第四章 慈愛のサファイヤ
第三十一話 アデーレの口づけ
八月二十六日、ベルリンの『M』教会にて。
「この辺に、空輸した時の梱包材があるはずじゃ」
「はい。『ジレとアデーレ』を包み直すのですか。お手伝いさせてください」
むくとウルフは、Ayaと教会で別れた後、ウルフの若かりし頃描いた『ジレとアデーレ』を丁寧に包む。
ウルフは、BMWの後部座席に乗せ、再びハンドルを握った。
「宿を取ってあるからの。少し遅いが、そこまでドライブじゃ。休んでてええぞ」
「このお車なら、大丈夫です」
むくは、優しく笑う。
「無理は禁物じゃ。儂のコートを掛けなされ」
「ありがとうございます」
遠慮なくコートを借り、むくは、暗い車窓にうとうととした。
◇◇◇
その日の夜、『
「むくちゃん、ここがお宿じゃ」
絵と手荷物を持ち、ベルボーイにトランクを運んで貰う。
ライトアップされていた。
「わあ、素敵な所で溜め息が出ます。もしかしたら、お姫様と会ってしまいそうなお城のホテル、スケッチブックがあれば楽しいです」
むくは、手を合わせて明るい声を出した。
珍しく元気でいいとウルフはしみじみと思う。
「むくちゃん、スケッチブックか。気が付かなかった儂を勘弁しておくれ。楽しそうじゃの」
部屋には番号がなかったが、『猫ちゃんのお部屋』とあった。
「このお部屋だそうじゃよ」
むくは、入るなり、猫足のソファーにぽすんっと座った。
「スケッチブックは、大丈夫です。この目に焼き付けます」
目をきょろんとしてみる。
何かを見つけたようだ。
「うふふ。天蓋付きのベッドってあるのですね。物語みたいです」
ふかふかな触り心地にうっとりする。
「さてさて、むくちゃん。この絵のお話をしてもよいかの」
「はい、お願いします」
『ジレとアデーレ』は、再び明るい所に出され、ソファーに座らされた。
「この絵はじゃな、儂の父と母を描いたのじゃよ」
「まあ、そうなのですか。では、ジレひいおじいちゃまとアデーレひいおばあちゃまですね」
にこりとして傾げた。
「もう親しみを込めてくれるのか、むくちゃん。嬉しいの」
「アチャ。恥ずかしいです」
「それでの、にゃんこっこで話した通り、父は信頼を置かれる地元の医者『
ウルフは、物語を紡ぐように『ジレとアデーレ』の実の姿を明かして行く。
◇◇◇
一九五四年の八月、アデーレは、朝は果物屋で午後は花屋で売り子をし、一日中でもせわしなく働いていた。
市場の果物屋では、明るく働く娘が少しばかり評判になっている。
ある朝、手を震わせてレモンを指さす男が現れた。
「旦那さん、おはようございます。二つもレモンを買ってくださるの。レモネードでも作るのかしら」
アデーレ=アルベルトは、いつも朗らかだ。
長い髪は後ろでまとめて、ピンクのエプロンが似合い、シャボンの香りがする。
きゅっとレモンを拭いて、初めてのお客様に手渡す。
「お、お勘定です」
ジレ=ミュラーは、不器用だ。
服装も地味でお堅い感じがする。
釣り銭も要らない丁度のお金を渡し、お勘定と声を掛けるのが精一杯だった。
手を震わせる程緊張するせいか、果物はいつも二つが定番だ。
「いつもありがとうございます」
初めてでも常連のお客様と同様にアデーレは思っている。
にこりとすると、愛らしさが花開くようだった。
その日の夕方、一本向こうの道の花屋『
「こんばんは、旦那さん。バラですね。承りました。おいくつ作りますか?」
「い、一本」
バラは、一輪ずつ買われた。
あくる朝の果物市場でもアデーレは輝いていた。
「おはようございます、旦那さん。ブドウですか。二つもですか。あはは、今度はブドウ酒かしら」
その晩の花屋でも美しさを見失わない。
「旦那さん、こんばんは。今日は何のお花ですか?」
「バラを」
「まあ、毎日贈られているのかしら。おいくつ作りますか?」
「い、一本」
ジレは、大変な恥ずかしがり屋だったが、アデーレの働く所へ、朝な夕なに通いつめていた。
九月十九日の花屋、『
「旦那さん、こんばんは。今日もバラですか?」
「きょ、今日は……。九月十九日は、アデーレ=アルベルトさんのお誕生日ですね」
アデーレは、息をのむ。
「え、ええ……」
「バラを、貴女の年の数だけあります」
みずみずしい花束を差し出す。
ジレは、毎日買っていた花を求めたときよりも美しく保っていた。
「まあ、どうしましょう。この為に毎日いらしてくださったのですか?」
「私は、この日を待っていました。私とお付き合い願えませんか? 私は、ジレです。ジレ=ミュラーです」
いつも通りの地味な姿で、交際を申し込んだ。
果物屋で見掛けてから、どうしても、アデーレに名乗りたいと、堪らなく思っていた。
「おお! 何てことでしょう。ジレちゃんなのですね?」
「はい、私は、ジレです」
二人は、涙でお互いが見えにくくなってしまった。
ジレとアデーレには、ちぎれない絆がある。
◇◇◇
一九三八年の十月のことだ。
「ジレちゃん、一緒に行こう」
「アデーレちゃん。いいよ」
二人は仲のいい幼馴染みだ。
しかし、この二人にも別れていた時があった。
二人が八つの頃に、事件は起こった。
アデーレが、家族で信仰していた宗教が国策と合わない、いや、利用したのか、旅券に『J』の刻印を無理矢理付けられて、会いに行けなくなった。
「アデーレちゃん。生きていてくれたなら、それでいいから……」
ジレは、お空に向かって祈る日々が続いた。
子ども達には何が起こったのか分からなかった。
◇◇◇
それから、十六年が経った。
町娘は、初めての素敵な伴侶を得る。
そして、待ち続けていた幼馴染みに、バラで隠した口づけを贈った。
淡いシャボンの香りがした。
◇◇◇
五年後の一九五九年、ミュラー家に新しい灯があった。
「お
「父は、あたたかい家庭の写真を撮るといいと手紙を綴ってくれたよ。返信に笑顔を添えよう」
どんな想いで家族の笑顔がこぼれたのか。
今なら、そのお腹の子にもわかるだろう。
その子の名は、
「美しく闘う傭兵相手の軍医、『白銀のウルフ』と呼ばれた儂の父と母の話じゃ」
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