12 『第84回東京優駿 前編』

 そして迎えた五月二十八日、日曜日。


 気づけばもうややおも高校に入ってから二ヶ月近くが経過したわけだ。学校に慣れた気はさっぱりしないけれども、たった一人で電車を乗り換えて府中に来られたあたり、わたしもだいぶ慣れてきたのかもしれない。


 府中。これはややおも校生(というか競馬ファン)にとっては、東京競馬場を指す言葉だ。日本最大の競馬施設であり、以前田之倉くんと馬券勝負をした中山競馬場なども、府中を知った後ではこじんまりとして感じられるほどの堂々たる競馬場である。


 ちなみに来るのは始めてではない。ややおも校生は「週末カラオケ行かない?」の代わりに「競馬場行かない?」とこうくる生き物だ。馬券勝負でなくとも、クラスメイトとの付き合いで競馬場に来ることは多々あったのだ。まあおうまさんを見たり、芝生に寝転がってフライドチキンを食べたり、てきとうにレースを応援したりして、ピクニック気分でそれなりに楽しかったのではある。


 とはいえ今日は東京優駿、ダービーだ。わたしが来たときは大きなレースのない土曜日ばかりだったので、駅からして雰囲気が違う。まだ午前9時前だというのに、わたしはホーム上でもみくちゃにされながら、ゆっくり進む行列と共に改札から吐き出された。


「姐さん、お早うございます」

「おっ、イチ。おはよ」


 改札を出ると、アーチ上の通路で競馬場正門まで一直線だ。その通路の手前で、イチが手を振っていた。いいと言ったのだが、どーしてもというので今日の勝負の付き添いにしてやったのだ。


「迷わず来れた?」

「はい、絶対迷うと思ったんすけどね。人の流れについて来たらそのまま来れちゃいました」

「あー。確かにこれじゃ、迷えってほうが無理かもね」


 確かにこれだけの人間が同じ方向に移動しているのだ。乗り換えを間違えるほうがよっぽど困難だろう。


「はあ……しかし、ホントに勝負するんですね」


 イチはわたしの姿を見ながら、ため息をついた。ちなみに今日のわたしはもちろん特攻服姿なんかではない。普通に私服の、二つ名ナシのただの羽崎サトミだ。


「まだ言ってんの? だいじょーぶだよ、勝つから」

「姐さんはそう言いますけどね……」


 イチはごにょごにょと、この期に及んでもまだ今日の勝負について不満顔である。


 わたしが今日の勝負に負けたら、伊波のオンナになる。その勝負が決まったあとこいつは『姐さんあんなのが好みだったんすか?』なんて寝ぼけたことを抜かしていたのでぶん殴ってやったわけだが、それでもまだ疑っているフシがあった。つまり、伊波に惚れられてわたしがまんざらでもないのではないか、というのである。


 わたしにとってみればとんでもない話だが、まあイチの気持ちも分かる。なんたって、魔法の双眼鏡のことは誰にも話していないのだから。というか話したら話したで頭のほうを心配されそうなので、話しようがないのだ。


 まあ結局、周りにどう思われようと、勝てばいーのだ。勝てば終わる。わたしはイチのぶつぶつ言うのを無視しつつ、鞄の中の固い感触を確かめていた。うん、ちゃんとある。肝心の双眼鏡を忘れたなんていうベタな展開はナシだ。


「おーーーーっす! サトミちゃんっ!」

「ぐえっ」


 と、人混みからピンクい塊が躍り出てきて容赦なくわたしの背中に張り手を食らわし、わたしは思わず声をあげた。


「め、めぐさん……」

「っはよー! 今日は絶好のダービー日和だねー!」

「……はよ。テンション高いね」

「それが取り柄だからね!」


 めぐさんはふん、と胸を張った。イチの眼が揺れる二つの塊に釘付けになっているが、見なかったふりをしてやる。誰だって最初は目がいくよね、うん。


 めぐさんは以前の勝負と同じく、勝負の立会人をやってくれることになっている。本当は、今日は同時刻に学校でもななこ先輩とクルミちゃんの勝負があるわけで、そっちで馬券放送部の仕事がなんやかんやあったそうなのだが、わざわざキャンセルしてこちらに来てくれたのだ。


「今日はありがとね、めぐさん」

「いーって事よー。こっちの方が面白そうだから、あたしが来たかったんだもん。それにやっぱ、ダービーは現地じゃないとね!」


 と、明るく笑うめぐさんの首からは、ピンクいフリフリの服装に似合わないごっつい一眼レフが提げてある。めぐさんはめぐさんで競馬場を満喫する気まんまんらしい。


 わたしはイチとめぐさんを互いに紹介し、三人で場内に入ることにした。イチは初見ではめぐさんの出で立ちにかなり度肝を抜かれていたようだが(いきなり真っ赤なサイドテールが現れたらそりゃビビる)、それでかえって先程までぴりぴりしていたのがほぐれたようで、今は歩きながらめぐさんとにこやかに談笑していた。


