エピローグ

 その後のこと。


 ダービーの結果を見て、伊波はがっくりと膝から崩れ落ち……たりはしなかった。むしろ憑き物の落ちたような、清々しい表情をしていた。


「……すまなかったな」

「何よ急に。……うわごとのように『こんなはずでは……こんなはずじゃ』って呟いたり、『こんなの認められるか! こうなりゃ力づくだ!』って殴りかかってきたりしないの?」

「……ずっと思ってたが、お前の中の俺はどうなってるんだ?」


 伊波は心外だと言いたげにわたしを見ている。


「冗談だよ。あんたが約束を破るタイプのゲスじゃないのは、なんとなく分かってる」

「それ、暗に違うタイプのゲスだって言ってねえか……?」

「そだね。断れない勝負にかこつけて、わたしを手に入れようとする程度にはね」


 わたしは嫌味っぽくそう言ったが、まあこれは会話の流れというやつで、勝負が終わった今となっては伊波のことをそう悪く思っているわけでもない。


 が、思った以上に痛いところを突いてしまったようで、伊波は顔を歪めて頭を下げた。


「そのことだが、言い訳の仕様もねえ。馬鹿なことを言っちまったっていうのが、ずっと小骨みたいに突き刺さってた。本当にすまん。だから勝手な言い草ではあるが、お前が正面から俺を負かしてくれて、胸のつかえが取れた気分なんだ」

「そりゃまた、勝手な言い草だね」

「ああ。この通り、すまなかった」


 ふかぶかと頭を下げた、伊波の大きな背中を見下ろしてわたしは思う。正直、馬券勝負をしている時から、伊波の後悔みたいなものを薄々感じ取ってはいた。


 こいつは今回馬鹿なことを言って、馬鹿なことをして、わたしや周囲のみんなをさんざん振り回した。だけれども、自慢じゃないがわたしだって馬鹿なことは折り紙付きだ。軽はずみなことをやって、後悔する。そんな心当たりがありすぎる馬鹿を、責める気にはなれなかった。


「別に、なんとも思ってないよ」


 わたしは言った。


「だいたい、勝ったのはわたしだしね。敗者をいじめたりしないよ。約束だけ守ってくれたら、それでいい」

「おう、もちろん約束は守る。サクラダとウシザワだったか、奴らはうちのチームから抜けさせる。俺が責任を持って、誰にも文句は言わせねえ」

「ん」


 やれやれ。いろいろあったが、サクラダ・ウッシー事件はこれにて解決とあいなったわけだ。わたしはようやく肩の荷がおりた気がした。


「めぐさん、全然関係ないのに、今回の件はいろいろありがとね」

「いーえー。あたしも面白いものが見れて、面白かったよー」

「イチも、あんがとね。第九レースでは助かったよ」

「寿命が縮まりましたけどね……。でも礼を言うのは俺の方っす。というかむしろ、面倒事持ち込んじまってスイマセンした」

「それこそ今更ってもんでしょ」


 この二人がいなかったら、今回の件はこんなに綺麗には片付かなかっただろう。わたしは心に深く感謝を刻み込んだ。


 かくして――


「な、なあ!」

「うん?」


 わたしが心の中で今回のまとめをしようとしているところに、伊波が割り込んでくる。


「その……もし良かったらなんだが」

「何よ」


 わたしが急かすと、伊波は意を決したように顔を上げた。


「サトミ、次はただの友人……いや、知り合いとして、競馬に誘ってもいいだろうか!」

「えっ、嫌だけど……」


 ぴしり。


 何かが砕ける音がして、今度こそ伊波は膝からがくりと崩れ落ちた。


「うっわ、サトミちゃん……振り方えげつな……」

「姐さん……ちょっとストレート過ぎますって。同じ男として同情しますよ……」

「ええ? わたしが悪いの?」


 確かに伊波を責める気はないしそう悪くも思っていないが、良くも思っていない。むしろ好感度としてはマイナス寄りなので仕方ない。


「サトミちゃん、気持ちは分かるけど……。告白された男子が気に入らないからってそんな断り方してると、敵が増えるよー……?」

「別に、わたし告白なんてされた事ないし」


 とわたしが言うと、めぐさんとイチが同時に「えっ」と声をあげた。なんだよ。


「……イチくん、本当のとこはどうなの?」

「俺の知る限り、少なくとも三人は姐さんに告ってボコボコにされてます」

「だろうね……」


 などと二人してぼそぼそと言われる。全部聞こえてるんだけど。それに、そんなのを告白されたうちにカウントして欲しくはない。自慢じゃないが、わたしはロクな男に好かれないことで有名なのだ。


