13 『第84回東京優駿 後編』
「あー、やっと来た」
めぐさんの声に振り向くと、のんきに手など振りながら、姐さんがのんびりと歩いてくるところだった。
「姐さん! 何やってたんすか!」
「やー、ごめんごめん。ちょっと知り合いに会っちゃって」
姐さんはてれてれと頭をかく。俺はその表情が、ずいぶんと嬉しそうというか、明るいものに変わっているのに気づいた。さっきまで見えていた普段の姐さんらしくない焦りみたいなものが消えているような気がする。
「遅かったな」
「違う違う、そこは『ふっ、怖気づいて逃げたかと思ったぞ』とか言うところでしょ」
「そんな三下みたいなセリフ、言わねーよ」
姐さんはまた伊波に気安く話しかけている。少し心を許しすぎだと思うのだが。
「それよりサトミちゃん、レース始まっちゃうけど、指名は決めてるの?」
「んー、三番で」
姐さんは紙に書くことすら放棄して、いい加減に答える。朝からこの『三番』ばかりで、俺は内心穏やかではいられない。まさか本当に『一日賭けてれば一回ぐらい来るんじゃない』作戦でいくつもりなのだろうか。
「またそれっすか……姐さん、諦めたわけじゃないっすよね」
姐さんの性格からしてそれはないとは思いつつも、俺は確認せずにはいられなかった。
「まさか」
俺の気苦労も知らず、姐さんは明るく笑う。自信満々だった昨日までの笑顔とも、今日の午前中の強がっている笑顔とも違う、屈託のない笑顔だった。そしてなにやら自分の右手を、大事そうにさすっている。
「まだエンジンがかかってないだけだよ。メシも食ったし、こっからよ」
「ならいいんすけど……もう半分っすよ?」
ここまで的中ゼロで、第五レースに賭けた分をさっぴくと、姐さんの持ち点は半分の5000ポイントまで減っている。逆転するにしても、そろそろエンジンをかけていかないと厳しいのではないだろうか。
「だいじょぶだいじょぶー」
しかし姐さんの返事は、あくまで軽かった。
第五レースは普通に外れた。実際一回ぐらい三番が来てもよさそうなもんなのに、と俺は恨めしく電光掲示板を見つめる。このレースは伊波も外したのが、せめてもの救いではあったが。
「おっしゃイチ、パドック行くよー」
しかし姐さんは気にした様子もなく、レースが終わるや否やパドックに向けて歩き出そうとする。俺は慌ててついていこうとしてふと、姐さんのバッグが席に置きっぱなしなのに気づいた。めぐさんが席に残ってくれているので荷物を置いておくこと自体は問題ないのだが、あの中には今日姐さんが後生大事に持ち歩いていた、双眼鏡が入っていたはずだ。
「姐さん、双眼鏡は持っていかなくていいんすか?」
忘れているのかもしれないと思って聞いてみると、姐さんは怪訝そうな顔をして振り返った。
「……パドック見るのに双眼鏡いらなくない?」
「それ! それ俺が今日ずっと言ってたことですよね!?」
俺が何度言っても双眼鏡を覗くのをやめないので、何か考えがあるのかと思って聞いてみればこの仕打ちだ。
「あはは、ごめんごめん、じょーだん。悪かったね、今日はいろいろ振り回して」
「い、いえ。俺はいいんですけど」
姐さんはからからと笑って、素直に謝った。そんな眩しい笑顔で、急に素直にされるとどうしたらいいか分からなくなる。やっぱり姐さんはずるいな、と思った。
「でももう大丈夫。わたしはもう、賭けてるものを間違えないから」
「賭けてるもの? 伊波のことっすか?」
俺が首をひねると、姐さんは笑顔で首を振った。
「そんなちっぽけなもんじゃないよ!」
「ええ? 全然小さくなんかないっすよ!?」
伊波としている賭けよりも大きなこととは一体何なのか。姐さんは笑うばかりで、それ以上教えてはくれなかった。
