10 『対峙! バスケット・ケース』

 週末。


 午後六時、わたしの部屋。わたしは下着姿で、姿見の前に立っている。


 白のショーツに、色気もくそもないスポーツブラ。正直ブラジャーいる? と言われそうな起伏のない身体だが、乳なんてあったらあったで邪魔だろうし、それほど気にはしていない。それよりも欠かさないトレーニングのおかげで引き締まった体を見て、わたしはふん、と満足した。


 あらためて正面を向いて、鏡の中の自分と向き合う。我ながらほへっと腑抜けた顔をしていた。


 なんだかんだいって、ややおも高校は平和だ。中学時代はもっと切羽詰ったような顔をしていたような気がする。わたしは中学時代のことも後悔していないし、たぶんそれはどちらが良いという話ではないのだと思う。ただ、日常は如実に顔つきに現れる、それだけの話だ。わたしをとりまく日常が変わったということだけを、それは伝えている。


 でも。わたしはぴしっと軽く頬を叩いて気合を入れ、きっと目尻を釣り上げた。


 それから服を着ていく。おなかの部分が空いた黒のチューブトップシャツに、だぶだぶの臙脂えんじのニッカボッカ。最後に、真っ赤な色のスカジャンを羽織る。背中にはデフォルメされた龍の刺繍が入っている。イチたちとつるんでいた時代の、とっておきのわたしの勝負服だった。


 かつては『元は白だったのが、返り血で赤くなった』とか好き勝手言われて、『鮮血』なんて呼ばれる元になった服だが、今日はこれでいい。これからチーム『バスケット・ケース』と話をつけにいくのだ。


 今日一日だけ、わたしは『鮮血』に戻ろう。


 最後にきゅっと髪をまとめて後ろで縛ると、わたしは部屋をあとにした。


「どこへ行く」


 こっそり裏口から出ようとしたら、父さんが待ち構えていた。


 でかくてゴツいわりにこういう勘が鋭く、隣町の中学に殴り込みに行くときなども、こうして現れることがあった。


 だが、わたしが焦ることはない。父さんはしばしばわたしの前に立ち塞がったが、行かせてくれなかったことは一度もないのだから。


「大丈夫、喧嘩はしないよ」

「……」


 わたしはゴツイ親父殿としばし睨み合う。やるとしたら戦争だ。喧嘩はしないから嘘ではない。


「……あまり遅くなるなよ」

「うん」


 父さんはそれだけ言うと、あっさり道を空けた。何しに出てきたんだ、と思わなくもないが、父さんなりに心配してくれているのだろう。


「いってきます」


 わたしが脇をすり抜けると、父さんはそのゴツイ表情をピクリとも動かさずに


「いってらっしゃい」


 と言った。




 午後八時、河川敷。


「姐さん、うっす!」

「うっす!」

「おう!」


 イチをはじめとして、サクラダ、ウッシー、その他昔馴染みが6,7人ほどわたしを出迎えてくれたので、挨拶を返す。皆かつての特攻服を着て、イチなどは刺さりそうなほどに髪の毛をバリバリに突き立てている。


「気合入ってんな、イチ」

「あ、この頭っすか? いやまあ気合いは入ってるんすけど、これは別にだからってわけじゃなくて、ワックスで立てたんすよ。ワックス」

「分かってるよ、サイヤ人じゃないんだから。馬鹿」

「へへ。姐さんこそ、久々のヘソ出し特攻服サイコーっすよ。エロカッコイイっす」

「エロ言うな」


 げしっとツッコミ代わりに蹴りを入れると、イチは逃げながら嬉しそうにへへへと笑った。こっちが覚悟を決めてきたというのに、呑気な奴だ。


 だけどまあ、イチが浮かれる気持ちも分かる。こうして昔の、といってもほんの少しだけ前のことだが、一緒につるんで馬鹿やってた連中が集まってきたのだ。ほとんどは道場でもよく見かける顔だが、特攻服を着ているとだいぶ雰囲気が違うし、顔つきすら違って見える。わたしだってきっとそうだろう。


