安楽椅子馬券師ななこ

うお

第一章 女子高生と皐月賞~日本ダービー

1 『競馬なんかに興味ありませんから!』

 競馬を知っているだろうか。


 もちろん誰しも存在は知っているだろう。代表的な公営ギャンブルのひとつとして、あるいはおうまさん達によるレースとして。


 あるいは、赤鉛筆を耳に差した人生10回ぐらい詰んでそうなおっさんが、スポーツ新聞を片手に罵声を上げるものとして。


 ……最後のはさすがにイメージに偏りがあったかもしれないが、ともかく。


 わたしは今日から高校一年生。華の女子高生なのだ。


 女子高生と競馬に、関わりなんてあるはずがない。当たり前のことだと、100人に99人までは賛同してくれるだろう。


 だが、そこには常に例外の一人がいるというのも、また事実なのだった――。




「君、馬券師にならないか」


「ぎょえっ!?」


 いきなり背後から肩を叩かれて、わたしは思わず乙女らしからぬ奇声をあげて飛び上がった。


 ここは私立ややおも高校、わたしは今日からここの一年生で、入学式会場に指定されている体育館に向かうところだった。遠くの中学校から来たので知り合いは一人もいないはずだし、新入生の義務として期待やら不安やらで胸をいっぱいにしながら歩いていたのだから、驚くのも当然だ。


 慌てて振り返ると、長身の男子生徒が立っている。


 制服のこなれ方からして、おそらくこの学校の在校生だろうか。黒縁の眼鏡をかけているが、なぜか真面目というよりは軽薄なイメージを受ける。目鼻立ちは整っていて、ハンサム、と言ってもいいのかもしれない。


「馬券師に、ならないか」


 だが彼は今、指先をひたいに添え、顔を不自然に横に向けながらわたしに流し目を送るという気持ち悪いポーズをとっていて、なおかつ意味不明なことを言っていた。


 なに、バケンシ? わたしは耳で聞いた言葉を漢字変換できず、理解できないままに男の気持ち悪い雰囲気に二、三歩後ずさる。


 男はそれを知ってか知らずか、その距離をずかずかと詰めながら、


「いや、馬券師にならないか、というのは正しくないな。なぜなら人は皆、潜在的に馬券師なのだから……」


 などと、やはり意味不明なことをぶつぶつと呟いている。


 わたしは心の中で、「あ、これ頭おかしい人だ」と結論づけて、無言で踵を返し早足で体育館に向かった。誰だって入学初日からおかしな上級生と関わり合いにはなりたくない。とっとと人混みに紛れて、希望と不安に胸ふくらませるという新入生の仕事に戻らせてもらおう。


「まあ待ちたまえ」

「……」


 と思ったのだが、やはりというか男は横をスタスタとついて来る。


「君、競馬に興味はあるかね」

「ありません」


 わたしは足を止めずに、だが眼はしっかりと相手を睨みつけてきっぱりと言う。だが男はひるむ様子もなく


「ほうほう、これは興味深い。やはりなかなかの逸材のようだな」


 などと言っている。興味がないと言っているのに興味深いって何なんだ。


「まあ、興味はこれから持ってくれればよろしい。申し遅れたな、俺は私立ややおも高等学校に50年の歴史を誇る馬券師部の副部長、二年生だ。単刀直入に言おう。馬券師部に入りたまえ」


 足を止めないわたしに並んで歩きながら、自称謎の部活の副部長氏はスラスラとそんなことをのたまっている。バケンシブ……馬券師部? ようやく頭の中で漢字が当て嵌まったが、うさんくささは三倍増しだ。


 競馬といったらギャンブルだ。ギャンブルと高校生に関わりがあっていい筈がない。まして馬券師部だなんて、どうせこの男の妄想か、あったとしてもモグリの怪しげな部活だろう。


「いやです」


 わたしはそう言って足を早め、できれば助けてもらおうと先生らしき姿が見えないか探すが見当たらない。問答無用で殴り倒そうかとも一瞬思ったが、できれば入学初日から問題は起こしたくない。


