ケース 三

 言葉とも音楽と  ――  障りな音がして、振り返る。

「出たわね! 顔付き!」

 言いながら、わたしは武器を手に取った。身体の前に右手をかざせば、どこからともなく集まった赤い光が形を成し、わたしの手の中に鎌として現れる。

 刃渡りは、わたしの  ――  らいだから百五十センチメートルほど。刀身の色は黒、刃文は直刃。見た目だけなら、ただただ大きいだけの鎌である。

 が、この世の法則から逸したそれは、どこに出しても恥ずかしくない文学  ――  しの細腕一本で扱えるほどに軽く、魔力を込めれば空よりも暗い赤光を帯びて輝く、いかにも凶悪な代物だった。

 鎌を構えるわたしに対抗するように、顔付きの口が開く。口内に桃色の光が灯るのが見え、わたしはにやりと口元を歪める。

 それは、一言で表すのなら、花芯に貌のついた巨大な花だった。

 八重ピオニー咲きの、桃色のダリア。辺りに並ぶ一般的な二階建ての一軒家よりもずっと背が高く、マンションで言えば五、六階に相当する大きさだ。

 これを支える折れ曲がった茎には葉っぱがなく、また桁外れに大きな頭を支えられるような太さもなく、全体とし  ――  つ不安定な造形をしている。

 特筆すべきは花の中心、花芯についた貌だろう。何を考えているのか分からない、ありとあらゆる思考を放棄してしまったかのように呆けた顔をして、遠い空とも対するわたしとも判断のつかない方向を眺めている。

 しかし、それは顔付きらしい貌付きだった。茎の根元から花弁の先に至るまで、何もかもが常軌を逸している形状だからこそ、何とも言い得ぬ相の張り付いた貌はしっくりと当てはまるのだ。

 きゅうううううううん!!!

 光が収束したかと思えば、顔付きの口からレーザーが放たれる。真正面から小細工なし、わたしを狙った桃色の光線を、わたしは寸前で跳ねて避ける。

 どおおおおおおおん、と。

 着弾点で爆発した光が半球型に膨れ、一帯を巻き込み、消し飛ばしていく。それから逃れるようにして跳んだわたしの身体は、顔付きの背よりも高いところにあった。その跳躍力は既に、腕力と  ――  れではない。

 爆発はわたしに追いつけないが、代わりに、熱せられた空気が吹き上がってきた。煽られて身体が浮く。熱がちりちりとわたしの肌を焼く。ああ、これだ、これだ。道路が抉れ、家屋が弾け、焦げた臭いに溢れ返る。

  爆発が止むか止まないか、間髪入れず、顔付きの暗い口内に次の攻撃の予兆が光った。やつらは搦め手を用いない。サイズこそ異常だが、花を模した姿の通り、やつらは出現した場所から動くことがなかった。

 ばかの一つ覚えみたいに、ただただレーザーを撃つだけ。

 それが、やつら唯一の攻撃手段だった。直線であるだけのおもしろくもない光線だが、一撃でコンクリートの道路を粉砕し、何棟もの戸建てを一度に破壊し、その後に巨大なクレーターを成すほどの威力がある。

 直撃は命取りだ。一発でも喰らえば敗北の可能性がある。その造形が非現実的ファンタジーなら、その攻撃もとことん空想的ファンタジーで、かつ威力も常識外れファンタジーなのだ。

 中空にいるまま身体の姿勢を整え、数秒で更地となった街を眼下に、わたしは顔付きを真正面に捉える。

 きゅうううううううん!!!

 二射目。わたしは空を飛べないから、宙に吹き飛んでしまえば格好の的だ。顔付きは、その機を逃すほど甘くはない。

 故に、撃たれたと思ったら着弾している、その猛スピードの光線に対して、わたしは回避動作ではなく鎌を振り被った。

「むだむだぁ!!」

 きゃう!

 赤い刃が桃色の光線をとらえ、斬った。

 鉄でも木でも肉でもなく、光を斬る際の音は甲高く、小さな鳥の鳴き声のように心地の良いものだった。光線は、わたしの手前で四方八方に離散し、雨のようになって住宅街を襲う。一箇所に集中しない分、結果的には被害が拡散する形だ。着弾し、半球型の小さな爆発があちこちで起こって、月の表面のようにぼこぼことクレーターを成していく。

 被害総額はいかほどだろう。この間にも、本当なら何人が死んでいるか。

 しかし、わたしには関係のないことだった。どれだけ街に穴ぼこが開こうが知ったことではない。倒さなければ、“本当に”被害が出てしまう。某巨大なヒーローだって、街のど真ん中で戦っているように、巨悪を討つためならば多少の犠牲には目をつむらなくてはならないのだ。

 散らした光線によって背後で起こる多数の爆発を尻目に、わたしは深いクレーターとなった元住宅街に着地する。顔付きは既に次のレーザーを放つ準備へと入っていたが、構うことなく力一杯地面を蹴って跳ね、わたしは顔付きへの突撃を始めた。

 これは実際にそうなってみて初めて気づいた事実だったが、脚力が常識から外れてくると、人は走るよりも跳ぶ方が速く移動できるようだった。尋常ならざる脚力に見合うだけ速く走ろうとすると、脚をとてつもない速さで動かす必要が出てくるからである。そして、それはわたしには不可能だった。元文学少女の貧弱な体力のせいなのか、そもそも人間の身体の構造として無理があるのか。チーターのように四足歩行なら、あるいは実現できたのかも知れない。が、そんな空論はともかくとして、授かった脚力の性能を存分に引き出さんとすれば、跳ねる瞬間にのみ全力を込めれば良い跳躍の方が都合が良かった。

 自然、わたしの移動はチーターではなくウサギ、いやバッタのようなものになる。立ち並ぶ家屋の屋根を、屋上を跳ねて渡っていく、そういう移動方法だ。

 高低差を気にしなくて良いから、走るのに比べれば進路選択の自由度は高いが、代わりに細かい制御が効きにくい。即ち、跳んでから降りるまでの方向転換が効かない以上、その動きはどうしても直線的になりがちだ。

 代わりに、着地から跳躍時の方向転換そのものは急激に可能で、左右へ振れば返って的を絞りづらい軌跡を描ける。実際、じぐざぐに跳ぶわたしを狙った顔付きのレーザーはかすりもしない。