「まあ過去のことはともかく、今現在進行系で動かなくなっちゃった人がいるんだけど……。フォローしてあげた方がよくない?」

「むう」


 めぐさんに言われて伊波を見ると、確かにうずくまったままぴくりとも動かない。息をしているかどうか微妙なところである。


 しょうがないので、一応フォローはしておいてやることにする。


「あー、伊波? さっきも言ったけど、わたしはあんた個人のことは特段嫌っちゃいないよ。好きでもないけど」


 といえ勘違いされてもつまらないので、釘をさすことは忘れない。イチが「ホントにフォローする気あります?」などと言っているが、無視して続ける。


「わたしが気に入らないのは、あんたんとこのチームだよ。上納金だとかなんとかケチなもん集めさせてるよーな奴の誘いはお断りってこと。そういうのきっぱり止めてから出直してきて」


 わたしはそう言い放った。自分で言っていてフォローどころか途中から単に責めてるだけだなコレ、と思わないでもなかったが、ともかくこれは効いた。伊波の眼に光が戻り、わたしに惚れてるよくわかんない情けないヤツの顔から、チームの頭としての顔に戻ったのだ。


「上納金だあ? そりゃいったい何のことだ?」

「は? 何のことって、サクラダやらウッシーやらに集めさせてた金のことだよ。駅前でカツアゲなんかしちゃって……」


 みるみるうちに伊波の顔が険しくなる。さっきとは別人のようになって、伊波はずしりと立ち上がった。


「ちょっとそこらへん、詳しく聞かせてくれねえか……?」




 翌朝。わたしは重たい頭をふらふらと支えながら、駅からややおも高校までの道のりを歩いている。なんというか、昨日は最後まで疲れる一日だった。


 あの後サクラダとウッシーも呼んで互いの情報をすり合わせたところ、伊波は激怒した。何と、上納金云々は小野木とかいう、例の顔色の悪いのっぽ野郎が独断で行っていたことだったのだ。


 すべてを知った伊波は「身内の始末をつけねえとな」と言って、立ち去っていった。小野木とやらがこれからどうなるかは知らないし興味もないが、あの伊波の形相を見る限り、まず無事ではいられないだろう。


 けっきょく一連の事件はすれ違いというか、わたしたちのやっていた事はお互いに完全に空回りだった。だがまあ、わたしが今までの人生でやってきた事なんて空回りばかりだったような気もするので、案外こんな結末がふさわしいのかもしれない。


 ともかく問題は解決したのだし、わたしは勝った。伊波とも和解した(たぶん)し、チームのことはチームでうまくやってくれるはずだ。


 この事件が尾を引くようなこともないだろうし、まあ落とし所としては上々だったのではないか。わたしはそんなことを考えながら、校門をくぐった。


「姐さん、お早うございます!」


 次の瞬間、そんな考えは見事なまでに裏切られたわけだったが。


「……は?」

「姐さん、お荷物お持ちしますね!」

「……はあ、どうも?」


 しゅたたっと駆け寄ってきた男子生徒があまりにも自然に跪いたので、わたしはついつい鞄を渡してしまう。彼はそのままうやうやしく鞄を捧げ持つと、一歩下がってぴたりと不動の姿勢をとった。その人以外にもたくさんの男子生徒が並び、わたしの先に道をつくるように30°の礼をして控えている。


 そしてわたしはあることに気づく。彼らは皆揃って異様な格好をしていたのだ。ややおも高校の制服はブレザーであるにも関わらず、どこで調達してきたのか分からない前時代的な詰襟の学生服。そしてその上に羽織った青色の派手な法被。


 どこからどう見ても、めぐさん親衛隊の皆さんだった。


「ね、ねえこれ、一体なんなの!?」


 わたしは困惑して、誰にともなく問いかけた。


「それはわたしが説明するわ、サトミちゃん」

「め、めぐさん……」


 たぶんこの人のせいだろうとは思っていたが、どこからともなくめぐさんが現れる。


「ど、どーゆーことなのコレ? こんな朝っぱらから、親衛隊の皆さんが揃い踏みで……」

「それがねえ、サトミちゃんのせいで、親衛隊に亀裂が走りそうになっちゃってね」

「わたしのせいで……?」


 まったく身に覚えはない。ないのだが、なぜか背中に冷たい感覚がつたう。


「そう。この間親衛隊の半分ぐらいを貸してあげたでしょ?」

「はあ」


 あれでまだ半分だったのか。


「その半分がサトミちゃんのあまりの凛々しさに、ファンになっちゃったみたいでね。それで、『俺にはめぐさんがいるのに、他の人に眼を奪われるなんて……』って自分を責めちゃって。残りの半分は半分で『浮気など許さん、親衛隊から追放だ!』って過激なことを言い始める人もいたりして……」

