第6話「白い兵士」後編
事件の被害者である「ツネやん」こと
「サロンデエッチ……」
ぼくが看板を読むと、ゲンジさんが「ぐふふ」と笑い出した。大人のあいだだけで顔を見合わせ、下品な顔を見せるときの、あの笑いだ。
「エッチおまへん。『サロン・ド・アッシュ』ですわ。そないなワイセツな名前、美容室につけられしまへんがな」
ゲンジさんが肩をひくひくさせながら言うと、不老翔太郎は片眉を上げた。
「正しいフランス語なら、『アッシュ』は母音から始まるので、『サロン・ダッシュ』とリエゾンして発音するはずですがね」
「は、はぁ、さよですか」
ゲンジさんが、やっぱり不老の前ではしゅんとしてしまうのだった。
「俺は、健を信じてるよ」
被害者である八田さんは、静かに言った。
美容室のある母屋の裏庭に建つ「アトリエ」に、ぼくたちは招かれた。八田さんは仕事中だったけれど、わざわざぼくたちのために時間を取ってくれた。
八田恒裕さんは、身長は百六十センチに届かないくらい。小柄で丸顔、鼻の下の髭がオシャレだ。小さめの両眼には絶えずニコニコと笑みを浮かべている。なんとなく、アライグマを連想させるような人だった。
ツネやんこと八田さんの「アトリエ」は、プラモデルを作るために建てられた作業場だった。二十畳ほどの広さで、中央には作業用のデスクが三つ並んでいて、それぞれに作りかけのプラモデルや、塗料、筆、その他よくわからない専門的な道具が整然と陳列されている。ぼくのデスクとは大違いで、キレイに整頓されていた。空調がよく効いており、塗料やシンナーの匂いは全然しなかった。
圧巻なのが、三方の壁際だ。完成品のプラモデルの展示棚になっていた。数百体ものジンプラが整然と並んでいた。ロボット、いや〈パワード・ギア〉が武器を構えている姿を再現したジオラマも五つばかり飾られている。「宇宙機兵ジンガム」を知らない小学六年生のぼくでも、我知らず口をぽかんと開けて見入ってしまうよう別世界が、眼の前に拡がっていた。飾られているのは、ジンプラだけではなかった。戦車、戦闘機、第二次大戦の戦場の様子を再現したジオラマもあった。ここだけで、プラモデル博物館ができそうだった。
「何度観ても、絶景やわぁ……」
感嘆したようにゲンジさんが言った。
「健の居所は、まだわからないんだね?」
八田さんはゲンジさんに尋ねた。大切なプレミア・モデルを盗まれたはずなのに、怒りなど少しも感じさせない、優しい声だった。
「あかんねん。全然、連絡つかへん」
ゲンジさんが眉間に皺を寄せて答えた。まさに、極道の顔だった。
不意に、不老が口を挟んだ。
「当日、プレミア・モデルと一緒に持参されたプラモデルは、これですね?」
いつの間にか不老は、右手の棚から勝手にプラモデルの箱を取り出そうとしていた。
「ああ、この子が〈
「いやいや、ちゃうねん。お坊ちゃんは、こちら。その子はお坊ちゃんの友だち。天才少年探偵やねんで」
「へえ、天才少年探偵……そんな子が実在するんだね。そう、今きみが持っている箱に入っているプラモデルだよ」
「60分の1〈ジンガムF・デザート・タイプ〉やな。もう作り始めてるん?」
ゲンジさんの言葉に、八田さんはニコニコ笑って、何度もうなずいた。
「そう、まだ素組みしただけだよ」
八田さんは、不老の手にした箱を受け取った。それではじめてわかったけれど、「デザート」といっても、ケーキとかスイーツとは関係がなかった。砂漠でマシンガン風の武器を構えるジンガムのイラストが描かれていた。普通の白いジンガムと違って、砂漠にあわせた迷彩塗装がされている。
八田さんが箱を開けると、そこにはまだ塗装されていない、黄土色というか砂漠の色をしたパワード・ギアが横たわっていた。ツノの数が少なく、全身がほかのジンガムよりも、二回りほどずんぐりむっくりしている。六十分の一モデルなので、全長は五十センチほどもある。箱のイラストも、ずいぶん素朴な感じがしたし、プラモデル自体も、ほかのものより溝や突起が少なく、のっぺりとした――言ってみれば、チャチな印象だ。
「懐かしいわ。三十五年前は、これが普通のジンプラやってんな」
不老は、ぐいと鳩のように首を伸ばして、〈ジンガムF〉を覗き込み、顔を近づけた。まるで匂いを
脇で見ていて気持ちが悪い。この男と知り合いであることに、恥ずかしさを感じてしまう。こんな男と「つきあっている」なんて、とんでもない。
「まだ組み立てていないんですね」
不意に不老が尋ねた。
「え? ああ、
「知ってます。プラモデルを塗装も何もせずに、仮に組み立てることですね」
「詳しいんだね」
「今日一日だけで、いろいろなことを知りました」
「知ったところで、学校の成績は上がらないだろうけどね」
八田さんが柔らかい笑顔を不老とぼくに向けると、不老は早口でまくしたて始めた。
「教育に終わりはありません。勉強の連続ですが、最後にはもっとも大きなものが待っているんです。今回は、たいへん勉強になる事件ですよ。お金も信用も得られないですが、それでも何とかして、きちんと解決したくなります」
不老は一気に言い放つと、作業用テーブルのほうへ移動した。八田さんは戸惑った苦笑いを見せた。なんて八田さんは寛大なのだろう。
「どない思う? 健はプレミア・モデルの〈ジョーグ・改〉を売りよるんか、壊しよるんか、何するつもりや思う?」
ゲンジさんが尋ねた。
「彼はそんなことをしないよ。ジンプラを愛してるんだから、売ったり壊したり、捨てたり、決してできない。健はまだまだ、ちゃんとした塗装もマスターできない程度だけれど、かといって、ジンプラを傷つけることはできないはずだよ」
「野郎の肩持たんでもええで。ツネやんは被害者やないか!」
「誰にも魔が差すということはある。自分のレヴェルでは、まだまだ触れることができない貴重なモデルを、どうしても手に入れたくなってしまったのかもしれない。けれど……」
「けれど何やねん?」
「いや……ほんとうに健が盗んだんだろうか?」
「は? 何を言うてんねん!」
ゲンジさんだけでなく、ぼくも耳を疑った。不老は、両手の指先をあわせる、いつもの不可思議なポーズを取って、作業用テーブルの上を、じっと見ていた。
「だって、誰も健が盗んだ瞬間を目撃してはいないんだろう?」
「そ、そないなこと言うたかて……ほかの誰がおんねん?」
ゲンジさんの言葉を聴いた瞬間、ぼくの脳細胞のどこかがスパークした。
外部犯行説――もし、それがあり得るとするなら、どうやってプレミア・モデルを盗み出したのだろうか?