 これに当てようと思えば、わたしの跳ぶ方向と着地点を予測して、事前に打ち込む他にないのだ。

 が、跳ねるまでどちらに向くか分からない上、跳ねた直後にはどれだけ進むかも分からないものの予測などそう簡単にできるものではなかった。

 故に、遠隔武器レーザー近接武器サイスという構図、さながら鉄砲対日本刀じみた兵器差の上でも、わたしはやつらと対等以上に戦うことができていた。接近するまでは一方的に攻撃に曝されるが、近づいてしまえばこっちのもの。先述の通り、顔付きの攻撃方法は“レーザー”のみで、人間で言えば格闘とか、徒手空拳に当たる手段をやつらは有していないのである。

 そうして三十秒もせず、わたしは顔付きの首元……花と茎の境目へと肉薄した。やつらの死角は正面以外。首を縦にも横にも振れない顔付きの射角は、どうしたって貌の前面範囲に限られるのだ。安定した連射力と一撃の重さを得るために、取り回しを捨てざるを得ない固定砲塔の宿命。電柱よりも太い茎を前に、わたしは赤黒く輝く鎌を悠然と構えて、凪いだ。

 悲鳴はない。花についた貌の表情にも変化はない。ただ、言葉とも音楽ともつかない耳障りな音を同じ  ――  しながら、それはあからさまに不自然と分かるゆっくりとした速度で落花していく。

 わたしは、花が地に落ちるよりも前に着地して、その悪夢のような光景を眺めていた。空を隠す巨大な花。街を覆う広範の影。顔付きを倒した時はいつもそうだ。自分が死んだということを理解していそうもない呆けた貌をした化け物が、しかし未練がましく呪詛を撒き散らしながら、街を押し潰して地面に激突するのだ。

 ごーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん。

 小さな地震と、大きな衝撃音。巻き上げられた砂埃がわたしの顔を打つ。沈み行く花と貌を見ていると、勝利の快感が電気となってわたしの身体を駆け巡るのが分かった。ああ、今日も生き残ったのだ。満足感を胸に目をつぶる。戦いが終わるのは大体、その辺りのタイミングだった。

   ――  

 チャンネルの合っていないラジオから聞こえてくるノイズのような音がして、わたしは戦いから帰還する。

 息を吐きながら目を開くと、そこは、わたしが顔付きを見つけた瞬間に立っていた場所だった。つまりは、戦いの中でやつに爆破され、クレーターとなったはずの地点である。

 しかし、そんな形跡はどこにも見当たらなかった。夕日に染まる閑静な住宅街があるだけで、家は吹き飛んでいないし、地面は抉れていないし、彼方に巨大な花は突っ立っていないし、わたしの手には赤黒の鎌だってない。

 突き当たりの丁字路を横切る親子の内、小さな男の子がわたしを指さして、それを若い母親がたしなめるような素振りを取った。そそくさと、何か気まずいことでもあったかのようにわたしの前から去っていく。

 彼らは知らないのである。この街が今、わたしによって守られたということを。



「今日も、街を守ったの?」

「うん。楽勝だったよ」

「またそんなこといってやがる! このイカれねえ!!」

「何とでも言いなさい。あんたが今生きてんのも、わたしのおかげなんだから!」



 あなたは力を得るが、その力はあなたを孤独にもするでしょう。

 何かのゲームだったか、アニメだったか覚えていないが、わたしはその台詞に共感するところがあった。

 力とはつまり、超常を操る術のこと。

 皆の常識から外れ、理解を超えた先にある事象に手が届いてしまった者が、その力を振るわんとするならば、その者はたちまちに常識から爪弾きにされてしまうだろう、という意味の言葉だ。

 人は自分たちと違うものを恐れ、遠ざけようとする。

 人種や肌の色で差別が起こるのも、結局はそうした人の性質によるものだ。これが矮小化すると、いじめ問題となる。例えば、他県から転校してきた者が学級に馴染めずいじめられるようになってしまうのは、転校生の常識と転校先の常識とが食い違うから。そのきっかけはどんなにささいなものでも構わなくて、言葉の訛り、制服の着方、様々考えられるだろう。それらの小さな常識の食い違いが軋轢となり、差別意識を生み、この特定個人を輪から外そうとしていじめが起こる。

 いじめとはつまり、排斥だ。

 自分たちの常識コミュニティを守るために、これを変えかねない外の常識エネミーを排除する。それは既存の仲間を守る行為であると同時に、仲間内での結束を確かめるための儀式でもあって、コミュニティの存続のためにはある意味においては必要な行為だとも言える。故に、排斥と敵対がなくなることはなく、いろいろなレベルで起こされる。学級内では特定の個人や弱い集団が。それがなかったところで、今度は別の学級との対峙が運動会などの行事として促される。小等、中等、高等と学年がどんなに上がっても消えることのない排斥運動は、大人になり、社会に出てみても存続するというわけだ。

 子どもも大人も関係ない。

 わたしは、だからいじめというのは、人が集団で生きていく上ではどうしても必要なことなのだろうと、そう諦めて久しかった。

「それで、昨日はどんな戦いだったの?」

 お昼休み。

 四時限目と五時限目の間にある長休憩に、わたしは彼女と昼食を食べるのが日課になっていた。

 西校舎三階の端、屋上へと続く階段の踊り場を折り返し、その次の階段に腰を下ろして二人でお弁当を広げるのだ。

 残念ながら、屋上への扉は施錠されているので、これ以上先へは進めない。階段の途中にはご丁寧にも、事件現場を封鎖する際に使われているような規制線までもがかけられていた。学校校舎における屋上封鎖は全国的な風潮であり、今や何も珍しくない光景だが、実はこの、わたしが通っている学校単体で見てみても、過去には屋上からの飛び降りがあったとかなかったとか。

