第二十九話 渚のナイフと小鳥達
「何故? Kouのこと、いない時もまるでいるかのように感じてしまうの。貴方のいつもの周りに溶け込む服装でさえ、背格好の似た人を目で追ってしまうのよ。そして、違うと分かると落胆して、小鳥のように泣きたくなるわ」
自分の肩を抱えるAyaは、雨に濡れそぼつ小鳥のようだ。
Kouと離れている時間が長いと、いつもこうなる。
愛する人との再会は、白雨によるものだと思うと、激情のやり場がなかった。
偶然でしか出会えない恋人は、哀しい生き物なのかと疑問に思う。
「Ayaと一緒にいられない理由は、俺の胸にしまわせて欲しい。頼む。しかし、そこまで俺のことを想って、苦しみの域に達しているとは、すまない」
Ayaの顔を見られないから。
だから、Kouは斜め下に首を下げた。
本心で謝っている。
「すまない? それで済まされたくないわ! もう逃げないと誓って。私、私はね」
軽く握った拳で、二度、Kouの胸を叩いた。
「いや、本当だ。俺は悪いと思っているが、Aya」
Kouの腕がゆるりと、叩くAyaの手を握る。
触れられて、吐息をこぼすAyaは、感情がぐちゃぐちゃだ。
怒ったらいいのか、哀しんだらいいのか。
別れたくない。
それだけは確かだと気がゆるんでいた時だ。
「あ……」
Ayaは、肩を引き寄せられる。
初めてKouの胸におさまり、Ayaの細く長い首がくっと上を向く。
Kouに抱き締められて、真昼の迷宮におちいった。
雛鳥を抱えるように優しくKouに包まれながら、愛の囁きを聴く。
「Aya――!」
愛しているのは知っている筈だと、Kouが呼びむせぶ。
これが限界、Kouの精一杯だった。
「ここで。ここで、別れるしかない」
Ayaの首筋に、愛するKouの初めての涙を感じた。
「本気なのね? 嫌、それだけは、嫌。私に悪い所があったのなら直すから。全ての好みも合わせるから。ね、お願いよ。別れたくない、別れたくない、別れたくないわ」
頬を濡らしたのは、二人の涙だった。
何故、巡り合って築いた恋が、たった一言で別れなければならないのか。
何があっても、心が忘れることなどできない。
「一度だけ言う。聞いて欲しい」
Kouは、抱き合ったまま囁く。
渚のきらめきは、真昼の迷宮のように二人を追いかけたり嫌ったりしている。
昨日までの自分を殺して欲しいと。
今から、生まれ変わりたいと。
ざざざざざざざざ……。
ざざざざざざ……。
ざざざざざざざざ……。
「――俺達は、兄と妹だと知ってしまったのだ」
ざざざざざざ……。
ざざざざざざざざ……。
ざざざざざざ……。
渚の中で、Kouの言の葉が踊った。
一枚の木の葉のように。
傷付けるとは、分かっていた。
しかし、Kouは伝えなくてはならない責任と命運にある。
「う、嘘……」
Ayaは、よろめき、二の句が継げないでいた。
佇んだかと思うと、か細い声がもれた。
「Kouのユニークな面も好きだけれども、冗句は止めて」
Ayaのなげきを遮るように、Kouが重ねる。
「本当なんだ。嘘をついたって、何の得にもならないだろう?」
Kouは、真っ直ぐにAyaを見つめた。
「ただ、これだけは信じて欲しい。Aya、俺の魂を語る」
Ayaが顔を上げて、Kouを見つめる。
二人は、特別な想いを寄せて見つめ合う。
お互いの瞳には、お互いしか住んでいなかった。
痛々しい二人にできることはそれしかないのか。
「妹以上に愛している……!」
Kouは、心の叫びをまだ遂げられなかった。
「誓う! 誰よりもAyaを愛している……」
Kouは、別れのくちづけをしようと、Ayaの頬を撫でた。
しっとりとした赤い唇にグレープのような甘い唇を重ねる。
「はあっ……」
優しく。
そっと合わせる。
「はっ……」
少しだけ荒く。
もう、サヨウナラなのだから。
「ん……」
お互いに思いの丈を込めて。
Kouの想いは、あの日、幼い頃に仕事を紹介された時、気が強そうでいてナイーブなAyaへの想い。
おとなしいが知的で優しいユニークなKouを見続けていた日への卒業が、Ayaの想い。
「ふう」
Ayaの恋は、報われた。
同時に、振られる残酷さを持って散るしかない。
「すまない……」
Kouは、今までで一番の罪をおかしていると思った。
それゆえの謝罪だ。
そっと二人の甘い関係が離れてゆく。
Ayaは首を振るが、Kouが許しはしなかった。
後ろへとさがり、黙ったままナイフでも刺さっているかのような背中をKouが向ける。
Ayaはむくの妖精がたたえたように、涙を瞳に忍ばせている。
別れの時が来た。
時が逆らって欲しいと思うしかない。
二人のメソッドだ。
◇◇◇
「ああ、ま、待って! このメッセージは、分かる?」
ざばざばと渚をかき分けて、AyaがKouに体を寄せる。
どんなことでも良かった。
引き止めたい一心だ。
なりふり構わず、Kouの魂を追う。
「メッセージ?」
「赤いハンカチのよ」
Ayaの胸ポケットから出した。
『
「裏にはこれが書いてあったの。機内で渡されたわ。これも『組織J』の仕業なら、今、助かったわね」
『
「私には、どの名前にも心当たりがないのよ。記憶力には自信があるのだけれども」
首をかしげる。
「これは、ローマの男から俺が得た情報と同じだ。スマートフォンで通話している風にして、これを俺に話して弱みにしようとしたようだ。ナノムデータベースを開いて見せられたよ」
一息ついて、Kouは、決意したようだ。
「Ayaと俺の母の名だ。『
「そ、そんな!」
Ayaは、顔を覆った。
Kouの方がAyaよりも物理的証拠に弱いのを知っている。
「父は、『
Kouは、情報を怜悧に伝える。
どんなに酷なことだとしても割り切れる、それが、Kouだ。
「私の母は、元々ドイツにいた。
バッハは、日本語で小川のことだ。
帰化する際に何かあったのだろうとAyaも思った。
「そして、富有兎は日本人だ。
「そして、君の名は――」
「止めて! 母は、もういないわ」
Ayaは左右に首を振る。
「いや、生きているんだ。李建とAyaの母方の祖母、李蘭は知り合いだ。先日、野太い声の李建が帰って来た時、李信に自ら話したらしい。現実は現実だ。逃げるのはAyaらしくないぞ」
それで、李建に拾われたのかとAyaは唇を噛んだ。
「母は、顔も忘れたわ」
耳を塞ぐが、Ayaは、聴力もいいので困る。
「それでもいい。出自は確かにした方がいい。俺は、李建からドラゴンへと身を売られたようなものだ。友達だなんて嘘を塗りたくって。ドラゴンは、バイオリンの件で依頼者を妻としていたが、実は李建だったよ」
そして、兄としての遺言なのか?
Ayaには伝えたかった。
「君の名は、
ざざざざざざざざ……。
Kouの秘匿は、Ayaを哀しませるだけなのか。
恋の秘密と向い寄る影が、渚にゆだねて、揺れていた。
◇◇◇
その頃、リューゲン島に向かう影が二つあった。
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