「かりに万が一、いや億が一、健が犯人だったとしても、彼を責めないでやってくれよ。被害者の僕が許すと言ってるんだ」
「ツネやん、ホンマに心が広いゆうか……ワシはそないに達観でけへんわ」
「とくに君たちは……特殊な業界にいるんだから、あまりおかしなことを考えて、ことを荒立てて欲しくないんだ」
「おかしなこと、って何やねん。考えてへんで、何も」
ゲンジさんは苦笑いをした。けれど、その腹の内はわからない。ほんとうに〈
しかし不老は、全然表情を変えていなかった。もうすでに「退屈だ」と言いたげに、
「実に参考になりました」
「それで、少年探偵君の推理は?」
八田さんが、面白がっているような口調で訊いた。
「せやねん。なんでツネやんのプレミア・モデルを盗みよったんと思いますか?」
「『なんで』? そう、確かに『なぜ』を問う『ホワイダニット』こそが、僕の好奇心を刺激するのです。なぜ盗むのか? なぜ盗みたいのか? なぜ盗まなければいけないのか?」
不老の口振りは、ますます加速した。ゲンジさんと八田さんは
「そして、なぜ『盗んだ』と――盗難事件だと思ってしまうのか?」
不老翔太郎は人差し指を天井に向けて立てて言い放つと、大きく深呼吸をした。
「たいへん参考になりました。さて、行きましょうか」
不老はドアのほうへ振り返った。ぼくは、八田さんのプラモデル博物館のような、このアトリエにもっといたかったのだけれど。
ゲンジさんが不老のために、わざわざドアを開けた。そこをくぐろうとして、不老は不意に八田さんを振り返った。
「もう一つだけ、質問があります。八田さん独自のプラモデルの塗装方法というのは、『ハ型塗り』と言うんでしたね」
「うん、そうだよ。僕の名前を取ったんだ」
八田さんは、奇矯な不老の言動を冷静に受け止めた。ニコニコと笑みを消さずに、わざわざ不老の脈絡不明の質問に答えてくれた。
「そして『ハ型塗り』とは、エアブラシを使わずに、手で筆を使って塗る方法ですね。それはジンプラ・ファンの誰にでも浸透した技術なのですか?」
ますます不老の舌の動きは速くなっていた。
「そうだろうね。僕の『ハ型塗り』は、それなりにプラモデルを作り込んでいる人なら、知らない人はいない思うよ」
「なるほど。ありがとうございます。必要な情報はすべて得ることができました。もう、ここで得られるものは何もありません」
言い捨てるようにして、不老翔太郎は一人、先にアトリエから出て行った。
あまりにも失礼過ぎる行動に、ぼくはただただ呆気にとられるだけだった――確かに、いつもの不老翔太郎では、ある。
「ここで降ろしてくれませんか?」
まだいくらも進んでいないうちに、突然、不老が運転席のゲンジさんに言った。
「なんか見つかはりましたか?」
「いえ、ちょっとした急用を思い出しました」
不老は表情をまったく変えなかった。
怪しい。何かを企んでいるに違いない。
ゲンジさんは車を路肩に寄せて停車した。ドアを開けようとする不老に向かって、僕は言った。
「手がかりがあるなら、ぼくも行くよ。だって、ぼくは不老の『親愛なる伝記作家』じゃなかったっけ?」
以前に不老に言われた一種の「殺し文句」を使ってみた。
「手がかり? 君は何か勘違いをしているね。あくまでもプライヴェートな野暮用さ」
「信じられないな。どうせ抜け駆けをして、カギカッコ付きの『天才少年探偵』アピールをするつもりなんだろう? ズルいよ、それは」。
「君が何を思おうと勝手だが、僕にだってプライヴァシーはあるんだよ」
素っ気なく不老は言った。あまりに突き放した物言いに、ぼくは思わず息を飲み込んだ。
「御器所君。君にひとつ頼みというか、お願いがある」
「何? どんなこと?」
「君の『頭のいい携帯電話』なるものを僕が使っても、決して怒らないでくれたまえ」
そう不老は言って、ニヤリと笑った。その手には、いつの間にか、ぼくのスマートフォンが握られている。
「ちょ……いつの間に!」
ぼくが手を伸ばす前に、不老はドアを開け、ひらりと車外に出た。
「なんてこった……」
ぼくがつぶやいているあいだ、不老は誰かに電話をかけていた。
電話を終えた不老は、ドアを開けると後部座席のぼくに向かって携帯電話を放り投げた。かろうじてキャッチする。
「それから御器所君、『頭のいい携帯電話』で、オークション・サイトの出品者を調べようなんて考えは、当然捨てたのだろうね?」
「は? どうして捨てなきゃいけないの?」
「まだわからないのか。まあいいさ。ここで失敬するよ」
独楽のようにくるりと身を回転させた。二、三歩進みかけると、ぼくのほうを振り返った。
「もう一つ。まさか、とは思うが、健さんがマンションからプレミア・モデルを持ち去った、なんて考えてはいないだろうね?」
「はっ? ち、ち、ち、ち、違うの?」
不老は呆れた顔つきで肩をすくめた。
「健さんはどこにプレミア・モデルを隠すことができたんだい? 健さんは、自分のプラモデルすら忘れて、ほとんど手ぶらでマンションを出て行ったんだよ」
「あ……」
そうか。どうして今まで、そんな単純なことに気づかなかったのだろうか? 不老が呆れるのもムリはない。
健さんは、自身が持参したプラモデルの箱以外には、私物を持っていなかった。
では、健さんが盗んだのではないのだろうか? 志賀さんが犯人なのか? いや、志賀さんにチャンスがあったはずはない。玲子さんがドアに髪の毛のトラップをしかけていたのだから。
「ねえ不老は――」
顔を上げたけれど、不老の姿はもう消えていた。
「もう行かはりましたで」
ゲンジさんが運転席からルームミラー越しに言った。
取り残されてしまったぼくは、ほんとうにバカみたいだ。
「これからどないしはります? 組に帰らはりまっか?」
ゲンジさんがぼくに訊いた。
と同時に、ぼくの脳内で何かがパチッと弾けた。
「もう一度、玲子さんのマンションに戻って!」
ぼくだって、虹色の脳細胞をフル回転させている。不老は不老で、勝手にすればいい。
「手がかりを摑んだ気がするんだ」
「そら、楽しみですわ」
ゲンジさんはニヤリと笑うと、アクセルを踏み込んだ。
「さて、お集まりのみなさん」
ぼくはそう言って、部屋の中を見回した。
――おお、一度、言ってみたかった台詞だ!
