先生

 携帯電話のボタンを六度押し、シダは先生に朝の出来事と彼の思いを伝えようと思った。黒い物体から発信音が三度鳴ろうとしたとき、かすれた声が奥から聞こえてきた。先生は久々のシダからの連絡に軽く戸惑った様子だった。

「もしもし、先生。シダです。僕は朝、大きな決断をしました。そして大きな失敗を起こしました。それにより小さな決断をしました」

「それはまた大きな朝だね」

「先生、僕は、コーヒーを飲めない人間だと言ったのを、覚えていますか。先生がココアを一口くれた、二学期の期末の前日のことです」

「覚えているよ」

「先生、あのココアの味もまだ覚えているのですか」

「覚えているよ」

「先生はまだあの銘柄のものを飲んでいるのでしょうか」

「今朝何があったんだい。飲んでいるよ」

「僕はコーヒーを飲みました。コップに並々と真っ黒なコーヒーを入れました。変わった人間に買わされたコーヒーを。変わった飲み物を飲んだものだと思いました。また先生のココアが飲みたいです」

「それはそれは」

 先生はシダの話を落ち着いて聞いていた。周りに人がいれば怪しげに思われるような会話も、先生にとっては慣れたもので、何とも思ってはいなかった。

「先生、あのココアの美しく甘い色を覚えていますか。あの寒い朝、吐息が白く染まるようにまるで缶の吐息のように白い空気が頬に触れたあの感覚を覚えていますか。僕はココアがやっぱり好きなんです。先生。朝、僕が飲んだものは何だったのでしょう」

「コーヒーを飲んだのではなかったのか」

「僕はとても気分が悪くなったのです。聞こえますか、この風が鳴る音。僕がどこにいるか、お分かりですか」

「聞こえるけど、早朝からお出かけかね」

「僕はしばらく出かけるのです。先生、また先生のところへも行きたいと僕は思っています。ただこの舌に残る苦みが消えてから、先生に会いに行きます。そのために連絡したかったのです」

「それは大層だね。わたしは待っているよ、シダ君」

 バスは田舎道へ入った。電話は切れた。

 シダが向かおうとしている場所は南町の、虎が有名な動物園周りの地域だった。シダの左側に、三つ後ろに下がった席に一人の女性が座っていた。他には手前の席にしがみつくように動かないままでいる虫が一匹と、シダが連れてきた服装についた三匹の白く小さい蛙柄だけであった。白い蛙はしかし、一匹だけ半分茶色く染まっており、シダの嫌いなな匂いがした。

 一向に見えてこない南町の代わりに見えているのは使われていなさそうな古い家と農場、そしてその他ほとんどを占める橙色の空間だけであった。

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