第二十六話 Mはにじみし

「Ayaさんや、又、来ておくれ。むくちゃんは、少し疲れておる。それから、アトリエに銃は相応しくないの。どうしたのじゃ」


 ウルフは、シュヴァルツ・ドラッヘの件に優しく触れた。


「匂いで分かったのかしら? 母の形見なのよ」

「ほう。儂は、Ayaさんを見掛けたことがあるのじゃがの」


「どちらでですか?」


 Ayaは、びくりとする。


「あそこじや、あそこ。随分な、教会だったの」

「もしかして、銀髪のお兄さん……」


 Ayaは、今になって気が付いた。


「そうじゃよ。そうじゃ。アトリエの戸締まりは頼むの、Ayaさん」


 ウルフは、アトリエを片付けた後、むくのトゥシューズを脱がせて抱き上げる。


「むくちゃん、難しいことは考えなくともいいぞ」


 むくは、ウルフにもたれかかった。


「むくちゃん。小さい頃に、美舞まーまと来てくれたことがあると思うが、覚えておるかいの。そこに向かうぞ」


 むくは、こくりとうなずくと、疲れたのか体中の力を放り出して眠る。



 うとうとと綺麗な妖精が銀髪に包まれて行く姿をAyaは目に焼き付けて胸が焦がれそうになっていた。


 ◇◇◇


 Ayaは、李家に向かったKouに連絡を取った。

 メールで、いつも通り、暗号を使う。


「もしも、李家にいたら『L』、いなかったら『l』の返信があるはずだわ」


〔?〕


 Ayaから送信した。


「なんの返信もないなんて。Kou……! 何かあったの?」


 信に通話をして、涙を誘う声を殺して訊く。

 すると、Kouは、入国すらしていないのではないかと、エアポートを降りた人物を見た者がいないとの話を受けた。


「Kouが行方不明? いつもとは匂いが異なるわ」


 くしゃみをしていたのがつい最近のように感じる。


「凛様はご無事なのかしら」


 いつものように、信の『凛様ご成長記録』をかいつまんで確認した。


「ありがとう、信」


 ◇◇◇


「フライトチケットは、とってあるのじゃ。ドイツ連邦共和国Bundesrepublik DeutschlandベルリンBerlinへ行くのじゃよ」


 八月二十六日金曜日、日が昇る前から、ウルフはむくの分も荷造りや身支度をした。

 むくはさっさと団地から連れ出された。

 空港へは、Keiseiスカイライナーで向かおうと思っていたが、むくが疲れているのを見てウルフはタクシーにする。


「あのタクシー、多分成田空港ね。こっちも追うわ」


 Ayaは、カローラで追跡した。

 むくとウルフはキーマンのような気がする。

 見失ってはならない。

 Ayaの勘は鋭い。


 二台の車が、成田空港で人を掃き出した。

 上背のある白い男、彼に支えられた水色のコートの少女、そして、全てを黒くした烏の女だ。


「十時五十分、成田国際空港発、ブリュッセルBruxelles経由、ベルリンテーゲル空港Berlin-Tegel Airport、一八時丁度着で行くぞ。成田からは、全日空じゃよ。ええじゃろ。乗り換えたら短いエアバスじゃ」