「でさでさ、イチくんてば、サトミちゃんとどういう関係なの?」

「舎弟っす!」


 わたしはほがらかにそう言い切ったイチの頭をはたいた。


「嬉しそうに言うな。他に言い方ってもんがあるでしょ」


 言うと、イチはきょとんとして、


「つっても、舎弟じゃなかったら何なんすか?」


 と首をひねる。


「そりゃあんた……」


 わたしも言いよどむ。何だろう。友達……ってガラでもないし、なんか恥ずかしい。けど、知り合い、だなんて突き放して言うほど縁が浅いわけでもない。


「……腐れ縁?」

「おー、いいっすね腐れ縁、かっこいいっす! じゃあそれで!」


 わたしが少ない語彙の中から言葉を引っ張り出してくると、イチはなぜか嬉しそうだった。まあ、気に入ってくれたならそれでいいや。


「ほーんほーん、なんかアヤシー関係なんだね!」


 と、そんなわたしたちをめぐさんはめぐさんで嬉しそうに見ていた。嬉しさのベクトルはぜんぜん違うのだろうけれど。


 そんなこんなでわたしたちは勝負の緊張感もくそもなく、人でごった返す東京競馬場に突入していった。


 今日は、ダービーだ。




 日本ダービー。競馬に興味がないわたしでも聞いたことぐらいはある、知名度抜群のレース。競馬場ハコの広さの関係もあるとはいえ、先月の皐月賞と同じG1でありながら、二倍以上の人が集まるらしい。


 しかしさすがに東京競馬場は大きく、人の数は多いがまだ歩きづらいというほどではない。とはいえスタンドと芝生の上はとっくに場所取りが済んでおり、例に漏れずスタンドの一画にはややおも校生たちが陣取っている。


 が、わたし達が向かったのはややおも校生たちからやや離れた位置。特に場所取りがされているようには見えないのに、なぜか席が三列ほどぽっかりと並んで空いている一画である。


「よう、来たか」


 そのぽっかり空いたゾーンのど真ん中に、ふんぞり返って座っているのが伊波であった。


「……」


 なんというか、わたしはコメントに困った。


 まず黒い。黒のライダースジャケットにレザーパンツ、それもぎらぎらと陽光を照り返すタイプの凶悪な黒だ。そこにごっついシルバーのバックルがたくさんついた、キック力高そうなインディゴのエンジニアブーツを履いた足を、大きく広げて前の座席に乗せている。黒の短髪は、今日は丁寧に後ろになでつけてオールバックにしていた。


 言ってみればスカした格好なのだが、伊波自身のガタイの良さとあいまって、威圧感がハンパない。周囲の席に誰も座らないのも頷ける話だった。


「ようサトミ。言われた通り、場所は取っといたぜ」


 口ぶりからすると、威圧感を周囲に振りまいていたのはわざとであるらしい。わたしはこの男に場所取りを任せたのは致命的な人選ミスだったと、今更ながらに後悔した。


「えーっとね」


 わたしは彼のファッションセンスについて突っ込むのは早々に諦めた。何しろ格好だけで言うならこの場で一番おかしいのはどう考えたってめぐさんである。なのでわたしはこう言った。


「まず足を下ろせ」

「……あ?」


 人に指図されるのに慣れてない伊波は不快感を表情に浮かべ、ぎろりと睨みつけてきた。人から何か言われたらとりあえず「あ?」と言っとくのはヤンキーの条件反射みたいなものだ。


「いいから足!」


 そしていちいち条件反射に構ってられないので、わたしは有無を言わさず繰り返す。伊波は「お、おう……」と不承不承ながら足を下ろす。だがまだエラソーな大股開きのままである。


「で、足幅」

「……あ?」

「あじゃなくてさ、それじゃ隣に座れないでしょうが。混んでんだから席はひとり一つ。当たり前でしょ」


 と睨みつけると、


「隣に……」


 と一瞬フリーズした伊波はなぜか嬉しそうな顔になると、やけに素直にぱっと膝を締めて座り直した。


「うん、よろしい」


 その隣にわたしがどっかと座る。伊波は肩幅がでかいので、肩がくっつく形になるが混んでいるのでしょーがないし、この野獣の隣にイチやめぐさんを座らせるわけにもいかない。伊波は格好に似合わず膝をくっつけたちょこんとした座り方のまま、妙に嬉しそうに肩を揺すっていた。うざいのでやめて欲しい。


「じゃあ、めぐ……」


 伊波に紹介しようとめぐさんを呼ぼうとすると、イチが遮るようにわたしの反対側の隣にどかっと座ってきた。せまい。


「あらあら、サトミちゃん、両手に花だねー」

「こんなゴツイ花いりませんけどもね……」


 わたしは苦笑しながら、伊波をめぐさんに紹介した。さすがの伊波もめぐさんの格好には面食らっていたようだが、めぐさんは涼しい顔でいつものように「よろしくねっ☆」などと言っていた。やはりこの人は只者ではない。


「姐さん」

「ん?」


 イチが小声で言ってきたので、耳を寄せる。


「あいつ、めぐさんに全然興味なさそうっすよ」

「そう?」

「ええ。あの胸部装甲をチラッとも見なかったっすよ。やっぱあの伊波って奴はロリコンなんですよ!」

「……」


 わたしは無言でイチを殴りつけた。


「んじゃま、確認するよー」


 そんなやりとりを気にもせず、ひとり立っているめぐさんがぱんと手をたたく。


「今日のルールは10000点持ち、最低1000点指名ね。そして特別ルールとして、第十レース、つまり日本ダービーを最終レースにするのよね?」

「ああ、それでいい」


 伊波が頷く。特別ルールは伊波の発案であった。


 競馬は一日に十二レースあり、ダービーは第十レースである。つまりダービーが終わった後でもまだニレース残っているわけだが、今日の馬券勝負はダービーまでの10レースのみを対象とすることになっている。


