第二十五話 無垢の妖精

 壁側の席で二人は、楽しげなにゃんこっこタイムの喧騒に紛れていた。


「むくは、Aya様のお役に立ちたいのです」


 ココアで手をあたためる。


「あら、絵を売ってくださるの?」


 すっかり、二杯目のアッサムティーを飲み干していた。


「今、それ以外に方法を考えています」


 ココアに口をつけて、黙っている。


「好きな人との別れはつらいです。むくは、様々な声が聴こえるようになって、睡眠不足です。Aya様に同じ想いをして欲しくはないです」


「あの絵は、一体……? 特別な意味があるのかしら? むく様」


 とても語りにくい話だ。


「むくの……。初恋が詰まっているからです。激しい恋です」


 むくは、がんばって、前を見つめている。


「そうね。そう見えるわ。初恋のムードが良く出ているわ。微熱と言うより、情熱かしらね」


 Ayaは、スマートフォンの写真を目を凝らして見た後、ちらちらと店の入り口を気にした。


「私も恋をしているの。どうにかならないかしら……」


 むくもAyaも、自分の恋にしがみつくばかりに必死だ。

 しかし、お互いを他人とも思えず、解決の糸口を探っている。


『にゃんこっこのこっここ』


 拍手喝采の中、にゃんこっこタイムが終わった。


 にゃあおーん。

 にゃにゃん。

 にゃあにゃあ。

 なおっなおん。


 BGMは、スターにゃんこの可愛らしい声になる。

 すると、新しく男性が入って来た。


「いらっしゃいませ、にゃんこっこ!」

「いらっしゃいませ、にゃんこっこ!」


 男性は、上着も脱がずに、案内を制止する合図をした。


「大丈夫。知り合いが、先に来ている」


 そう言って、さっと壁側のテーブルに向かって来る。


「初めまして、土方むく様」


 むくに、挨拶の握手を求めて来た。


「きゃ、きゃあ! 猫アレルギーは大丈夫なの?」


 Ayaは、頬に両手を当てて顔を埋めた。


「どうした、Aya」

「え?」


 耳まで赤くなっている。


「らしくもない」


 Ayaのはしゃぐ姿は、浮いて見えた。


「初めまして、土方むくです」


 差し伸べられていた手に握手しようと手をふいっと上げた。

 すると、そこには空気しかなかった。

 むくの姿勢がぐらりと揺れ、今、店に入って来たと言う人物はいなかったようだ。

 どこにも……!