 規制線まで用意する厳重さの裏には、そうした事情トラウマもあるのだろう。

 わたしは、そんな重苦しい雰囲気を背に感じながら、からあげを箸にとりながら彼女の質問に答えた。

「いつもと同じ」

「楽勝だったんだ!」

「まあね。けど、簡単なのは良いんだけど、そろそろこう、違う動きをするやつが出てきても良いと思うんだよねえ」

「敵のパワーアップ。アニメじゃありがちだね」

「ところがどっこい、創作アニメじゃない。現実って地味」

「あはは。でも、わたしはミントちゃんが無事でいてくれるなら、その方が良いかな」

「な」

 卵焼きを端で半分に割りながら、彼女は何でもない様子で、そんな台詞を口にした。

「……アロエったら、また、そういうことを普通に言うんだから」

「あ、ごめん! わたし、そんなつもりじゃ……」

「あ、ああ、違うよ、違うってば、アロエ。謝らないで。こっちこそ、ごめん」

 箸を置いて慌てて頭を下げる彼女アロエに、わたしはなるだけ優しい口調を心掛けながら、おうむ返しで謝罪する。アロエは、まるで捨てられた仔犬のように、自分を拾ってくれた人間を疑うみたいに怯えた目をして、おそるおそるわたしを見上げてくるのだ。全く、この小動物みたいな仕草には敵わない。大丈夫だから、と念を押すと、彼女の表情にやっと笑顔が戻った。

 それで何となく気まずくなって、二人はしばらく、黙って自分のお弁当の中身を減らすことに注力した。かちかち、と箸と弁当箱とが触れる音ばかりがする。学校の端にあるこの秘密の場所は、四時限分の授業を終えて一時の休息を得た学生たちの喧騒とは無縁の、校舎の中にあって学校という空間からは切り離されたような、特別静かな空間だった。だから、どちらもが喋らなくなると、その沈黙が際立って強調されるように感じられる。授業中だって、結局は教師が喋っているから静かとは言い難い。テスト中も、小さな箱に敷き詰められた三十人分の生徒の筆記音がこつこつと絶え間なくあり、かえってうるさいぐらいだ。

 だから、この場所、この屋上前の階段で味わう沈黙こそが、わたしは本当の静謐なのだも思っていた。混じり気がないと居心地が悪い。だって、音を出すわたしは、静謐にとっての外敵に他ならないからだ。それを排斥しようとする沈黙の意図は、まさにいじめが平然と行われるように当然のものであって、無音が目に見えぬ圧力となりわたしを潰そうと躍起になっていく。

 追い立てられるように、わたしの箸が先を急いだ。お弁当を粗方食べ終わり、隣ではアロエのお弁当が残り三分の一を切ろうかという段になって、彼女がとうとう沈黙を破った。

「気を付けても、だめだね」

 この静けさの中でなければ聞き逃してしまったに違いないぐらい、小さな呟きだった。が、きちんと聞きつけられたところで何のことだか分からなくて、わたしだけが沈黙を保ってしまうのだった。しかし、声にはならずとも反応したことには気づいてくれたのか、アロエはそのまま話を続けた。

「分かってても止められないんだ。いけないって分かってても」

 こつ。こつ。こつ。手慰みなのか、アロエの最後の卵焼きが次々に寸断されていく。

 そこまで聞いて、わたしはようやく話の趣旨を理解した。というより、途切れた会話の前から連想して、最初からそれに気付くべきだったのだ。全く違うことを考えていたところへの不意打ちだったとはいえ、これでは思慮に欠ける。

 アロエはただ、間を置いて話を再開したに過ぎない。

「止めなくても良いと、わたしは思う」

「でも、それじゃわたしは」

「あんなやつら、気にすることないんだよ。戻りたいとも思わないでしょ?」

「まあ……それは、そうかも知れないけど」

「だから、大丈夫」

 最後に残しておいたトマトには手を付けないまま、わたしは彼女の方を向いて言葉をかけ続けた。アロエはずっと俯いたまま、もうそれ以上は細かくできないだろうというところまで細かくされた卵焼きをなおも切ろうとしながら、わたしの話をじっと聞いていた。

 聞きながら、何かを考えていたようだ。彼女はわたしのように薄情ではないから、それまでの流れを無視して全く別のことに思考を向かわせるようなことはしない。

 わたしは、彼女の答えを待った。自然と沈黙が訪れたが、今度は長く保たなかったし、その怖さについて心を砕くようなこともなかった。

「大丈夫って思えるほど、わたし、ミントちゃんみたいにはなれないよ」

 ちょっと、拗ねた風だった。わたしを責めているようにも聞こえる。予想していなかった反応に、わたしは何よりもまず反省した。

 なるほど、そうか、そう聞こえてしまうのか。

 短い付き合いではないから、そこまで言えば真意は伝わるのかと思ったけれど、しかし彼女には届かなかったようだ。確かに、こんか言葉で伝わると思うのは独りよがりだと言われれば反論のしようもない。

 短い付き合いでなければこそ、彼女の性格を慮って、もっと慎重になるべきだったのだ。

 昼食最後のトマトを、わたしは、彼女を傷つけてしまった後悔を呑み込むために使った。それから、わたしは言葉を選んで口にする。

「そうじゃなくて。その……」

 いや、繰り出す言葉は最初から決まっていたのだ。だから、わたしが欲したのは適切な単語ではなく、それを切り出す勇気であった。

「わたしがいるから大丈夫って、そう言いたかったんだけど……」

 アロエが目を丸くして、こっちに向いた。こういう恥ずかしい台詞はアロエの専売特許なのだ。わたしにはそういう、ストレートな言葉は似合わないのである。



「おまえ、また突っ立ってたんだってな! うちの家族なんて気味悪がって、あの辺りの道を使わなくなっちまった! いい迷惑だぜ、  ――  



 名前はいちいち覚えていない。顔もほとんど覚えていない。た  ――  調と声色でそうだと分かるのだ。

 わたしは決して、彼女らの相手をしなかった。正面切って戦わないことが、何よりの自衛なのだと知っていた。無視とは、ある意味の許容である。化け物との戦争を独りで勝ち抜くわたしにしてみれば、安っぽく教養もない喧嘩など買うまでもなかった。

 つくづく、あの魔法の力が平時から使えるものでなくて良かったと思う。力があれば、わたしはきっと殺人犯になっていた。人ならざる行為を今の  ――  のかはともかく。

 がし、と肩を掴まれ、投げ飛ばされる。白昼堂々、女子トイレの前で平然と行われる暴力行為。周りに人の目があっても彼女たちは気にしなかったし、周りにある人の目はそれらを努めて見ないようにしていた。

 窓ガラスに背中を打ちながら、わたしはじいと耐える。悲鳴をあげればおもしろがられ、反逆すれば過熱する。けれど、ただ石のようにしていれば、万事が風のように過ぎていってくれる。殴られた腹が痛もうと、打ちつけた背中が痛もうと、髪を掴んで振り回されようと、あの、ひりひりした命のやり取りを経験しているから、そんなものはつまらない暴力だと笑って許せるのだ。