「はあ……」


 すでに頭が痛い。どうしてこうもわたしはマトモな男から好かれないんだ。


「それでね、喧嘩になりそうだったから、あたしが言ってあげたの。喧嘩する必要なんかないし、自分を責める必要もないよーって。だって……」


 めぐさんはイイ笑顔で、わたしの肩にポンと手を置いた。


「今度からあたしとサトミちゃんでユニット組むから、って!」

「何言ってくれちゃってんのアンタ!?!!」


 わたしは絶叫した。ユニットって、わたしにもややおも高校のアイドルやれってこと!? 冗談じゃないしそんなことわたしにできるはずがない。


「大丈夫よ、サトミちゃん可愛いし。それにあたしじゃ対応できない層のファンも開拓できそうじゃない」


 と、わたしの胸のあたりに視線を送るめぐさん。無乳言うなし!


 ……ってそうじゃなくて。


「無理無理、無理だよ! だいたいわたしは普通の高校生として……!」

「あれー? サトミちゃん、あたしのお願い聞いてくれないの?」


 めぐさんは小首をかしげて、わたしの耳元に口を寄せる。


「あたしはサトミちゃんのお願い聞いて、快く兵隊を貸してあげたよねー? そのせいで親衛隊が割れることになったんだから、今度はあたしのお願いを聞いてくれてもいいんじゃないかな?」

「ぐっ……」


 まさか、この人……。


「サトミちゃん、こんな言葉を知ってる?」


 めぐさんはわたしと目を合わせると、ばちーんと☆が飛んできそうな完璧なウインクをした。


「“タダより高いものはない”」

「ちくしょーーーーーっ!!!」


 羽崎サトミ15歳。ちくしょー、なんて、やられ役の断末魔みたいな叫び声をあげたのは、人生で初めてのことであった。


「で、どう? サトミちゃん、やってくれる?」

「……もういいよ、何でもやるよ。その代わり、務まらなくっても文句言わないでよ?」


 半ばやけくそにそう答えると、ぱあっとめぐさんは作り笑顔を周囲の皆さんに振りまいた。


「みんな! サトミちゃんも快く承諾してくれたよ! これからあたしたち新生ユニットとして頑張っていくからね!」


 わあっと歓声が上がり、皆何かをポケットから取り出す。ピンク色の刺繍の入った、細長い布だ。


 そして彼らは、それをいそいそと額に巻き始める。そうだ、今日の親衛隊の皆さんにはどこか違和感があると思ったら、ハチマキをしていなかったんだ。


 わたしはおそるおそる、ハチマキに刺繍されている文字を読んだ。



“めぐさん&サトミ姐さん命”



「があああああああああああああああああああああ!」


 わたしは力強く、その場に崩れ落ちた。




 朝一から致命的な致命傷を受けたわたしだったが、受難はそれで終わりではなかった。


 幸いなことに親衛隊の皆さんも普段から法被にハチマキで過ごしているわけではないようで(当たり前だ)、わたしが引き攣った笑顔で「こ、これからよろしく……」と言うと、おおっとひとしきり歓声を上げてから解散してくれた。


「そんじゃ、行こっか。今後のスケジュールも考えなきゃねー」

「お、お手柔らかにね……」


 めぐさんと一緒に校舎に向かう。わたしはアイドルとか言って何をやらされるのか戦々恐々としつつ、上履きに履き替えて廊下に出た……ところでぴたりと足を止めた。下足場の傍の掲示板に、いつかのように人だかりができていたのだ。


 わたしは嫌な予感がした。おおかた、昨日の勝負のことがすでに報道されていて、また質問攻めに遭うのだろう。わたしはすでにうんざりした気分で、人だかりの中に足を踏み入れた。


 しかしわたしの嫌な予感は、さらに嫌な方向に裏切られた。わたしが廊下に足を踏み出した途端、人混みがばっと引いたのだ。


「え……?」


 困惑するわたしの耳に、こんなささやきが飛び込んでくる。


(番長だ……)


(サトミ番長……)


(あれが鮮血番長か……)


