奇妙

 シダは揺れる心地よい旅の中でうたた寝をしていた。深くかぶった帽子を風が貫通することはなく、青さを増してきた光を黒いジャケットに受け静かに座っていた。いた首元に水滴を感じたのはそう間もないときだった。光は確かに暖かく、風の寒さと中和された気温だったところを、見えない雨雲からの雨が襲い始めていた。シダは風に冷やされた手の感触を肩に3度受けた。子供たちは踊りまわってはいなかった。心配そうな上目遣いで、シダの隣で立ったまま見つめてくる。子供たちの服装は濡れていた。びしょびしょに濡れて今にも溶けそうで、凍えた体を震わせずシダの肩にその軽い手を乗せていた。

 シダはその小さな体をしばらく見つめた。ああ、そうか。納得したように彼は鞄を手に持ち、立ち上がった。振り返ると子供たちはバスの床に溶け去っていた。代わりにいたのは後ろの席に乗っていた女性で、彼女も数粒の水滴を受け移動しようと立ち上がった。シダは先に階段を降りた。

 バスの一階にはほどほどに人が乗っていたが、七列目にやっと一列まるまる人のいない空間を見つけた。シダは左側を選んだ。いつも左側、進行方向でいうと右側の窓席にシダは座る。コツコツと階段から大きな音がして、その音はシダのいる七列目までやってきた。二階にいた女性はシダとは反対側の窓の傍に座った。シダは怪訝な顔をしてその女性を見た。緑と白のジャケットを羽織り、青いジーンズ生地のズボンを履いていた。靴は彼の角度からは見えなかったが、先ほどの音からしてヒールを履いているのだろう。背の高い、女性に見えた。この女性は今までどのような人生を歩んできたのだろう。どうしてこの時間に私と同じ方向へ同じバスで同じ列に座って向かっているのだろう。

 シダは運命など知らない男だった。あのコーヒーを薦めてきた彼女も最初は奇妙な境遇で出会ったものだ。特別な買い物をするためにわざわざ人の多い都市部へ行き、道に迷った末に人気ひとけの少ないベンチに座ったときのことだ。どんな買い物をしたのだろうか、今では覚えていないが何か大事な、誕生日プレゼントか何かだったのだろう。すると雨が降ってきて女性が同じベンチに座りに来たのだ。ああ、あの時も雨だったとは。女性は雨のように降ってくるのだろうか。そこにいた女性が、初対面であるはずなのに、シダに話しかけてきた――お兄さん、この地域の方でないでしょう? 彼は確かに都市部に行くには馴染まない格好をしていた。シダに比べてこの女性はこの近所に住んでいて、きっといつもデパートにたむろしているのだろうな、と彼は思った。ぼそぼそと返事をするシダのどこが気に入ったか分からないが、その女性はそれからシダに親しくなった。

 現在、隣――といっても、隣の隣の隣だが、シダにとっては十分近い場所であった――に座っている女性も、あの人のように一人でに話しかけてくるのだろうか。シダは彼女から興味を逸らすことができなかった。女性が不思議そうにシダのほうへ振り返った。

「何か、ご用?」

「いえ、奇妙だなあと思ったもので」

「確かにこの時間に南町に向かう私のような女性は少ないかもしれませんね」彼女は微笑んだ。

 シダはその時、きっとこの女性は何度も南町に向かったことがあるのだろうな、と察した。そして、しばらく沈黙した。

「あの、そちらは何をしに南町へ?」

 ここで分からないと言おうとしたが、常連であろうこの女性に負ける気がしてシダは思いとどまった。

「南動物園に……昔飼っていたペットがおりまして、その、挨拶に……久しぶりに」

「あらそうなんですか、奇遇ですね。」

「ええ、まあ」

 シダは恥ずかしくなり窓の外を向いた。バスはもう南町に入っていて、人が歩く姿が見られた。二階に座っていた時よりも道は早く後ろへ去っていく。しかし一瞬に見えた道路わきの小道は写真のようにはっきりと彼の脳に残った。小道にはパンの入った重そうな紙袋を抱えた、背中の曲がった女性がいた。背が低くおぼつかない足取りでよろけ、袋の中のりんごを落とした。暗い小道の中に見えた赤いカーディガンが印象的だった。

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