 そう。魔法のないわたしは単なる文学少女。大切なのは身を弁え、その振り方を考えること。過ぎたるは及ばざるがごとし。分不相応な立ち回りが命を落とす結果に繋がるのだと、わたしは身をもって知っている。

 やがて、彼女たちは下卑た笑いを廊下に響かせながら、一時の嵐のように去っていった。

 ようやく、わたしは本来の目的へと戻ることができる。

 女子トイレを見渡すと、一つだけ扉が閉まっていた。気の毒なことだ。あのバカどもと数分でも同じ空間にいただなんて。

 多少の同情を覚えながら、それとは離れたトイレを使おうと前を通り過ぎようとして、わたしは思わず足を止める。

  ――  ……」

 閉じた扉の足元にある換気用の隙間から、ほんの少しだが水の流れているのが見えた。トイレが逆流でもしたのか? いや、それならもっと騒ぎになっていても良さそうなものだ。わたしは、直前にトイレから出てきたのがあの  ――  いうことに思い当たって、確かめもせず鍵のかかった扉を叩いて叫んだ。

「アロエ! アロエなんでしょう!?」

 返事はない。だが、わたしはほとんどそうだと決めつけて、乱暴なノックを止めない。

「わたしだよ、ミントだよ! 大丈夫だから、鍵を開けて! あいつ  ――  レを出て、近くにはいないから! ねえ、アロエ!」

 がしゃ、と無機質な音がして鍵が開いたのは、たっぷり十秒も待ってのことだった。扉が向こうから開けられるよりも前に、押し入る。

 案の定と言  ――  こには、すっかり濡れ鼠になったアロエがいた。床はちょっとした水溜りになって、投げ入れられたのだろうバケツが転がっている。まるで、どしゃぶりの中に傘も差さず、数十分もそうしていた後のように惨めな様子だった。ふわふわとして可愛かったウェーブの髪が重く垂れ、小さな顔とセーラー服に張り付いている。

 わたしが入っても、アロエは何の反応も示さなかった。死んでいるのではないかと思うぐらい、俯いて、押し黙っている。まさに最中だったのだろう、便座に座って縮こまる彼女はスカートも下着も下げたまま、わたしを迎え入れたのだ。

「あいつら、どれだけの水を!」

 ともかく、このままでは風邪を引く。わたし以外の誰かに見つかったってろくなことにならない。わたしは、糸の切れた人形のように力なく項垂れる彼女を立たせて、脇の壁に寄りかからせようとした。が、これが大変なのだ。脱力した人間  ――  うが、それが本当なのだと思い知る。普通より痩せ気味なアロエでも、彼女を立たせるのは細腕のわたしには重労働だった。それでも何とか、壁とわたしを支えにして彼女を立たせることに成功する。ついでに、トイレは流しておいた。

「ぬれちゃう  ――  ゃん……」

 そりゃ、濡れ鼠のアロエに触れればこっちだって濡れようというものだ。が、そんなものは少しすれば乾いてなくなる程度の話であって、服を着たまま滝修行を敢行したみたいなアロエの悲惨さに比べれば大したことではない。

 こちらの身を心配しながらも、しかし、アロエは結局はわたしのなすがままだった。下着すらわたしに履かせられる始末である。同性とはいえ、同級生の何も身につけていない下半身を間近に目にし、増してや下着まで履かせてやるなど、そうそうできる経験ではないだろう。

 まるで母親だ。全く、それが役に立つ日が来るのはいつのことやら。

 人形を着せ替えるような気分になりながら、早々と服装を元まで戻し、後はこの場を脱するだけ、という  ――  識の戻ってきたアロエはまだ俯いたまま、ぽつりと、外に出たくない、とわがままを言った。

「こんなところ、  ――  ない」

 まあ、それはそうだろう。しかし、ずっとトイレにいるわけにもいかない。人目につかないという意味で、避難場所としては妥当なトイレだが、それはあくまで平時に限る。

 例えば、全身ずぶ濡れになっているような状況であれば、トイレにいては風邪をひく。そうではなく、第二の避難場所たる保健室へと駆け込んで、ベッドにでも潜って暖をとるのが正解だ。

 その場合は当然、トイレを出て移動しなければならないわけで、衆目は避けられない。濡れ鼠である自分の姿は見られたくないと、アロエはこれを嫌がったわけだ。

 気持ちは分かるが、わたしだって、親友が寒さに震えるのを黙って見過ごせはしない。仕方がないので、わたしは少しだけトイレの中で時間を潰すことにした。

 狙うのはアロエの心境の変化ではなく、学校という集合体の特性から来る校舎内の人口密度の変化である。

 幸いながら、この女子トイレも、目的の保険室も、校舎の端にあるという設計がなされている。階段を一つ降りる必要はあるものの、教室類の前を通らずに移動できる以上は、“要は移動経路である廊下に人がいなければ”誰かと会う心配は無用なのだ。

 その要件は簡単に満たせる。タイミングさえ間違えなければ、誰の目にもつかずに移動することは十分可能であった。

「というわけで、授業が始まって少ししてから、行こう」

 アロエは何も言わず、ほんの小さく頷くだけだった。

 トイレの狭い個室に二人分の身体を押し込んで、扉を締め、鍵をかける。どちらも細身ながら、そもそも一人で使うようにしか設計されてない以上、人間二人を入れるとなればさすがに手狭であった。便座に二人で座るというわけにもいかず、自然、トイレの個室内に並んで立つという奇妙な構図を余儀なくされる。

 握るアロエの手は冷たく、震えていた。冷え性な彼女の手先はいつだって冷たかったが、今日は殊更に、まるで氷を握らされているように冷たく感じられた。

 強く握れば、弱々しくも握り返してくる。そんなやり取りを無言でしている内に、休み時間の終わりを告げるチャイムがトイレの外から聞こえて来た。

 これで、サボり確定だ。平時とは違う気持ちで耳にする電子のチャイム音は、どこか他人事のように聞こえていた。

 何にせよ、待ちに待った瞬間の到来だが、ここで慌てて出て行ってはいけない。授業の内には教室移動を伴う種類があって、大半の生徒は休み時間の内に済ませてしまうものだが、中にはチャイムが鳴ってから移動を始める、集団生活のなっていないならず者も少なからず存在するのが学校だ。授業開始すぐの間は、そういう厄介と出くわす可能性があるために、用心して時間を置くのが得策である。

 むろん、その間もアロエは濡れ鼠のままであり、身体は冷える一方であった。アロエは文句を言わないが、震えの止まらぬ唇を無視できるほど、わたしもどうやら薄情ではなかった。

 繋いでいた手を引いて、彼女を抱きしめる。

 ひやりと、悲しいぐらいに冷たい感触がわたしを覆った。

 アロエは抵抗しなかった。背中へと回した手に感じられるのは、濡れて重くなった制服の布と、硬直した彼女の身体。

「だめ、離れて」

 か細く、そんな抗議を口にする。わたしの肩を掴んで押し返そうとするのを、わたしは努めて見ないようにした。

「濡れちゃうよ、ミントちゃん」

 分かり切ったことだ。わたしよりも文学少女方面に振り切ったアロエの抵抗など、たかが知れている。同族のわたしから見たってないも同然、じゃれている内にも入らないそれは。

 儚いぐらいに、あまりに乏しかった。

 そう思うと、今の境遇を自分のことのように感じてしまい、抱きしめる両の手に力が入るのを止められない。

 それで、優しい言葉の一つでもかけてやるとか、震える頭を撫でてやるとかできれば良かったのだけど、わたしはただ、ひたすら、力一杯に彼女を抱きしめているだけであった。

「やめて、ねえ、だめだよ」

 懇願するアロエの意志を切って捨てるわたしがわたしなら、アロエもまた頑固に、わたしを引き剥がそうとして力を込め続ける。

 これが、弱った人間の言うことか。

 わたしは、アロエという人間の深淵を見たような気がして、胸の奥が締め付けられる思いだった。

 やつらによって歪められた、優しいアロエの深淵が、そこにはあったのだ。



 保健室は嫌いだった。

 それなら、本来は排泄のためにあるトイレに隠れて潜んでいる方がよっぽど居心地が良いと思ってしまうぐらいに、わたしは保健室が嫌いだった。

 大人という、子どもではない生き物の持つ絶対的な権力を知らしめられて、わたしは到底平気ではいられない。



 校門に、  ――  。

 振り返ると、校舎よりも背の高い顔付きが、いつもそこにいたような不自然さで立ち尽くしていた。

「とうとう、こんなところにまで!!」

 葉がなく折れ曲がった茎、ピオニーで桃色のダリア、花芯の惚けた顔。

 普段よりも大きく見えて距離感がはっきりしないが、経験上、顔付きが現れるのは余裕をもってわたしを  ――  る程度と決まっている。この学校は言うまでもなく、丸ごと射程に入っているだろう。

 それにしても、普段はわたしの自宅近く、住宅街の中で仕掛けてくるくせに、今日はやけに性急だ。下校直後、それも学校の敷地から出るよりも前に顔付きが現れたのは、十四度目にして初めての  ――  。

 その事実は、わたしにある考えをよぎらせた。

 もしも、この戦いが現実に影響を及ぼしたのなら、わたしは顔付きに思う存分学校を破壊してもらったに違いない、と。

 アロエは早退していないことだし、死ぬのは死んでもいいやつばかり。この世の地獄を押し込めたような箱物が光線に焼かれていく様はぜひとも見物したいところだったが、顔付きとの戦闘に付きまとう御都合主義ルールの前では、そんな妄想も望むだけ無駄であった。

 ルール即ち、顔付きとの戦闘で行われた何もかもは、顔付きを倒すことによってなかったことになる。

 現に、わたしの周りからは既に、わたし以外の全ての人間の姿が消えていた。理屈は分からないが、それもルールの一環なのだろう。建物はいくら壊れても復元され、人間はそもそも戦いのある空間から除外される……あるいは、わたしの方が異空間に飛ばされているのか、何にせよ外には危害が及ばない。

 わたしにとってみれば、嫌いなやつを殺せないという意味で歯がゆいルールだが、しかし、犠牲を気にしなくて良いので気兼ねなく戦えるというのもまた事実であった。

「それじゃあ、今日も行きますか!」

 光が集まって形を成した鎌を手にし、腰を落として構える。応えて、顔付きの口が開き、花びらと同じ桜色の光が灯った。

 今日は一切の遊びなし。むしゃくしゃしていることだし、悪即斬と終わらせてやる。まだ、光線の発射までには余裕がある。今のうちに距離を詰めてしまえ。

 心を決めて駆け出したのと全く同じタイミングで、わたしは顔付きの口元が一層、強く輝くのを見ていた。

 うそ!?

 と、口に出すよりも前に、桜色の光に覆われて視界が潰さ  ――  間には凄まじい衝撃が全身を打つのが分かった。

「ああああああああ!?」

 きゃあ、なんて可愛い悲鳴は出せっこない。いじめっ子の暴力など何の比較にもならない激痛に、わたしは喉が裂けんばかりに絶叫していた。

 なんで。なんで! なんで!!

 光線の発射までにかかる時間と、その弾速が尋常じゃなく早まっ  ――  素早い攻撃動作、今までになかったじゃないか!

 混乱しながらも、わたしは自分の状態を確認しようと即座  ――  た。自己客観セルフボディチェックの開始。大丈夫、それができるのなら、不意打ちに誘発された混乱を冷ますのにも時間はかからない。

 それは、わたしが心を落ち着かせるために行う、一つの儀式のようなものであった。

 例えば、右手の指を一本ずつ動かしてみる。たったの一本動かすだけでも、ぎんぎんと指先から腕を通り、肩にまで筋肉を伝って激痛が走るが、しかし、動かない指は一本もなかった。ひとまず、指はセーフ。なれば次は手、肘、肩、それから怪我の具合……。

 という風に、順繰りに全身をチェックしていくのが、わたしの心のメンテナンス。

 右手は動く。左手も動く。指の一本一本の生存が確認できれば、痛みに隠れて見えにくくなっていた今の自分の状態が、もやの晴れていくように露わになっていく。一つひとつの情報は小さくとも、蓄積されていけば安心へと繋がり、やがては波打つ思考に静けさをもたらしていくのだ。

 この思考手順の優れているのは何と言っても、相手に関係なく使える点。

 人に殴られようと、化け物に光線を喰らおうと、確認するのは自分の身体なのだ。相手に依存しない分、いかなる窮地においても自己を客観視するための作業には違いが発生しない。

