2 『登場! 安楽椅子馬券士』

2 『登場! 安楽椅子馬券士』


 『馬券師部の新入部員』としての好奇の視線にさらされつつも、入学式はつつがなく進んだ。


 校長の「みなさんの馬券力が花開く三年間になるといいですね」という挨拶に突っ込むのを我慢したり。


 生徒会長訓示での「馬券勝負はいつでも受けて立つぞ!」という宣言に突っ込むのを我慢したり、新入生代表までも「先輩方に負けない馬券師になりたいと思います」とかほざきやがるのに突っ込むのを我慢したり……。


「なんなんですかこの学校!?」


 もろもろ行事を我慢し終わった後、馬券師部の部室へと案内されつつ、わたしは溜まりに溜まった突っ込みを副部長にたいして発散させていた。


「みんな高校をなんだと思ってるの! というか未成年でしょうが、馬券買えないでしょうが! なに校長が馬券力向上推奨しちゃってんの!?」


 だが、副部長はむかつくぐらい落ち着き払って乱れなく廊下を進んでいる。


「サトミ君、確かに未成年は馬券を買えないが、観戦をするのも予想をするのも自由だし、競馬場にだって行けるのだよ」

「そりゃ、そうですけど……」


 馬券も買えないのに、レースの予想をして、観戦をして。それは面白いのだろうか?


 そんなわたしの疑問をよそに、副部長は「むしろ」と続ける。


「むしろ、この高校が競馬好きのメッカだと知らずに受験するなんて君ぐらいのものだと思うぞ。中高の関係者なら誰でも知っていることだし、教師や周りの友人から噂ぐらい聞かなかったのか?」

「うぎゅ」


 痛いところを突かれて口ごもる。


「そ、その、あまり友達が多いほうではなかったもので……」

「ふむ?」


 言えない、言うわけにはいかない。友達どころか教師も私と目も合わせようとしなかったなんて……。


 そんなだったから、同じ中学出身者がいない遠方の高校を選んだ。たまたまそれが、こんな競馬好きだらけの地雷高だったのである。


「まあ深くは聞くまい」


 とのありがたい副部長のお言葉、この男にもどうやらデリカシーのかけらぐらいはあったらしい。などと安堵していると、副部長はぱらぱらと『新入生プロフィール完全版』をめくった。


「聞かずとも書いてあるからな。なになに、円城中学不良グループのリーダー格として悪逆非道を尽くし、付いたあだ名が『鮮血のサトミ』。そのあまりの残虐さは生徒のみならず教師陣までをも戦慄させ……」


 ばんっ!


 わたしは無言で副部長の手から『新入生プロフィール完全版』を叩き落とした。副部長は虚を突かれた様子で、自分の手と足元の冊子とを見比べている。


 さて、何発殴れば忘れてくれるものか……。


「待て待て、忘れた! サトミ君、俺はもう何も覚えてないぞ!」


 おっと、口に出てたか。まあここは人目もあるし、副部長には一応恩もある。そのかわり誰かに喋ったら殺そう、と思いつつ、わたしはにっこりと笑顔を作ってこの場をごまかした。なぜか副部長はガタガタ震えているが。


 しかしわざわざ地元から遠い高校を選んだのに、わたしの過去を調べてくれたヤツがいやがるとは。わたしは足元の『新入生プロフィール完全版』を拾い上げると、


「副部長、あとでプロフィール調査部の部室も教えて下さいね?」


 と、笑顔を絶やさないままで聞いた。副部長はカクカクと何度も頷いていた。




 馬券師部の部室は、部室棟三階の端にあった。ほんとに『馬券師部』と歴史を感じさせる木札がかかっている。


「さ、入りたまえ」

「……お邪魔します」


 副部長が引いた戸からおそるおそる部室に足を踏み入れる。


 この異常な学校で尊敬を集めている馬券師部ということで、何が出てきても驚かないぞ、と覚悟していたのだが、存外普通の部室である。


 広さは教室の半分くらいで、中央に大きな会議テーブルがどん。その左右に椅子がみっつずつ並んでいる。向かって左側の壁は一面棚で、雑誌とか暖房器具とか扇風機みたいなものが雑多に詰まっていて、右の壁には薄型の高そうなテレビが壁にかかっている。