「……ちょっ!?」


 わたしは人混みをかき分け、というか人混みの方で勝手に割れたのだが、ともかく掲示板に駆け寄った。


 でかでかと貼られているのはもちろん『おうまさん速報』である。そこには確かに、昨日の勝負の模様が載せられていた。が、一面の大見出しはそのことではなかった。


『 ややおも高校に番長誕生! 』


 そこにはでかでかと、わたしが例のヘソ出しスカジャン姿で、伊波ほかチーム『バスケット・ケース』の皆さんとと睨み合っている写真が引き伸ばされて貼ってあったのだ。


「なんで!?」


 しかもご丁寧に、『<わたしはややおも高校の番張ってる、羽崎サトミだ。』とフキダシまで入れてあった。本当に、なんで!?


「あのとき、こんな写真なんて……」

「あーゴメン! 超望遠で撮ったんだけど、あまりにいい絵だったから競馬新聞部に売っちゃった☆」

「売っちゃった☆ じゃないよ!? 撮ったのめぐさんだったの!?」


 かわいく言っているが、何もかもおかしい。あの廃工場跡に潜んで、超望遠でばっちり決定的な場面を撮ってるなんて、アイドルもどき女子高生のやることじゃないし、できることでもない。


「とにかくっ! これは剥がすからね!」

「えー、いいじゃない。こんなに可愛く、おへそまでくっきり撮れてるのに」

「なおさら嫌だよ!」


 確かに好きで着てる格好なのではあるが、それが全校生徒に晒されるとなれば話は別だ。もう相当数の生徒に見られているし悪評については取り返しがつかないだろうが、この写真だけでも回収しなくては。


 後で競馬新聞部に殴りこもうと考えつつ、『おうまさん速報』に手をかけようとすると、がちりと後ろからめぐさんに肩を掴まれた。


「まー待ってよサトミちゃん、これはあたしの戦略の一つでもあるんだから!」

「……せんりゃく?」


 わたしは素直に動きを止めた……ていうかめぐさん、意外と力強いな。


「そ、アイドル戦略。サトミちゃんはスケバン系アイドルで売っていく予定だから!」

「……」


 わたしにはもはや突っ込む気力すら起こらなかった。


 バスケット・ケースとの相対の時から密かに後をつけ、写真を撮り、わたしにアイドルになることを承諾させる。そんなことをして何が楽しいのかは分からないが、確かなことは、今までずっとめぐさんの手のひらの上だったということだ。


 ダメだ。この人は、絶対に借りを作っちゃいけない人だったんだ。わたしは取り返しのつかない段階になってようやく気づいたのである。


「さーみんな、サトミちゃん番長に挨拶しなきゃ! はい『押忍! サトミちゃん番長!』」

「「「押忍! サトミちゃん番長!」」」


 めぐさんに乗せられて、遠巻きにしていた生徒たちが一様に同じ挨拶を口にする。


「声が小さあーい!」

「「「押忍!!! サトミちゃん番長!!!」」」


 ちがう。


 わたしが望んでいた高校生活は、こんなのじゃない。


 以後わたしは『かわいいけどちょっと怖い』のキャッチコピーでお馴染みの、ややおも高校のアイドルそのニとして、否応なしにそれなりの人気を獲得していくことになるのだが。


 それはまた別の話だし、語りたくもないのである。




「あ゛ーーーーー……」


 その放課後。


 わたしは一日中、ことあるごとに『オス! サトミちゃん番長!』とか声をかけられたり、普通にビビられたり、親衛隊の皆さんに妙に世話を焼かれたりしながら過ごし。


 ようやっと馬券師部の部室に辿り着いた頃には、疲れ果てていた。


「やあサトミ君。おめでとう、大人気ではないか」

「なんにもおめでたくないです……」


 わたしはふらふらと椅子に腰掛けた。憎たらしい副部長の物言いだが、正直普通に『サトミくん』と接してくれるのが嬉しかったりするぐらいに、わたしは重傷である。 


「おつかれー」


 ななこ先輩もそんなわたしを見かねてか、珍しく自分から言葉をかけてくれた。


「うう、ありがとうございます、ななこ先輩。わたしの味方はななこ先輩だけです」


 と言うと、照れましたとでも言うようにアホ毛に三本線で朱が入る。相変わらず器用なアホ毛である。


「サトミ君、俺もいるぞ」

「副部長は別にいらないです……」

「サトミ君、俺にも傷つくという感情はあるのだぞ?」


 などと言いつつ、ぜんぜん傷ついたような気配はない。この人もなんかよくわかんない人だし、馬券師部の人たちは良くも悪くも超然としている。


 その分校内の流行や評判に流されることがなく、今のわたしにはありがたい限りである。伝統ある馬券師部ということで親衛隊の皆さんや他の野次馬的な人もここまでは入って来ないし、わたしはものすごく落ち着いた。