 伊波いわく「メインレースで盛り上がったあとに、だらだら勝負を続けるのは好きじゃねえ」だそうだ。まあ分からんでもないし、わたしとしては短くなるのは歓迎なので問題ない。


「で、この勝負だけど、豪華賞品つきなのよね。伊波くんが勝ったら、なんとサトミちゃんが手に入ります」

「お、おう」


 伊波がごくりと唾を飲み、わたしははあとため息をつく。当事者にとっては重たいが、客観的にはなんともまあ馬鹿な勝負である。


「で、サトミちゃんが勝ったら、サクラダ君とウシザワ君……って人たちをチームから無条件で抜けさせる、ってことでいいのよね?」

「うん」

「まあ、いずれにせよその二人については心配しなくてもいい。俺は自分の女の頼みを断るほど狭量じゃねえからな」


 したり顔で言う伊波を、わたしは睨みつける。


「お生憎様だけど、わたしは普通に勝つから」

「……」


 伊波はそんなわたしの眼を見つめ返すと、きりっと急に真面目な表情になった。


「なあサトミ、俺もよ、こんな形で勝負することになったのは悪いと思ってる」

「何よ急に」

「だがよ、俺はお前の気っ風に惚れたんだ。だから無様でも、あのままお前と別れたくなかったんだ。すまん」


 と、急に頭を下げた。なにげに正面から『惚れた』と言われたのは初めてだったので、少し面食らう。


「……何よ、今更いい人ぶろうっての?」

「そんなつもりはねえ。が、俺が真剣なんだってことは知っといてもらいたくてな」


 伊波は頭を上げると、また真っ直ぐにわたしを見つめてくる。


「俺が勝っても、お前が嫌がるようなことはしない。約束する。だが、そん時はお前も俺のこと、真剣に考えてくれ」

「ふん」


 わたしは真剣な伊波の視線をふり払うように立ち上がった。


「あんたが勝ったときのことは、あんたが勝ったときに考えるよ」


 そう言うと、わたしは伊波を睨みつけて今にもガルルと吠えそうな顔をしているイチを軽く小突いて立ち上がらせた。


「さ、パドック行くよ!」

「へ、へい!」


 今更真剣だとかなんとか抜かされても仕方ない。だいたい伊波には悪いが、わたしにはななこ先輩の双眼鏡があるのだから、負けっこないのだ。わたしはズルをしているような(実際ズルなのだが)罪悪感に駆られながら、逃げるようにイチを連れてパドックに向かった。


 ともかくこうして、わたしと伊波の勝負がスタートしたのだ。




 パドックにはまだおうまさんは出てきていなかったが、すでに最前列のほうはそれなりの人だかりになっていた。伊波とは別行動で、めぐさんもスタンドに置いてきてしまったので、そばにいるのはイチだけだ。


 パドックの周りはすりばち状の段差に囲まれている。わたしはその3段ほど上の全体が見やすい位置に陣取り、カバンから例の双眼鏡を取り出した。


「……それいります? この距離で」

「……」


 イチに怪訝な目で見られる。馬が歩く歩道までここから10メートルもないので、たしかに普通はいらない。


「……こう、馬体の隅々まで見たいんだよ」

「そういうもんですか」


 説明するのも面倒なので適当なことを言ったが、一応イチは納得してくれた。


 ちなみにイチの手には毎度おなじみ『おうまさん週報』が握られている。このあいだまで中坊だったのだから当然だが、イチもわたしと同様競馬に関してはまったくの素人だ。が、今日の勝負に備えていろいろ勉強をしてきたらしい。ぱらぱらとめくる『おうまさん週報』には、赤ペンで◎とか△とか意味の分からない書き込みがしてある。


「あんた、それの意味わかんの?」

「? それって何のことすか?」

「おうまさん週報に書いてあることだよ。何走前のデータがどうたらいうやつ」

「ああ、分かりますよ。サクラダのにーちゃんが競馬好きらしくて、教えてもらったんすよ」

「そっか……」


 わたしは未だにどの数字が何を示しているのか理解できていないので、ちょっとイチに負けた気分になった。わたしも今となっては「競馬になんか興味ないし覚える気もねーよ!」なんて言う気はないし、実際覚えようとしてクラスメイトや副部長から説明を受けたこともあるのだが。……あれ見てると目がチカチカするんだよね。


「……ま、わたしはパドック派だから」

「大丈夫っすよ姐さん。わかんないことあったら俺が教えますから」


 わたしの負け惜しみに込められた意味を正しく察知して、イチは優しくフォローを口にした。優秀な舎弟である。


 優秀すぎてムカつくので軽く蹴りを入れたら「なんで!?」と言われた。なんでだろうね!