脳内がピカピカと明るくなるような気がした。探偵役とは、なんと気持ちのいいものなのか!
翌日曜日、午前十時半。昨日と同じく、今にも号泣しそうな曇り空だった。ぼくたちは、玲子さんのマンションに集合していた。ぼく、不老、玲子さんだけでなくて、八田さんと志賀さんにも集まってもらったのだ。
「みなさん、と言うが、ゲンジさんの姿が見えないね」
腕を組んだ不老が、冷静に言った。
「ゲンジさんには、やってもらわないといけないことがあるんだよ。そのために待機してもらってる」
「ふむ」
さして興味なさそうに、不老は肩をすくめた。
「日曜とはいえ、学校の教師は忙しいんだ。手短にお願いしたいね」
志賀さんが指先で太ももをトントンと気ぜわしく叩きながら言う。
「まあ、そう言うなよ。何と言っても、天才少年探偵なんだから。推理を聴けるなんて、めったにない体験だよ」
八田さんが取りなした。「天才少年探偵」と呼ばれているのは、不老のほうなんだけど……と思いつつ、できるだけ自信ありげにぼくは微笑んだ。
「お坊ちゃんは、どんな推理を聞かせてくれるのかしら?」
玲子さんがぼくに顔を向けた。ぱっと顔面の温度が上がるのを感じた。できるだけそんな狼狽を隠して、ぼくは冷静を装った。
「真実は最初からぼくたちの眼の前にあったんです。プラモデルを保管していた部屋に行きましょう」
ぼくは胸を張って、玲子さんに言った。ちらっと不老を見やる。が、彼は何を考えているのか、全然うかがえなかった。
――待ってろ、不老。
心の中でほくそ笑んだ。ぼくにも虹色の脳細胞がある。「推理」は不老の専売特許じゃない。
ぼくたちは、最初にゲンジさんたちのプラモデルを保管した部屋へ移動した。室内にはすでに、ゲンジさんたちに依頼して、プレミア・モデル消失当日の状況をできるだけ再現しておいた。ベッドの上に、四つの箱が置かれている。大きさも重さも、実際にゲンジさんたちが持ち寄ったものと、ほぼ同じにしてあった。
玲子さんは、その魅力的な笑顔をぼくに向けた。
「お坊ちゃんの推理を聴かせてもらえるなんて、貴重な体験だわ」
ぼくは顔の血管に血液が集まるのを感じる。落ち着こうと自分に言い聞かせたけれど、困ったことに、自分の心臓のドキドキは自分で制御できなかった。
「おや御器所君、体調でも悪いのかい?」
不老が、しれっと訊く。ぼくは不老を無視して、玲子さんに言った。
「まず、最初に考えなければならないのは、健さんが、自身が持参したプラモデルを箱ごと忘れて行った、ということです。八田さんのプレミア・モデルは、箱から中身だけが持ち出された。では、それをどこに隠したんでしょう? 玲子さんがこの部屋でプレミア・モデルの箱を開けている健さんを目撃したあと、八田さんが盗難に気づくまで、この部屋に入った人はいませんでした。玲子さんが、ドアに髪の毛を貼り付ける仕掛けを施していたんです。その髪は、健さんがマンションを出て行ったあとも、貼り付いたままだった。つまり、誰もこの部屋に出入りしていないことになります」
「健さんが盗むことなんて、できないわね」
玲子さんが言う。
ぼくは、指を一本立てた。不老の真似だ。
「もし、共犯者がいたとしたら、どうでしょう?」
「共犯者?」
八田さんと志賀さんが顔を見合わせた。不老は、わずかにぴくり、と右眉を動かしただけだった。
「玲子さんが髪の毛の仕掛けをしたあと、健さんが帰るまでのあいだに、共犯者がこの部屋に侵入し、プレミア・モデルを持ち去ったんです」
ぼくは力強く言い、みんなを見回した。不老以外、空気を飲み込んで眼を見開いている。
――ああ、なんて「名探偵」は気持ちいいのだろう!
