第12話・名も無き平穏

 犯罪都市地区ではなく他の地区で過ごすことが多かったならば、まだもっと[喧嘩けんか]とは何かを知る機会もあったかも知れないが、彼には無かった。スッカリ困り顔で考え込んでしまった長谷寺に、そこまで悩む事なのかと少年たちも悩み始めてしまった。


「─…あーもー!世話のかかるセンセだな。これ、国語辞典」


 教室の奥の方で声がしたかと思えば、長谷寺の顔が上がったのを確認した生徒のほうから分厚い本が飛んできた。何故か少し血が付いて乾いた跡があるが、それは無視して中身を見てみる長谷寺、何をどう読めば良いのか、これがまた分からない。モタモタと上下逆さまにしてみたり、最初のほうを見たり最後を見たり、何を思ったのか辞典の背表紙を持ってバサバサと振ってみている。


 実は、辞典がなにかという事自体を彼は知らない。では彼が持っているマンションに何十冊と積んでいた本は何だったのかというと、全て宇宙に関する写真やイラストが描かれた、言わば絵本のようなものだ。字は書けるし読めるし意味も理解出来る、だがそれは、彼が生まれ育った地域でのみ使われるものだったのだ。携帯端末に表示される文字の設定も、大昔にストラーナがいじってくれたモノのままだ、それで問題無かったのだから。


[まさか]の〝ま〟の字が、カラフルな髪色で素行が宜しくない生徒達の頭にも、さすがに浮かび始めてきた時、辞書を放り投げた生徒が教卓に向かって歩いてくる。茶髪に涼しげな黒眼の、気怠けだるげな雰囲気をまとった少年。彼は石川いしかわ 泰地たいち、普段なら新しい担任が来たところで放ったらかしにしているが、こんな人物がどうやったら教師になれるのかと思わずにいられない、さながら子どものような長谷寺を前にしては放っておけなくなったらしい。


「センセ、もしかして見方わかんない?」


「分かんない、これナニ?絵も写真もないよ?なんも出てこないし…」


「本から何が出てくんのさ」


「んー、ドラゴンとか」


「………さーて[喧嘩]がどんなモンか調べましょーか。この本には、言葉の意味とかがってんの」


「言葉の意味」


 教卓を椅子だと思っているかのような長谷寺、そんな彼にうようにして教卓にひじを付いた石川の視界のはしで、クセの強い黒い長髪が、ガラスの吹き飛んだ窓から流れ込む初夏の風に揺れていた。そのが、このクラスでの日常に溶け込むのも悪くないと、なんとなく思わせた。ふと、彼等はとある可能性に気づく、まるで園児のような長谷寺、もしかすると通じない言葉があるのではないかと。


「なぁ…センセ」


「はーい!」


「…あのさ、五十音って知ってる?」


「ゴジューオン、ゴジュウオン?強そう」


 大多数の少年たちがガックリと肩を落としてうつむく中、やっと平常心へいじょうしんを取り戻した千歳が、石川とは反対側で教卓にひじを付いて口をはさむ。その顔に浮かべられているのは、甘さが入りじった苦笑だった。


「もうさぁ、お前が辞書ひいてやれよ。[あいうえお]から教えてらんねぇだろ」


「アイウえ?」


「…確かになー、んじゃセンセ、俺が読んであげっから聞いてて」


「はーい!」


 状況は明らかにおかしいが、彼等が普段見ることの無かった平穏が、そこにはあった。国語辞典を長谷寺の手から受け取った石川は、[喧嘩]の単語を探し始める。その間、千歳は長谷寺をながめていた。魅惑的で不気味な雰囲気を持つ彼は、どんな人物なのか、その根幹こんかんにあるモノは何なのか知りたいと思った。


「あったあった、んじゃセンセ、読むよ?」


「はーい!」


 毎回手を挙げて元気な返事をするこの人物は、いったい何歳なのか、そこも気になるところではあるが、今はとりあえず[喧嘩]の意味を教えねばならないと、何故か3Dメンバーがそろってよく分からない使命感に駆られ始めていた。





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