ずさる少女に青年は微笑んだまま和やかに言った。


「怖がらなくて大丈夫ですよ。痛くないように殺してあげますから」


 穏やかな表情ゆえに、言葉の意味が重く圧し掛かる。少女は逃げようとしたが体が固まったように動かなかった。


 青年がいつの間にか右手に持っていた大剣を振り上げる。


「……いや」


 少女がかろうじて声を出すが、小さすぎて風にかき消される。大剣が太陽の光を弾いて女の子の目前に迫った時、黒髪の女性が飛び出してきた。


「母様!」


 少女が目を見開いて手を伸ばす。しかし手の先に触れるものは何もなく、全身を押しつぶすように滝の水が降り注いでいた。


「……また、この夢を……」


 少女が呆然と呟くと同時に下に落ちていた水が逆流をした。滝つぼから水龍が出現したように周囲にある水が月に向かって伸びていく。


「ち、力が!?」


 この現象の原因が自分であることを理解した少女は、慌てて胸の前で両手を合わせて集中した。広がった力を自身の中に収めるように少しずつ押さえていく。

 上昇していた水は重力に従って滝つぼの中に戻ったが、少女の表情はどこか苦しそうだった。


「……くっ」


 ずっと無表情だった少女が何かをこらえるように唇をかむ。そこに一陣の風が吹いて少女を包んだ。


 自分を囲む気配に少女は目を開けて、どうにか声を出した。


「土地……神……様?」


 少女の声に応えるように妙齢の女性が水面に現れた。ゆるいウェーブがかかった長い髪に背後が透けて見える半透明の姿は、人外の存在であることを示している。

 服装は前後と腰を幅が広い布で覆っただけの簡単な作りのもので、下はゆったりとしたズボンを履いている。あとは珊瑚で作られた勾玉が付いた首飾りを下げている。


 土地神と呼ばれた女性は口角を上げると少女の胸を指さした。


『少し我慢せいよ』


 土地神の言葉が終わると同時に、収まりきれていなかった少女の力が無理やり体の中に押し込まれた。


「ぐっ……」


 少女が胸を押さえたまま岩の上に膝をつく。その上から容赦なく大量の水が降ってきたが、それを土地神が手で薙ぎ払い、少女だけを滝つぼの淵に移動させた。


『そなたの力も強うなったのう……』


 感心しながらも、疲労感が漂う声に少女が胸を押さえたまま顔を上げる。


「ありがとうございます。土地神様のおかげで力を抑えることができました」


『ふむ。だが、次に力が暴走したら、わらわでも抑えられぬからの。心しておれ』


「……はい。明日には兄様が来られます。そうすれば今より強い結界を施しますので大丈夫です」


『そうか……わらわは、しばし姿を消す。今ので、この里を囲んでいる結界が解けかけたからの。もう一度、結界を張り直してくる』


 土地神の言葉に少女が無表情のまま、うつむいた。


「すみません、私が未熟なために……」


『気にするな。そなたは自身の身を案じておればよい。では、さらばじゃ』


「あ、はい。ありがとうございました」


 慌てて顔を上げた少女を見て土地神は微笑むと背中を向けた。


『今の騒ぎで結界に針ほどの穴が開いたが、すぐに閉じたから大丈夫であろう……』


 夜空に溶けながら呟いた土地神の声は少女の耳には届かなかった。

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