第三十二話 百光年の糸
「そうして、儂は、父ジレと母アデーレに生み育てて貰ったのじゃ」
むくは、少し頭を捻った。
「ウルフおじいちゃまが、『白銀のウルフ』ですか。初めて聞きました」
「それはじゃな、あだ名での。ちいとばかし胸が辛くなるのは、軍医になる前は、若い志もあって、傭兵もしておったのじゃ。でも、人を傷付けてはいけないの」
むくは頭を撫でられて、ほかほかの気分になる。
「むくちゃんには、この『ジレとアデーレ』に託した『遺志』を受け継いで欲しいのじゃ」
ウルフは、たまに猫を撫でるようにむくを可愛がるので、高一ともなれば、もうお年頃だ。
恥ずかしい気分にもなる。
「はい。教会でお話が途中でした」
むくは、くっと顔を上げて、高い窓の向こうの星降る空を見る。
「ジレひいおじいちゃまとアデーレひいおばあちゃま。お二人は、幼馴染みだったのに、青年になるまで、ずっと会えませんでした。それは、本人同士の意思に関わりはない所で起きたことです」
むくの目には百光年前のまばたきが、全てを見ていたと、囁いているかのようにうつった。
「国や地域、そして、宗教の境界線が、何かのどす黒い糸で描かれているのでしょうか」
糸は、見えないはずだ。
もし、争いになってしまったら、誰かが裸の王様に登場する小さな子どもにならなければならない。
「夫であるジレは、妻アデーレの肩を抱ける距離にいます。この二人は、赤い糸で固く結ばれているとしか言えないのです」
むくの口から言の葉が堰を切った。
「むくは、そう『遺志』を受け継ぎました」
胸の前で手を組み、曾祖父母に誓う。
「……むくちゃん。儂は、孫がむくちゃんで幸せじゃぞ。本当に、嬉しい」
ウルフは、目にあつい物を湛える。
上背のあるウルフが膝をつき、むくの前にしゃがんで手を取り、ゆっくりと頭を下げた。
ウルフの胸の波が落ち着いた頃、ソファーに指で『JM』と書いた。
「これで、両親も救われるはずじゃ」
十字をきって気持ちを切り替える。
自分もお腹が空いていると気が付いた。
「さあ、むくちゃん、レストランで何かお腹に入れないかの?」
「はい。夏に痩せてしまいましたから、ちょっとがんばらないといけないですね」
むくは、水色で織り文様が市松のセットアップをカーキ色のリボンでウエストをマークし、お気に入りの水色に白いドットが入ったカチューシャをして仕上げた。
「お似合いじゃよ」
「アチャ。照れます。でも、ありがとうございます」
◇◇◇
八月三十一日になっても、むくはウルフに休んでいなさいとばかり言われていた。
今夜も、レストラン『
予約が要らない程、遅い時間で他に誰もいなく、『ムッティ』は静かに波を打っている。
「これなら、落ち着くかの。好きな物を食べるのじゃよ」
「うーん。メニューに沢山書いてありますね。ドイツですから、ザワークラウトがお気に入りです。ミカジューもいいですね」
「ウェイターさん、ミカジューは、和製英語でオレンジジュースのことじゃよ」
「ソーセージ、ジャガイモ、チーズにパン。少しずつでいいから、食べてみんかの。儂は、それに黒ビール」
「かしこまりました」
ウェイターが去って間もなくだった。
ハイヒールの踵がこれみよがしに響いて近付く。
知った姿が近くまで歩み寄った。
「アチャ。びっくりです。Aya様とKou様、どうしたのですか? 日本には?」
むくは目をきょろっとする。
「どうって、どうもこうもレストランでお食事よ。まるで、私は日独あっちこっちターンだわ」
隣に立ち止まると、二人は、むくに席をすすめられた。
「ご事情がありそうですね」
二人に気を配った。
「ここ、リューゲン島のコテージで、Kouと会ったの」
Ayaは嬉しさ半分、哀しさ半分の顔をしている。
「儂らは、又、用があって、リューゲン島に来たのじゃ」
「ここは、リューゲンと言う島なのですか。ウルフおじいちゃま?」
「いずれ、分かるじゃろ。明日、連れて行かなければならない所があるのじゃ」
先にミカンジュースと黒ビールが運ばれた。
「所で『J』は、撒いて来たのではなかったかの?」
「
手を銃の様にして示す。
「そこのウエイトレスさん、紅一点だの」
「左利きの女かしら?」
コテージでの女はひるんだ。
「Aya様、ウルフおじいちゃま、騒ぎは止めて欲しいです」
「大丈夫よ、むく様」
「話せば分かるわい」
『片手でしかも右では、どこに当たるか保証はない。自分に何もしなければ、撃たない』
左利きの女が片言で圧倒した。
「私に脅し? 隠そうとしても方言には明るいのよ。出身地までバレてしまいますわ」
「Aya様が撃たないと仰ってます。お話し合いです」
むくは、取りなそうとする。
『私達は『未来への手紙Jの刻印撲滅機構』だ。Kouが持っていたぼろぼろの手紙は、バラの花びらを押花にした物であった。本当に探しているのは、『アデーレ=アルベルトの手記』だが。知っているなら、教えろ』
「知らないわ」
「知らないのう」
「知らないです」
『おいおい。ふっざけるな』
「Kouにちょっかい出され、さいっこうに、ふざけないでって気持ちなの。こっちこそだわ」
『くっ。本気で知らないなら、アデューだ』
手負いの女は去ろうとした。
「なぜ、アデーレひいおばあちゃまの手記を探しているのですか?」
女は、背を向けたままだ。
『空白の十六年、Jの刻印のせいで苦しみつつ生き抜いたはずだ。それを未来に還元したい』
「この国や人類の負の遺産ですか。アデーレひいおばあちゃまに聞くといいです」
『もう、亡くなっているだろう。幽霊でも出すのか』
「先程、アデーレひいおばあちゃまとお話をしました。暗い道の先には、幸せの日々が待っています。だから、こんなに笑顔になれる日を大切にしたい。人を
『本部に帰って報告する』
「もう、儂らをそっとしておくれ」
『そうだな』
女は、堂々とレストランの入口から消えた。
「AyaさんとKouさん、大丈夫ですか」
むくは、心配になる。
「Kouと私は、異母兄妹ですって……。もう、言いたくないから、内緒なのよ? ずっと、とても素敵に思えて、蝶が焼かれるみたいに焦がれていたの。Kouしか愛せないわ」
「その話は、よせ。Aya」
「むくに、思い当たることがあります」
自身の気になることだ。
「むくは、もっと寛容であれば良かったと悔やみます。電話もメールも、お食事するにも。むくが、電話を掛ける方からは電話がないです。むくがお食事を奢る方からは、今度は奢ると誘われないです。むくは、むくに奢ってくださる方をうっかり誘い損ないました」
少し思い出してしまった。
「大切にしなければならない方と、実際は違う方を選んでしまって、むくは、未だ悪い子です。大切にされないのを分かっていても好きなのです。側で声を聞いていたい。妖精でいたいです。ごめんなさい……」
俯いた顔をはっとして上げた。
「さあ! 先ずは、ミカジューで乾杯です。ザワークラウトを召し上がれ」
陽気に立ち直るむく。
しかし、ウルフは、見逃さなかった。
妖精のかげりは、ドイツの夏でもしぶとかった。
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