第七話 凛のこぼす真珠

「皆、荷物は手回り品だけにして最小限に。支度ができ次第、出発しよう」


 亮は、額にうっすらと汗を明らかにした。


「アトリエの鍵は、むくが締めます。神崎部長、椛さん、お二人とも先に出てください」


 速やかに三人はアトリエの入り口へ向かった。

 その刹那、背後から軋む音が小さくこだまする。


 ギッ。

 ギギイ……。


「きゃああああ……!」


 先程は戸惑いを見せなかった椛が、咄嗟に口を両手で覆った。


「うわー、何だ、椛!」


 亮は、ばたばたするのが精一杯だ。


「ち、ち、地下室? 扉が開いてしまったの?」


 椛は、ぺたんとしゃがんでしまった。


「落ち着いてください。地下室ではないです」


 むくは、椛を優しく抱き起こす。


「地下室ではなかったら、何なのだ? むく。さっぱり分からないが」


 まだ、動揺を隠せなかった。


「あそこの北窓が軋んだだけです」


 白魚のような指で示す。


「むく、地下室に人がいるって言っただろう?」


 赤いフレームを光らせて詰め寄る。


「はい、まだ気配はあります」


 神妙な面持ちだ。


「え! 何なのだ、一体。むく」


 亮は、あんぐりとした。


「ええ? むくさん。何それ、お化けとかではないの?」


 すっとんきょうと椛の顔に書かれている。


「Jの封蝋の手紙の事を思い出しました。よく考えてみて、どなたが地下室にいらっしゃるのか分かりました」


 頭がすっと冴えたようだ。

 すましたままで右にちょいと傾げる。


「むくのお祖父さんか?」

「神崎部長、それには、お答えできません。本当にごめんなさい」


 むくは、ゆっくりと頭を垂れた。


「僕が見に行こうか。お祖父さんなら、怖くはないさ」


 ふんっと胸を張る。


「え? 亮兄さん、あんなに激しく尻込みしていたのに?」


 口を右手で覆い、小さな涙も散らしてみせた。


「うるさいぞ、『妹』。キミには『椛』なんて可愛らしすぎる」


 亮は、年甲斐もなく、いーってしてやった。


「出たわ、『妹』。私のアイデンティティーはどこへ?」


 仕返しに、いーってしてやった。

 仲睦まじき哉と誰しも思う兄弟のやりとりだ。


「お二人には申し訳ございません。お会いさせる訳には参りません。今はあのお方をそっとしておいてください」


 むくは、元々言葉使いが丁寧であったが、かなり気を遣っているのが伝わって来る。


「まあ、話はよく分からないけれども、今はむくさんの言う通りにするわ。ね、亮兄さん」


 椛は、兄でも抵抗がないのかウインクをした。

 兄の掌ラケットでバシッとウインクを返す。

 それが、むくの頬に来て困ってしまった。


「こんなことしていないで、さっさと麻子のいる部室へ行こう。ここも気分のいいアトリエではないし」


 麻子のことで胸がざわついているのは、亮だけかも知れない。

 呟いたのは、むくだった。


「神崎部長……。朝比奈さんにご執心ですか」


 そして、三人は、アトリエを後にした。

 足早に行きながら、亮が目を配る。


「ここは青葉区あおばくだから、本区もとくの学園まで、十五分程だな。身軽なら、直ぐに着くか」


「……」


 むくは、アトリエの鍵をちゃらりと鳴らした。

 鍵は二つある。

 スペアキーだと信じて疑わなかった。


「やれやれだわ……」


 美術部員がアトリエから去ったのを確認して、Ayaは人心地がつく。


「でも、むくさんがうかつなもので、鍵の偽造に手を貸してくださってありがとうだわ。鍵がシリンダー式ではなくて助かったわよ」


 Ayaは、簡単ちょいちょいと手で開ける仕草をした。


 ◇◇◇


 Ayaは、ここから程よい喫茶店を探した。


 Ayaの勘はいい。

 風をよんで、アトリエからさほど遠くない所へ歩んだ。

 

 ねこカフェ『にゃんこっこ』へのお迎えは、色とりどりのペチュニアやバコパの寄せ植えが可愛らしいく続き、看板に『アメリカンAmericanショートヘアーShorthair』と『スコティッシュScottishフォールドFold』の二匹が甘く寄り添う絵がある。


 Ayaは、煉瓦道を歩き、愛らしい白いベビーベッドを再び木戸にした門を開いて、猫様の誘いに乗ってしまった。


「あら、ご利用のご案内があるのね。ふむふむ、分かったわ」


 にゃーん。


 看板にゃんこ様が受付にお座りしていた。


「にんげん一名よ」


 Ayaは、人差し指で一を示す。


「一名様、ご案内にゃんこっこ!」

「一名様、ご案内にゃんこっこ!」


 元気な『にゃんこっこお姉さま』の声で、店内に迎え入れられた。


「お好きなお席へどうぞ」


 名札に『ひまり』のあるエプロン姿のにゃんこっこお姉さまが、数歩後ろからメニュー等を持ち、まるでかしずかれるようだ。


 にゃおーん。

 にゃお。

 にゃんにゃんにゃん。

 ふにゃー。


「スターにゃんこ様は、ここで遊んでいます。お好きな猫様をテーブルに呼ばれても楽しいかと思います」


「ひまり様は、どの猫様がお好きなの?」

「どなたも好きですにゃん。選ぶのにお困りでしたら、猫じゃらしをお使いくださいにゃんこっこー」


「ほっ」


 ん、にゃはー!


「あら、かかったわ。この子は何てお名前なの?」

「みー様でございます」


 みーは、夢中になってじゃれて来た。


「おいで、みー様」


 Ayaは、猫が好きだ。

 何か、大切なことを忘れている気がする。

 奥の席につき、アッサムティーを頼んだ。

 ねこカフェ『にゃんこっこ』は、ゆったりとしている。

 アッサムティーも丁寧にいれてくれたようで、ゆっくりと運ばれて来た。


「ふー、寝不足はお肌に悪いなんて関係ないわ。お仕事、お仕事」


 Kouにメールをする。

 AyaとKouは、SNSに危険性を感じ、使用していない。

 がんばってメールの仲だ。


〔Kへ。近況報告をお願いします。*A〕


 すると驚愕の返事が来た。


〔Aへ。凛の容体が悪い。今朝方から四十度近い高熱を出している。Kより〕

〔Kへ。命は大丈夫なの?*A〕

〔Aへ。もしかしたら、盲目になるかも知れない。Kより〕


「何ですって! もう、真珠の涙の一粒も落とせないの?」


 Ayaの膝から、みー様がころんと落ちた。


〔Kへ。例の絵が見つかったら、李家に急ぐわ。*A〕


「日本を発つまであんなに元気だったのに……。自然になる急病ではないわ。きっと、何かの事件に巻き込まれた筈よ」


 アッサムティー、二杯目にしてお腹が鳴った。


「お食事を忘れていたわね。スープを飲みたくてうずうずするわ。スープ全種類、お願いね」


 ひまりがかしこまりましたと、Ayaが開かなかったメニューを下げる。

 玉子スープ、わかめとゴマのスープ、コンソメスープ、オニオンスープ、野菜ころころスープ、ミネストローネ、トマトスープ、コーンポタージュスープ、パンプキンスープ、アボカドの冷たいスープ、おいものいろいろビシソワーズ、ミニロールキャベツ入りポトフ、本日のおみおつけが運ばれたと思うと、Ayaのお腹に入って行った。

 Ayaは、水の惑星から飛来したとKouに笑われたことがある。

 みーは、大人しくスープの香りをまとっていた。


 その時、Ayaに一つの疑問が浮かんだ。



「凛様……。お助けしたいです!」

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