 ウルフは、むくを成田空港のカフェで休ませながら、これからの話をしていた。

 むくは、ぼうっとしてココアも口につけなかったが、ウルフが心配して見ているのに気付き、お冷やで唇を湿らす。


 Ayaは、近くの席でしれっと耳をそばだてて、チケットを都合しに行った。

 キャンセルがあったので、胸を撫で下ろす。

 ウルフは、この日の為にチケットを取っていたようだ。

 用意周到さにAyaは一手遅れたと思い、Kouに頼りすぎていた自分を恥じた。


 三人を乗せた飛行機が、地面を蹴って行く。

 むくは、全日空機内で、シートベルトに緊張を重ねていた。


「初めての時、飛行機を怖がっていたが今はどうじゃ? むくちゃん」


 ウルフは、早めにブランケットを掛けて、むくが冷えないように気を配る。

 その様子が、Ayaからも見える席だった。

 Ayaからすれば、こちらが見つからないか慎重でいるべきシートだ。


「離陸したら恐くなくなりました。大丈夫です。ウルフおじいちゃま」


 むくは、肩にブランケットを寄せる。


「さあ、十二時間しないとブリュッセルにも行き着かないぞ。ベルリンまでは楽しみますかいの」


 間もなく、キャビンアテンダントからウルフは甘甘あまあまコーヒーと、むくはオレンジジュースをいただいた。


「実はのう、むくちゃんに見せたいものがあるんじゃ……。しまった、甘過ぎたかの!」


 ウルフは、コーヒーに火花を散らす。

 ウルフの妻、マリアより甘いと反省しきりだ。


「何がですか? ベルリンにあるのですか?」

「そうじゃよ。ははは。驚くと思うぞ」


 むくは、オレンジジュースに挑んだ。


「百パーセントオレンジが堪らなく美味しいです」


 喉をこくっとすると、ほっそりと笑う。

 疲れると食も細くなるが、少し飲めるようになった。

 むくが元々痩せているのもあり、ウルフは常々心配をしている。

 何でも口にできたのならいいと、ウルフは少し安心した。



「恋をすると、食も細るものよね。でも、アッサムティーとスープは別腹なのよ」


 後方から、Ayaが本音をかじるように零す。


 ◇◇◇


 ドイツ、ベルリンに降り立った。


『ポーン……。ご搭乗ありがとうございました』


 ベルリンは、すっかり暮れている。

 街並みは、他の都市と変わらないけれども、この国の哀しみも抱えているようだとAyaは思った。


 むくとウルフの行動は、むくのスマートフォンで盗聴できる。

 そこで、ウルフの次の目的地を知った。


「ここから目的地の近くまで、レンタカーで行くかいの。儂はドライブ大好きなのじゃ。国際免許を持っておる」

「ウルフおじいちゃま、頼もしいです」


 むくは、自力で歩けるようになっていた。

 BMWを借りて、二人のドライブだ。

 むくには道は分からなかったが、ウルフにはマップは要らない。

 東か西か南か北か、すいすい流れる車窓にむくは呟いた。


「絵の様に綺麗ですね……」



 その後を、ミラーにうつらないように、ヤマハで追いかけるAyaがいる。


 ◇◇◇


 車輪の軋みが聞こえ、むくは到着を知った。


「着きましたか? ウルフおじいちゃま」


 BMWから、そっと砂利道に降りた。


「教会……」


 ぶっと風が吹きさく。

 砂利の間の雑草が、負けまいとした。


「勝手に入って怒られないですか?」


 ウルフの白い革靴の足音が、教会の中を含むように響く。


「勝手知ったる学舎じゃよ。ははは」


 むくは、教会を見回す。

 テンペラ画の『マグダラのマリア』を見つめた後に、振り返った。


「ウルフおじいちゃまの学舎?」

「ははは」


 碧い瞳が、懐かしみ注がれている。


「そうじゃ。この教会の祭壇の後ろに行ってみなされ」


 真っ直ぐ先を示した。


「大丈夫ですか」


 自分の靴の音が響き渡るのにさえ、ひやひやし、ゆっくりと近付いた。

 誰が描いたのか、板に『最後の晩餐』風の油彩画があり、それを屏風のように立ててあった。


「裏? 裏って……」


 気を付けて向かって左のユダ側から覗いてみる。


「ああ! こんな所に……!」

 

「ベルリンに『ジレとアデーレ』を空輸したのは、この儂じゃ。この絵は、知人のKouさんにここまで運んで貰ったのじゃ」


 ウルフが近付いて来て、むくの頭を撫でた。


「この絵を……。Kou様ってウルフおじいちゃまのお知り合いなのですか?」

「Ayaさんの専属マネージャーを兼ねた情報屋らしいの」


 ウルフは、『マグダラのマリア』まで歩み、振り返った。


「この絵。『ジレとアデーレ』を描いたのは、儂なんじゃよ」


 ウルフは、両手を開いて微笑む。


「ええ……? え!」


 その様子を近くで盗聴していたAyaも心底驚いた。


「そして、白い手紙のにじんだ『M』の文字は、儂の学舎である『M』教会。マグダラのマリアの『M』。儂の名『ミュラーMüller』。それらから来ておるのじゃよ」


 むくは、ウルフおじいちゃまのことなのに、知らないことがあるのだと、心が缶蹴りされたようだ。



 Ayaは、様々なデータを、今、統合しようと懸命になっている。

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