第六レース以降、姐さんの雰囲気は確かに変わった。パドックも肉眼で近くから見るようになり、馬を見ることに集中するようになった。俺に対しても「あの馬の前走はどんな感じだったの?」なんて聞いてくるようになって、勉強の成果を発揮できて俺も嬉しかった。ちゃんと考えて、三番以外の馬を指名するようにもなった。
だが、結果はついてこなかった。
六、七、八レースとすべて単勝で指名して、姐さんの指名馬は三着、五着、二着。惜しいところまでは来ているのだ。特に第八レースなどはクビ差の接戦で、しかも勝ったのは第五レースまで指名し続けていた三番の馬だった。俺は声を枯らすほど応援をした後、歯噛みをして悔しがった。
「んー、惜しかったね。ざんねん」
と、しかし姐さんは涼しい顔をしている。
伊波の方はというと、この三レースを使って三連続複勝コロがしに成功。デカいナリの割にちまちまと稼ぎやがって、なんて思っていたのが、気づけば初期の倍以上、22080ポイントを手持ちにしていた。
姐さんの持ち点はもう、2000ポイントしか残っていない。
俺は悄然として、姐さんの隣で第九レースのパドックを見ていた。姐さんがまだ諦めていないのだから、舎弟の自分が先に諦めるようなことではいけないと頭では分かっているのだが、気持ちが落ち込むのを抑えられない。
姐さんのことだ、もし負けて『伊波のオンナ』になったとしても、そう簡単には相手の好きにはならないだろう。だけれども、自分から受けた勝負の条件を反故にするようなことも、きっとしないだろう。勝負のことをたてに迫られれば、いろいろと不快なことも断りきれないかもしれない。姐さんはそういう人でもあった。
中学の頃、後先考えず暴れまわる俺たちがいつの間にか想定を超える事態に陥っていたとき、駆けずり回ってくれたのは親でも教師でもなく、いつも姐さんだった。俺が濡れ衣で
歯がゆかった。姐さんの力になりたかった。
道場の門下生から、俺は姐さんのことが好きなのか、と聞かれることがある。俺はいつも『そんなの恐れ多い』と答えるし、それが本心だ。傍にいたいなんて恐れ多い。ただ、ほんの少しでも姐さんの力になることができれば、それでいいのだ。
「んー、わかんないな」
姐さんがつぶやいて、いつの間にか考え込んでしまっていた俺はハッとした。すでにパドックは終わり、最後の数頭が地下道に消えていこうとしていた。
「わかんないって……ヤバいんじゃないっすか?」
「正直言うと、ちょっとヤバいね」
姐さんはそれが恥ずかしいとでも言うように、照れ笑いを浮かべる。ちょっとなんてものじゃなく、凄くヤバいと思うのだが。次を外せば残りはたったの1000ポイント。伊波はさすがにもう最小単位で賭けてくるだろうから、20000ポイント以上残すことになる。
これだけ差がついていると、仮に最終レースを的中させたとしても追いつけないという、最悪の結末も考えられるのだ。
「競馬の本質はギャンブル……。分かってたつもりだけど、理解するのはやっぱり難しいね。でもたぶん、間に合わないってことはないはず」
姐さんは独り言のようにぶつぶつと呟いている。すっかり馬がいなくなったパドックから動かず、パドック後方でオッズを表示している電光掲示板をじっと睨みつけている。
「……そっか。伊波をパクればいいのか」
姐さんはぱちん、と手を打ち鳴らすと、真面目な顔を俺の方に向けてきた。
「ねえイチ、二番と七番、どっちがいいと思う?」
「ええっ? えっと、データ的にってことですかね」
「どっちでもいいけど。イチならどっちを選ぶ?」
俺はううんと唸って、手元のおうまさん週報を広げた。正直生きて動いてる馬なんて今日初めて見たぐらいのもんなので、パドックの見方なんて分からない。だが手元の冊子には、連日データ競馬の勉強をした結果の赤ペンがびっしりと書き込んである。