 そして正面奥――窓際には、なんだろう? 大きくて茶色い革張りの、ついたてのようなものが設置されていた。


「ななこ部長、新入部員を連れて参りました」


 厳かな口調で、副部長が言った。え、見たところ人の姿は見えないけど、と思って見回すと、さっきついたてだと思った茶色いものがキイキイとわずかに動いている。


 あそこに誰かいるのか、と思ってよくよく見てみればそれはどうやら、大きな安楽椅子のようだった。ついたてと勘違いするほど大きな背もたれに遮られて姿は見えないが、その向こう側に座っているのが、どうやら副部長の言うななこ部長らしい。


「あ、あのー、葉崎サトミです。なぜか今日から入部することになったんですが……」


 おそるおそる声をかけると、きい、とわずかに安楽椅子のスプリングが軋んで


「いらっさーい」


 と、えらく軽い挨拶が帰ってきて、わたしはずっこけそうになった。


「馬券師部へようこそー」


 安楽椅子は向こうを向いたままで声しか聞こえないが、可愛らしい女の子の声だった。鈴の鳴るように繊細な、だがよく通る力強い声だ。


 どうリアクションを取ればいいのか困っているわたしに、副部長が傲然と宣言した。


「こちらこそが市立ややおも高校馬券師部の誇る安楽椅子馬券師、ななこ部長だ!」

「あ、安楽椅子馬券師!?」


 聞かない言葉である。


 安楽椅子探偵、なら分かる。現場で調査をするのではなく、安楽椅子に座ったまま新聞などの情報のみを頼りに推理を披露するという、ミステリの一つのジャンルになっている。


 しかし、安楽椅子馬券師というのは……。


「……安楽椅子ナントカって、普通は動き回らないといけない職業に付く言葉ですよね? だからこそ意外性があるわけで。安楽椅子探偵みたいに」

「……」

「安楽椅子馬券師って、単にのんびり競馬やってるだけの人なんじゃ……」

「シャラップ!」


 副部長は強引にわたしの言葉を遮った。


「サトミ君、世の中には追求してもいいことと悪いことがある。ななこ部長は安楽椅子馬券師なんだ。いいね?」

「あっ、はい……」


 わたしは不承不承に頷いた。


 それよりも、そのななこ部長とやらの姿を見たい。安楽椅子はその大きな背もたれをきいきいと揺らすのみで、いつまで経ってもこちらを向いてくれそうな気配はなかった。


 こちらから行かないとダメなのかな、と思って、わたしは無造作に安楽椅子に近づいていった。先程の可愛らしい声の持ち主はどんな顔をしているのかな、というわずかな好奇心とともに、椅子の正面側に回り込もうとして……。


 がしりと、副部長に腕をつかまれた。


「サトミ君、そこまでだ」

「え? わたしはただ、部長に挨拶ぐらいはと……」

「足元を見たまえ」

「足元……?」


 言われて足元を見ると、何度も上から書きなおされた跡のある白線が、床にペンキで書いてあった。


 それはちょうど机の端のところ、あと数歩で安楽椅子に到達するというところである。まるで境界のように、部室の端から端までしっかりと引かれている。


「その線より先に踏み入る権利は、今の君にはない。そこから先はななこ部長本人と、部長に馬券勝負で勝ったもののみが踏み入ることのできる、言わば聖域なのだ」


 聖域ときましたよ。話についていけなさすぎて若干後ずさっていると、背もたれの上のほうで黒いものがゆらゆらと動いているのが見えた。


 目をこらしてみると、あれは――髪の毛だ。椅子の向こうに座っている人、つまりななこ部長の、アホ毛だけが背もたれの上に突き出しているものらしい。


 そのアホ毛がお辞儀をするように、ひょこんと前後に揺れた。


「そういうことなの、ごめんねー」


 と、さきほどの声がする。フランクな口調が副部長の厳粛な態度といまいちアンバランスである。


「あの、あなたがななこ先輩なんですか?」

「うん」


 アホ毛がぴこん、と向こう側に倒れる。頷いたのかな?


