第42話・仄暗い者2

 そこから一ヶ月、この男とは一緒になれない、死んで欲しい、そんな考えばかりが頭の中を支配していた。より暗く、むなしく、わびしく、彼からの支配欲よりも強い負の感情に支配されていた。ついに耐え切れなくなった彼女が別れ話を切り出すと、彼は薬局で処方された薬をオーバードーズ、自殺未遂を起こした。いっそこのまま死んでくれれば良いのにと思いながら、ネットで薬剤情報を調べて読み漁った彼女は、ベッドに横たわる彼が死にそうにないという事を知り、ひど落胆らくたんした。


 その夜、一旦深い眠りから目覚めた彼に食事を用意してやり、食器を洗っている最中に再び寝た男。洗い物を終えた彼女は、ベッドの脇に立って自分の中から全ての感情がスーッと消えていくのを漠然と感じながら、彼の喉元や首を無表情で見つめていた。包丁で切るのがいいか、首をめるのがいいか、彼女の心の中は、暗く冷たいのろいのような絶望で満たされていた。


 仄暗ほのぐらく光りのない黒眼、半開きの唇、絶望に呑まれた彼女の中の化け物が、スッと眼を開けた。その足はキッチンへ向かう、白く小さめの手には果物ナイフがにぎられている。息を殺して気配を消し、ゆっくりとナイフの先端を、彼の首に近づけていく。そしてそのまま、かつて愛していた男の首にナイフを突き立てた。思い切り深く刺した刃を抜き、クッションを顔に押しつけて馬乗りになると、男がピクリとも動かなくなるまで退かなかった。どくどくとあふれ出る鮮血、目覚めて傷口を押さえようとした男、だが間に合わない。男が最期に見たのは、クッションでふさがれた闇。その向こう側では、彼に尽くした婚約者が、温度のない目で見下ろしている姿があった。


 人を殺した、婚約者を殺した。一瞬、これで自由になれると彼女は思った。こんな男を想っていた自分は、なんと愚かだったのか、殺す事を選んだ自分のなんと愚かなことか。ふと正気を取り戻した彼女は、自分の家族を、殺人犯の家族にしてしまう事に気づいた。家族に散々迷惑をかけてきたと思っている彼女は、何としても家族を巻き込みたくなかった。果物ナイフを片手に立ち尽くす彼女の背後から突然、低く落ち着いた男性の声がする。


「これから、どうする?」


 人間だったモノと自分しかいないはずの部屋で発された声に、彼女は勢いよく振り返った。そこに居たのは黒猫、少しひらいていた窓から網戸をけて室内に入ってきたようだ。ジッと見ていると、黒猫の口が動いて静かに言葉を紡いでゆく。


「お前の望みは何だ?」


「家族、家族を、巻き込みたくない」


 自分が死んだところで、この状況なら家族が殺人犯の身内となる事には変わりない。黒猫は小さな溜息を吐く、積もり積もった憎悪と恨み、孤独と闇にまみれている彼女の魂が、浄化される事はもう無い。そのドン底にいる彼女なら、欲望を吐露とろするだろうと思ったのだ。黒猫は数ヶ月前から彼女の側にいた、通勤のために向かう駅の途中、へいの上で、ドス黒い感情のかたまりに釣られて付いて回っていた。


 願いを叶えてじゅくしていけば、美味うまい魂を喰らえると。だというのに、彼女が真っ先に口にしたのは[家族を巻き込みたくない]それが彼女の願い、黒猫はまたたきの間、唖然あぜんとした。そして、ゆっくりと人の姿へ変わっていく黒猫。長い黒髪に、アーモンド型の黒眼、黒いスーツを着た四十代の偉丈夫いじょうふの姿になった彼は、彼女の身体を優しく抱き締めて囁く。


「俺がお前の、その願いを叶えてやろうか?」


「─…どうやって…?」


「眠っている間に〝婚約者〟は出ていった。そして帰らなかった、だから捜索届けを警察に出す」


「でも、血が…─」


「俺なら、そんなモノどうにでも出来る。その新鮮な死骸を対価に、お前の願いを叶えてやる」


 彼女は、黒猫ことセラフィーノ・チネッリと契約を結んだ。一年間、婚約者を殺した部屋に住み続け、他の場所へ黒猫と共に引越した。数十年、二人は一緒に暮らしていたが、ある日、彼女は[公園へ散歩に行ってくる]と言い残して帰って来なかった。





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