 幸い、レーザーの直撃も喰らいながら、ただの一箇所も欠損はなかった。代わりに、全身を灼かれて火傷を負っているが、これも無理をすれば無視できる。衣服もかなりやられたものの、どうせ誰も見ていやしない。その上、自分が高く打ち上げられたらしいことと、先の射撃が一体どういうものだったのかを、様変わりした眼下の街並みを眺めて分析しながら、わたしは毒づいた。

「くそったれ!!!」

 墜落する身体を両手から着地させ、そのまま体勢を丸めて地面を転がり、落下の衝撃を和らげる。

 すぐ様に立ち上がって、ダメージと共に掻き消えていた鎌を改めて手にしながら、わたしは顔付きに視線を向けた。情けも容赦もなく、桜色の光線が今まさに放たれんとしている。

 見た目には先と同じ攻撃だ。ここに来ての新たな攻撃方法パターンな上、こちらには通用したのだから、同じことを繰り返す可能性は十分に考えられる。

 上空から見た光景の通りに攻撃してくるのなら、避けることはできるはずだ。肝心要、見てからでは回避が間に合わないレーザーの、その発射の瞬間さえ見極められれば。

 深呼吸をし  ――  凝視する。

 いいか、落ち着け。黙っていても焼け落ちそうな熱傷に悲鳴をあげる身体を叱咤し、わたしはわたしに言い聞かせる。いつもやってきたことじゃないか。さっきのは不意打ち、想定外。はっきり言えば油断があった。しかし分かっているのなら、顔付きの攻撃タイミングを見落とすわけがない。

 わたしが着地してから顔付きがレーザーを撃つまでは、時間にすれば一秒の余裕もなかったはずである。が、これまでになく集中して顔付きの攻撃を見切ろうとしていたわたしには、それが何分にも何時間にも感じられた。

 ーーーー  ――  ーー、ここ!!

 きゅん!

 斜め前に猛烈な勢いでスタートを切ったわたしのすぐ横を、金切り声をあげてレーザーが過ぎていく。避けた先の少し前方には、半分残っていた校舎に丁度当たるような角度で別のレーザーが迫っていた。

 どどどどどどどどどどどどど!!!!!!!!

 続けて、数え切れない爆発音がわたしの周囲のいたるところから轟いて、ごうごうと大地が揺れる、わたし  ――  いた地点と、わたしの前方もまた同じように爆撃されていた。

「やっぱり、ショットガン!」

 爆発が収まるのを待たず、ドーム状に広がる桜色の光の中へと  ――  に必要な距離を稼ぎに行く。

 これは、突如として披露された顔付きの新兵器だ。ピストルのように一発のレーザーを直線的に撃つだけであったこれまでのものとは一線を画して、進化してきた。

 いわゆる散弾銃ショットガン

 現実のそれは飛距離を犠牲にする代わりに、複数発の弾丸を前方放射状に発射し、散らばって着弾させる機構の銃である、

 顔付きは、これを模してレーザーを放ってきていると見えた。

 とはいえ、その威力は現実のショットガンの比ではないり形を持たないレーザーには飛距離なんて関係  ――  のピストル機構と比べれば明らかに見劣りするものの、散弾の一発一発が着弾点に爆発を起こしているのも変わらない。

 顔付きは飛距離ではなく、一発ごとの威力を犠牲にして、全体の破壊力向上を図ってきたわけだ。

「厄介、だけど……!」

 まだ未完成、というのがわたしの見立て。油断ではなく、冷静な分析の上に立つ推論だ。

 その根拠は、初撃を喰らって打ち上げられたわたしが見た、着弾点ごとにかなりの隙間が空いている、という事実である。散弾の収束が甘いのだ。そしてそれは、中層・高層マンションサイズの顔付きにとって、普通の人間サイズのわたしを相手にするには致命的な欠陥でもあった。

 例えば、鹿や猪などの動物相手を想定した現実の散弾銃にも、弾と弾との間には隙間が存在している。最初は纏まっていても、発射後には放射状に拡散して行くのだから当然なのだが、この隙間を鹿や猪が抜けることなど有り得ない。

 単純な、サイズの問題である。鹿や猪、あるいは人間を仮想敵としているから、最初から問題ない範囲で広がって着弾するように設計されているのだ。

 では、その同じ散弾銃で蟻を狙った場合はどうだろう。

 対象が小さいが故に、鹿や猪と同じ結果にはならない。弾同士の隙間に助けられて蟻が生き残ることも、蟻の  ――  ば十分に起こり得るのではないだろうか。

 顔付きの散弾式レーザーとわたしとの関係はまさしく、散弾銃と蟻の関係そのものだと言えた。顔付きの放つ散弾の広がり方は、完全に顔付きのサイズに合わせてある。同じぐらいに大きな敵を相手にするのならともかく、敵はわたし、人間だ。そこに発生する着弾の間隙は、わたしにとってみれば二車線道路の独り占め、安全地帯に他ならない。

 それは、最初に攻撃の全容を目にできたからこそ気付くことのできた穴である。怪我の功名、というやつだ。

 後は、攻撃の放たれる瞬間を見逃さず、どちらに逃げるか……いや、“避けるか否か”を正確に判断できれば、相手が急激に拡散の仕方を絞ってこない限りは散弾レーザーを喰らう道理はない。

 攻撃と攻撃の間隔は  ――  どうくる。次は狙いを……外してきた!!

 どどどどどどどどどどどどど!!!!!!!!

 思った通り。顔付きの攻撃を見極め、左右へ避けることなく直進しながら、わたしは笑みをこぼすのを自制できない。

 ピストルからショットガンへ。機構の変化に伴い、顔付きはわたしを狙い撃ちする理由を失ったのだ。今の一発は、その証左である。

 散弾銃による銃撃とは、文字通り広範囲に着弾して負傷させることを目的とする。最悪、銃口が標的から逸れていても、散弾の範囲内であれば標的に  ――  けだ。一発勝負の拳銃にはない、文字通りの“数打ちゃ当たる”理論こそが散弾銃の優位性と言えよう。

 どどどどど  ――  どど!!!!!!!!

 だから、顔付きも狙撃を放棄してきた。これは一概にこちらに有利とは言えないどころか、より対処が複雑になったと言って良かった。

 これまでのように、わたしを狙うレーザーばかりを撃ってくるのなら、射撃のタイミングに合わせて着弾点の爆発から逃れられるだけの距離を取って避ければそれで済む。しかし、弾が分散していてかつ、自分を狙う場合とそうでない場合に  ――  うと、不用意な回避行動はかえって被弾を招いてしまう。

 自分を狙う弾があれば即ち、そのすぐ周囲には着弾しないという保証があるから隙間を縫うようにして回避できる。が、反対に自分を狙う弾がなければ即ち、周囲の全てに着弾の危険性が発生するという理屈になり、下手に動けば自分から弾に当たりにいく結果となってしまう。

 肝要なのは、そのどちらに属する攻撃なのかを間違いなく判断すること。距離のある今のうちに慣れておかなければ。

「それにしても、遠い」

 爆発すれすれを走り抜けながら、舌打ちする。

 今回の顔付きは、これまでのよりも一回り、二回りは大きいようだった。散弾によって進路を阻まれ、迂回が多くなっていることを考慮しても、距離を詰めている感覚が希薄である。

 決して良いことではない。

 肉薄するまでの時間はそのまま、攻撃を避けなければならない回数に直結するからだ。

 肌感覚、あと二、三発なら被弾にも耐えられそうではあるものの、全く予断を許さない数字には違いなかった。ゲームの中のキャラのように、体力満タンと体力僅かで全く同じ動きができるように  ――  体はつくられていないのだ。

 つまり、戦闘を継続しようと思ったら、もはや一発も喰らえない。不意打ちをもらった最悪のスタートを含めて、今までになく追い詰められている。言っている間にも回避距離の目測を誤って、わた  ――  ったのではないレーザーの爆発に巻き込まれそうになっていた。

 敵ながら天晴れ、恐ろしい兵器を持ち出してきたものである。これが現実なら、例え戦いに勝ったとしても、わたしの街は更地になって影も形もなくなっていただろう。数年前、あの大津波にさらわれた街よりも酷いことになっていたかも知れない。

「射程外まで、あと少し……」

 距離を詰めるに従って、レーザー間の隙間もどんどんと狭くなっている。弾の拡散を絞ってきている……というよりは、単純な距離の問題なのだろう。散弾を斜め下に向かって撃ち下ろしている構図では、銃口である花芯の貌の口により近いところに着弾が集中するのは当然のこと。肉薄しなければならないわたしにとって、この桜色の雨は獣道だ。

「でも、避けられる!」

 目が慣れてくるに従って、周囲を見渡せるだけの余裕も生まれてきた。どうせ現実に反映されないとはいえ、いつになく大きな被害を出しているわたしの街は、既に火の海の中にあった。

 終末的だ。

 地獄とはきっと、こんな風景をしているのだろう。

 今、世界中で保有されている核爆弾を合わせると、地上を一掃する  ――  があると言われている。

 核保有国が揃いも揃って核戦争を起こせば、現実的には地上から人類が絶滅するような被害にまでは膨らまないにせよ、総人口の何分の一という単位で人が死に、大陸の一つぐらいは沈んでもおかしくないのだとか。

 この、火炎と閃光に包まれた風景は、そんな悲観を連想させるに十分なものであった。

 しかし、人間がそんな過ちを犯さなくたって、世界中に顔付き  ――  じこと。どこかのタイミングでルールが改変され、その被害が現実へと影響を及ぼすようになれば、世界は一晩もせずに滅ぶだろう。

「……だとすれば、どうして」

 どうして、やつらの攻撃は現実へと波及しないのか。

 そんなもの、相対するわたしに利するだけではないか。

 何十回目の散弾を避け、わたしはとうとう射程の切れ目、射角の限界を超えるに至った。

 イコール、顔付きの足元だ。鎌で刈り取るにはまだ距離があるが、もはやレーザーの脅威からは逃げ切ったも同然である。

 振り切った、生き残ったのだ。

 失敗は成功の母。あるいは、成功は大胆不敵の子ども。最初の被弾を引きずらず、前へ出てきた甲  ――  いうもの。

 こうなれば、勝負は決まったに等しい。額に突きつけられた拳銃の射撃を避け続けるような神経戦を終え、わたしはほっと一息をついた。

 顔を上げ、後は殺すだけの花を見上げる。

 向かって右の方へと、花軸くきより上の、いわゆる頭の部分だけが少し傾いていた。

 何だ、あれは。

 手を下すまでもなく、花が折れたのか。

 あれだけ大きければ自重も相当なものだろう、細く曲がった茎で支えられていたこと自体が不自然なのだ  ――  過で自壊してもおかしくはない。

 見る間に、花はどんどんと傾いていった。落ちるのではなく、花の花柄くびもとを中心にして反時計回りに折れていく。

 これで終わりとは、手こずった割には呆気ない。

 それにしても、人の頭を可動域の外へと無理に捻っているようで、いくら相手が化け物とはいえ、酷く不  ――  快な映像だ……いや。

「そうじゃない!!」

 か、と貌の  ――  た。

 どどどどどどどどどどどどど!!!!!!!!

 考えるよりも先に、わたしは後ろに跳んでいた。前方に着弾したレーザーが爆発を起こし、膨れ上がる桜色  ――  を巻き込んでいく。

 レーザーの爆発は、言ってみれば光と熱と風の塊だ。懐中電灯を正面から直視するような閃光。やかんから吹き出る湯気の根元よりも激しい熱波。女子高生を軽々と吹き飛ばす嵐の如き強風。それら  ――  造物を、ケーキをスプーンですくうようにして易々と破砕しながら進んで、結果としてクレーターという形で爪痕を残す。

 だが、魔法に守られたわたしの身体はコンクリートよりも頑丈で、爆発の中にあっても削り取られはしなかった。ましてや、今の一撃はぎりぎりで回避に成功している。最初の直撃に比べれば被害は微々たるもの、落ち着き始めていた全身の火傷を再度焼かれて、また痛みがぶり返しているぐらいで済んでいる。

 それよりも重大だったのは、顔付きの新たな異変と、わたしの浅はかさの方だった。

 そう、初めから想定しておくべきだったのである。

 これまでにないショットガンを模した攻撃方法を披露してきた時点で、姿形に特段の差異はなくとも、この個体は以前のそれらとは明確に別物。だから、“他にも特別な機構を積んでいてもおかしくはない”と、疑い、警戒してかかるべきだった。