「早すぎる同窓会、って感じだな」

「ホントに早すぎですけどね」


 人はそうそう変われるものではない。サクラダとウッシー以外は皆真面目にバイトを始めたり、高校に行っている奴らばかりだが、そいつらも昔に戻ったようで、どこか凶悪な、だけど嬉しそうな笑みを浮かべていた。


 そう、昔のままなのだ。一部を除いて。


「しっかし……」


 わたしは意識的に眼をそらしていた、その『一部』の方に顔を巡らせる。


 それは異様な集団だった。特攻服を着てはしゃぐわたし達からやや距離を置いて、皆一様に腕を後ろに組み、微動だにせず立っている。


 その格好もまた異様である。どこから調達してきたやら、前時代的な詰襟の学ラン上下。それだけならまだ良かったのだが、上から羽織っているのは学ランと超絶合ってない青の法被である。この法被に短冊やら花やら勲章みたいなのやら缶バッチやらをやたらとゴテゴテとくっつけているのだから、似合わないことこの上ない。さらには全員が頭に同じ鉢巻を巻いており、そこには白地にピンクで『めぐさん命』と書いてあった。


 そう、彼らこそはややおも高校が誇るアイドル、時田めぐみの親衛隊。


 総勢なんと30名である。


「あの……俺が言うのもなんなんだけど、あいつら来るとこ間違えてねえ?」


 サクラダがこそっと耳打ちしてきた。わたしもそう思う。


 先日、めぐさんの巧みな話術によって悩みを聞き出されたわたしは、チーマーと対等に話ができる戦力が必要なことを話した。そう、不良どもと話をするためにはまず力が必要であり、力とは数なのだ。かりにわたしが無双シリーズできるぐらい強かったとしたところで、ノコノコ一人で出ていっても無双シリーズをやらされるだけで、話合いにはならない。話がしたいなら、ぱっと見で力が分かる、人数というものを示してやるしかないのだ。


 その人数をどうするか。ただかき集めるだけではいけない。よく訓練された、ヤンキー相手に一歩も怯まない連中が必要だ。


 そんなことをめぐさんに話したら、快く貸してくれたのがこの『めぐさん親衛隊』なのである。


「あ、あのー」


 わたしが話しかけると、親衛隊の面々は一糸乱れぬ動きでザッと敬礼の構えをとった。うん、確かによく訓練されてはいる。


「頼んどいてなんだけど、ホントに大丈夫? 今から行くのはチーマーの本拠地なんだ。喧嘩をするつもりはないけど、向こうはそうじゃないかもしれない。戦いにならなかったとしても、交渉が平和的に終わるとも限らない。顔を覚えられて、後から面倒なことになる可能性もゼロじゃないんだけど」


 事前に説明はしたことだが、一応最終確認を取っておく。皆荒事とは縁がなさそうな面々とあって、表情には緊張が滲み出ているが、怯んだ様子は見られない。中央の一人が進み出て、代表してわたしの問いに答えた。


「めぐさんの頼みですから。めぐさんのためなら死ねます」

「そ、そう……」

「……姐さん、助けてもらうんだから、ドン引きしちゃダメですよ」

「うん、そうだよね……」


 とはいえ、それは無理な相談であった。


 わたしはここまで訓練された兵隊を作り上げためぐさんに戦慄し、危険人物レベルを53段階ぐらい引き上げた。どんな洗脳をしたら高校生の身で、命を顧みないほどの忠誠心をもった親衛隊を作れるんだろうか。


 と思ってよくよく見てみると、端っこのほうに田之倉くんも混ざって立っていた。


「何やってんの、田之倉くん」

「……」


 話しかけても、虚空の一点を睨んだまま微動だにしない。


「ねえ、田之倉くんってば」

「……痛い痛い。やめろ」


 無視されてむかついたのでげしげしと脛を蹴ると、ようやく返事をしてくれた。


「……今の俺は田之倉じゃない。ただの親衛隊番号4番だ」

「けっこうナンバリング若いね……」


 どうやら古参ファンだったらしい。


「えっと、田之倉くん大丈夫なの? 不良とか怖くない?」


 さっきまでは無機質な得体の知れない集団、という感じがしていたが、見知った顔を見ると急に不安になる。特に田之倉くんなんて結構ヘタレっぽかったし。不良同士のコミュニケーションはハッタリが命、腰の引けた兵隊を連れていても意味がないのだ。