 そうこう言ううちに奥のトンネルからおうまさん達が姿を現して、わたしは慌てて双眼鏡を覗き込んだ。


 ゼッケン1番をつけた馬の顔が視界に大写しになる。あら凛々しい顔立ちだこと。最初はうまなんて全部同じように見えたものだが、それなりの頭数を見てきて、だんだん違いぐらいは分かるようになっている。


 といえ今重要なのはそこじゃなく、あの光だ。


 わたしは顔から首、首から前足、前足から胴、胴から後足と、視界を忙しなく動かして、一頭一頭を入念にチェックしていった。


 ……。


 ぐるり一巡が終わって、もう一巡。もう一度1番の馬から入念にチェック。


「お、あの馬うんこしましたよ」


 隣のイチが、初めてパドックを見たときのわたしと同じようなことを言っている横で。


 わたしは双眼鏡を構えたままだらだらと汗を流していた。


「……見えない」


 田之倉くんとの勝負のとき、あんなにくっきりと見えた光が。勝ち馬を示すはずの、馬にまとわりつくようなあの光が、どこにも見えないのだ。


「でしょうよ」


 わたしの焦りをよそに、イチが呆れたように言う。


「やっぱ双眼鏡で見るには近すぎますって。ないほうがむしろよく見えますよ」

「……そうか!」


 わたしはイチの言葉を聞いてぴんときた。あの光を見たとき、パドックにはあまりにも多くの人がひしめいていたために、離れた上層階のテラスから見ていたのだ。魔法の双眼鏡にも、有効射程みたいなものがあるのかもしれない。


「イチ、あんがと! 行くよ!」

「いや、当たり前のこと言っただけっすけど……どこへ?」

「上! テラスからなら双眼鏡で見るのにちょうどいいでしょ!」

「ええ? 双眼鏡使うために遠ざかるって本末転倒なのでは……」


 呆れたように言うイチを無視して、わたしは屋内にとび込むとエスカレーターの右側をずんずん登っていった。おうまさん達もいつまでもぐるぐる回っていてくれるわけではないので、急がなければいけない。


 エスカレーターが途切れるところまで登ると、表示は5階とある。テラスに出るとさすがにこのあたりまで来ている人は少なく、備え付けの灰皿のそばで煙草を吸っているおっさんが数人いるのみである。


 パドックはまだ終わっておらず、豆粒ほどの大きさの馬が、双眼鏡で見るとちょうど全身を把握できるぐらいの距離だ。


「よっしゃ、丁度いい塩梅だね! よく見える!」

「いや、さっきもよく見えてましたよね!?」


 わけもわからず着いてきたイチが息を切らしている。イチからしてみれば自分がすごい奇行をしている自信はあるが、言い訳をしている余裕はない。


 それから「とまーれー」の合図でパドックが終わるまで、わたしはじっと双眼鏡を覗き込み続けていた。




「結局見えなかった……」


 スタンドの席に戻って第1レース開始を待ちながら、わたしは頭を抱えていた。


「いや、だからずっと言ってますよね!? 普通に肉眼で見たらいいじゃないかって。なんで無視するんすか!?」


 面倒なのでパドック中ずっとイチを無視していたところ、なんかもう泣きそうになっていた。ホントごめんと思う。


 だがわたしの心中も穏やかではなかったのだ。頼みにしていたところの双眼鏡、そもそもこれの存在があったから、負けないという保証があったから、わたしは勝負をオッケーしたのだ。


 もしこのままあの光が見えないとすると。わたしはゾっとした。伊波の実力がどれほどのものかは知らないが、運否天賦でわたしは伊波の女にならなければならないのである。


 さっきはちょっと紳士的なことを言っていたのでそうひどい事もされないだろうとは思うが、実際にそうなって見れば奴も男だ、どうなるか分からない。最悪の想像が頭をよぎる。


「……えーっと、もうすぐレース始まるけど、サトミちゃん決まった?」

「うぐ……」


 わたしは苦し紛れに、適当な馬番を紙に書いてめぐさんに渡した。わからなかろうが毎レース1000ポイントは必ず使わなければならないのが、馬券勝負の辛いところである。


「ほい、じゃあ伊波くんのも貰ったので、発表しまーす」


 と、めぐさんは二枚の紙を広げる。予想を書いて渡すのは、相手の買い目を真似ることを防ぐためである。仮に100ポイントでもリードしていれば、相手の買い目をそっくりそのまま真似するだけで100パーセント勝ててしまう。むろんそこまでセコいことをする奴はそうそういないだろうが、人間勝負事で土壇場になるとわりと何でもやっちゃうものである。それにこうしておけば、たまたま予想が被ってしまった際にも余計な諍いを生まなくて済む。


「まずサトミちゃんから。サトミちゃんは単勝の3番に1000ポイントね」


 ちなみに内緒だが、わたしが3月生まれだから買っただけである。


 まあ問題は次だ。馬券師力(ばけんしちから)は完全に未知数の伊波だが、一体どんな買い方、じゃなかった指名の仕方をしてくるのだろうか。


「つぎ、伊波くんね。2番の複勝を1000ポイント」

「こらーーーーーっ!」


 わたしはめぐさんの読み上げる伊波の指名を聞いて、いきなり伊波を叱りつけた。

 叱りつけられた伊波も、イチも、めぐさんまでもぽかんとしている。


「なにそんな当たりそうな指名してんの!」

「ええ……」

「だいたい何よ複勝って、3着まで当たるやつでしょ? ずるくない!? しかも2番ってめっちゃ人気してるじゃん!」

「お、落ち着いて下さい姐さん。メチャクチャ言ってますよ」


 イチに宥められ、わたしは落ち着いた。


「おっけー落ち着いた。でもさ、なんかほら、キャラと違くない? 複勝って……」


 だが落ち着いたのは落ち着いたとして、言いたいことは言う。


 全身黒皮のオールバックで、熊のようにみっしりした大男がである。複勝とかいうめちゃめちゃ堅実路線の指名をするんだから、なんか違うとつい叱りつけてしまうのもしょうがない。


 そんなわたしの気持ちが伝わったようで、めぐさんとイチもなるほどと頷いた。


「確かに……」

「キャラ考えてほしいっすよねー」

「う、うるさい! 複勝の何が悪りぃんだよ、俺はこういうスタイルの馬券師なんだ!」


 いわれのない非難を受けた伊波は顔を赤くして反論している。何が悪いんだよ、と言われると何も悪くないので何も言うことがない。ただ感情を吐露したかっただけである。ごめんね!