 戒めたはずの油断に、またもまんまと足元をすくわれてしまったのだ。

 命の外殻にある薄皮を一枚々々剥がされていくような緊張から解放されたと思って、気を抜いてしまった。

「やってくれる……!」

 それでもとっさに回避ができたのは、最初の被弾の反省が少しでも生きていた結果だろう。心のどこかでは警戒心を捨て切ってはいなかった。この幸運を無駄にしてはいけない。

「もうないぞ、顔付き!」

 花は今も傾き続け、垂直だった元の位置から斜め四十五度に差しかかろうとしている。その間にも、わたしを狙うレーザーが絶えることはない。

 射程から抜け出たはずのわたしがそうやってレーザーに晒されているのは、花が傾くことで銃口である花芯の位置が下がり、相対的に下方へと射角を取れるようになったからである。

 言ってみれば、散弾銃の銃身を傾けて更に角度をつけているようなもの。銃口と地面が近づけば最大射程は犠牲になるが、接近戦の他に手のないわたしが相手なのだから、その犠牲は全くハンデにはならない。

 そして、発射と着弾の距離が近づけば近づくだけ散弾の収束率が上がり、弾の間隙が狭まっていく。回避に要求される精密さも右肩上がりで、花の傾きの具合によっては地上での回避が不可能になる可能性もあった。

 せめて、元の位置から直角、花が真横を向く態勢で止まってくれれば、着弾時の爆風がほぼ密着し始める事態は避けられそうだが……この新種に詰めの甘さを期待するようなことを、わたしはもうしないと決めていた。

「取り返しの付かなくなる前に、決着をつける!」

 それが最善。相手の射角調整が済んでしまうよりも先に、わたしが顔付きの下へと辿り着いて首を叩き斬ってしまえば良い。

 こうなってくると、事が終わったと勘違いして、花が傾くのを馬鹿みたいに立ち尽くして眺めていた最初のロスが悔やまれる。が、過ぎてしまったものはしょうがない。

 今はただ、疾ることに集中する他にないのだ。



 そして、無事に顔付きの頭を切り落としたわたしは、その背後、落ち行  ――  向こうに、巨大な顔付きがいるのを見ていた。



 え?

 戦い  ――  い。

 これも想定するべきだったと言うのか。

 今までにない新種が出てきたのだから、“今まで通り一匹倒して終了とならない事態までをも  ――  べきだった”と。

 無茶だ。

 たった今斬り殺  ――  元にあって無事だったマンションの屋上で、わたしは呆然とする。

 その時、わたしが敵から目を逸らして周囲を見渡したのは、頭の中に  ――  ともつかない何  ――  一つではないと気付いたからだった。

 全部で三匹。超高層ビルどころの話ではなく、某ランドマークのツリーよりも大きく見える、ま  ――  山のような異様で立つ三匹の顔付きが、わたしを囲んで三方に立っ  ――  

 同時に複数の顔付きが現れたのは初めてのことである。いや、それよりも。

 いつからだ?

 いつから、  ――  となった地獄の中にやつらは存在していた?

 改めて、真正面にいる顔付きへと視線を戻す。

 物理的に有り得ない、異常にゆっくりとした速度で落花  ――  殺した顔付きの花。その向こうに、更に巨大と見える顔付きがいる。

 口内が光ったように見えた。何百回も繰り返してきたとあって、わたしは無意識のうちに反応し、回避行動を取っていた。

 おそらくは  ――  ピストル形式のレーザーに戻してくることはあるまい。距離があるから、先の戦いに比べれば狙いを見極めるのは難しくないはずである。代わりに、顔付きのサイズに合わせて一発も大きくなっているだろう  ――  取るべき回避距離は長くしなければならない。

 さあ、どっちだ。左右の斜め後ろに構える二匹目、三匹  ――  向にも気を配りながら、ともかく目の前の危機に集中する。

 ……もし。

 わたしがこの時、攻撃の種類に気を取られ過ぎず、“顔付きのレーザーが発射されるまでの時間を気にしていたのなら”、最初の一発ぐらいは避けられたのかも知れなかった。

 しかし、どっちにしろ長くは保たなかっただろう。

 天を衝く不遜の顔付きの攻撃は散弾ではなかった。種類で言えばピストル形式、一発のレーザーであったが、あまりに規模が違い過ぎた。

 一足飛びに、ミサイル級。

 正面から見た限り、遠目の顔付きのすがたがすっぽり隠れてしまうほどに太い、円柱状のレーザーが放たれたのだ。

 両端を視界に収められない。どれだけ跳べば範囲から逃れられるかの見当がつけられない。さながら、桜色の太陽だ。ピストルからショットガンへのパワーアップが可愛く見えるような規模の違いを、わたしはすぐに受け止め、咀嚼し、理解することができなかった。

 気が付くと、わたしは仰向けに倒れていた。

 わたしの立っていたマンションはない。わたしの住んでいた街もない。きれいさっぱり、地面がむき出しになった更地の中にはただ、顔付きだけがいた。

 いや、もしかしたら、そういう風景の場所まで吹き飛ばされてしまったのかも知れない。

 何にせよ、攻撃を喰らってしまったには違いなかった。

 自己を客観する。どの方向から見てみても、わたしの身体は動かなかった。かろうじて働いてはいるものの、頭も動かない。だから、わたしの目に入る情報は片一方の方角でしかなかった。でもきっと、わたしの周りの全てが消えてなくなっていることだろう。

 幸いと言うべきか、動かないにせよ手足は残っていた。痛みがあるし、投げ出された右手は視界に収まっている。その右手の指の先に、花があった。

 貌のついた桃色のダリア。見た目こそ顔付きそっくりだが、サイズは常識的である。

 それがお辞儀をするように茎を折り曲げ、わたしの指を食んだ。

 また、別のダリアは腕に直接突き刺さっていて、自分の周りのわたしの腕に噛み付いている。

 貌は顔一つ変えない。出血もなく身体が喰われていく様は、何かデジタルな虚構を見せられているような気分である。

 そうやって、全身を貫いていた痛みはやがて、かしかしと咀嚼される感覚へと挿げ替えられていった。

 その一つひとつは、蟻に噛まれる感覚に近いだろうか。

 頭を食べられている自覚もある。どこに生えたのか、それがわたしの左目にかぶりついた。

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