「どうやって入ることができたのかな?」
八田さんが問いかけた。
「この部屋の窓を思い出したんです」
「ほう、窓ね」
それまで黙っていた不老が、ゆっくりと窓際に歩み寄った。ぼくは心の中でまたもやニヤニヤした。それが自分の今の表情に出ていないことを願った。
「そうだよ、不老は気づかなかった? この部屋の窓には天窓がある。そして、その天窓の鍵は開いていた……ですよね?」
玲子さんに顔を向けると、「ええ」と玲子さんは答えた。
「昨日、ゲンジさんからそのことを聞いて、ぼくはひらめいたんです。この部屋は十二階です。窓から侵入することなんかできない。誰だってそう思います……でも、ほんとうにそうでしょうか?」
そしてぼくは携帯電話を取り出してスピーカー・モードにして、コールした。
「ゲンジさん、スタートして」
「ほな、いきまっせ」
ゲンジさんの声が答えた。
不老が少し眉間に皺を寄せた。ようやくぼくの推理に興味を抱き始めたらしい。まあ、黙って見ていればいい。今日こそ「天才少年探偵」不老翔太郎が、これまでのぼくに対する無礼の数々を謝ることになるはずだ。
ほどなくして、窓の外から「シャーッ」という音が聞こえてきた。
「蜂……いえ、何かしら?」
玲子さんが怪訝そうにつぶやいた。
ぼくは黙ったまま、右の人差し指を立てた――ちょうど不老がやるように。当の不老はというと、その眉間の皺がいっそう深くなっているようだった。
シャーッ、という機械音が徐々に大きくなった。そして階下から窓の外へ、ゆっくりとそいつが姿を現した。
機械音の正体は、四つのプロペラを回転させるモーターだ。
「御器所君、これは……?」
不老はつぶやいた。
「なるほど、マルチコプターか……」
不機嫌そうだった志賀さんが、大きくうなずいて言った。
一種のラジコン・ヘリコプターであるマルチコプターは「ドローン」とも呼ばれている。ほぼ正方形の薄い骨格を持っており、その四つの角にローターがあった。中央にモーターとバッテリ、小型カメラが治まった本体がある。今、天窓の向こうに姿を現したドローンは、縦横が三十センチ程度の正方形をしていた。そこから正面に向かって、細長いアルミ製の棒が伸びている。これはあとからぼくが取り付けたものだ。
ゆらゆらと左右に漂いながら、ドローンはゆっくりと窓に近づいてきた。
八田さんも、興味深そうにドローンを見つめていた。
「操縦しているのは、ゲンジなんだね」
「そうです。ゲンジさんは、向かいのマンションの屋上にいます」
「せやねん、ツネやん、アッキー、操縦なかなか難しいで」
スピーカー・モードの携帯電話から、ゲンジさんの声が呼びかけてきた。
「このドローンには小型のカメラが搭載されていて、その画像がゲンジさんの持っているタブレット端末の画面に映し出されます。画面を見ながら操縦できる仕組みなんです」
ぼくは得意げに説明した。けれど、不老は腕組みしたまま、口をへの字に曲げている。
――まあいいさ。
不老はこのテのテクノロジーにはめっぽう弱い。この点だったら、ぼくにも勝ち目があるのだ。
「十二階の窓、しかも狭い天窓から人が侵入することは、もちろん不可能です。でも、人間以外だったらどうでしょう。最初、ぼくは動物を考えました。探偵小説のトリックにもあります。密室殺人と思われていたけれど、実は狭い穴や窓から、体の小さい動物を侵入させて、その動物に殺させた、という小説が。例えばサー・アーサー・コナン・ドイルなら――」
「解説は結構」
不老がぼくを
窓の外のドローンが、ゆっくりと開かれた天窓に近づいてゆく。
「凄い……」
玲子さんが感嘆の声を上げた。
ぼくは、どうしても唇の端が緩むのを止められなかった。
「健さんの共犯者は、みなさんが『ジンガム』を観ているあいだに、ドローンをこのマンションに向かって飛ばしていたのです。ちょうど、今のゲンジさんと同じように。このドローンには、一部改造をしてあります。本体の前部に細長い金属棒を取り付けました。これは、窓を開けるためのものです。そして下部にはフック状の部品を装着しました。これによって、プレミア・モデルを吊り上げることができるんです」
「お坊ちゃん、ほな開けまっせ」
「うん、ゲンジさん、そのまま続けて」
ぼくは携帯電話に向かって言った。
ドローンは、揺れながら少しずつ少しずつ、天窓に近づいた。その本体から伸びた金属棒の先端を、天窓の角に引っかけた。
そして、ぼくたちの観ている前でゆっくりゆっくりと、外側にはまった網戸を開けて、部屋の中へ入ってくる――
はずだった。
窓は、ぴくりとも動かなかった。
何度もドローンはトライした。が、棒はかろうじて網戸に触れることはできるものの、網戸はまったく動こうとしなかった。
「あれ……?」
ぼくは声を漏らした。
携帯電話から、ゲンジさんの声が聞こえた。
「あきまへん! こりゃ開けられしまへんわ」
「ゲンジさん、もっと窓に近づいて――」
ぼくが言いかけたときだった。
ドローンのローターの一つが窓枠に接触した――と思った一瞬後、まるで糸が切れたかのように、ドローンは姿を消した。同時に、携帯電話の向こうから「このボケェッ!」というゲンジさんの叫びが聞こえてきた。
ドローンは、墜落した。
「へ……?」
声を出せない。今、眼の前で起こったことが、現実とは思えなかった。
「すんません、お坊ちゃん……やらかしましたわ」
「あの……ゲンジさん、やっぱり……落ちたんだよね」
「無理ですわ。窓、まったく開かしまへんねん」
膝から床に崩れ落ちそうになった。
「ゲンジさん……戻って来ていいよ……」
かろうじて、ぼくは電話に向かってそう答えることができた。
信じられない。ぼくの虹色の脳細胞が、何から何まで論理的に組み立て上げた、一分の隙のない推理だったはずなのに……。
「予行演習をしておくべきだったねえ」
八田さんが言った。
「ゲンジより操縦が上手くても、さすがに窓を開けて盗み出すのには、ムリがあるだろうな」
志賀さんの口調は冷たかった。
「眼の付けどころは、よかったんだけれど……」
慰めるように、玲子さんが言ってくれた。けれど、嬉しさはなかった。
大恥をかいた。穴があったら入りたい。穴がないなら、マンションの床を掘り起こしたいぐらいだ。