「あはは、ちょっと印象と違っただけで、別に悪くないよー。いっつも複勝なの?」

「おう。安定して高回収率を狙うなら……」


 めぐさんがフォローに入ってくれて、伊波は機嫌を直して自らの馬券師論について語り始めた。しかしやっぱりコイツの口から安定とか言われると違和感しか感じないな。


 っていうか伊波のキャラのことはこの際どうでもいいのである。この堅実路線が続くようなら、わたしの勝ち目がぐーんと少なくなってしまうのだ。


 そこでちょっと煽ってみたのだが、どうもこだわりがあって複勝スタイルを使っているようなので、この先も続けられてしまいそうである。という、わたしもただ取り乱したわけではなく、そういう作戦もあってのことだったのだ。


 というのはもちろん今考えた後付けだが。




 ……そしてレースが始まり、終わり、わたしの指名馬は普通に負けた。


 伊波の指名馬は、憎らしいことに三着である。複勝作戦大成功な結果だった。


「2.7倍か。一番人気が飛んだから結構ついたな」


 伊波はホクホク顔で喜んでいる。複勝はもちろん、当たりやすい代わりに配当が安い。このレースでも伊波は「結構ついた」と言っているが、それでもたったの2.7倍である。しかしもちろん、わたしの0倍よりは良い。


「姐さん……大丈夫ですか? 始まる前はあんなに自信満々でしたけど……」

「だ、大丈夫……たぶん」

「……」


 わたしはじっと双眼鏡を見る。間違いなくあの時、皐月賞で使ったのと同じものだ。


 ひょっとして何か、わたしの知らない条件のようなものが他にあるのだろうか。


「ここで考えてても仕方ないね。パドック行ってくる!」

「あ、姐さん、待ってくださいよー!」


 諦めるわけにはいかない。この勝負にはわたし自身が賭かっているのである。


 わたしは双眼鏡を握りしめて、パドックへ向かった。




 ……。




「えと、サトミちゃんはまた3番の単勝に1000ポイントだね?」

「ふぁい……」


 結果はまたしても予想もくそもない誕生日賭けであった。


 パドックでは思いつく限りの方法を試してみたのだ。見る場所を変えたり、近づいたり遠ざかったり、下から見たり上から見たり。それでも例の光はちらりとも見えず、わたしは収穫がないままあちこち駆けずり回ったせいで第二レースにしてすでにクタクタだった。


 ちなみにそんなわたしの横で「姐さん、完全に変な人ですって! 姐さーん!」と突っ込みながら付いてきたイチのほうもぐったりしている。諦めて放っておいてくれればいいのに、律儀なやつなのである。


「で、伊波君は10番の複勝に2700ポイントと」

「え?」


 わたしは思わず聞き返した。


「なんで? 勝ってるんだから最低額賭けでいいんじゃないの?」

「んー、これは“複コロ”だね」


 と、めぐさんはうんうんと頷いている。


「知っているのかめぐさん!」

「う、うんまあ知ってるよー。複コロっていうのは、少額の複勝馬券からスタートして、それが当たったらその配当ぶんを次のレースにまるっと賭けるの。それを繰り返して、少ないリスクで高額配当を狙う賭け方だね」


 ほむ。さっきのレースの複勝配当が2.7倍だったから、それで加算された分の2700ポイントをそのまま賭けてきたと。つまり当たったら当たった分でもっと稼ごうという、堅実なようでけっこう攻めてもいる賭け方に見えた。


「ふん、その通り。俺はこう見えて地元では『複コロの伊波』と呼ばれて恐れられていたのだ」

「複コロの伊波……」


 得意げな伊波には悪いが、めちゃくちゃ弱そうであった。




 しかしめちゃくちゃ弱そうな二つ名のクセして、伊波の複コロは成功した。


 第二レースでは指名馬が見事勝利し(もちろん複勝なので勝っても三着でも配当は一緒だが)、配当は1.4倍なので3780ポイント。


 さらにその3700ポイント(100ポイント単位でしか賭けられないルールである)を第三レースにも突っ込み、これまた三着で的中。1.3倍で4810ポイントが戻る。基本カタい馬ばかり指名しているので配当は低いが、着実にコロがしてくるのである。


 その一方、わたしの方はというと。


「第四レースも……サトミちゃんは3番の単勝か。サトミちゃんこればっかりだね」

「ふぁい……」


 相変わらず、駆けずり回った挙句になんの成果も得られないという有様で、もう「ずっと指名してたら一回ぐらい3番来てくれねーかな」とかいう半ば投げやりな賭け方を続けていた。当然これまでのレースはかすりもせず、第三レース終了時までの成績は


 わたし:7000ポイント

 伊波:13890ポイント


 と、確実に差は開いてきていた。


「でも大丈夫ですよ姐さん」


 肩を落とすわたしを、イチが励ます。自分もツッコミ疲れているだろうに、いい奴である。


「いくら複勝が当たりやすいったって、あいつもいつまでも当てちゃいられませんよ。そしてコロがすってことは、一回はずしたらそれでゼロに戻るってことです」

「確かに……! かしこいなイチ!」


 そう、勝てば勝つほど賭け額も増えていくのが複コロというもの、伊波は次は4800ポイントを賭けるはずだ。外れてくれれば残り9090ポイントと、差は大きく縮まる……!


「じゃあ次の伊波くんの指名は……15番の複勝に1000ポイント」

「なんでよーーーーー!?!!」


 ちゃんとコロがせよ! なに最小額に戻しちゃってんの!?


 わたしが叫ぶと、伊波はきょとんとして


「いやだって、外したらまたゼロに戻っちゃうだろ」


 とのこと。ですよね! としか言いようがない正論であった。


「それに次は18頭立てと頭数も多くて、自信なかったからな」

「冷静すぎるでしょ……」


 チーマーらしからぬ堅実で計画的な勝負運びであった。


 これで伊波が当てればまだ、『ほらーコロがしとけばよかったのにー。日和るからー』と煽れもするのだが。


 いやそんな、仮にそうなったとしても(たぶん)煽ったりはしないけれども、ともかく第四レースでは伊波の馬は七着とハズれたので、煽る要素もなにもなかった。むしろハズレを読んでいたわけで、敵ながらおみごと、と言わざるをえない。言わないけど。わたしの3番は惜しくも(?)四着で、当然のようにハズレだった。


 そしてここまでが午前中のレースである。ここから一時間ほどお昼休憩があって、午後のレースとなる。


「どうした、ここまでボウズじゃねえか。ややおも高校の馬券師部ってのはこんなもんか?」


 調子のいい伊波がにやりと笑いながら話しかけてくる。


「ふん、そういうセリフは噛ませが言うもんだよ」

「言うじゃねえか、まだ諦めてねえようだな」

「当たり前でしょ」


 と言ってもほとんどカラ元気であるが。


 わたしたちは昼食をとるため、地下のフードコートに移動した。




 メモリアルスタンド地下のフードコートは人でごった返していたが、それでもメインのスタンドであるフジビュースタンドの方よりは空いているそうである。


 そして一行には伊波がいたので、そういう意味では非常に便利であった。何しろ通るだけで勝手に人が避けていくのである。そこにかわいいけれどちょっと痛い、赤髪サイドテールのめぐさんと、ついでにわたしたちがついて歩くのだから目立つことこの上ない。伊波効果もあってかわたしたちは早々にテーブルを確保できたが、周囲からのチラ見視線はこれでもかというぐらいに突き刺さってきていた。


「どうだ、見た目でハッタリ効かせとくのも便利だろ」

「まあ、そーだね」


 得意げな伊波に同意する。わたしも例の真っ赤なスカジャンやらを持っているので、ハッタリを効かすべき場面があるのはわかる。その理由が人混みをかき分けるため、というのはどうかと思うが。


「ねえ、伊波」

「あン?」


 わたしは蕎麦を啜る手を止めて、吉野家の牛丼(大盛り)をかきこむ伊波に話しかけた。こんなところにもあるんだな、吉野家。


「余計なお世話だけどさ、あんた、何でチーマーなんてやってんのさ」


 伊波は見た目はいかついが、普通に話は通じる奴だ。頭の回転も速いし、馬券師としてはけっこう堅実だったりもする。


 もちろん頭としてチームを纏めているからには、ただのバカじゃつとまらないのだろうが、有能であるなら有能であるで、なんでいいトシしてツッパってんのかな、と疑問には思うのである。


「そりゃま、ホントに余計なお世話だな」


 と伊波は苦笑いした。わたしもそう思う。


「別に俺ァ一度も『みんな集まれ』なんてやったこたぁねえよ。ただ昔からツルんでる奴らと、昔とおんなじようにずーっと馬鹿やってたら、いつの間にか大所帯になっちまってなあ」


 伊波は頭をかきかき「……まあ、そんなとこだ」と言った。実際はもっと複雑で、色々と面倒なしがらみ(それこそヤクザとか)もあるんだろうが、伊波なりに話せる範囲で真面目に答えてくれたようだ。


 たぶん伊波には伊波にしか分からない悩みがたくさんあるんだろう。わたしは隣でカレーを食べているイチの横顔をちらと見た。何しろわたしも、ほんの十人ばかりのガキを束ねてただけで数え切れないほどの面倒事にぶつかったし、現在進行形で面倒事の真っ最中なのだから。


「サトミ、おめーはどうなんだよ」

「ん、わたし?」

「番張ってるとかなんとか言ってたろ。それにこないだ引き連れてきた、あのミョーな格好でミョーに肝の座ってる連中は何だったんだ?」

「ああ……」


 そういえばそんな設定になっていたな。


「あれはぶっちゃけ嘘だよ。わたしは番なんて張ってないし、あん時はちょっと昔なじみの連中を集めただけ。後ろにいたミョーな人たちは……」


 わたしはそこで言葉を切ってめぐさんを見た。勝手に言ってもいいことなのかな、とちょっと思ったからだ。しかしめぐさんは心配ご無用とばかりに、焼きそばを飲み込むと口を手で覆いながらにこりと微笑んで言った。