 しかし田之倉くんは、馬券勝負のときには見せたこともないような無駄に凛々しい表情で、こう言った。


「めぐさん法被を着た俺たちは、ただの高校生じゃない、めぐさん親衛隊の一員だ。この法被を着ている間は、俺たちは無敵になれる」


 その言葉に、周囲の面々も無言で頷く。


 わたしはそんな彼らにドン引きしつつも、ほんの少しだけカッコいいと思ってしまった。何にしろ、覚悟が決まっている奴は強い。強い奴は嫌いじゃない。


「オッケー、頼りにしてるよ」

「ああ」


 わたしは田之倉くんに会って一瞬緩んだ表情を引き締め直すと、ぐるりと全員を見渡して、拳を突き上げた。


「それじゃいくぞお前ら! 戦争だ!」


 おう、とむさ苦しい鬨の声が、荒川河川敷にこだました。




 ざむ、ざむ。


 人気のない廃工場跡に、総勢四十名ほどの足音が響く。


 先頭にはわたし。そのすぐ後ろにサクラダとウッシーが続き、その左右を固めるようにイチ達もと舎弟グループが進む。後ろには三十名のめぐさん親衛隊が、まるで感情のないサイボーグのように整然と行進している。


 『バスケット・ケース』がいつもたむろしているという場所はもうすぐそこだ。実際、何人か斥候というか、見張りのチーマーとおぼしき人間がこちらを見て、驚いたように奥に駆けていくのは見かけていた。すでに報告され、装備を整えて待ち構えているだろう。


 サクラダ、ウッシーによると、チームの総人数は不明だが、おそらく百に満たない程度だろうという。ただし、当然ながら全員が毎週雁首揃えてキャンプファイヤーをやっているわけではない。毎日顔を出すような中核メンバーは、せいぜいニ、三十人程度ということだった。


 事前にコンタクトをとって、数を集められてはかなわない。この交渉は完全に不意打ちで、相手よりも多い人数で行わなければならなかったのだ。


 ざむ、ざむ。倉庫群の一画に、どこから電気を引いているのか明かりの灯った建物が一つだけある。根城にしているらしいその建物の大扉から蛍光灯の光が漏れ出す中に、慌てた様子で外に出てくる集団が眼に入った。遠目にも明らかにカタギじゃない連中が、二十名ほど。まだ中にもいるのかもしれないが、ここまでは想定通りだ。


 わたしは彼らから、十メートルほどの距離を置いて止まった。後続のイチたちも足を止め、めぐさん親衛隊たちはザッザッとその場で足踏みを二回してから止まった。軍隊か。


 眼前の『バスケット・ケース』とおぼしき連中は、隊列こそ組んでないものの、手に角材や鉄パイプなどを持ち、押し黙ってただこちらをじっと睨んでいた。武器を持っているからといって、いきなり襲いかかって来たりはしない。チーマーはバーサーカーではないのだから当たり前だが。


 しかし、もう少しバラバラな動き、例えば何人かで「なんだ~こら~あ~ん?」みたいな意味不明の不良特有の言語でコミュニケーションを図ってくるかと思っていたのだが、こちらと同様動きも言葉もなく、不気味だ。かなり強力なリーダーシップを持つ人間の存在を感じる。めぐさん親衛隊とベクトルは真逆だが、こいつらも統制され、訓練されている。


 これは手強いかもしれない、と思っていると、男が一人、こちらに歩み寄って来た。ひょろ長い男で、頭髪は刈り込んでほとんど残っておらず、左右にわずかに残った髪は緑色だ。青白い病気のような顔色で、武器は持っていないが凶悪な薄ら笑いを浮かべていた。


「あらら、カワイーねえ。何しに来たのおじょーちゃん。ウリ?」


 軽い挑発を入れてきたが、わたしは眉一つ動かさない。男のほうもヘラヘラと笑いながらも、わたしたちから数メートルの距離をとって警戒している。


 男はわたしと後ろの集団をじろじろ観察していたが、すぐに後ろの二人の存在に気づいた。


「あれぇ~? 桜田クンと牛沢チャンじゃない。なんで君たちそっちにいんの? 確かこないだ辞めたいとか言ってきたから軽くヤキ入れてやったよねぇ~?」

「お、小野木さん……」


 ウッシーが小さく呟きを漏らす。二人の萎縮が伝わってきたので、わたしは前を向いたままぽんと肩に手を置いてやる。あんたらの前にはわたしがいる、何も恐れることはない。


「そっか~。キミたちの差し金だね~? な~に人数集めてきちゃって、それでどうしようっての?」

「察しがいいね。あんたがこのチームのカシラ?」


 代わりにわたしが答えると、小野木というらしい男は顔をゆがめて一歩わたしの前に出た。


「口の聞き方に気をつけろよ、チビガキ」


 だがその間にわたしの方も二歩距離を詰めている。互いの距離はほとんどぶつかりそうなほどで、わたしはひょろ長い小野木の顔を傲然と見上げる。


「アンタが頭かって聞いたんだ、わたしは」

「……」


 思い切り気を入れて睨みつける。わたしの敵意とは無関係に、わたしの口角がにいっと上がっていくのを感じる。今日のわたしはただのサトミじゃない、戦争をしに来た『鮮血』だ。血がたぎり、心が紅潮するのを抑えきれない。


 小野木は退きこそしなかったものの、わたしの気迫に押されて眼を逸らした。わたしと、その後ろの軍団を見比べるようなふりをしている。こいつは小物だ、とわたしは思った。こいつは頭じゃない。


「小野木、下がれ」


 ――と、開け放たれた倉庫の扉から、体の芯に響くような重低音が聞こえた。


「俺に何か用か」


 ずしり。


 這い出てきたのは、熊のような大男だった。身長で言えば先ほどの小野木の方が高い。だが不健康そうな目の前の男と違って、その熊は隆々とした肉体を持っていた。短く刈り込んだ頭髪は黒で、浅黒く日焼けした肌に、日本人離れした彫りの深い顔立ちをしている。むきだしになった二の腕には、黒一色で何かの模様が刺青されていた。


 どちらかというと一般的な不良は小野木タイプが多い。彼らはせっせと体を鍛えたりしないし、不健康な生活をしているから肉が薄い。だが新たに現れた男の肉体は強烈な存在感を放っていた。決して横に大きいわけでもなく、ボディビルダーのように肥大した筋肉を誇示しているわけでもない。しかしぎゅっと圧縮された筋肉をまとった肉体は、体重で言うならわたしの二倍はあるだろう。


 わたしはふと、家で娘の帰りを待っているだろう、岩のような父親のことを連想した。相撲取りが出てきたって負ける気はない、と思っていたが、こいつに関しては仮にタイマンになったとしても勝てないかもしれない。そう思わされた。


 この男に比べれば小野木など吹けば飛ぶ紙くずのようなものでしかない。下がれと言われた小野木は、素直にぴゅーっと集団の中に吹かれていってしまっていた。


「あんたが頭?」


 ずしりずしりと目の前までやって来た男を、わたしは強いて何の気負いも無いようにして見つめた。先程のような殺意を込めたものではない、ただの引かない視線だ。


「てめえっ、伊波さんにナメた口を……!」

「黙ってろ」


 先程小野木の時には何も言わなかった周囲のチーム員から声が上がるのを、伊波と呼ばれた男は一言で鎮める。チーマーたちは不満そうにしながらも黙ったが、わたしたちに敵意を向けつつ、じりじりと伊波を中心に半円を描くように集まって来ていた。やはりこの不良集団を強烈なカリスマで纏めているのは、この男らしい。


 男はしばしわたしの視線を受け止めたのち、


「そうだ。俺がチーム『バスケット・ケース』を仕切っている伊波いなみだ」


 と名乗った。やはりなんの気負いもない、自分に絶対の自信を持っている者特有の威圧を放ちながら。


「わたしはややおも高校のバン張ってる、羽崎サトミだ。今日はコイツ等のことで話があって来た」


 と言って、サクラダとウッシーを左右に立たせる。番張ってるというのはまあ、このよくわからない集団を率いていることを説明する方便だ。ややおも高校にこのテの不良はいないので、番長を名乗ったところで文句を言ってくる奴もいないだろう。