「……二番、ですね」
俺の赤ペンによる書き込みは、そう言っていた。
姐さんは軽い調子で頷くと、
「おっけ、ありがと」
と言って、スタンドの方へさっさと先に歩きだした。
慌てて後を置いながら、俺はその『ありがと』という言葉が、どきどきと心臓を脈打たせるのを感じていた。
だがそんな浮ついた俺の気持ちは、買い目を発表するめぐさんの言葉で一瞬にして凍りつくことになる。
「サトミちゃんの指名は二番の、今回は複勝なんだね。えー……2000ポイント? でいいの?」
「ええっ!?」
俺は思わず声を上げた。
「よ、読み間違いですよね? 姐さんの字が汚いから……」
「汚くねーよ」
どすっと脇腹に手刀を突き刺される。地味に痛い。
「あってるよ。二番の複勝に2000」
「だって、もうポイント残ってないんすよ!? 外したらダービー前に終わっちゃうんですよ!?」
「別に負けるんだったら、今負けようがダービーで負けようが一緒でしょ。今更グダグダ言わないの」
「そりゃそうっすけど、もしかしなくても俺の予想聞いて二番にしましたよね!? これで負けたら自慢じゃないですけど俺、一生悔やみますよ!?」
「あはは、イチならマジで十年ぐらい悔やんでそうだね」
「笑い事じゃないっすよ……」
姐さんはそんなやり取りをしながら朗らかに笑っていたが、俺はその眼はどこか遠くを見ているのに気づいた。
俺はこの眼を見たことがある。隣町の中学校に殴り込みに行ったときや、つい最近だが、伊波のチームの根城に乗り込む前もこんな眼をしていた。姐さんは一度覚悟が決まったら、最後までぶれることはない。
「はあ、分かりました。俺も一生悔やむ覚悟を決めますよ」
「嫌な覚悟を決めるなっての」
ごちんと頭に拳骨を落とされたが、力はこもっておらず、俺はむしろ頭を撫でられたように感じた。
「はああああああああああああああああ」
第九レースが終わり、俺は特大のため息を漏らした。
「生き残ったか。まあ、ダービー前に決着じゃ格好がつかんからな」
との伊波のコメント通り、どうにか首の皮一枚繋がったのだ。
しかし一度安堵すると、今度は残念な気持ちがこみ上げてくる。姐さんの指名した二番は、一着だったのである。だが複勝で指名したので、配当はたったの2.7倍だ。単勝だったら6.5倍だから、大きく追いついていたことになる。
今日はずっと単勝で勝負していたのに、単勝を指名すれば二着三着に来る、複勝を指名すれば一着になる。予想は悪くないのに、典型的な流れの悪いパターンだと思った。
しかし姐さんはというと「意外とついたね」と単純に喜んでいるからよく分からない。確かに複勝馬券は三頭分の当たりが出る関係上、どの三頭が来るかによって配当が変動する。二番の複勝オッズは2.0~2.9倍だったが、二着に入った馬が人気薄だったため、上限に近い払戻しになったのではある。
このレースの伊波は外したので現在は21080ポイント、姐さんは今ので5400ポイントになったが、依然として大差だ。
「さ、パドック行こう。きっと人でいっぱいだよ」
「は、はい!」
といえ、俺がいつまでも思い悩んでいても仕方ない。ともかく次のダービーで勝負できるだけの元手は手に入ったのだ。
姐さんは例の双眼鏡が入った鞄を手にとった。めぐさんがもうとっくに喜々としてパドックに写真を撮りに行ってしまったので、荷物は置いていけないからだ。
パドックの外周は人でいっぱいで、俺たちは外縁部から遠巻きに見ることしかできなかった。使うなら今こそが双眼鏡の使い道ではないか、と思ったのだが。
姐さんは肉眼のまま、眩しそうに眼を細めて、周回する馬たちを見守っているのみだった。
そしてレース前。満足のいく写真が撮れたらしく、ほくほく顔のめぐさんから、各々の指名が発表される。