「それはたぶん、あたしの兵隊の話だねー。サトミちゃんに貸してたんだよ」


 おいこの人、『兵隊』って言い切ったぞ。


「あんたの……兵隊かよ。どうやったら高校生であんな訓練された連中を揃えられるんだ?」

「えへへー、知りたいー?」

「どちらかというと絶対知りたくないかな……」


 わたしはめぐさんが鞭を振るって親衛隊の皆さんを教練している姿を想像して(実際はそんな光景じゃないだろうけど……たぶん)げんなりとした。この場で一番の危険人物は、実はめぐさんなんじゃないだろうかという気がしないでもない。


「さて……ごちそうさま」


 わたしはいちはやく蕎麦を食べ終えて、食器を戻しにいく。


「あれ、どっか行くんすか?」

「あー、ついてこなくていーよ。ちょっと一人にさせといて」


 慌ててカレーをかきこもうとするイチを手で制しつつ。


 わたしはそのまま皆のテーブルには戻らずに、エスカレーターに乗った。




「しっかし、とんでもなく広いなあ」


 メモリアルスタンドは、スタンドの中ではいちばん東側、パドックやゴール板がある場所の反対側になる。が、競馬場はそこで終わりではなくて、さらに東側には広葉樹と芝生の緑が目にやさしい公園のような場所が広がっている。静かなところででも作戦を練り直したい、と思っていたわたしはなんとはなしに、そちらに足をのばした。


 公園のよう、とは言ったが、行ってみると公園どころか、テーマパークの一部のようになっていた。広場の中央には船型の巨大な遊具が鎮座しており、そこには菓子に群がる蟻のように小さな子供たちがひしめいており、父母らしき人たちがそれを囲むように立っている。


 その奥にはちょっとした池のようなものまであって、そこでもやはり家族連れが多数集まって水遊びをしていた。府中には家族連れも多いんだぞ、と副部長が言っていたが、日曜日ともなるとこんなにも多いとは思わなかった。悲鳴にも似た子供たちの歓声が響いていて、ここが競馬場であることを忘れそうになる。


 はあ、こりゃ考え事どころじゃないな。


 広場の中心を避けるようにぐるりと回って歩いていくと、比較的ひと気のすくない並木道に出た。右手にこじんまりとした建物があり、看板には「JRA競馬博物館」とある。覗き込んでみると中はがらんとしていて、なかなかの不人気スポットであるらしい。


 空いてそうだし、少し涼んでいこうか。


 ぼんやりと入り口に立って考えていると、自動ドアが開いて中から人影が現れた。


「あ」


 わたしはあんぐりと口を開けた。


「やあ」


 その人は、突然の出会いに驚きふためくような、無様なことはしなかった。さも当然であるかのように、軽く手を上げてわたしに挨拶をした。


 わたしよりもひと回り以上小柄な少女である。さらりと風に流れる黄金色の髪の隙間から、片耳だけにつけたイヤホンのコードが伸びている。そのコードが消えていく先の服は、白と黒の布だけで作られた、モノトーンのワンピース。


「水月先輩!」


 わたしはこの出会いにとんでもなく驚いた。そりゃよく考えたら水月先輩もややおも高校の生徒で競馬ファンなのだから、競馬場で会うことだってありそうなものではあるのだが、なんとなくこの人は、屋上でのみエンカウントするレアキャラみたいに思っていたのである。


「奇遇だね、サトミ。いや、奇遇でもなんでもないか。今日はダービーだものね」


 しかし水月先輩の方は、当然とでもいった風に落ち着き払ってわたしに微笑みかけた。


「あ、あの、はい」


 わたしの方はというと、あまりに虚をつかれて未だに脳内ビジー状態から回復しないといった有様である。


「立ち話もなんだ、すこし座って話さないかい?」


 水月先輩が指差したのは、木陰のベンチだった。わたしはかくかくと何度も頷いた。




 わたしは水月先輩と、並んでベンチに座っていた。ちょうどこちらが風下になっていて、なんだかそこはかとなくイイニオイが漂ってきていてドキドキが収まらない。


「あ、あの、その服」

「ああ、これかい?」


 先輩は軽く指で襟のあたりについた白のフリルを摘んでみせる。そう、その服ですよ。モノトーンのワンピースで、大人しめのゴスロリといった感じ。


「すっっっっごい似合ってます!」


 わたしは鼻息荒くそう言った。ちょっと変態っぽいけどわたしのせいじゃない、水月先輩が可愛すぎるのが悪いのである。「写真を撮らせてください」と言い出さなかっただけ、自制が効いていると褒めてもらいたい。


「ありがとう、これはどちらかというと母の趣味なんだがね」


 水月先輩は照れくさそうに笑った。ああ、そんな表情もステキです。わたしは思わずほわんほわんというエフェクトに包まれ、馬券勝負のことも何もかも忘れそうになった。


「今日は確か、校外の人間と馬券勝負をしているんだっけ」


 ……せっかく忘れそうになったのだが、すぐにその水月先輩によって思い出させられてしまう。


「はい、そうなんです……ってあれ? 誰から聞いたんですか?」

「こう見えても、それなりに耳は敏いほうでね」


 と、水月先輩ははぐらかした。しかし本当に誰から聞いたんだろう、今日の勝負のことを知っている人はななこ部長と副部長とめぐさんと……と思ったが、親衛隊の皆さんのことを入れるとけっこうな人数が知っていた。その誰かから噂が流れていてもまあ、不思議ではない。


「その表情からすると、勝負は芳しくないみたいだね?」

「うう、そうなんです。こんなはずじゃなかったんですけど……」


 水月先輩と出会えて浮ついていた心が、ずーんと沈む。ななこ先輩の双眼鏡で、あっさりと勝つはずだった馬券勝負。しかしいっこうにその効力は発揮されず、あの光がなぜ見えないのか、そもそもどうして見えたのか、どうすればいいのか。何もわからないままだ。


「こんなはず、とは?」


 水月先輩は全てを見透かしているかのような目で、わたしの顔をじっと覗き込んでくる。


「その……」


 わたしは言葉を選んで、ざっくりと説明する。


「なんていうかこう、秘策? みたいのがあって、絶対勝てるはずの勝負だったんです。絶対勝てるはずだったから、負けたら相手のオンナになる、みたいな無茶な条件も飲んじゃって……。なのにそれが全然うまく行かなくて、負けそうなんです」


 変な子だと思われたくないので、いちおう双眼鏡で変な光がどうの、という部分はごまかして話す。そのせいでちょっと意味不明な説明にはなってしまったのだが。


「ふむ、なるほどね」


 だが、水月先輩は当然のように頷いてみせた。


「そうだな、まずこれは当たり前のことだけれど」


 と、諭すように語り始める。


「馬券勝負に絶対ということはない。もし絶対であるならば、それは勝負とは呼べないね」

「はい……」


 わたしは力なく頷いた。ごもっともである。そもそも、『あの双眼鏡があるからいいや!』なんてずるっこな気持ちで勝負を受けたから、こんな目に遭っているのである。


「でもこれは、ちゃんと正しく勝負だったわけだ。だからその秘策とやらも使えなかった」

「……」

「勝負であるからには、どんな事だってありうるよ。勝つかもしれないし、負けるかもしれない。確かなことはなに一つとしてない」

「でも」


 わたしは水月先輩に言っても仕方のないことだとは思いながら、泣き言を言う。


「今回ばかりは絶対負けちゃいけないやつなんです。負けたら……」


 口ごもるわたしの手に、水月先輩がそっとその小さな手を重ねた。


「サトミ、初めて会ったときに私が言ったことを覚えているかい?」

「はい」


 もちろん、めちゃめちゃインパクト強かったので忘れるわけがない。


「馬券勝負に賭けてるのは、命だって……」

「そう、それを間違えちゃいけない」


 水月先輩はわたしの手をそっと包み込みながら、ささやくように言った。


『賭けてるものを、忘れないようにね』


 ふと、双眼鏡を借りたときに聞いた、ななこ先輩の言葉がよぎる。そうだ、ななこ先輩もきっと、同じことを言ってくれていたんだ。


「もともと命をベットしているんだ。それ以外に何を賭けていたって、怖いことなんてないさ」

「ですけど」


 わたしは納得しそうになる自分を抑えて、真意を問う。


「命を賭けるって、負けても死ぬわけじゃないじゃないですか。それで終わりってわけでもないですよね」

「死なないし終わらないさ。だけど減るんだ」


 先輩は恐ろしく優しい眼をしている。


「それは確実に減っていく。負けるたびにね」

「命が、減るんですか」

「ああ。だけど大丈夫、サトミはまだ減っていないよ。まっさらなまんまだ」


 そう言って、水月先輩はぎゅうっとわたしの手を握っている手に力を込めた。先輩の手はひんやりとしていたが、そこからじんわりと温かいものが広がっていく気がした。


「さて」


 水月先輩は、突然ぱっと手を話した。遠ざかっていた周りの喧騒が、戻ってきたような気がした。


「そろそろ行ったほうがいいね。第五レースまであと10分もないよ」

「あっ、いけない!」


 わたしは慌てて立ち上がった。なにしろクソ広い競馬場の端っこにいるのである。みんなのいるスタンド席まで戻るのに、急いでも5分はかかる。


「あの、ありがとうございました! なんだか気が楽に……はなってないですけど、でもなんか覚悟が決まった気がします!」


 わたしが頭を下げると、水月先輩は「サトミは正直だね」と笑った。


「……月並みなことしか言えないが、頑張ってね、サトミ」

「はい!」


 わたしはその言葉に万の味方を得た気分になり。先輩に背を向けて早足で歩きだした。第五レースのパドックにはもう間に合わないが、第六レースから反撃開始だ。


「そうそう」


 と、数歩踏み出したところで、背後から水月先輩に呼びかけられる。


「それはもとから見えているものを、よく見えるようにするためにあるものだ。もとの眼が曇っていたら、意味はないよ。」

「え……?」


 それ、っていうのは、もしかしなくても双眼鏡のこと? 双眼鏡のことは話していないはずなのに、どうして。


 振り返るとすでに水月先輩はこちらに背を向けて、カッコ良く片手を上げたポーズのまま、わたしと反対側の方向に立ち去ろうとするところだった。


 ……そっち側には何もないし、一体どこ行くんだろうと思わなくもなかったが、たぶん去り際はあのポーズじゃないとダメなんだろう。わたしは中二病な先輩の背中に軽く一礼すると、今度こそ皆が待っているだろうスタンドに向けて走り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る