「お前らは確か、チームの新入りだったな。こいつらがどうした」

「コイツ等を、あんたのチームから抜けさせてほしい」


 ぴくり、と伊波が眉をひそめる。それだけで威圧を受けたサクラダとウッシーは、ふかぶかと頭を下げる。


「スイマセン伊波さん! 俺、伊波さんのことは尊敬してますし、スゲェって思います。でも……」

「はい、俺らチーム辞めて真面目に働きたいんす! チーム抜けさせてください!」


 勝手なことを言うな、というようなざわめきが向こうのチームから起こったが、伊波が口を開くと一瞬で収まった。


「そうか。いいだろう」


 伊波はあっさりとそう言った。サクラダ達が喜色を浮かべて上体を起こす。


 が、わたしは礼を言いそうになる二人を身振りだけで抑えた。


「じゃ、全員から一発ずつだな。本来は全員集めなきゃならんが、特別にここにいる奴らだけでいいだろう。で、どっちからだ?」


 伊波はそう言って、大きな拳をがつんと打ち合わせた。サクラダ達の顔色が一瞬にして蒼白になる。リンチされずとも、あの拳で殴られたらコンクリートだって粉々になりそうだ。


「待ちな」


 とりあえず頭は下げさせたので、わたしはサクラダとウッシーを後ろに下がらせて言った。


「悪りーが、わたしたちは素直に殴られに来たわけじゃねーんだ」

「だろうな」


 伊波は後ろに控えるイチたちを睥睨し、さらにめぐさん親衛隊を見て、ちょっと変な表情になった。うん、そういう表情になるよね。シリアスな場面なのにホントごめん。


 伊波は咳払いをすると、わたしに視線を戻して真顔に戻った。極力後ろの変なのは視界に入れないようにすることにしたようだ。正しいと思う。


「なら、殴り返してもらっても構わんぞ」


 ざわり、とチーマーたちが殺気立つ。伊波が戦争をする気なのを感じ取ったのだ。


 それは普通の人間には恐ろしいだろう光景だった。鉄パイプや角材を構えた数十名が、今にも襲いかかってきそうに身構えており、いちばん前には獰猛な熊を連想させる男、伊波がいる。


 しかしわたしは引かなかった。何も言わず、ただ平然と男たちの殺気を受け止める。控えるイチたちも引かない。おちゃらけた奴らだが、わたしと共にそれなりの修羅場を潜ってきた奴らなのだから、当然だ。


 褒められるべきは、やはり微動だにしないどころか、動揺のかけらも見せないめぐさん親衛隊の奴らだ。内心はかなりの恐怖を感じているだろうが、彼らが信じるめぐさんが信じたところのわたしを信じて、堂々としてくれていた。


 全身の毛が逆立つような緊張感の中、わたしはただ立っていた。ぴんと張った糸はこちらが少しでも動揺を見せれば切れてしまい、その途端に血に飢えた獣たちが襲いかかってくるのは間違いない。


 とてつもなく長い時間に感じたが、実際には一分にも満たなかっただろう。張り詰めていた緊張が、ふっと緩んだ。伊波が拳を下ろしたのだ。


 わたしは賭けに勝った。先程まではこいつらが獰猛な肉食獣で、わたしたちは狩られる哀れなウサギだった。しかしようやく、こちらも対等とは言えないまでも、肉食獣であると認められたのだった。


