第十二話 ウルフに癒され

 八月四日の木曜日、柱時計が十二回鳴り響く。

 むくは、祖父のウルフの家にいた。

 アトリエはその庭にあるが、どうやって来たのかまでは分かっていない。

 正午の知らせを聞いて、ウルフが自室から出て来た。


「お、むくちゃん。いつの間に来ておったのじゃ?」


 乱れ髪の後ろ姿が、玄関に着くと靴も脱がずにしゃがんで、ただただ、茫然としている。


「……あ」


 か細い声を絞り出す。


「ウルフおじいちゃま……」


 くっと顔を上げると、泣き腫らした目が訴えていた。

 むくは、再び、うなだれてしまう。


「儂に、おじいちゃまに、お話はないかな?」


 むくは、黙ったまま俯いていた。


「そうか、無理に話すことはない」


 ウルフは、隣に座った。

 孫の髪を優しく撫でて綺麗にする。


「おじいちゃまのココアはあたたまるぞ」


 ふるふると首を軽く横に振り、髪を揺らして、ちいさな涙を散らした。


「アトリエは嫌……」

「それもそうじゃのう。疲れているのに悪かったの。おじいちゃまが悪かった」


 黙って肩を震わせているむくは、奈落を見つめているようだ。

 両の瞳にはウルフもいない。

 時ばかりがしがみつく様に過ぎてしまった。

 一時を告げる柱時計の音が一つ響き渡る。


「うん! ねこカフェはどうじゃ? おじいちゃまと」


 玄関にあるスターにゃんこの『寅祐とらすけ』のポスターが、こっちを見ているようだ。


「ねこちゃん、可愛いくて堪らないぞ」


 ずっと側にいてくれたウルフに、むくはやっともう一度顔を向けられた。

 ゆっくりとうなずく。


「ねこカフェ『にゃんこっこ』に行こうかのう。むくちゃん」


 ウルフは、むくの涙に胸を痛めた。


「車じゃと直ぐじゃぞ。車でスターにゃんことお散歩もできていいじゃろう」


 ウルフは、立ち上がって支度をすると伝える。


「少し待っていておくれ」


 ◇◇◇


 ウルフはオンボロのジープにむくを乗せ、にゃんこっこへと向かった。


「着いたわい。着いたわい。酷い運転は勘弁してくれたまえ」


 助手席側のドアを開けた。


「さあ、気を付けて降りるのじゃよ」


 むくは、視点が定まらないようで、ぎこちなくウルフの手を借りる。

 綺麗な花の道を抜けて、木戸を開けて貰った。


「にんげん二名じゃ」


 慣れたもので、チョキを出した。


「二名様、ご案内にゃんこっこ!」

「二名様、ご案内にゃんこっこ!」


 元気な『にゃんこっこお姉さま』の声で、店内に迎え入れられるが、むくは浮かない顔をしている。


「お好きなお席へどうぞ」

「はなよにゃんこっこお姉さまかいの」


「ありがとうございますにゃんこっこー」


 はなよは、微笑むと少し下がってお席へとかしずいた。

 それでも、むくに元気がないので、ウルフは傷に触れないように気を配った。


 にゃおーん。

 にゃお。

 にゃんにゃんにゃん。

 ふにゃー。


「おー、いつものスターにゃんこ達がおるぞ。楽しいな、むくちゃん」


 むくは、ウルフに手を引かれて歩んだ。

 まだ、ぼうっとしている。


「窓辺のここが、指定席じゃな」


 むくに席をすすめ、ウルフが座った。


「むくちゃんは、いつもの。儂もいつもの」

「はい、かしこまりました。スターにゃんこさんは寅祐さんがおいでですよ」


 寅祐もふらりと来ていた。


 ふーにゃおーん。


「おいで、おいで、寅祐ちゃん」


 ウルフが手招きする。


 ふーにゃ。


 にゃんこの手で二回掻いた後、ひょいとむくの方の膝に乗った。

 むくは、動物によく好かれる。


「儂は、遊んでいるソフィーちゃんを眺めているから大丈夫じゃ」


「シナモンティーと心太ところてんでございます」


 むくの前に並べられた。


「お抹茶とパンプキンパイになります」


 ウルフはむくをじっくりと観察している。

 医師としての目だ。


「おじいちゃまは、疲れている時は甘い物が一番じゃ。むくちゃんのいつものもいいぞ。好きな物で元気が出るぞい」


 ゆっくりとした時が流れる。

 その流れのほとりで、むくは、苦しんでいた。


『アハハハハ。道化だったな、土方むく』


 神崎亮の声が胸を裂く。


『あたしたちの事、知らなかったの?』

『いつから、できていたか知りたいでしょう』

『中三よ』

『あれは、最高の相性だわ』


 朝比奈麻子の矢継ぎ早の声で目を覚ました。

 むく自身のか細くも甲高い悲鳴とともに。


「ど、どうした、むくちゃん」

「ふっふっふっふっ……」


 むくは、上を向いて涙が枯れるまで流してしまおうとした。

 そんな折だ。


「……への手紙Jの刻印撲滅機構が、動いているらしい」


 何故か、ねこカフェにゃんこっこで『J』の言葉を耳にした。


「J……?」


 むくとウルフは、ぴりっとする。


「Jの刻印」


 むくは、寅祐を抱きながら、ぶつっと口にした。


「古びた封筒にJの封蝋がありました」


 涙をなかった事にして二の句を継いだ。


「美術部員に宛てたものです」


 振り絞って、しっかりと語り出す。

 むくの本来の姿を取り戻そうとしていた。


「まさか、そんな事はないじゃろ。かと言うてむくちゃんは嘘をつかないしのう」


 ウルフは、しばし思案していた。


「どうしましたか? ウルフおじいちゃま。心当たりがありますか?」

「美術部……! そうじゃ」


「おじいちゃまの両親の事は知らないじゃろ」


 碧い瞳をゆっくりと細めて、白い服で身を包み、白い髪をしている自身の髪を指す。


「儂のは、白髪ではない。元々銀髪じゃった」


 ウルフは、上品に抹茶をいただいた。


「父は地元で頼られる医師じゃった。お陰で儂も進学に困らず、医師になれた。尊敬し感謝もしておる」


 抹茶ばかりで、パンプキンパイがすすまない。


「母がな、ある宗教を信仰しておった。その事は、全く問題もなく、信仰の自由があるのじゃが。ただな、それを理由に旅券に印をつけられてしまってのう」


 哀愁の面持ちで厳しく言い放つ。


「二人は十代の頃、会えない暮らしになってしまったのじゃ。たった一つの文字、『J』で……!」



 先程までぼうっとしていたむくの瞳が引き締まった。


 ◇◇◇


 八月六日の台湾で、Kouが雪の裏を嗅ぎまわり始めた頃、Ayaはドラゴンを探すべく凛の様子をうかがいながら思考を巡らした。


 当時の李建からすれば、圧倒的な力があったのだから、何者も恐れることはないと思う。

 何か揺すられたのだろうか?


「Aya。雪について一言ある……」


 凛が、Ayaの黒いワンピースを引いた。

 意識は大丈夫なようだが、呼吸が乱れている。


「あれを疑わないでくれ……。はあ……」

「何故ですか? 義理であっても雪様がお母様だから庇っておいでかしら?」


「は……。ニースNiceジャンJeanコクトーCocteauへ」

「凛様、南フランスFrance du Sudのニースかしら。雪さんの何かが? ジャン=コクトーは有名な芸術家ですけれども、どう関わりがあるのかしら」


 謎に謎が重なった。

 ヒントのありそうな所から打ち込むのも定石かと思い、スマートフォンを取り出す。


〔Kへ。今はどこかしら。*A〕

〔Aへ。雪は、南野百貨店に出掛けたので、追っている。Kより〕


〔Kへ。帰宅されたし。*A〕

〔Aへ。しかし、雲をもつかむような動きで、ジュエリーショップを巡っているだけなのだ。Kより〕


 小賢しいカモフラージュかと思った。

 信に通話しよう。


「信様。Ayaよ。例の三人は旅券が取れたので、自由に開放させてくださる?」

「分かりました。凛様の件、よろしくお願いいたします」


 雪の方が、Ayaよりも近しい存在なのかと複雑な思いで、凛を見つめた。

 ほんの八歳の当主が、いたわしく愛おしい。



 出窓から、小雨が降り出したので、ここにはいないKouの陽炎を抱き締めた。

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