「そういえば、クルミちゃんとの勝負も勝ったらしいですね。おめでとうございます」


 なぜかわたしの番長就任よりも扱いは小さかったものの、ななこ先輩の馬券勝負についてもちゃんと『おうまさん速報』に載っていた。伝説の馬券師対生徒会長なんだからもっと大きく載せろよ、と思ったが、間違いなくめぐさんの差し金である。


 まあそちらの勝負の方は、午前中だけでほとんど逆転不可能な差がつく一方的な展開で、言ってみれば面白くない勝負ではあったようなので、それも扱いが小さかった理由のひとつなのかもしれないが。


「圧勝だったらしいですね」

「うむ。ななこ部長には珍しいのだがな」

「そうなんですか?」


 いつも圧勝で敵をばったばったなぎ倒しているのかと思ったが、そういうわけではないらしい。


「ああ。いつもの部長はちゃんと観衆のことも考えて、メインレースまで盛り上がるような勝ち方をするのだが」


 と副部長は首をひねっている。わたしはそんなプロレスみたいなことが馬券勝負でできるものか、と思ってななこ先輩を見ると、案の定先輩は首を(アホ毛を)ぶんぶんと振っていた。


「昨日のななこ部長は妙に気合が入っていたようだったからな。午後はもうほとんど消化試合で、クルミちゃんも落ち込んでいたよ」

「ふうん……」


 自信に満ちた挫折知らずの生徒会長って感じだったから、ショックだったろうな。にしても何かが引っかかる。午前中でほぼ決着、午後は消化試合……。


 そうだ、水月先輩だ。昨日競馬場に来ていたことで、水月先輩=ななこ先輩説は否定されたと思っていた。が、午前中にけりがついていたなら、その後で競馬場に来ることも可能なのでは……?


「あの副部長、ひょっとして午前中にクルミちゃんをボコったあと、ななこ先輩どっか行ったりしませんでしたか?」

「あのなあサトミ君。いくら大勢決したからといって、どっか行ってたらさすがにクルミちゃんが可哀想だろう。ななこ部長もそんなことはされないよ」


 わたしは勢い込んで聞いたが、あっさりと否定されてしまった。まあ、そりゃそうだ。いい考えのような気がしたのだが。 


「何か気になることでもあったのか?」

「いえ……ちょっと、なんとなくそう思っただけです」


 わたしは嘘をついた。当てがはずれた以上、水月先輩のことを吹聴する気はない。副部長なんか特に、口が軽そうだし。


「しかし今日はほんと、疲れました」


 と、いちおう話をそらしておく。


「君も今や有名人だからな。聞いたが、アイドルデビューするのだろう?」

「(自称)がつきますけどね」


 わたしは嫌なことを思い出させられて、憂鬱な気分で頷いた。テレビとかに出てるようなやつはともかく、『学校のアイドル』みたいな概念はもっと周りからの評価で自然に作られるべきだと思う。今日からアイドルやります、なんて(自称)でしかない。


「まあそう自嘲するものでもないと思うぞ。二年の教室にも、ファンになるなんて言ってる奴がそれなりにいたからな」

「物珍しさですよ……」

「そうかな? 素材は悪くないと思うがな」


 副部長はそう言って、顎に指を当てながらじーっとわたしの顔を覗き込む。今のはいちおう、褒められたんだろうか。とはいえ、そんなふうに見つめられると居心地が悪いことこの上ない。


「あ、あんまり見ないでくださいよ」

「ああ、すまんな」


 と言いつつも副部長はなおもしばらくわたしの顔を見つめていたが「ふむ」と立ち上がった。


「茶でも淹れるか。サトミ君、君も飲むかね?」

「淹れるかって……あるなら頂きますけど」

「うむ」


 と、副部長は棚をごそごそやって、綺麗な急須とお茶っ葉と電気ポットを取り出してきた。この部室にそんなものがあったのか、普段から使えばいいのに。


「では、水を汲んでくるから待っていたまえ」

「はあ」


 副部長はポットを抱えて出てゆき、わたしはぽかんとその場に残された。


 これはひょっとして、落ち込んでいるわたしを気遣ってくれようとしてるんだろうか。だとしたらなんというか、あれで意外と不器用な人である。わたしは呆れながら、まあでも茶を用意してくれるんならありがたく頂こうと、大人しく待っていることにした。