「Aya様。今、男性がむくと握手をしましたか?」


 不思議に思い、訊いてみた。


「え? いるでしょう?」


 掌を来客に向けて、むくに、自慢気にKouを紹介する。


「むくは、Aya様の想い人がいらしたと思いました」

「まさか……! 今、この席に……。彼がいないですって? むく様は『裸の王様』をご存じですか?」


 Ayaは、何が何やら分からなかった。


「むくが、王様は裸ですと言った子供ですか。……そうかも知れませんね。ごめんなさい」


 むくの優しさが滲みでている。


「ごめんなさい?」


 Ayaがその真意を問いかけた。

 不思議だが、Ayaの妄想にむくは邪魔をしてしまったようだ。


「はい。優しくてつよそうな方が、見えました」


 むくは、否定してはいけないと笑みで返した。


「そう。彼はいつも私を見守ってくれるのよ。きっと、隅っこの席が好きだから、今はそっちにいるのよ」


「所で、一体、むくの絵はどんな風にお役に立つのですか?」


  疑問の根本に辿り着く。


「私の思い込みだったのかしら」


 Ayaは、むくの絵への執着を説明し難かった。


「あの絵で安らぎを得たかったのかも知れないわね……」

「分かりました。むくの絵はお貸しいたします」


 突然の申し出に、Ayaは、揺らぐ。


「え? 借りる……。それは、考えていませんでした」


 むくからいざなった。


「アトリエに行きましょう」

「分かったわ」


 Ayaは、緊張の面持ちで頷いた。

 むくは、窓際の席にいるウルフに手を振った。

 ひょいとウルフが心配して来た。


「むくちゃん。ウルフおじいちゃまは、先に帰るかの」

「ウルフおじいちゃま、一緒に帰りましょう。Aya様、こちらは、祖父のウルフです。ウルフおじいちゃま、こちらは、Aya様です」


「初めまして……。ウルフ様」

「車はガタガタだが、腕ぶれておらんぞ」



 むくもウルフも笑顔になる。


 ◇◇◇


 またもや、ウルフとドライブとなったが、厳しい揺れがもう笑いになる。

 むくのアトリエに向かった。


 Ayaは、Kouと二人、蟻地獄の巣に落ちたかのようにもがいている最中だ。


 むくは、あの時から気になってしまう初恋の神崎亮を、自分の胸の内から解き放ちたいと願っていた。

 もう泣きたくない。

 苦しい声を聴き続けたくない。

 立ち上がってみせる。

 そんな気概があった。



 二人の巣の蟻は、ずり落ちない様に果敢だ。


 ◇◇◇


 むくは、アトリエに着くと『チャイコフスキーTchaikovsky』作『白鳥の湖Swan Lake』のカセットを流した。


「今は、この絵のタイトルは内緒です」


 口に指を立ててお願いする。


「むくが、この絵を仕上げるまでのお話をしてもいいですか?」


 首を左に傾げた。

 揺れた髪が風を起こす。

 Ayaは、首肯した。


「あら? バレエの『白鳥の湖』をかけてくれたのね」


 むくは、Ayaに向かって可愛らしく笑う。


「この絵のモデルは、名前を呼ぶのも恥ずかしい方とむくです。むくの大切な方です」


 ウルフは、神崎亮に悪い印象があったので、首を捻った。


「むくの初恋なのです。初めての恋は、一度きりです」


 Ayaに告白していた。

 ウルフは、黙って聞いている。


「むくの羽がもがれても、ひとつの想い出だけで生きられる。初恋に恥ずかしくなく生きられるなら、実らない恋があってもいい」


「ああ……。あのことね」

「Ayaさん、触れないでくだされ。年寄りの頼みじゃ」


 ウルフは、つつがなきように祈っていた。


「むくは、大失恋をしました。想い人の恋人から口撃こうげきをされ、突然心が折れました。むくは、泣くことを覚えます。上を向いて流す涙が枯れると、笑いが生まれることも知りました」


 バレリーナらしく姿勢を美しくし、話を継いだ。


「口撃が言葉が頭の中でガンガンリピートしました。一人ぼっちでも、人といても、何かをしていても、言葉の渦に巻き込まれました」


 典型的な病気のシグナルだ。

 医者でもあり、祖父でもあるウルフは、聴き漏らさなかった。


「ウルフおじいちゃまに、幻聴が出ていないか心配されました。徳川大学附属病院に、一緒に行こうと声を掛けていただいたのです。むくは、悪い子だから、ウルフおじいちゃまのお気持ちを踏みにじってしまいました」


 ウルフは、むくとその絵を見る。

 Ayaもむくと題名のない絵を見比べた。


「むくは、くるくる回るのが好きです」


 アトリエの奥からダンス用敷物のリノを出して敷く。


「結構力持ちです。たまに踊るのですよ」


 笑うと、白い服のままトゥシューズを履いた。


「黒鳥の所です」


 黒鳥なのに、白い妖精が舞うようだ。

 くるっくるっと回りつつ、爪先をさっと足につける振り付けだ。

 これをひたすらに舞い、汗も飛ぶような気持ちでいる。

 技術は人並みだが、こうするだけで何か自分を解き放ちたいかのようだ。


「三十二回グランフェッテ・アン・トゥールナンです。ひたすらに回りました」


 情熱的に踊った。

 今なら、そう解釈できる……!


「もう一度です」


 三十二回回った後、大きく跳躍グランジュテ、アラベスクのポーズをする。

 夢の劇場から喝采を浴び、礼をした。


「このパートに自由な振り付けをしてみました。今の、私の気持ちです」


「いいのー。むくちゃん」

「妖精かと思ったわ。白い妖精よ。むく様」


「儂にも妖精に見えたぞ」


 むくは、あやすような二人の言葉に胸が詰まる。


「……そして、この絵を仕上げる時、むくは、少し壊れていました。この絵を描きながら、むくは、悪い子で、穢れた自分を背景の深緑で塗り潰してしまいました」


「では、これは……?」


 Ayaが驚いき、注視する。

 ウルフも疑問に思っていた。


 私服で笑う神崎亮と、そこにちょこんと離れて息吹をかけようとしている土方むくの姿がある。


「むくは、妖精になりました」


 そう唱え、胸の前で腕を交差した。


「真っ白な妖精。今にも舞いそうな、無垢の妖精。それが、Aya様にも、ウルフおじいちゃまにもまだ見せていなかったこの絵の最後の形です」


 今が告白と天使に呼ばれたようだ。


「好きです。神崎亮先輩、好きです」


 美しい両の瞳に、水の妖精をたたえていた。



「タイトルは、『無垢の妖精』です……」

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