第十話 死ぬる恋

ジレGilles……、ウントゥunt……、アデーレAdele……。これは、直ぐに分かりました。ジレさんとアデーレさんと言うお二人の肖像画です」


 むくの目はきらきらと憧れる。


「はあ……。ご夫妻でしょうか。夫のジレさんの碧眼、妻のアデーレさんのあたたかく微笑む琥珀色の眼差し」


 体をふるっとした。

 入り込んで、うっとりする。

 その時だった。


「むっくんのバラバラの目みたいね!」


 つんとした麻子の声が、地下室に響いた。

 Ayaは、むくとシンクロして胸をさかれる。


「朝比奈さん、前にもお話ししましたけど、カラーコンタクトではないのです。生まれつきです。先天性のものなので、どうにもなりません」


 むくは左に傾げて、麻子をじっと見た。

 すると、麻子がシャギーの髪をかかっとかき上げて、矢継ぎ早に攻めて来る。


「逆らうの?」

「ナメられたものね!」

「目にコンプレックスとかあるんだ!」

「アーハハハハ!」

「亮から聞いたわ!」

「世にも珍しいヘテロクロミアだってね?」

「野暮ったい!」

「猫みたいじゃない?」

「って、ケモノ?」

「だっさ!」

「ヤバイわ!」

「気に入らない!」

「同じ空気を吸いたくないわ!」


 むくは、唖然とした。

 瞳孔がぐっと開き、少し肩が震える。

 下唇をくっと噛み、そのままじっと下を向いた。


「どうして、そんな……」


 自分がここまで言われる理由が、皆目見当がつかない。


「むくさん、無視してね。朝比奈麻子は、調子に乗ると手に負えないから」


 友達の椛が、そっと顔を寄せて囁いた。


「ありがとうございます。椛さん」


 むくは、俯いてしまった顔を上げる。

 暫し『ジレとアデーレ』を見つめた後で、絵と話をした。


「少し肩を寄せて、ジレさんがそっとアデーレさんを抱く……」


 小さくため息をつく。


「素敵です……」


 尊敬の念を込めた。


「むくもこんな絵を描きたいです……!」


 にっこりと決意の笑みを浮かべた。

 そして、誓うように胸に手を当てる。


「ねえ、むくさん? 一九五九ってあるよ。制作した年ではないの?」


 椛が指差した。


「椛さん、見つけてくださり、ありがとうございます。このお二人は、二十五歳位と推察できます。すると、一九三〇年代なかば生まれになると思います」


 一つの発見が、再び一つの発見を生み出してわくわくする。


「むくさん、気に入ったのね」


 椛は手を口に当てて、ふふっと気持ちを合わせた。


「はい。幸せを分けて貰えそうです」


 優しい顔で絵を観る事ができる。

 さっきささくれた胸が、なだらかになった。

 だが、その側で突拍子もない事が起きるとは思わなかった。 


「何だ……。麻子?」


 亮の左側に麻子がごろごろと猫のように甘えて来る。


「えー。あたしも、抱かれたいなあ」


「こんな感じか?」


 神崎亮は、ぐいっと朝比奈麻子の肩を抱いた。


「か、かんざ……」


 むくは、心が水風船をついて割れてしまったのに似た感覚になる。

 そして、何も聞こえない筈なのに、何かが聴こえて仕方がない。

 立ちつくしてしまった。


「あ、あん! 亮ったら」


 絡まる声。


「麻子」


 絡まる声。


「優しくしてよ? はうん」


 絡まる声。


「か、神崎……。部長」


 むくは、顔面蒼白になった。

 細い腕は、がたがたとなり、ぐっと拳を握りしめたので、掌に爪痕がつく程だ。


「描くなら、モデルになってやってもいいわよ? 神崎亮と朝比奈麻子を描きなさいよ、土方むく!」


 絡まる声。


「アーハハハハ!」


「くっ。それは言えている」


 絡まる神崎亮。


「笑える! ヤッバ!」


 絡まる朝比奈麻子。

 

「幸せをないがしろにされる瞬間って……」


 むくの碧眼から、はらり。


「こんな風に流れます……」


 むくの琥珀色の瞳から、ぽろり。

 一筋の冷たいものがそれぞれ流れた。

 むくの精一杯の抵抗だ。


 ひた隠しにしていた淡い恋心は……。


 恋心は死んだ。



「むくは、空蝉と同じです」


 ◇◇◇


 Ayaは、涙こそ見せないが、心の中で泣いていた……。

 むくの失恋に自分の恋を重ね、一つ一つの気持ちの波を拾っている。

 Ayaは、Kouを密かに愛しているから。


 Kouは、Ayaが仕事を始めてから気が付いた時にはもう、主に情報屋としてサポートをしていた。

 AyaはKouに別れようとも別れられない、不思議な力を感じざるを得ない。

 それは、Kouも同じではないかと思う。

 AyaはKouと同衾どうきんしない。

 KouもAyaを寝所で共にしない。

 二人の間にとうとうと流れる夜の川を乗り越えて、向こうの世界に足を踏み入れれば、朝が壊れてしまいそうだ。



 魂の奥深くに眠っている、真の繋がり、死さえ別かつことならぬモノによるからだ。


 ◇◇◇


 Ayaは、母との別れを思い出す。


 ――あれは、異国。


 しみったれた街の片隅に、その母子おやこはいた。


「母さん、今夜も冷えるね」


 母の名は知らない。

 ただ、『母さん』としか呼べない。

 その名を呼んだのは、自分のフルネームを知らない、Ayaだ。


 二人とも翠の髪を束ねて、黒い格好をしている。

 目鼻立ちは、似ていなかった。


 ここは、古びた教会だ。

 屋根にも穴が開き、モザイク画もぽろぽろと欠けている。

 その隅を片付け、飲み水と簡単に火を扱える様にして、しばらく前から暮らし始めた。


 そんなある朝だ。

 三月七日だとAyaは記憶する。


「大切にしな。Aya」


 黒く重い物を渡された。


「母さん、これ何? おもちゃなの?」


 Ayaは勿論、モデルガン等も知らない。


「Ayaの十歳のお祝いさね」

「うわあ。私、十歳なの? お誕生日プレゼントなのね。嬉しい。こんなに綺麗!」


 初めての自分のお誕生日に嬉々とした。


「母さん、ありがとう」


 黒く重い物を両の掌に乗せて見つめた。


 小春日和のあの日をAyaは忘れられない。


「今朝は、清々しい気分だね、母さん」

「今日こそ具のある物を食べようね、母さん。……母さん?」


 白い布で仕切られただけの母の寝室を開けると、母は消えていた。

 Ayaの心がざわつくのを覚えている。


「こんな、こんな、誕生日は要らないよ! 特別なことは、要らないよ……!」


 Ayaの哀しみは深かった。


「母さん、何も言わずにだなんて。私が邪魔だったの?」


 泣きたい、けれども泣いたら負けだ。


「私にAyaという名を残してくれた。それから、銃に『シュヴァルツSchwarzドラッヘDrache』……。『黒龍』という名も……。だけど、母さん!」


 Ayaに毅さが生まれた。


 Ayaがその時感じたのは、母が出で行く気配に自分が気付かなかったという未熟さのみだった。

 Ayaは、十になったばかりだ。

 普通の少女ならば、未だ母に甘える時期だろう。

 しかし、Ayaは、母の面影を追うつもりはない。

 ただ、心の何処かで、再び会う事があるのではないか。

 そんな期待、いや、予感だけがあった。


「サヨウナラ、『ムッターMutter』。母さん」


 あれから十年が経った。

 少女は成長し、コードネームでAyaと呼ばれている。

 そして、その誇り高さと銃の腕前から『孤高の黒龍』とも呼ばれ、ターゲットからは、恐れられる存在だ。


 それが、私ことAyaの話だ。

 そして、この銃の話。

 私の名と銃がありさえすれば、会える気がする。

 母さん、一体どこにいるのか。



 別れは、渋く甘い硝煙だった。


 だから、Kouとの別れは死ぬる恋に等しい。

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