 ななこ先輩と二人きりになったので、部室が沈黙で満たされる。といってもこの部室はもとから沈黙が七割なので、それが気詰まりだったりはしない。


 が、ちょうど良い機会だと思ったので、わたしは沈黙を破った。


「ななこ先輩」


 いつものように、ななこ先輩はアホ毛を少し傾けるだけで返事の代わりにする。


「双眼鏡、ありがとうございました」


 と、わたしは双眼鏡入りの布袋をマジックハンドで掴み、ななこ先輩に差し出した。安楽椅子からにゅっと手が生えてきて、それを受け取る。


「よく見えた?」


 とななこ先輩は言った。


 わたしは少し迷ったが、


「んー、正直、今回は必要なかったみたいです」


 と正直に答えた。


 ななこ先輩は何も言わない。アホ毛も微動だにしないままだ。


「でも、よく見えました。とっても綺麗でしたよ」

「そう」


 綺麗でしたよ、というのはもちろん、ダービーで見たあの不思議な光のことだ。あれを伝えるつもりならあまりにも言葉が足りなさすぎるわたしの言葉だったが、なんとなくななこ先輩にはちゃんと伝わっているような気がした。


 本当は今日、ななこ先輩に聞いてみるつもりだった。あの光はなんなのか。なぜ見えたのか、そしてなぜ見えなくなって、なぜまた見えたのか。


 だけれども今は、話さないほうがいいような気がしている。あれはきっと、わたし一人で大事にしていた方がよいことだ。わたしは一人であの光を追い求め、一人で謎を解き明かそうとするだろう。


 たぶんそれが、わたしの馬券師道なんだと思う。


「でも良かった」


 わたしが自己完結していると、ななこ先輩がぽつりと漏らした。


「サトミちゃんが、変な男のものにならなくて」

「ああ……ですね。正直肝が冷えましたよ」


 ななこ先輩も心配してくれていたんだな。わたしは少し嬉しい気分になる。


 そしてふたたび部室に沈黙が満ちた……ってあれ?


 わたし、負けたら伊波の女になるって話、ななこ先輩にしたっけ?


「あのっ……!」


 わたしは問いただそうとしたのだが。


 その瞬間部室の扉ががらりと開いて、わたしの言葉は遮られた。


「待たせたな。湯を持ってきたぞ」


 入ってきたのは水を汲みに行った副部長である。わたしはタイミングを失って口をぱくぱくさせるのみで、ななこ先輩への質問はそれ以上出てこなかった。間の悪い副部長が少し恨めしくもなったが、たぶん聞いたところでななこ先輩は何も答えてはくれないだろう、という気もした。


 わたしの葛藤は知らず、副部長は呑気にこぽこぽと湯気をたてながら急須に湯を注いでいる。


「あれ、もうお湯湧いたんですか?」

「いや、ちょうどユビキタス研の部室に湯入りのポットがあったのでな。拝借してきたのだ」


 しれっと言う副部長。確かによく見るとそのポットには油性マジックで『ユビキタス研備品』『持ち出し禁止!』と書いてある。


 ……わざわざそう書いてあるってことは、たぶん今回が初犯じゃないな。


「また田野倉くんが怒鳴り込んできますよ」

「なに、代わりに空のポットを置いてきた。等価交換だ、問題ない」


 ことり、とわたしの前に湯気を立てる茶碗が置かれる。


「等価ですかねえ……」


 わたしにはありありと、五分もしないうちに田野倉くんが怒鳴り込んでくる未来が見えた。 それできっとまた馬券勝負だなんだと騒ぎだしたりして、なんやかんやでわたしもそこに巻き込まれたりするのだ。


 まあいいや、来るなら来いだ、とわたしは思った。わたしに平穏な学校生活なんて送れそうにないというのは、この二か月ほどでよく分かった。というかたぶん『平穏な学校生活』なんてものは幻想に過ぎなくて、どこにもそんなものはないのだろう。一日一日は波乱に満ちていて、ひーこら言いながら一日ずつ乗り越えていくしかないのだ。


 それにまあ、この二か月が楽しくなかったかと言われると、そんなこともないのである。


 お茶は、普通においしかった。


(了)

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安楽椅子馬券師ななこ うお @fish_or

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