第41話・記憶の中の狂気

 九埜は、咥えタバコで階段を上がりきって3Cの教室内に入ると、教室の前側のかどに置いた椅子に座り、バラバラに配置されている生徒たちの席をボーッと眺める。その様子をとがめる者はいない、以前はそういう生徒も居たが、自分たちの行動を棚に上げて突っ掛ってくる彼等を、彼女は無言で全員殴り飛ばした。それ以来、誰も何も言わなくなった、むしろ、好き勝手にしていても何も言わず、ただタバコ片手にティータイムを楽しむ彼女に対して、友人のように話しかける事が多くなった。


 九埜 真日留は、前世の記憶を持ったまま、この世界ページに生まれついた。ふとした時に、思い出す。このせかいとは全く関係のない異世界で、彼女は機械パーツを製造する工場に勤めている、ごく平凡な女性だった。身長は低くも高くもなく、大きくも小さくもない胸で、長い黒髪はお団子頭、二十三歳の彼女は可愛いモノにも美しいモノにも興味がなかった。ただ毎日適当な服装で人混みにまれながら通勤し、交際中で同棲中の男性宅へ帰り、文句を言われないだけの料理をヘトヘトの状態で作った。


 テレビを見ながら夕食を終えると、オンラインゲームを楽しそうにやり始める彼を、視界に入れてなかば諦めにも似た気持ちで、洗剤に弱い手で食器を洗い、綺麗に乾くように並べる。一度少し振り返ってパソコンの画面に集中している彼の姿を確かめ、風呂の準備をし始める。毎日毎日、毎日毎日、ときに、一生懸命に考えて喜んでもらおうと作った創作料理を[こんな物は料理じゃない]と捨てられて、悲しい思いをする事もあった。


 彼は彼女を支配していた、髪も、服も、化粧も、彼の言う通りにしなければ強くしかられたのだ。何よりも自分を、彼女の中で一番に優先されるべきモノにしなければ気が済まなかった。それを確かに彼女は感じていたが、もう彼に逆らう気力など無くなっていた。身勝手な彼は知らない、彼女の心にしんしんと積もっていく暗闇を、その奥深くに眠っている化け物が、うっすらと重い目蓋まぶたを開けようとしている事を─これが彼女の、魔物としての命の核になった。


 そんな事が続いていたある日、通勤に使っていたバイクで彼が事故にい、その腰には重度の後遺症を残した。自分を必要としてくれる彼を何としても支えなければならないと、一日中自宅でゲームをする彼を見ても、仕事ができないストレスやプレッシャーをオンラインゲームで晴らせて、気持ちが少しでも楽になればと見守っていた。しかし、彼の生活は日に日にすさんでいく。


 あの時の自分は、まるで壊れかけた人形だったなと、九埜は溜息を吐いた。ワンルームの部屋で、毎夜、夜中の2時までカタカタとパソコンのキーを打つ音が鳴り響く。彼の精神状態をかんがみて、できるだけ優しく柔らかく、最近眠りが浅いから少し早めに切り上げて欲しいと言えば[俺から唯一の楽しみを奪うのか]と怒鳴られる。毎日寝不足の状態で、それでも身体にむちを打って通勤する日々、彼女は遂に職場で倒れた。素直に理由を話せば、上司からは[そんな理由で体調を管理できないなんて知ったことか甘えるな]と叱責しっせきされた。


 体調は悪化するばかり、前世の九埜本人は精神が病んでいる等とは思いもしていなかった。その頃からだった、彼女が[彼はいつ死ぬのだろう]そう思い始めたのは。ある日、シングルサイズのベッドで、いつものように並んで、彼女が不眠症になっているとは思ってもいない彼だけが寝ていたときの事だった。彼の死を願うようになっていた彼女は、彼が真夜中に胸元を掴んで苦しそうにしているのを、そのまま死なないかと数分待っていたが、どうやら痛みは引かないようだったので[あぁ、死なないのか]と判断して表面を取りつくろうだけの心配の声をかければ、[ずっと苦しかったのに今更声をかけるな]と罵声を浴びせられた。あの時の、静かに闇夜の海へ引いていく波のような感覚を、彼女は決して忘れない。





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