ゲンジさんが壊れてひしゃげたドローンを片手に、マンションの部屋へと戻ってきた。それと入れ替わるように、志賀さんと八田さんは、憐れむような、いたわるような表情をぼくに向けながら、マンションから去って行った。
「さて、我々も帰ることにしましょうか。御器所君、君の試みは決して無意味ではなかったよ。実に興味深く見させてもらった。ドローンについて学びを得たのは、大きな収穫だった」
不老翔太郎の言葉はなかば茶化しているように聞こえたが、ぼくには何も返答する気力が残っていなかった。
マンションのエレベーターのなかでは、誰も一言も喋らなかった。意気消沈しているぼくに気を使っているんだろうか? いや、そんな憐れみを見せて欲しくない。むしろ逆に、ぼくのバカな推理モドキを笑えばいい。。
BMWの後部座席に座るや否や、不老翔太郎はゲンジさんに声をかけた。
「京北大学付属病院へ寄ってもらえますか?」
「病院? どなたかのお見舞いに行かはるんです?」
ゲンジさんが訊き、ぼくも割り込んだ。
「誰か入院してるの? 不老の家族か誰か? 昨日の野暮用って、それだったの?」
「僕の家族ではないよ。君も会ったことはない」
「お見舞いなら、花かフルーツか、持って行かなあきまへんな。お世話になってる不老君のお知りあいなんやから、でっかい花、送ったらんと〈
「ありがたい申し出ですが、〈御器所組〉からは、別途にお見舞いに行かれたほうがいいですね、『戦争』にならないように」
ゲンジさんが「はぁっ?」と甲高い声を上げた。
「そう、先方は〈
「あ、あ、〈熱田組〉ゆうたら……」
ゲンジさんはあえぎ、声を出せなかった。
「そう、入院しているのは、
不老翔太郎は言うと、にやり、と怪しくて不敵な笑みを浮かべた。
「なんでおまえ、そないに大事なこと、はよ言わへんねん!」
ゲンジさんがため息交じりに言った。口調こそ険しいが、表情は極道とは思えないほどやさしかった。
「すまねえ……」
パイプ椅子に座った鳴海健さんは、がっくりとうなだれて、リノリウム張りの床に視線を落としていた。
「ホンマ、水くさいやっちゃ」
鳴海健さんの四歳の息子、文太君は、この病棟に緊急入院していた。
木曜の夜に発熱したあと、なかなか文太君の熱は下がらなかった。プラモデルお披露目の金曜日、奥さんが病院に連れて行ったところ、「
健さんは、奥さんとともにずっと病院で息子さんに付きっきりだった。携帯電話のバッテリが切れたことにも、気づかないほどだった。
幸い、文太君の症状は落ち着いた。深刻ではない「無菌性髄膜炎」だった。
「文太、元気そうで安心したでホンマに。嫁はんも笑ろてはったし」
ゲンジさんは、極道らしからぬ優しい笑顔を見せた。
「悪いと思ってる……こっちもパニクってたんだ」
「そらしゃあないで……ほな、ひょっとして健、プレミア・モデルが盗まれたんのん、知らんのちゃうか?」
ゲンジさんが訊くと、鳴海健さんははっと顔を上げた。
「盗まれただぁ? まさかそんなこと……!」
鳴海さんは立ち上がると、ゲンジさんに詰め寄った。
それまで黙って脇で見ていた不老翔太郎が、ようやく口を開いた。両手で、カラフルな包装紙に包まれた大きな箱を抱えている。
「やはりご存じなかったのですね。さぞや驚かれたことでしょう。ニセモノが盗まれたというのですから」
不老はそう言って、言葉を切った。
「は? 何? ニセモノ? どういうこと? 何言ってるの?」
ぼくは不老の言葉の意味を理解できず、混乱しながら訊いた。
が、不老はぼくをちらりと見ただけで、すぐに視線を鳴海健さんとゲンジさんに移した。
「今回の事件は『事件』ですらなかった。そもそもプレミア・モデルなど、存在しなかったのです」
「な、何言うてはるんですか、不老君!」
ゲンジさんが気色ばんだが、不老は平然と表情を変えなかった。
鳴海健さんは口を半開きにして、不老を一瞥し、言った。
「そうか、少年探偵君とやらには、お見通しってやつか」
「プレミア・モデルは存在しなかった。そして当然のことながら、それを盗んだ『犯人』もまた存在しないのです」
談話室に沈黙が落ちた。ぼくもゲンジさんも鳴海さんも、声を出せずにぽかんとして不老翔太郎を見やるだけだった。
「おや、御器所君、まだ君は気づいていなかったのかい?」
「あの、えーと……何を?」
ぼくは、戸惑いながら、訊いた。
「そもそも八田さんはプレミア・モデルなんて手に入れてなかった、ということだよ」
「はあっ?」
ぼくは裏返った声を上げてしまった。
「八田さんがプレミア・モデルと称して持参したものは、普通のプラモデルに、それらしく塗装を施しただけのものだった」
「あ、えーと、えーと……はあっ?」
まともな声を出せない。
「ほな、ツネやんはウソついてたって、不老君は言わはるんですか?」
ゲンジさんが身を乗り出すと、不老は感情をぴくりとも動かさずに答えた。
「そうです。玲子さんのお話を聞いて、すぐにわかりました」
「ま、また、いい加減なことを!」
ぼくは思わず、声を上げてしまった。しかし不老は右の眉を上げただけだった。
「あの日、健さん、あなたは『ベータ・ジンガム』を観ている途中で、トイレに立たれた。そこでふと好奇心に負けてしまったのですね」
極道である鳴海さんに対して、「あなた」という二人称代名詞を使わないほうがいいんじゃないか、と思ったが、鳴海さんもゲンジさんも、不老翔太郎という男の極道に対する無礼に、気づいた様子すらなかった。
不老は続けた。
「あなたは興味を抑えきれず、部屋のドアを開けた。誰よりも先に、八田さんが手に入れたという貴重なプレミア・モデルを手に取ってみたくなってしまったのです。しかし箱の蓋を開けて、あなたは重大なことに気づいてしまった。そこへ、心配になって様子を見に来た玲子さんが現れた……」
鳴海さんは「おう」と言って、うなずいた。
「玲子さんが、昨日おっしゃいました。健さんと部屋で出くわしたとき、あなたが『歯みがきしていない』とおっしゃった、と」
「そんなこと……言ってねえはずだけどな」
「その通り。あなたは、そうはおっしゃっていない」
不老は言葉を切って、ぼくたちを見回した。もちろん、誰にもそんなことがわかるはずはなかった。誰も一言も発しなかった。
「おそらく玲子さんは、あなたのおっしゃった二つの言葉を印象的に覚えていたため、彼女の記憶を作り替えてしまったのですよ」
不老はまた言葉を切った。どうして、そんなにもったいぶるのだ、こいつは?