「そっち、行ってもいいですか?」


 と言うと、アホ毛はぶんぶんと左右に振られる。ダメ、ということらしい。


「分かったかね、サトミ君」

「……何も分かってないですけど、分かりました。このアホ毛が部長なんですね」

「アホ毛と呼ぶな」


 と副部長はそう言ったが、まあこのアホ毛付き安楽椅子がこの馬券師部の部長、ななこという人物であるらしい。


「あの、この線からあっちには行っちゃダメなんですよね?」

「そうだ」

「じゃあ、ななこ先輩の顔はどうやったら見れるんですか?」

「ななこ部長の顔を見ることはできん。見たければ、部長に馬券勝負で勝つことだな」


 馬券勝負って何さ、という疑問もあるのだが、それはさておき。


「ええ……? でもほら、ずっとここにいるわけじゃないですよね? 授業にも出ないといけないだろうし……」

「部室の外でも、ななこ部長の正体は極秘なのだ。教職員を含め、この学校に部長の正体を知るものは誰もいない」


 と、副部長はきっぱりと言い切った。何だそれ、そんなのアリなのか。


「じゃあそもそも、ここの生徒かどうかすら怪しいんじゃ……」

「生徒だよー」


 アホ毛付き安楽椅子が軽い調子で答える。そうは言われましてもですね、現状アホ毛しか確認できてないんですよあなた。


 わたしは手前の椅子を引いて座ると、机に肘をついてうなだれた。わけのわからない部活だとは思っていたけど、これは想像以上のわけの分からなさだ。


 頬杖をついてアホ毛のほうを眺めると、心なしか先ほどより傾いているように見える。


「サトミ君、君がうなだれているものだから、部長が心配されているぞ」

「いや、こっち見えてないでしょ」


 と言いつつもそのままアホ毛を注視していると今度は反対側にかくんと傾く。


「部長は、『何か不安なことでもあるのかな?』と仰っておられる」

「ええ~……」


 本当かよ。手話ならぬ……アホ毛話?


 わたしは副部長の翻訳を疑わしく感じつつも、一応アホ毛に向かって返事をする。


「不安なことでもっていうか、もう不安しかないです……。変人ばっかの高校に入学しちゃうわ、罠にかかって変な部に入部させられるわで」

「罠とはなんだ。あと変な部とはなんだ」


 変人ばっかの高校、の部分は否定せず、副部長が割って入る。


「そもそも我々が何もしなければ、君は遅かれ早かれ孤立していたぞ」

「うっ」


 それは確かにそうだ。『競馬に興味がない』と言い放っただけであんなに冷たい目線を向けられるのだ。副部長との一件がなくてもすぐに競馬好きでないのはバレるだろうし、なぜ冷たくされるのかすらわけが分からないままに孤立していただろう。


「つまりだね、我々馬券師部はそうなる前に君を保護したのだよ。むしろ助けたと言ってもらいたい」

「むう……まあ、そうかもしれませんが……」


 したり顔の副部長に素直に感謝する気にもなれないので、わたしは少し話題を逸らす。


「……そうだとして、何でわたしをこの部に入れようと思ったんですか? 周りの反応を見るに、校内では割りと有名な部活みたいでしたけど……」

「うむ。我々馬券師部は部員の公募は行っていなくてね。こちらがスカウトした新入生のみを受け入れているのだよ。スカウトされるのは厳正なる審査のうえで決められたたったの一人だけ。馬券師部に勧誘されるというのは、我が校では大変に名誉なことなのだ」

「年に一人!?」


 まさかそこまでの貴重枠とは思わなかった。てことは、副部長が二年生だから、ななこ先輩が(本当にこの学校の生徒だとすればの話だが)三年生ということになる。


 ……軽薄眼鏡とアホ毛付き安楽椅子と、三人きりの部活動かあ。今更ながら暗澹たる気持ちになってくる。


「……ていうかいいんですか、その貴重なスカウト枠をわたしなんかに使っちゃって。ど素人以前ですよわたし」

「そこは俺もいささか気になったのだがな、ななこ部長が君の隠れたる馬券師の素質を見破られたのだよ」


 馬券師の素質とか凄くいらない。


「たとえ今は競馬に興味がなくとも、きっと次代の馬券師部を背負って立つ馬券師になる。ななこ部長は大変サトミ君に期待しておられるのだ」

「ええ……」


 いきなり見知らぬ人から『君には青のり養殖の才能がある! 期待してるよ!』とか言われても、大抵の人は『ええ……』としか言いようがないだろう。わたしにとって競馬は青のりの養殖と同じぐらい興味がないので、正直まったくありがたみを感じない期待であった。


