シダの旅

坂町 小竹

旅のはじまり

旅の動機

 コーヒーの香りが、洋梨の色をした朝だった。自分で淹れたことも忘れて暗い部屋を覗く。人は起きていなかった。起きているはずがない。いないのだから。暗いところには、幽霊がいそうで怖くなるものだが、今のシダは、電気を点ける気分にはならなかった。子供の声が聞こえる。彼の周りで動き回る子供はうるさかった。

 目が悪い。そう思ってシダは辺りに手を伸ばし、眼鏡を探した。近くにいた子供の手が当たる。その子供はシダに気付かずに遠くへ行った。なくても、見えるのだろうか。シダの目の周りは少し腫れていた。昨晩、泣いていた気がする。よろよろと壁に沿ってリビングへ向かう。動き回っていた子供たちは、壁の奥へと消えた。

 一日を始めるためにコーヒーが必要な人種とは、違った。むしろコーヒーを飲むのは何年ぶりだろう、とシダは黒い液体に映る自身の姿を見ながら思った。何年ぶりとは大げさだ、ひと月前にあの場所で飲んだだろう。しかし彼の推測はあながち間違っていなかった。ひと月前に一口飲んだより前は、彼がこの家に越してくる前、何度かほぼミルク状態のコーヒーを飲んだだけであった。

 しかしシダは先月コーヒーショップへ連れられ、彼女というのか、友人というのか、さては親戚なのか分からない親しい女性に薦められたのだ。買えばわかる、と。シダはその場でコーヒーを一袋、少量のものを買おうとしたが、彼女が嫌がったので、中と書かれた有名なコーヒーを買ってしまったのだ。髪の毛がネズミにかじられてハゲてしまいそうな思いをしながら。

 シダは頭頂部に神経をやった。手袋の先だけ出ているような、お腹に聴診器を付けられているような、一部だけをつつく妙な寒さが感じられた。一か月間、ほぼ毎日起きてはコーヒーを飲もうか飲まずか一時間悩み、マグカップにお湯を入れては黒インキを入れ、花瓶から花粉を摘み出し混ぜ、そうしてシンクに液体を流すということをしていた。結果シダはハゲた。

 コップいっぱいに入れてしまった、なんて阿保なことをしたのだ。シダはミルクを入れたかった。ミルクを入れるためにコーヒーを4/5ほど捨ててやりたかった。目の前が煙で包まれ息が苦しかった。つばでも混ぜれば薄まるものかと、シダは口いっぱいに唾液を溜め、マグカップに口を近づけた。一滴もないコーヒーは喉を通るほどではなく、すべて口の中で溶けてしまった。

 飲めた、と満足したシダはマグカップを持ったまま立ち上がり、シンクへ移動した。まだカップいっぱいに詰められた黒い液体は彼の大きな歩幅に合わせて揺れ、床にこぼれ、パジャマを染めた。

 シダは気分転換に外へ出ようと着替えた。片手に持った携帯電話から、彼氏というのか、先生というのか、さては父親なのか分からない頼れる男性へ連絡しようとしていた。気分転換のお供に、仕事もすればいいか、と仕事の用意もした。シダは家を出てバスを待ち、少しして緑色をした乗り物が彼の前で止まった。

「ご苦労さん」

 運転手へ一言告げてシダは二階へ上がった。朝はいつもながら風が強いが、今朝はまだそこまで寒くもなかった。幸いにも家を出る前に思い出して被った帽子が、彼の頭頂部と耳を隠していた。

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