 そんなわたしの気持ちをよそに、副部長氏は涼しい顔で質問を投げかけてくる。


「君、名前は?」

「山田花子です」

「そうかそうか。まあ名乗ってくれなくとも知っているんだがね。羽崎はざきサトミ君」

「なっ!?」


 わたしは思わず立ち止まる。羽崎サトミ、紛れもなくわたしの名前だ。


 副部長氏はどこからともなく取り出した分厚い冊子をめくりながら、うんうんと頷いていた。


「ふむ、なになに……羽崎サトミ。出身は円城中学校、家は川越市で一人っ子。……ほう、けっこう遠くから通っているのだな。片道一時間以上はかかるのではないか?」

「うげっ……」


 怖っ! わたしは目の前ですらすらとわたしの個人情報を読み上げる男にドン引きした。


「す、ストーカー!?」

「失礼な、ストーカーではない。……少なくとも俺はな」


 と、持っていた冊子をぱたりと閉じ、表紙を見せてくる。


 そこには四角張った手書き文字で『新入生プロフィール 完全版』と書いてある……完全版!?


「ここには本年度の新入生全員のプロフィールが載っている。むろん顔写真付きでな」

「げっ……全員ストーカーしてるのかよ……」


 心底背筋がぞっとして、後ずさりするわたし。


「だから俺ではないと言っているだろう。これは私立ややおも高校が誇る『プロフィール調査部』からちゃんとしたルートで買い取ったものだ」

「ちゃんとしたルートってなに!? ていうか何その部活!」

「というわけなので、俺が君に声をかけたのもちゃんと調査の上のことなのだ。納得したかね?」

「するか! ますます引いたわ!」


 まったく悪びれる様子のない副部長氏に苛立って思わず大声を出すと、周りの空気がざわりとした。いつの間にか、すでに体育館の入り口近くである。周囲には他の新入生も大勢集まってきていた。その新入生たちが何事かと遠巻きにこちらを見ている。


 わたしはいきなり注目を集めてしまったことにかっと赤くなったが、人が集まっているならこれはチャンスだ。


 いたいけな(自分で言うのも何だが)新入生が、わけのわからないことを言う上級生に困らされているのだ。ここではっきりと拒絶の意思を示せば、世論は味方してくれるに違いない。ちょっと正義感の強い男子とかが、「おい、彼女困ってるじゃないか」なんて割り込んできてもいいはずだ。


 わたしは謎の副部長氏に向き直ると、声を張り上げた。


「とにかく、わたしは競馬なんかにまったく! これっぽっちも! 興味ありませんから!」



 ――競馬。


 代表的な公営ギャンブルのひとつ、おうまさんによるレース。赤鉛筆を耳に差した人生10回ぐらい詰んでそうなおっさんが、スポーツ新聞を片手に罵声を上げるもの。


 高校生に縁があるはずがなく、みんなだって興味なんかないはずだ。


 そう、そのはず。そのはずなのに――


(あの子、競馬に興味ないんだって)


(競馬が嫌いだなんて、話アワナソー)


(今どき競馬もやらないなんて、信じられないな)


 ――そのはず、なのに。


 わたしの魂の叫びによって非難の視線を浴びることになったのは、目の前の副部長氏ではなく、わたしの方だった。


「サトミ君、いいことを教えてやろう」


 困惑するわたしに、副部長氏が歩み寄る。


「この『新入生プロフィール完全版』だが……もちろん住所や家族構成だけではなく、『趣味』も完璧に調べてある。その趣味の欄に『競馬』と書かれてないのは……」


 彼はわざとらしくその冊子をぱたんと閉じると、とてもいい笑顔でわたしの肩をポンと叩いた。


「サトミ君、君だけだ」

「何それ……」


 わたしはその場にへたりこんだ。


 知らなかったのだ。


 希望と不安に胸をふくらませていた高校が、変人の集まりだったなんて。


 わたしは目の前がまっくらになった……と言ってフェードアウトできればよかったのだが、わたしの意識ははっきりしていて、わたしに向けられる悪意の視線をびしびしと感じている。


(競馬やらないなら、何でこの学校に来たんだ?)


(ねー、あいつどこ中だよ?)