 だがまあ、ありがたみのない期待であっても、この競馬好きだらけの学校の中で、わたしみたいのを受け入れてくれる場所があったというのは、喜ぶべきことなのかもしれない。


 そう思ってふいとななこ先輩の方を見遣ると、そのアホ毛が安楽椅子の背もたれに隠れそうなほどに傾いていた。


「……なんか首傾げてません?」

「……そうかね?」


 副部長はそっぽを向いて翻訳を放棄していた。仕方ないので直接ななこ先輩に話しかけてみる。


「あの、ななこ先輩。わたしにその、『バケンシノソシツ』みたいのを見出したって本当なんでしょうか?」


 ぶんぶん。とアホ毛は左右に激しく揺れた。


 わたしは副部長をぎらっと睨む。


「……首振ってません?」

「……」


 副部長は落ち着き払って何も言わずに立っている。コイツ都合が悪くなると黙りやがって。


 副部長はとりあえず無視することにして、もう一度安楽椅子の方に向き直る。


「じゃあ、なんでわたしをスカウトしたんですか?」


 そう尋ねると、どこかうなだれるようにアホ毛の曲がり具合が増して、やや小さな声が安楽椅子の向こうから響いてきた。


「競馬知らない子とか逆に面白いかと思って……」

「……」


 理由かるっ!?


「そんな軽い理由でたった一人のスカウト枠埋めちゃったんですか!?」


 突っ込むと、アホ毛はふいっと目をそらすように(いや、もちろん元から目は合ってないのだが)そっぽを向いた。


 ばっと副部長を見る。副部長もななこ先輩に倣えと言わんばかりに、同じくふいっと目をそらした。


 駄目だ。


 何なんだこの部活。この部活がなんであんなに尊敬されてるのかまったく理解できないよ!


 そんな心の叫びをあげながら、わたしが頭を抱えたとき――


「馬券師部ーーーっ!!! いざ尋常に、馬券勝負だ!」


 という大声とともに、部室のドアがばーんと開け放たれたのだった。




 ばん、と木製の引き戸が勢いよく開け放たれ、嵌められた磨りガラスがいやな音をたてる。その向こうには、冴えない感じの男子生徒が仁王立ちしていた。


「ななこ! 新年度になったぞ! 今日こそは馬券勝負を受けてもらうからな!」


 と、冴えない男子生徒はまるでサマになってない格好でびしりと安楽椅子を指差す。ななこ先輩を見ると、先程の音でびっくりしたのか、アホ毛がぴーんと伸びていた。


「部長を呼び捨てにするとは……きさま何者だ!」


 時代劇じみたセリフを発しながら一歩前に出る副部長に、冴えない男氏は顔を赤くさせた。


「よく知ってるだろ! 田之倉だよ!」

「……というわけでサトミ君、このうるさい男が田之倉君だ。隣の部室でユビキタス研究会とかいうのの部長をやっている三年生だ」

「やっぱりよく知ってんじゃねーか! ていうか三年生にくん付けすんな二年!」


 ……すでにだいたいこの男子生徒のキャラが飲み込めてきた。いわゆるいじられキャラというやつだろう。


 それにしてもユビキタス研究会……? わたしはひそひそと副部長に聞いてみる。


「ユビキタスって……なんですか?」

「まあ、知らないのも無理はないな。インターネット黎明期にさかんに使われていた言葉で、ようするに『いつでもどこでもネットにアクセスできたら便利だよね』という理想の環境をさす言葉だな」


 ほむ。わたしは首を傾げる。いつでもどこでもインターネットって、それは……。


「……当たり前なのでは?」

「うむ、ごくまっとうな現代っ子の回答をありがとう。その通り、ユビキタスなんてものはとっくに当たり前になってしまったため、逆に聞かれなくなってしまった言葉だ。死語というやつだな」

「じゃあ何やってるんですか、ユビキタス研究会」

「さあな、実際もう十年も前からろくな活動をしていないと聞く。それでいて、夜な夜ないかがわしいことに部室を使っているという噂だ」

「聞こえてんだよ! いかがわしいことなんかしてねえよ!」


 それまでじっと我慢して聞いていた田之倉くんは、ついに耐えきれず突っ込みを炸裂させた。しかしうるさい人だ。


「……ていうか彼女は誰だよ。見ない顔だが」

「ああ、まあ田之倉くんには関係ないことだが一応紹介してやろう。新入部員のサトミ君だ」


 関係ないって何だよ! とまた喚き始めた田之倉くんを無視して、わたしは一応ぺこりと頭を下げた。


「ども。よろしくね田之倉くん」

「タメ口! 君付け!」


 後ろに倒れそうなほどに反り返りながら叫ぶ田之倉くん。なかなか愉快な人だ。


「……っていうかそんな事はどうでもいい! お前らと喋ってたら話が進まねーんだよ!」


 と、田之倉くんは気を取り直してふうと息をついた。どうでもいいが「お前ら」というのはひょっとしてわたしも副部長と一緒くたにされたのだろうか。この性悪メガネと同カテゴリー扱いにされるのはいささか心外ではある。


「それよりななこ! 俺と勝負してもらうぞ!」


 びしりと指さされた先では、ななこ先輩のアホ毛がふるふると左右に震えていた。


「めちゃくちゃ小刻みに頭を左右に振ってますね」

「間違いなく嫌がっているな。だいたい田之倉くん、君は去年すでに部長に敗北しているではないか」


 と、呆れたように副部長が言う。


「だから再戦だよ! たとえ実態のない部活とはいえ、ユビキタス研部長ともあろう者が、負けたままではいられないだろ!」


 あ、やっぱり実態はないんだ。


「だというのにお前らが再戦を拒むから何度も来るハメになって……。しまいには、『同年度内の再戦は認められない』なんていうから、一年も待ったんだろうが! 年度が変わったんだから、嫌とは言わせないぞ!」


 ふむ。馬券勝負というのが何なのかは未だに分からないが、一応ななこ先輩が一度負かした相手という因縁があるらしい。


 どうするのかと思ってななこ先輩を見ると、アホ毛がいささかしゅんとして見える。


「……ななこ先輩、ひょっとしてあの人ニガテなんです?」


 と聞くと、アホ毛は激しく頷いた。確かに、わたしたち三人だけの時は寡黙ながらも時折声を出していたのが、あのうるさい田之倉くんが入ってきてからは一声も発していない。


「まあ落ち着け田之倉くん、うちの部長は君と違って多忙なのだ」


 と、副部長は相変わらず煽っていく。


「俺だってそこそこ多忙だよ! 俺はななこに聞いてるんだ、俺と勝負するよな!?」


 そう強く言い切られると、アホ毛は力なくうなだれた。


 たぶん、『同じ年度内で再戦は認められない』というのは、田之倉くんと勝負したくないがゆえの言い訳だったのだろう。だがそれが逆に相手に言質を与えてしまうことになった。


 今のアホ毛を翻訳するならば「すっごいイヤだけど断りにくいなあ……」という感じだろうか。……我ながら、なんでアホ毛だけからこんなに感情を読み取れるのかは謎だが。


 しかしそこで、副部長が助け舟を出した。


「ふん、田之倉くん。部長が何と言っているか分からないのかね?」

「……いや、何も言ってないだろ。むしろ何でお前はアホ毛だけで言いたいことが分かるんだよ」


 もっともである。が、副部長はひるまず続ける。


「部長はこう言っておられるのだよ。田之倉くん、君のような未熟な馬券師に私が出るまでもない、君の相手など……」


 そして、わたしを指差した。


「この、サトミ君で十分だとな!」

「なにいいいいっ!?」

「はーーーーーー!?」


 田之倉くんの激昂と、わたしの困惑が見事にハモった。


「このサトミ君にもし勝てたならば、今度こそわたし直々に相手をしてやろうと、部長はそう仰っている」


 副部長はその両方を無視して、きっぱりとそう言いきった。ていうか長過ぎるよ! どう考えてもアホ毛から読み取れる情報量じゃないよ!


 しかし田之倉くんは悔しそうに歯噛みをしながら、ななこ先輩に確認をとった。


「ぐぬぬ……、ななこ! コイツの言う通りなのか!?」


 そう尋ねられたアホ毛は一瞬の沈黙ののち、ぶんぶんと首肯の動きを繰り返した。これ幸いと副部長の口車に乗っかったらしい。


「ふん……まあいいだろう。サトミとやらをぶち倒して、次はななこ、お前の番だからな!」

「いやいやいやいや」


 わたしの方はぜんぜん良くない。


「ムリですって、無理無理」

「大丈夫だサトミ君、君にはななこ部長が見出した馬券師の才能がある」

「いやそれ嘘でしたよね!?」


 わたしは馬券勝負とかいうもののルールどころか、競馬というものに関して『なんかおうまさんが走るらしい』ぐらいの知識しかないのだ。そんなわたしにどうしろと言うのだろうか。


「サトミ君、きみにこの言葉を贈ろう」


 困惑するわたしに、副部長はぐっと親指を立ててみせた。


「ビギナーズラック!」


 ……ああ、この人はこの勝負の行方について、何の興味もないんだな。


 わたしはほんの少し田之倉くんに同情しつつ、全てを諦めて頷いた。

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