「何だ、やらねえのか。久々にちょっと楽しい喧嘩が出来ると思ったのによ」


 伊波がにやりと笑う。


「悪いね。今日はあくまで、こいつらの後始末をつけに来ただけだからさ」


 と、わたしはサクラダ達を顎で示す。


「そうか。で? どう後始末をつけてくれるんだ?」

「ああ、こうする」


 わたしはくるりと伊波に背を向ける。緊張の糸は緩んでおり、今なら飛びかかって来られることもない。


 わたしはサクラダとウッシーに向かい合う。二人は何をするのかとポカンとした顔をしている。


 ――その間抜けな横っ面に、電光石火のハイキックを叩き込んだ。


「ごあっ!?」

「ぶぺっ!?」


 予想だにしていなかったのだろう。眼にも止まらぬ右、左の連続キックで、サクラダとウッシーは左右に分かれるように見事に吹き飛んでいった。イチたちも、後ろの親衛隊の面々も、あっけに取られて呆然としている。


 わたしは吹き飛んだ二人が起き上がってこないのを見て自分の蹴りに満足すると、伊波に向き直り、膝をついた。


「これはわたしらの勝手だ。あんたらにはあんたらのルールがあるのは分かってるし、悪りいのはサクラダとウシザワで、あんたらには何の非もない。だが、こいつらもわたしの大事な舎弟でね。壊させるわけにはいかない。だから」


 わたしは一息でそう言うと、正座して腿の付け根に両手を置いた姿勢から――




 ――思いっきり、額を地面に叩きつけた。


 ごがっ、と鈍い音が響き渡る。わたしからは皆がどんな表情をしているのかは見えないが、息をのむ音が聞こえた。


 静まり返った世界の中。わたしは額を地面につけたままたっぷり十数えて、ゆっくりと上体を起こした。つう、と額から血が流れ落ちるのを感じる。


「これで勘弁して欲しい」


 ようやく見えた伊波の顔は、驚きに眼を見張られていた。他の皆も、きっと同じような表情をしているのだろう。


 信じられないものを見た、という伊波の表情が、やがてにっかりと無邪気な笑顔に変わった。


「はっは! お前、面白いじゃねえか! 気に入ったぜ!」


 わたしは表情を変えずに立ち上がる。


「にしてもいい蹴りだったな。大丈夫か? 俺が殴るまでもなく死ぬんじゃねえか?」


 振り向くと、サクラダたちはイチたちに助け起こされているところだった。脳震盪を起こしているようだったが、たぶん大丈夫だろう。本気蹴りをお見舞いしたのはこれが初めてでもないし、奴らの丈夫さは折り紙付きだ。


「しかし、チビのくせに大したもんだ。やり合えなかったのが残念だぜ」

「ご所望とあらばいつでも相手になるよ。……一対一(サシ)ならね」


 ふふんと笑ってそう言ったが、これは強がりだ。道場での組手ならともかく、ルールなしの喧嘩では殺されかねない相手とは、わたしだってできればやりたくない。


「ほう、そりゃ楽しみだな」


 と、熊男こと伊波はがははと笑ったが、本気にしたわけではないだろう、たぶん。さすがにこれだけ鍛え上げた大の男が自分の半分ぐらいしか体積のない女を本気で相手にはしない。たぶん。


「で? わたしがつけた落とし前は、受け入れてくれるの?」


 と、念のため話を戻しておく。伊波は愉快そうに仲間たちに振り返ると、銅鑼のような大声で言った。


「面白いモン見せてもらったし、文句ねえよな、お前ら!」

「うっす!」


 チーマー共は一斉に返事をした。ボスが言うなら文句があるはずがない、という顔だ。若干先程の小野木やその周りの数名は不満げな顔をしているようだったが、文句を言う気はないようだ。


「だとよ。そこのサクラダとウシザワ、だったか。ウチからの脱退を認めてやる。後は好きにしろ」

「ありがとう。あんたが話の通じる相手で助かったよ」


 すいっと手を突き出してきたので、わたしはその手をがしっと取って、握手をする。


 かくして。


 かつての舎弟どもが引き起こした面倒ごとは、かろうじて血を流すことなく。

 ああ、いやその、わたしの顔には血がダラッダラ流れているが、それ以外では血を流すことなく、幕を閉じたのだった。



 ……。



 ……あれ?


 わたしは「それじゃ邪魔したな」とか何とか言ってとっとと立ち去るつもりだったのだが。


 なぜか目の前の伊波が、握手した手を離してくれないのである。


 きょとんとして伊波の顔を覗き込むと、そこには何かを苦慮するような表情。熊に似合わず、何事かを考えているらしい。


 やがて何か思いついたという風に顔の横に豆電球を出すと、伊波はぱっと手を離して言った。


「ただし! 一つ条件がある!」

「はあああっ!?」


 いや、完全に今の大団円の流れだったでしょうが! 後ろに控えたチーマーたちですら「うちのボスは何を言い出したんだろう」という顔をしている。


「あんた、この期に及んで条件って……男らしく」

「いやいや! ごく簡単なことだ。お前、ややおも高校の番張ってるって言ったな」

「うん」


 事実ではないけども。


「あのややおも高校の番を張っているというからには、馬券師としても一流なのだろう」

「うん……うん?」


 あれれーおかしいぞ? なんでここで競馬の話が出てくるのかな?


「かくいう俺も競馬に関しては一家言持ちでな。うむ。ややおも高校についての噂はかねてより聞いていてな、いつか手合わせしたいとつねづね思っていたのだ。うむ」


 他の全員をポカンとさせながらも勝手に一人でウンウン頷いている伊波に、最初出てきたような強キャラオーラはすでにない。獰猛な熊だったのが、森のくまさんになった感じであった。


「というわけで、サトミ。俺と馬券勝負をしてもらおう!」

「はいはい、やっぱりそーゆー流れになるのね……」


 うん、途中からだいたい分かってたよ。ややおも高校に入ったが最後、どこに言ってもこの馬券勝負とかいう意味不明な風習からは逃れられないらしい。


「俺と馬券勝負をしてお前が勝ったら、そこに転がっているふたりの脱退を認めてやろう」

「こっちが負けたら?」

「俺が勝ったら、その時は……」


 伊波は少し言いよどんで表情をめまぐるしく動かしていたが、最終的にどうにか不敵な笑みを浮かべることを成功させて、こう言った。


「サトミ。お前、俺の女になれ」

「ぶーーーっ!!!」


 わたしは思いっきり、口から色んなモノを噴き出した。


 そして噴き出したのはわたしだけではなかった。サクラダとウッシーを介抱していたイチたちも、その後ろの親衛隊たちも、向こうのチーマー共まで、ぶーっと口から色んなモノを一斉に噴き出していた。


「あ、あんた何言ってんの!?」

「お、お前はなかなか骨のある女だからな、き、気に入った」


 伊波はそれっぽいセリフでどうにか誤魔化そうとしているが、もはや手遅れだった。チーマー達からボヤキにも似た野次が飛ぶ。


かしらァ、何を言い出すのかと思ったら、それが狙いだったんですね……」

「年甲斐もなく惚れちゃったんスか?」

「ボス、ロリコンだったんですね……」


 などなど。おい最後の奴、わたしをロリっ子呼ばわりするとはいい度胸だな。


「うるせえ! 年甲斐もなくとか言うな、俺はまだ十八だぞ!」


 伊波は浅黒い顔を赤くしながら一喝した。まだ十八って、わたしと三つしか違わないのか。三十歳と言われても納得しそうな濃い顔なのだが。


「だからロリコンでもねえ! 俺は高校行ってりゃまだ高三だぞ、高校生同士で普通だろうが!」


 必死で言い募っているが、雲散霧消したカリスマはもう戻ってこない。向けられる視線は全て生暖かいものである。


「とにかく! 俺と勝負しろサトミ、それが条件だ」


 伊波は開き直ってびしっとわたしに指をつきつけた。


 はあーーーっと深いため息をつく。シリアスさんは完全に息を引き取り、状況はとてつもなく滑稽だが、同時に面倒でもある。


 流れ的には完全に許された流れだったので、時間をかけて説得すれば思い直してくれるかもしれない。だがそもそも悪いのは『伊波さんカッコイーチーム入れて! あ、でもなんか違ったんでやっぱ辞めます!』とか舐めたことを抜かしたサクラダとウッシーなわけだし、チームのルールを曲げて、二人を許してもらうという引け目もある。


 それにわたしに惚れたと言うんなら、わたしが責任を取ってやったほうがいいだろう。わたしは覚悟を決めた。


「分かった。その勝負、受けるよ」

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