「その二つの言葉とは『ハガタ』と『ブラシ』でしょう。さらに憶測するならば、『ハガタではない』『ブラシを使っている』、そうおっしゃったのではないですか?」
不老は得意げに言った。
ぼくには、まったく理解できなかった――けれど、ゲンジさんと八田さんの面持ちは、まるで背中から棒でどつかれたように、口をあえぐように開けていた。
「『ハ型』とは、八田さんが生み出したプラモデルの塗装手法ですね。『エアブラシ』を使わずに筆だけで、微妙なグラデーションやニュアンスを描く、というものでした。あの日、健さんは思わずこうつぶやいてしまったのですね。『ハ型塗りをしていない。エアブラシを使っている』と」
鳴海さんは、唇を噛み締めていた。
「あなたは手にしたものが、エアブラシを使って金色の塗料を吹き付けただけの通常のプラモデルであることに気づいてしまった。ニセモノであることを見抜いてしまったのです」
「ツネやん……なんでそないなこと……?」
ゲンジさんはため息交じりに言うと、がくり、とパイプ椅子に座り込んだ。いっぽうで鳴海健さんは、一気にシリアスな「極道の顔」になった。つかつかと不老に歩み寄った。
「アッキーなのか? あの野郎がニセモノと気づかねえで、ツネさんのプラモデルを盗みやがったのか?」
今にも不老に摑みかかろうとしそうな勢いで、鳴海さんが不老にぐいぐいと顔を近づけた。ぼくは首の後ろに鳥肌が立ってしまった。けれど、不老は全然動じなかった。
「いいえ、志賀さんはまったく無実です。プラモデルを盗んだ人など存在しないのです」
半径五メートルが、沈黙で覆われた。
「あの金色の〈ジョーグ・改・タイプJ〉が消えてしもたんは、事実やないですか? あれはどこに消えよったんですか?」
確かにそうだ。ドローンで窓の外から盗み出すことは不可能だったのだ。
不老翔太郎は、唇の端にうっすらと笑みを浮かべながら、小脇に抱えた箱を鳴海さんに差し出した。
「遅くなりましたが、これは健さんへのお見舞いの品です」
鳴海さんは
「あの日、八田さんはプレミア・モデル以外にもお持ちになったものがありました。これと同じ、復刻版60分の1〈ジンガムF・デザート・タイプ〉です」
「ああ、そうだった」
鳴海さんがうなずく。
「このロボット……いや失敬、パワード・ギアは、60分の1モデルです。昔のプラモデルであるため、ご覧のように内部構造は実にシンプルです。八田さんは、接着剤を使わずに、あるいは、すぐに外れるようにごく一部だけ接着し、プラモデルを『素組み』したのです。そして健さんがお帰りになったあと、みなさんにプレミア・モデルを披露する際、八田さんは部屋で、60分の1〈ジンガムF・デザート・タイプ〉を分解した。100分の1スケールのプラモデルは、この内部にぴったりと収まるのですよ。僕は昨日、実際に実験してみました」
不老はそう言いながら、ポケットを探った。指先で取り出したものは、小さなプラスチック片だった。
「これは、60分の1〈ジンガムF・デザート・タイプ〉の背面パーツの内側の突起です。プラモデルを置いていた部屋に落ちていました。色も形状も一致します。八田さんがニセのプレミア・モデルを内部に隠す際に、折れてしまったのでしょう」
ゲンジさんと鳴海さんの口から、同時に感嘆の吐息が漏れた。悔しいけれど、ぼくの口からも。
「でもさ、そもそもどうして八田さんは、プレミア・モデルが盗まれたなんて狂言をやらなきゃいけなかったの? っていうか、どうしてプレミア・モデルが手に入ったなんて、ウソをついたんだろう」
ぼくが訊くと、鳴海さんが口を開いた。
「それは、わかる気がする。あいつは、気位が異常に高い。ジンプラ界では第一人者であるツネさんが、プレミア・モデルを手に入れられなかったというのは、大きな屈辱だったんだろうな」
ゲンジさんも、つぶやくような小声で言った。
「確かに、言われてみればヘンやな。ツネやんほどのモデラーやったら、〈トイミック〉から特別にプレミア・モデルを進呈されても、おかしない」
鳴海さんが、急に疲れが出たかのように、ベンチにどっかと腰を下ろした。
「これは『ホビー・スーパー』の編集部の奴から小耳に挟んだ話なんだが……あの人はもう、望まれてねえらしい。ツネさんの作りかたは、あまりにも世の中的に拡がりすぎて、逆に時代遅れになっちまってるってんだ」
「そないなこと言うてるんか。恩知らずな外道が!」
「けれど、一理も二理もある。ツネさん、あの業界内では、実は鼻つまみ者になってるってえんだ。それもわからねえことじゃねえ」
ゲンジさんがとがめるような鋭い目線を鳴海さんに向けた。
「俺たち、なんでプラモデル作ると思う? ジンプラに限らねえが、プラモデルってえのは、百人が作ったら百人とも違うもんができるのが、楽しいんじゃねえか。上手く作れても作れなくても。組み立て説明書読んで作っても、やっぱりどこか人それぞれが違う。そこが面白えんじゃねえか?」
「そうかもしれへんけど……」
「ツネさんは、自分の作りかたこそが、唯一で最高だと思ってるフシがあった。いつの間にか、一部では神聖にして侵すべからざる『権威』になっちまったんだよ。ツネさんを教祖をみてえに崇め奉る連中が一部にいる。しかし、それは健全なのか?」
「けど、なんでそないにすぐにバレるようなこと、ツネやんはしはったん?」
すると、不老が腕組みをして答えた。
「玲子さんのマンションでプレミア・モデルを披露するというのは、まったく想定外だったのでしょう。もともとはイヴェント・スペースで行う予定だったはずが、直前になって急遽、マンションに会場を移したのですよね。イヴェント・スペースならば、外部から侵入した何者かによってプレミア・モデルを盗まれた、とのストーリーを信じさせることは容易だったかもしれません。玲子さんのマンションに場を移したことは、八田さんにとっては大きな誤算だった。それでもやむなく、かねての計画通りに、盗難を偽装したのです」
「しかし鳴海さんは、すぐにプレミア・モデルをニセモノだと見破ったんだよね」
ぼくが言うと、不老は続けた。
「八田さんにとっての誤算が続くのです。八田さんは、プレミア・モデルがニセモノであることを見破られるとは思っていなかった。なぜなら、誰もツネさんの偽装を見破れないと自信があったから。自分ほどのプラモデル製作センスなど持ってない、と考えていたから。しかし健さんは、瞬時に見抜いた。それが逆に八田さんにとって有利に働いたのです。玲子さんもゲンジさんも、健さんが盗んだと誤解してしまった」
「しかしツネやんが……」
まだ信じられない様子で、ゲンジさんがしきりに首を振った。
「みなさんは、昔からの八田さんとつきあいがおありの親友です。八田さんは、そんなみなさんにとっての『カリスマ』であり続けなければいけなかった。カリスマを演じ続けなければいけなかった。プラモデル業界のことは知りませんが、八田さんは最近、プラモデルメーカーの〈トイミック〉からも、距離を置かれているのではないですか?」
「そないなこと……」
ゲンジさんが言いかけたが、不老は続けた。
「八田さんのアトリエには、数多くのプラモデルがありました。それらの箱と一緒に、プラモデル・ショップの包装紙や紙袋が畳んで置かれていた」
「紙袋やて?」
ゲンジさんが極道の顔になる。
「つまり、八田さんご自身が自腹で購入したのです。背後の事情はわかりません。ただ言えるのは、ジンプラ・モデラーのあいだでカリスマであるはずの八田さんは、出版社からもメーカーからも、もはや新製品を贈られていないということです」
ぼくが会ったときには、ずっと優しい笑みを浮かべて、決して人を責めたり、人に怒りをぶつけたりすることがない八田さんだった。むしろ志賀さんのほうが、小学生のぼくや不老に冷たかったくらいだ。
しかし――と、ぼくは思う。
八田さんは、笑みの裏に暗い心を隠していた。どうしてそんなことができるのだろう? ニコニコと微笑みながら、その陰でゲンジさんや鳴海さんを見下すなんてことが、なぜできる?
八田さんは、ゲンジさんや鳴海さん、志賀さんたちと、ぼくや不老が生まれる前からの友人だったはずだ。それはたぶん「親友」という関係なのだ。「親友」であれば、どんなことも腹の裡に隠したりしないで、想いを分かち合うことができるんじゃないのか。
ぼくには理解できない。なぜ八田さんは、ウソをついてまで窮屈なニセモノの親友のフリをし続けようとしたのか。
――いやちょっと待てよ。
ぼくの気持ちは立ち止まる。そもそも、ぼくにはニセモノはおろか、ホンモノの友だちもいないじゃないか。そんなぼくに「友情」や「親友」が何たるか、なんてことが理解できるはずがないのかもしれない。
そう思ったところで、ぼくは気づいた。
――不老だって、友だちがいないじゃないか。
ぼくたちのいる談話室に沈黙が落ちた。小児病棟ならではの子どもたちの笑い声が、急に耳に飛び込んできた。
「すまんかった、健!」
出し抜けに、ゲンジさんが床に土下座をした。床に頭を付けて、ゲンジさんは言った。
「すっかりおまえを犯人扱いしてもうた。どないなことあってもダチを最後まで信じて守るべきやった! それが極道や!」
そう叫ぶように言うと、ゲンジさんは左手を床の上に拡げた。
「お、おい何する気なんだよ」
鳴海さんがうろたえた様子で言った。
ゲンジさんの左手の小指は、なかった。なぜ小指がないのか、ぼくはこれまで訊いたことがないし、また訊く勇気もない。
「お坊ちゃん、得物、持ってたら貸してくれはりまへんか?」
いきなり顔をぼくのほうへ上げて、ゲンジさんは言った。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、何言ってんの、ゲンジさん!」
ぼくは慌ててゲンジさんの腕を摑み、起こそうとした。
ぼくのすぐ隣で不老は、両方の眉を上げて、そんなぼくたちを見ていた。
そう、不老翔太郎には理解できないだろう。不老翔太郎は間違いなく、やっぱりぼくらと違ってカタギなのだ。
「馬鹿野郎!」
ドスの効いた声で、鳴海さんが怒鳴った。まさしく極道の声だった。
「てめえ、俺と何年ダチなんだ? てめえがエンコ落として、俺が喜ぶと思ってんのか! ずいぶんと見くびられたもんだな。たかがこんぐれえで切れるような、腐れ縁じゃあねえだろうが」
ゲンジさんは、天井から糸で引っ張られているかのように、よろよろと立ち上がった。
「すまん、健。ついつい熱くなってしもたわ……」
「昔からおまえはそうじゃねえか、慣れてるよ」
鳴海健さんは微笑み、ゲンジさんも苦笑を返した。不老は上げていた両方の眉を下げた。
鳴海さんの息子の文太君は、髄膜炎が悪化することはなく、三日間の入院で家に帰ることができた。
ぼくはというと、その夜に熱を出してしまった。脳細胞を使いすぎたことが原因だろうか。結局、二日間、学校を休んでしまった。
母さんが作ってくれた味気ないおかゆをベッドの上ですすりながら「事件」のことをいろいろと考えた。あのあとゲンジさんや鳴海さんが、八田さんとどんなつきあいをするのか、ぼくにはわからない。縁を切るのか、自然に疎遠になるのか、それとも、これまでと同じように「親友」でい続けているのか。志賀さんもまた、鳴海さんを貶めるような発言をしていた。四人の関係は、これまでと同じように続くのだろうか?
友だちとは、面倒で厄介なものだ。
久しぶりに登校した水曜日の二時間目の休み時間。不老と二人、なんとはなしに二人で昇降口の階段に腰掛け、運動場で走り回る下級生たちを眺めていた。ぽつぽつと雨が降り出していたけれど、低学年の生徒は意に介さずに全力で駆け回って、甲高い歓声を上げている。
「これが若さだね」
不老はぽつりと言った。いやぼくたちだって充分若い小学六年生なんだけど。
「そういえば不老、どうして病院がわかったの?」
「何のことだい?」
「あ、いや日曜だけど。どうして八田さんがあの大学病院にいることがわかったの?」
「土日の休診日に急患として緊急入院できる小児科病棟がある病院は、八田さんの自宅の近辺では三つしかない」
「でも窓口で訊いても、ほら、今じゃ個人情報保護とかうるさいし、教えてくれないんじゃないの?」
不老は、ふっと両方の鼻の穴から息を漏らした。
「確かに、僕は僕にしか使えない手段を、不本意ながら利用した。それは認めよう」
「え? それって何?」
ぼくは尋ねたけれど、不老はもう一度、息を漏らすだけだった。
「秘密ってこと?」
やはり、不老は無言だった。
「そっか……ぼくにも言えないのか……」
少しのあいだ。気まずい沈黙が落ちた。いや、気まずいと感じたのはぼくだけで、不老は一ミクロンも心を動かさなかっただろうけど。ぼくは沈黙を振り払いたくて、言った。
「ねえ、不老、八田さんのことだけどさ――」
不老は「ほう?」と言い、ぼくを振り返った。
ぼくは、ゲンジさんや八田さんたちの関係について――長年続く友情という厄介で奇妙な感情について感じたことを、不老に吐き出さずにはいられなかった。熱に浮かされてベッドでとりとめもなく考えたことを、ぼくはそのままとりとめもなく不老に向かって語っていた。早口で語ってしまった。
「それが『親友』ってやつなのかな? 不老は、八田さんがこれからもゲンジさんたちと親友でいられると思う?」
不老は少しだけ右眉を上げた。
「僕が関知することじゃない。僕が知りたいのは『事実』だけだ。僕は『論理』の信奉者なんだ。友情、恋愛、信頼関係、エトセトラ……論理の介在しない人間の感情は、僕の興味の対象じゃない」
冷たい返答だ。
が、不老らしい。彼も、ぼくと同様に「友情」なんてわかっていないのだ。
「親友なんて、持ったことがないからなぁ……」
ぼくの口から、つい言葉が漏れた。
「へえ、そうなの?」
不意に背後から声が聞こえた。振り返った。いつの間にか、
「いつも二人っきりでいるじゃない。お二人の仲良しっぷりに、わたしはびっくりしちゃうくらいだけど」
不老も振り返った。今度は大きく右眉を上げた。
「ほう、
「二人はつきあってるのか、なんて疑惑を持つほどにね」
金銀河はそう言って笑った。
ぼくは大いに慌てた。
「いや、ちょ、ちょ、つきあうとか、そんなんじゃなくて、いやその、おかしいよ、勘繰りすぎだよ、不老とぼくが、そういう関係というか何というか……」
「ときおり、君の挙動はおかしくなるねえ、御器所君」
不老の声は冷静すぎるほど冷静だった。
「そういう関係、ちょっとうらやましいかも」
金銀河は口を尖らせたけど、両眼は笑っている。けれど二秒後には、その綺麗な笑みが消えて、急に真顔になった。金銀河は言った。
「ねえ、不老君、
「平針
不老が右の眉を大きく上げた。
もちろん、ぼくだって忘れてはいない。担任の
「昨日の夜、塾の帰りに見ちゃった、あいつと萱場先生を」
「ほう?」
不老の右の眉が、これ以上上がらないほどに、つり上がった。
金銀河は、そこで急にうつむいた。ぼくの肋骨の下、心臓の周りがぎゅっと強く締めつけられる感覚に襲われた。
「何があったの?」
ぼくは訊いた。
「萱場先生とあいつがね……一緒に入って行ったところ、見ちゃった」
「入って行ったって、どこに?」
ぼくが訊くと、金銀河は少し怒ったような面持ちになり、忌まわしそうな口調で答えた。
「……ホテル」
「というと?」
不老が鋭い目線を金銀河に向ける。
「もう……言わせないでよ。ホテルって……ラブホテル」
金銀河が吐き捨てるように答えた。
「ええっ?」
ぼくと不老翔太郎は同時に声を上げた。
そして、金銀河のこの証言のために、ぼくたちは、これまでになく大きな事件に巻き込まれることになるのだった。
「白い兵士」完
不老翔太郎の暴走 美尾籠ロウ @meiteido
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます