第三十話 白雨のAya
Ayaは、これまでを振り返った。
◇◇◇
Ayaは、
本名は知れない。
コードネームで、Ayaと呼ばれた。
語学の秀才で、各国と地域の言葉を巧みに操り、どんな地方の方言でも溶け込める。
そして、天才的な狙撃の腕を持つ。
視力は五.〇、雌豹に勝る動体視力で、
しかし、人の命までは奪わない主義だ。
初めて銃を手に取ったのは、十歳の誕生日だった。
凍えるような教会で、母から意志を継ぐ。
小さき手に余る銃は、コルトパイソンの重みだ。
銃口に龍のペインティング、トリガーに母の名が刻まれている。
Ayaが肌身離さなかったからか。
この刻印を撫でると母に逢えると思っていたからだろうか。
既に、刻印も読み取りにくい。
銃の手ほどきはなく、Aya自身で勘を研ぎ澄まして来た。
たった一度、母の仕事を間近で見ただけだ。
男の銀髪を散らした、母のミスショットを。
その誕生日は、小春日和だった。
清々しい気分で、白い布で仕切られただけの母の寝室を開けると、母はAyaを捨て去っていた。
自分にAyaという名と母の名の刻んだ銃に
Ayaは、母が出で行く気配に気付かなかったという未熟さのみに後悔した。
普通の少女ならば、未だ母に甘える時期だろう。
しかし、Ayaは、母の面影は過去に捨てた。
再び会うことがあるかもしれないと、心の奥底では信じていた。
母と別れて十年が経つ。
少女は成長し、Ayaの名を高めた。
その誇り高さと銃の腕前から、『孤高の黒龍』と呼ばれ、優秀な仕事が保証される。
それがAyaがコードネームで生きるようになったゆえんだ。
◇◇◇
Ayaは、友人を持たない。
だが、唯一Ayaと接触する青年がいた。
その特別な相手は、
Ayaとはあらゆる時を共に過ごして来た。
Ayaは、一時期、香港を占めていた李家の令嬢、李凛の右腕として活躍し、時には姉のように労った。
世界的名バイオリニストの持つ秘蔵のコレクション管理人として、完璧に守り抜く。
そして、北の大国大統領婦人の影となり、死なないファーストレディーを演じた。
李家では、Kouから得たルートで、双子の雄の三毛猫とその主をも死守する。
このToiとMoiは、随分と一緒に過ごした。
Kouは、時折、主に情報屋としてサポートをしてくれた。
一緒に働こうと決めた日から未だにだ。
二人共、離れようとも離れられない、不思議な力を感じせざるを得ない関係にある。
同衾しないのが、二人の絆の一つとなっている。
まっとうな話だ。
魂の奥深くに眠っている真の繋がりは、死さえ別かつことのないモノだから。
◇◇◇
二〇三三年七月七日、正午丁度に東京の生臭い港で二人は青い空を見ていた。
Kouは、李凛の手紙を預かっている。
服装は、今日という日を意識してか、着流しだ。
風に呼ばれてここに足を向けたら、Ayaが、黒いスーツに黒いスカーフ、赤いサングラスに黒い小さな帽子の姿で、物憂げに空を仰いでいた。
KouがAyaに出逢ったのは九日振りだ。
いつも、緊迫した状況で二人は出会いそして行動を共にし、別れて来た。
しかし、今は急ぎはしない。
二人ともコンクリートに座り、自然と空を見上げた。
「ねえ、今夜は晴れた方が皮肉なのではないかしら?」
AyaはKouの傷ついた手にそっと触れる。
「ああ、七夕の伝説か」
Kouは眩しいばかりに晴れ渡った天を仰いだ。
「そうね」
Ayaは一時の休息に甘んじている。
「雨が降ると会えないという……」
Kouの酔いしれている口調がAyaの心を揺さぶった。
「会わない時間が、私とKouを傷つけるわ」
触れていた手をそっと離した。
「全ての人にAyaは愛を向けられないと、李家にいる頃、俺に語ったな。李家と言えば。これは例の件のナノムチップと、李凛からの親書だ」
すっと懐から取り出してAyaに預ける。
「型通りの礼しか言えないけど、感謝しているわ」
一礼した。
その時、髪が愛しげに舞った。
KouはAyaの揺れる碧の髪を見つめて痺れる。
今まで、同業者、或いはパートナーだった。
Ayaは自分が女性である事を誇りに思っている。
そしてKouも性別を越えて付き合って来たがAyaを女性以外に否めない。
完璧な才能の持ち主の側にいられるだけでいいと、Kouは寄り添って来た。
もう、それも過去形か。
今日は揺れている。
ゆるりとした時間がKouを誘ったのか。
「そうね。愛は、追うものでもないわね」
Ayaも酔いしれている風だったが、これはいつもの口癖だ。
「今もかい?」
Kouはさらりと、輝くばかりの空から、才気に溢れるAyaの瞳に目をやった。
「そうね」
また、口癖だ。
「そうね」
Ayaはもう一度繰り返す。
それ以上の言葉は、力強い瞳で語った。
Kouは、あふるる胸の内を閉ざすしかない。
◇◇◇
その日の午後だ。
強い雨がコンクリートを叩きつける。
深い闇が天を隠した。
碧い空が去ってしまったから。
Ayaはどこへともなく走っていた。
碧い髪は濡れすぼって、紅い唇は紫となり、日の下では漆黒に身を包みすくっと立って見えた姿は、死んだ。
濡れた鴉の化身でしかない。
あの力強い瞳はどこへ消えたのか。
急いで急いでどこかへ向かうのが、精一杯だ。
Ayaの足は速い。
追いつけそうなのは、Kouくらいのものだ。
「Aya――!」
いつもは叫ばないKouが、Ayaだけを見て、走って走って走り抜いた。
思えば、Kouは溺れてもいい覚悟がある。
再び、探す。
「Aya……!」
Ayaは路地裏で、ゆっくりと崩れ落ちていく。
「Aya……」
Kouは、Ayaの頬に左手を当てた。
「大丈夫。大丈夫なんだよ……。Aya……」
Ayaは雨に身を預けた。
頬には雨とも涙ともつかない滴が流れる。
空しか瞳にうつらない。
しかし、Kouの真摯な眼差しを受け入れようと顔を拭い、微笑みさえ浮かべた。
「ごめん、何でもないわ。今日は雨だったのね……。それだけだから。もう何でもないわ」
「俺は側にいるだけでいいかい?」
Kouの眼差しはマリア様か如来様か、この上なく優しく慈悲深く包容力の限りを尽くしている。
「そうだよ……。よく分かったわね」
Ayaは生まれて初めて頬を染めた。
寒さのせいとも取れる微かな桃色だ。
潤んだ瞳は、すくませる力がある。
「当然だよ。俺はきめ細やかにAyaを知っている。全てを受け入れられる。俺はそういう人だ」
Ayaを抱き締めようと手を伸ばしたが、軽く震え、そしてその手を拳にして雨をとうとうと流すコンクリートの壁に軽く当てた。
「全ての人に愛を向ける事はないと、俺に語ったな。それでいいんだ、Aya。でも、でも、愛が欲しい時は大きな声で叫んでいい。自分の気持ちを大きな声で叫んでいいんだ。誰だってそうなんだ」
Kouは天を仰ぎ、雨に顔を任せた。
「……光。……光。こ……う……!」
Ayaは、コードネームのKouではなく、彼の本当の名を叫んだ。
彼女は、体を起こし、 Kouに哀れな顔を近付ける。
KouもAyaの気持ちを察し、緩やかな瞳で見つめた。
Ayaはいつになく弱々しい表情だ。
「愛は、何処にあるの……?」
「それは、Ayaが知っている筈だ」
「……光。こ……う……!」
Ayaは、なだれ込み、光に身を預けた。
「分かっているよ、全て。Ayaのことは全て……」
◇◇◇
二〇三三年七月七日、東京。
天はAyaの表と裏をうつし出した。
これは七夕の空と二人の密約だ。
二人は再会の約束をしたことがない。
運命の糸が二人を引き寄せているのみだから。
いつ、終わりを告げるのだろうか。
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