「まず伊波くん。単勝四番スワーヴリチャードに1000ポイント」
「単勝なんだ?」
姐さんが不思議そうに首をかしげるのに、伊波は真剣な顔で頷く。
「ああ、ダービーは特別なレースだ。ここで単勝を当てて勝つ。そしてお前に、俺を認めさせてやる」
「あっそ」
姐さんは興味がなさそうにそっぽを向いた。
「で、サトミちゃんね。こちらも単勝、十二番レイデオロ、5400ポイント!」
こちらは当然、全額賭けだ。かくして馬券勝負最終レース、日本ダービーの予想は出揃った。
伊波 ④スワーヴリチャード 単勝 1000pt(残:19080pt)
サトミ ⑫レイデオロ 単勝 5400pt(残:0pt)
眼下のスタンド前、馬場に近いところの立ち見スペースは、すでにくろぐろと頭が詰まっていた。もう一人も入るまいと思えるのに、それでもあらゆる入り口から人が吐き出されてきて、どんどんと密度を増していく。
太陽の光がさんさんと降り注いでいる。下からは人々の熱気が渦巻いてくる。俺は冷や汗だか熱気のせいだかわからない汗を、額からだらだらと流しながら祈っていた。
神にではない。
神になんて祈ったら、むしろ姐さんは負けてしまいそうな気がする。だから俺の祈りはこれだけだった。
姐さん、お願いします! やっちまって下さい!
ざん、ざん、さん。やがてどこからともなく、会場中から手拍子が沸き起こる。スターターがゆっくりと台上に上がる。誰からともなく、ぽつりと呟いた。
「始まるね」
「はい」
「おう」
「ダービーだね!」
何万人もの手拍子のなか、日本ダービーの開始を告げるファンファーレが鳴り響いた。
わたしは見ていた。
十八頭の馬が同時にスタートを切る。マイスタイルがハナを切り、アルアインなどがそれに続く。伊波指名のスワーヴリチャードは少し後ろ、中団馬群の中ほどにつけ、わたし指名のレイデオロはそのさらに後方、後ろから四、五番手を追走する。
向こう正面でレイデオロは一気に加速、まだゴールまで1000メートルもあるというのに、二番手近くまで位置を押し上げて、会場がどよめく。鞍上ルメール騎手の英断だった。
そんなレース展開だったそうだが、わたしはそれは見ていなかった。
馬群は最終コーナーを抜け、レイデオロは二番手で最後の直線に入る。内ラチ沿いで粘っているマイスタイルを、レイデオロがじりじりと追い詰め、かわして先頭に立つ。そこに馬群の中から抜け出してきたスワーヴリチャードが、ものすごい末脚で差しにかかる。
「差せーーーーっ!!!」
「そのままーーーーっ!!」
イチと伊波がほとんど同時に叫ぶ。わたしはこの叫び声が好きだ。競馬は人の語彙力を少なくし、希望を単純にさせる。彼らの望むことは「差せ」か「そのまま」の二択しかない。
とはいえ、わたしはそれも見ていなかった。
残り100m。マイスタイルを完全にかわしたレイデオロに、スワーヴリチャードが馬体を合わせにかかる。鞍上が懸命に追い、鞭を振るう。それに応えるように、レイデオロが最後にもう半馬身だけ伸びた。
そしてわたしは見ていた。
レイデオロからずっと溢れ落ち続けていた光、それは白だったり黄色だったり、青だったりピンク色だったりしたが、虹色に輝くそれが、スタート地点からぐるりと競馬場を一周して、ひとつに繋がるのを。
そして繋がった楕円形の輝きは、そのまま雲のようにふわりと広がって、空高く舞い上がり――
――名残を惜しむようにしばらく上空できらきらと日光を反射させたかと思うと、10万人の大観衆の頭上に降り注いだ。
星の降る世界。
それが、わたしの見たダービーだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます