第二章 無垢のダイヤモンド

第十一話 晴れわたる凛

 二〇三三年八月六日土曜日、午前七時三十五分、台湾桃園国際空港に滑り込んだ時、Ayaは、広島の空を向く。

 爽やかな朝なのだが、それだからこそ原子爆弾の投下が決行された。

 今の自分にできることは、黙とうしかない。

 Ayaは、戦後生まれだ。

 第二次世界大戦は、一応の終わりを一九四五年の八月十五日としている。

 日本の降伏、つまりは負けだ。

 

 台北へ桃園國際機場捷運、快速に乗ると、ふと強い哀しみが胸を焼いた。

 短い車窓の旅をAyaは、子守歌で塞いだ。


「るーるるー。るるーるるー。らららららーら、らららら……」


 Kouに聞かれていたのを思い出す。

 恥ずかしいのと、幼い凛との想い出とが交錯している。

 そして、台北を出たところで、李家のハイヤーが待っていた。


 Ayaが組織Jを追っている頃、凛は、中庭の大きな窓から滝うつ雨と時計を見ては、Ayaを案じていたと聞く。

 ハイヤーから降りると、Ayaは李凛に会いに走った。


「凛様!」


 女中のような雪をはねのけて、凛の寝室へ飛び込んだ。


「俺だ。Aya、凛はずっと眠っている」

「凛様……。おいたわしいわ」


 Ayaが凛のほほをそっと撫でる。

 紫の唇に血色のない肌を認めた。

 心臓と肺が弱っているのだろう。


「雪は、北京語しか使わないのかしら?」


 Kouは、ドイツ語で囁くAyaに首肯した。


「例の調査結果を教えて欲しいわ」

「ああ、黒だ」


 Ayaは、やはり犯人と手段の予想が合っていると、ぴりっと緊張する。


「特別なレシピのミックスジュースは、ピッチャーごと調べたが問題はなかった」

「そこは、雪が疑われるのは確実でしょうからね」


 犯人は雪なのか。

 それとも紛らわしいやり口なのだろうか。


「凛が口へ運ぶグラスに粉末を見つけた。シアン化ナトリウムだ」


 渋い面持ちでKouが告げる。


「シアン化ナトリウム……」


 Ayaは、はっとして二の句を継いだ。


「亜硝酸アミルを吸わせて解毒できたのでしょう?」


「中庭から見える部屋に医務室があるとAyaから教わっていたな。このToiの赤い首輪に解毒剤が入っていたのを思い出し、急いで俺が行った。胃洗浄もしっかりとな」

「では、盲目になるかも知れないとは、別の毒が関係するの? Kou」


 心配でならない。

 何も見えなくなる世界など、Ayaには想像できなかった。


「ああ、圧倒的な精神の毒だよ」

「治してみせるわ! 何なの? それは」


 神経毒なら早く手を打たなければならない。

 Ayaは気ばかりが焦った。


「……それは。犯人が身内だからだろうよ」

「凛様。では、ショックのあまり視力を失われてしまうの?」


 凛は紫の唇を震わせた。


「ぶっつ。ぶっ……」


 何か口を開きたいようだと、AyaもKouも静かにした。


「せ、雪……」


 李雪が、何かをしたのだろか。

 Ayaは、Kouに目配せをして、本当の犯人となるべく証拠探しを依頼に加えた。


 ◇◇◇


 今の凛の病状は、第二次世界大戦時に日本の広島と長崎に落とされた原子爆弾と同じだ。

 凛は大変なものを背負っている。

 Kouから、組織Jの三人を洗ったら、大変な埃が出たと、第三次世界大戦の幕が切られようとしている話を聞いた。

 それが、名画『ジレとアデーレ』や李凛と何か関係があるらしい。

 

 高速でAyaの脳を使ったせいか、こくりこくりと船をこぎ始めた。

 Ayaは、普段の睡眠時間を削って生活しているのだが、急に瞼が重くなった。

 三秒でいいから寝たい。

 そんな気持ちでまどろんだ。


 ◇◇◇


「いただきます」


 Ayaは、一汁一菜の食卓に一人で唱える。

 これは、『餌』。

 毎日の仕事への報酬であった。

 『おかかさま』を休む訳にはいかなかった。

 Ayaが『餌』の時間だけ神に許された、九分五十九秒。

 この間に『お抱え様』に戻らないと、地球が無くなってもおかしくない。

 Ayaは、急がないが早く飲み込む。

 八分八秒。

 末広がりで神々に喜ばれた。


「ごちそうさまでした」


 何も無かったかのような膳に手を合わせた。

 後ろの襖を引いて、畳に頭を擦り付ける。


「お待たせ致しまして、申し訳ございません」


 すっと立ち上がると、組紐で危うく支えられていた『お抱え様』にAyaはゆるりとまとわりついて、しっかりと抱きしめた。

 Ayaの身の丈程の『核』。

 なりわいが、『お抱え様』の巫女なのであった。

 次の『餌』は、二十三時間五十分後。

 それまで、邪念なくお守りしなければならない。



 巫女に終わりはない……。


 ◇◇◇


 Ayaは、呆然として目覚めた。

 どうやら、凛の寝室で立ったまま眠ってしまったようだ。

 そうか、『核』。

 凛をそんな風にAyaは思っていたのかと悩んだ。


 夢の中で『巫女』として登場したが、凛には第六感を研ぎ澄ましている節がある。

 幼い頃、早熟だった。


 ◇◇◇


「君が、Ayaかい? 何歳だ?」

「知らない人には教えられないわ」


 体の大きな男の人だ。


「それもそうだな。りーけん。三十二歳だ」

「私は、十二歳よ」


「娘の凛の遊び相手ではなく、教育係として仕事を頼まれてくれないか。護衛を兼ねる。君の母さん探しも手伝おう」

「母さんを……! は、はい! よろしくお願いします」


 頭を深く下げた。


 Ayaも分からない異国から台湾へは、こうして連れて来られた。

 凛は大きなソファーにつかまり立ちをして、Ayaに歩み寄って来る。


「初めまして。李凛様、よろしくお願いいたします」


 Ayaは、李家の書斎で勉強をしながら、凛にも発達段階より上の教育をした。

 初めての喃語なんごを忘れられない。

 毎日、『桃太郎』を聞かせてから子守歌で寝かしつけていたら、突然、凛が語り出したのだ。


「むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました」

「凛様!」


 Ayaは驚き、格別な方なのだと認識した。


「おじいさんは、やまへしばかりに、おばあさんは、かわへせんたくにいきました」


 『桃太郎』は、宝物を持ち帰るまで続いた。

 Ayaのつける『凛様ご成長日記』にも、ありありと描かれている。

 

 季節のうつろいと妹のような凛の成長を見つめて、とぎれとぎれであったにしても、Ayaの帰る場所となった。

 李雪が来てから追い出されたが。


 後になってKouの情報で知ったのは、二〇二五年、正妻のりー麗華れいかが二十一歳で、凛を産み落して、翌年に亡くなったらしい。

 その頃に、李建はどうしてか、Ayaを拾った。

 李雪は、三年前の二〇三〇年に、後妻として来たばかりだ。

 李信もそれからは、本家ではなく、第二の家で暮らすようになる。


「ドラゴンが悪い」


 出て行く朝もやの中、信が呟いたのをAyaは聞き漏らさなかった。

 ドラゴンを追う必要があると、今になって思う。


「そうだ、信の所に組織Jの三人を頼んでいたわ。ねえ、Kouの話では、全員、組織Jのアンダー・リーフズで、強い信仰心以外は詳しく分からないし、国籍は台湾に間違いがないのよね」


「一応、そういうことだな。Aya。ここは任せる」


 Kouが去ろうとした時だ。


「ぶっ……」

「凛様?」


「ごほっ。ごほごほ……」

「Kou! 凛様が目を開いたわ!」


 ゆっくりと起こした瞼をしばたく。


「Aya、子守歌を……」


 凛は、Ayaが見えているのか。



 ほほを紅潮した凛が、晴れわたる夏空のようだった。

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