 わたしは何も悪いことはしてないはずだ。たぶん、世間一般の人なら100人のうち99人はそれに賛同してくれるだろう。


 だけどここにいるのは、その残り一人に入るような、そんな人ばかりなのだ。高校生にして、プロフィールの趣味に『競馬』が載ってしまうような人たちばかりで……


 ……この集団の中では、どう見てもわたしが少数派であり、悪者だった。


「分かったかね、サトミ君」


 へたり込んだままのわたしに、副部長氏がかがみ込んでくる。


「この学校で競馬に興味がないなどと大声でのたまうとは、勇気があって結構なことだ。……だがこのぶんでは友達作りなど絶望的、陰湿ないじめすら覚悟しなければならんな?」


 とささやいた。


 わたしはわずかに残っていた気力で、目の前の男をきっと睨みつけた。


「誰のせいでこうなったと……!」

「が、心配はいらん」

「え?」


 副部長氏はわたしの怒りを受け流すように、言葉を遮ってこう言った。


「助けてやろう」


 彼はすっと立ち上がり、あたりを見回すと……


 ……突然、大声で笑いはじめた。


「はっはっは! サトミ君、面白い冗談じゃないか! 君が競馬に興味ないなんて!」


 一瞬きょとんとしたが、すぐに腑に落ちる。


 なるほど、冗談だったということで、誤魔化そうとしてくれているのか!


 わたしはさっきまで自分を追い詰めていた副部長氏の突然の行動に戸惑ったが、もとより選択肢はない。立ち上がり、ひきつった顔で笑いはじめた。


「そ、そーですよー。もちろん冗談ですよー。あっはははー」


 わたしは一生懸命笑った。心の中ではなぜこんなことをしないといけないのかと泣いていたけれども。


「いやーまったく、冗談にも程があるな、はっはっは」


 副部長氏は屈託のない高笑いを続けている。周囲の反応は……まだ疑わしげにしている人もいるが、先ほどまでのような刺々しい雰囲気は去ったようだった。


「はは、いやまったく、そんなことがあるわけない。サトミ君が競馬に興味がないなんてな」


 もうそれくらいでいいですよ、というわたしの心をよそに、副部長氏は大声でのたまった。


「……そう、馬券師部の新入部員である羽崎サトミ君に限って、そんなことがあるはずがない!」

「あはは……って、ええ!?」


 わたしは作り笑いをぴたりと止める。しまった。


 相手の狙いは、最初からこれだったのだ。わたしをわけのわからない部活に入れるための茶番だったんだ!


「ちょっと、それナシ! 今のナシ! わたしはそんな部活なんかに……!」

「シッ! まだ皆聞いているぞ。それに周りの反応を見てみろ」


 言われて周囲を見渡すと、さきほどまでの疑わしげな空気が一変していた。


 わたしが競馬に興味がないと言い放ったときに向けられたのは敵意。


 冗談だと言ったときには、それが安心と疑念に変わった。


 そして今、わたしが馬券師部の新入部員だと宣言された、今では……


(あの子馬券師部ですって、さぞ馬券のスペシャリストなんでしょうね)


(馬券師部に入部できるのってスカウトされた奴だけなんだろ? いいなー)


(ぜひお近づきになりたいね!)


 ……そう、これは尊敬。


 あろうことか、馬券師部などというヘンテコな部活に向けられていたのは、尊敬という感情だった。


「わかっただろう」


 本日五度目ぐらいにあっけに取られているわたしに、副部長氏が優しい声で語りかけた。


「馬券師部は由緒正しい部活だ。君を守ってやることができるだろう」

「でも、だからって……。わたしは普通に女子高生らしい、まともな部活にしようと……」


 と言いかけて、わたしははっと思い当たった。


 尊敬を集める馬券師部。それに彼が嘘を言ってなければ、ストーカーまがいのプロフィール調査部なんてのもあるらしい。


 ひょっとしてこの学校、まともな部活がないなんてこと、ないよね?


「あの、なにか他の部活って……」

「他の部か? そうだな、人数が多いのは競馬新聞部、馬券放送部、蹄鉄部……」

「……競馬以外では?」

「競馬関係以外だと、まずさきに言ったプロフィール調査部だな。あとはマネーロンダリング部、ユビキタス研究会、……インサイダー取引部なんてのもあったな」

「……」


 わたしは大きく天を仰いだ。ああ、空はこんなに青いのに、どうしてわたしの行く手にはこんなにも暗雲が垂れ込めているのでしょうか。


 わたしは心の中で血涙を流しながら、目の前の男にふかぶかと頭を下げた。


「……よろしくお願いします。“副部長”」


 こうしてわたしは、馬券師部の一員となった。

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